空の記憶、巣の記憶
それからしばらく、風の流れに沿って滑翔した。島が見えた時にはそこで一休みを挟んで徐々に東進を続けていった。もう若くはないのかもしれないし、無理をしてはいけない。しっかりと着実に少しずつ進んでいくように心がけた。若い頃にはもっと早く飛べていたが、老いは着実に体を蝕み始めている。でもそれは悪いことではない、仕方のないことなのだ。老いというのはそれだけ時間を生きた証拠なのだ。そして、それだけ若者よりも年寄りは幸せを味わう機会があったのだ。
そんなことを考えながら飛んでいた。随分長い時間だった。
気づけば眼下には海などなく、山々になっていた。そして見覚えのある場所にまで行くことが出来た。いつもであればもっと早くに着けたのだろうが、仕方ない。妻と毎回再会する場所。つまりあの老夫婦の家はどこだろうかと、俯瞰から見下ろしながら考える。
少し大きな庭があって、近くには畑がある。確か、この辺りであっているはずだった。既視感のある場所まで辿り着くと、辺りを何度かぐるぐると遊覧した。そんな時一羽のツバメが目に止まった。
そいつは低空飛行で旋回し、虫を捕まえていた。尾羽は短いことが雌のツバメだということを明らかにしていた。そして頭頂が黒というよりかは青に近いようなコバルトブルーで輝いている。それは太陽の光に当たるとより一層鮮やかな青を反射する。妻の輝きだ。
滑翔をやめ、高度を落とす。一度鳴いてみると、そのツバメは虫を咥えたままこちらを見た。
頭頂の輝きは去年のものと同じように輝いていた。やはり妻だ。彼女は先にこの地で待っていたのだ。妻が電線に留まると同じように近くに留まり、ジージーと何度かさえずった。
妻は咥えた虫を食べ終えると先に飛び立った。続くように飛び、案内に従った。
見覚えのある景色、見覚えのある家。飛びながら見える景色は頭の奥に隠されていた記憶のドアをトントンとノックしていた。眼下の景色はちょうど一年前と何ら変わりはなかった。
その中にあの老夫婦の家があった。妻が家の軒下に先に入ったので、速度を落とし、次いで入るとそこには去年夫婦で作った巣が残っていた。
巣に入ると身を寄せ合い、互いに懐かしんだ。毎年のように妻とこの場所で会っているが、妻が本当に来るのかいつも不安になる。ただ、妻と再会できた時にはとてつもない幸福を感じることさえできる。長い距離を渡って良かったのだと心の底から思う。妻もこちらに身を寄せ、何度かさえずった。
落ち着いた後、巣が少し汚れていることに気がついた。足元を見ると、去年の子達の産毛が残っていた。嘴を上手く使って息子たちの産毛を丁寧に拾い上げる。元気にしてくれるといいな。そんなことを考えながら、夫婦で協力しながら巣を掃除していると去年の子育ての苦労がとても楽しい思い出のように思えてきた。
綺麗になった巣の中で夫婦で過ごす。大きいとは言えない巣だったけれど、二羽で身を寄せ合うにはちょうどいいサイズだった。嬉々として夫婦でさえずった。
さえずりを続けていると、家の中から聞き覚えのある音色が聞こえてきた。
即興曲九十の三だ。
巣の中からピアノのある部屋を覗き込むように見た。あの老人だ。彼は去年と何ら変わりなくピアノを弾いている。
鍵盤の上で滑らかに指を這わせ、潮の満ち引きのような旋律を奏でる。生きている間に出来た沢山のシワが手についていた。
心地よい音が耳の中へ柔らかに入ってくる。この曲を聴くと心が穏やかになる。そして同時に今年のワタリがひと段落したのだと、ようやく心を落ち着かせることができる。これから先も何度だってこの音を聴きたい。
妻は目を閉じて巣の中でうとうととしている。老人が曲を弾き終えると、拍手が聞こえた。老人にしては勢いのついた、ハリのある拍手だった。
見ると、そこには若い女がいた。去年までは見なかった顔の女だ。女の顔立ちや振る舞いからは嫌な印象を受けなかったものの、老夫婦の家に邪魔者が入っているような気がした。
曲を弾き終えた老人がピアノの前框を降ろそうとすると、前框は重力に従い勢いよく降りた。老人の指が重い前框とピアノで詰まりそうだった。でも結局はそんな悪いことにはならなかった。危ないですよ。と女は言って、前框が降りるのを止めた。
老人は特に返事もせず、ピアノから立ちあがろうとしていたが、自力では立ち上がれなかった。どうしても女の補助が必要だった。女が老人の肩に手を回し、老人の右肩は女に補助される。老人の左手にはついさっきまでピアノにもたせかけられていた杖が握られていたが、その杖は本当に飾りだった。杖に力が入っていないことは誰が見ても明白だった。
老人は若い女に連れられて仏壇の前に座ると、震える手を使っておりんを鳴らした。ついさっきまで流暢にピアノを弾いていたとはとても思えない震えだった。
妻と再会してから一週間程したある日、その日はいつも以上に空がどんよりと曇っていた。
いつものように食事を取ろうと飛んでいると翼付根にジンジンとする鈍い違和感が再びあった。慌てて近くの屋根に止まり、翼を何度か広げてみる。海上で現れ始めた違和感は少しずつ痛みに変化しつつあった。
見上げると空は少しずつ暗くなり始めていた。空一面を覆った薄い雲の奥で太陽は沈もうとしている。
妻の元へ帰らなければならない。そんな風に考えている時だった。向かいのアパートの窓がガラガラと音を立てて勢いよく開くと、筒状の真っ黒なものがこちらに向けられた。もう若くはない中年くらいの男はその真っ黒な筒をこちらに向けて構える。
エアガンだった。
嫌な予感というものは往々にして当たる。パン、という破裂音がして近くの屋根に小さなプラスチック製の弾が当たる。男はもう一度狙いを定める。飛んで逃げようとしたが、翼を広げようにも緊張と痛みのせいでなかなか動かなかった。しかし、幸いなことに二発目も外れた。
男は舌打ちをすると、エアガンを単発モードから連射モードに切り替えてこちらに向ける。引き金を引くと激しい連射音を住宅街に響かせた。向かってくる弾丸に背を向け慌てて屋根から飛び去る。
連射の音が後ろから聞こえている時は心臓がドキドキとした。体の中心にある、この小さな心臓の動きが翼の先にまで届くほどだった。実際こちらに向けて撃たれていたのは数秒程度だったのかもしれない。でもとても長かったように感じられた。一秒が引き伸ばされて、一分になってしまったんじゃないかとさえ思った。巣に帰っている途中もずっと、どこからかあの男が出てきて狙撃されるのではないかという不安感を抱えながら飛んだ。
老人の家が見えた時にはほっと一息つくような安心感があった。ここには優しい人がいる。
巣に降り立つと卵があった。ついさっき産卵を終えたばかりのようで、茶色い斑点模様のある小さな卵だった。疲弊した妻に寄り添い、できるだけ不安にさせないように努めた。翼付根に違和感があることや、エアガンの男がいたことは伝えなかった。妻の産卵初日はそのまま寄り添い続けた。
それから数日間、妻は産卵を続けた。背中を押し上げるような動き、つまり産卵の予兆があれば、一旦巣から離れて周囲を警戒した。無事に産卵が終わるといつも以上に翼を動かして飛んだ。連日空模様も良く、食糧となる昆虫も調子良く取れた。抱卵が始まると互いに協力し合って卵を温めた。
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