ワタリ

早川智樹

追い風のゆく先に

 少年は帰宅すると泥だらけになってしまった服を脱ぎ捨て、すぐにベッドに寝転んだ。スマホをいじりながら時々耳元で羽音を立てる蚊を叩く。蚊帳に囲まれたベッドであっても蚊帳に穴が空いていては元も子もない。所々がガムテープで修復されたそれは、蚊の侵入を結局は許している。寝転がった少年の背中にはサクヤンが彫られていて、周囲は少し赤みがかっていた。最近になって彼は新しい仕事を見つけて、毎日のようにくたくたになるまで働いていた。

 びゅっと風が吹き、西の方角を見る。太陽は少しずつ山に沈んでいったが、気温は一向に下がろうとはしていなかった。それが二月であったとしても熱帯雨林気候であれば冬など存在しない。ここは越冬をするには良い土地だし、それにエネルギーに溢れる場所は好きだ。越冬。冬を越すにはやはり良い土地だ。

 空が段々と暗くなり始め、眼下ではヘッドライトの灯った自動車が所々に見える。皆、これから家に帰るのだろうか?仕事をするのだろうか?まぁどちらでもいいか。こんなつまらないことを考えている場合ではない。明日から長い時間をかけて飛ばなくてはいけないのだ。そのためにコツコツと虫を捕まえ栄養を蓄えたのだ。ワタリ。それは長く、孤独な旅なのだ。

 電線から部屋を覗いていると少年と目があった。少年は顔を上げて家の中からこちらを見ている。少年の目はどこか孤独で、それでも自信と希望に溢れているような目をしていた。

 翼を広げると、追い風が吹いた。


 仲間達と時速五十キロで東進する。休憩はあまり必要ない。気流を上手く翼で受けることができれば、一気に上昇をすることができる。少年のいる街を出てからこれで何度太陽が昇ったのだろうか?街を出たときに比べ、周りで飛んでいる仲間の数が減っているような気がする。飛ぶことに疲れてしまった仲間達は途中の島や、船上で羽を休める。不運なときにはそのまま海へと落下してしまう仲間もいる。

 潮風を全身で感じ取りながら飛ぶ。空高く上昇した太陽の光を反射する海面が時々眩しく光る。流れる様に空を飛び、遠くの地平線を見る。地表に近いときにはわからないことだが、高く飛べば飛ぶほど地平線は曲線に近づいていく。この世界は平面ではなく、実は曲線でできているのだ。

 しばらく飛行を続けると、翼に違和感が現れた。歳なのかもしれない。疲れが翼付根の方に溜まっている様な気がする。眼下を見ると幸いなことに一隻の船があった。仲間達とはぐれることになってしまうが、仕方がない。翼の角度を変え、滑空する。少しずつ高度を落としながら降下をすると、こちらに気づいた仲間たちが地鳴きした。

 ゆっくりと高度を落としていくと、鮮やかだったはずの海面はどす黒くなっていった。船は上空で見た時よりも大きく感じられ、しばらく休息をするには申し分なかった。デッキの手すりに降り立ち、翼を何度か大きく広げてみるも先程の違和感はまだ残っている。

 しばらく休もう。遠くの空を眺めると、つい先刻まで一緒に羽ばたいていた群れが見える。時間が進むにつれて彼らの姿はどんどん小さくなっていき、最後には消えてしまった。

 船員に出会ったのはそれから数時間後のことだった。少し腰の曲がった老人で、こちらを見つけるとにっこりと優しそうな笑みを浮かべ徐々に近づいてきた。一度飛んで離れるも、飛ぶと翼付根にずっしりとした鈍い痛みが走ったので慌てて近くの手すりに留まった。

 怪我してるのかい?手すりに戻った姿を見て、老人が話かけた。まぁゆっくりしていきな。別に君をいじめるつもりは全くないんだ。そう言うと老人は手すりにもたれてしばらく海を眺めた。空の真ん中にある太陽が海全体をを明るく照らしている。海は波でうねり、その度にキラキラと反射していた。空を見上げると時々ワタリをしている群れが見えた。

 仕事があるから戻るけれど、ゆっくりしていってくれ。十分ほどした後、老人はそう言って手すりを離れた。船内に向かうドアに手を掛けた老人は最後にこちらを振り返り、にっこりと笑う。厚みがあって重そうなドアをぐっと引き、船内へと戻っていった。

 優しい人間だ、と思った。生きていると時々、優しい人間に出会う。今目指している場所にも同じように優しい老人が暮らしている。

 その老人はピアノを弾くことが趣味で、よくシューベルトを弾いた。即興曲九十の三が彼のお気に入りだった。軒下に巣を作っている時も彼は嫌な顔をせずに、むしろ気分よさそうにピアノを弾いていた。ピアノの上では自由自在に鍵盤を叩いていた彼も、歩く時には杖を使っていた。彼の奥さんがいる時には杖を使わずに、奥さんが手を引いて彼の歩行を補っていた。それほど仲の良い夫婦だった。

 子が卵から孵化し、うるさく喚いても彼は笑顔をこちらに向けてくれた。老人の家は都市というかは田舎にあり、所々には畑もあった。

 老人が庭に面した縁側に腰掛け、巣の様子を伺っている姿が印象に残っている。奥さんが茶と茶菓子を運んできて、二人はそれを口にしながら縁側に座って軒下にできた巣の様子を眺める。

 あの老夫婦は元気にしているのだろうか?そして、このワタリを終えると、妻に会えるのだろうか?そして我が子は元気に育っているのだろうか?そんなふうに先のことを考えると段々と心が暖かくなっているような気がした。そしてそれに呼応するかのように、翼付根にあったはずの違和感が和らいでいった。きっと明日にはまた飛べそうだ。

 西の空では太陽が沈み始め、少しずつ気温が下がっていった。太陽と反対側の空には色の薄い月が現れ始めている。群れていた時には月を見てもなんとも思わなかったけれど、今はなんとなしに寂しい気持ちになる。突風が吹くと、ひんやりとした空気が全身を包み込んだ。

 翌朝、重いドアが開けられる音で目を覚ました。音のなる方を見ると、昨日の老人が現れた。彼はこちらを見つけると一瞬驚いたような顔をしたがすぐににっこりと笑った。まぁ、ゆっくりしていきな、そう言って老人は古い友人に会ったような笑顔をした。彼は昨日と同じように手すりにもたれると離れた場所からこちらをずっと観察していた。

 海上から上昇し始めた太陽を望むと、明るくて目が霞んでしまう。翼を大きく広げ呼吸をする。翼付根にあった違和感はもう無くなっていた。太陽を浴びるように大きく翼を広げた。老人は翼を広げた姿を見ておぉ、と感心をしていた。もう疲労感はない。

 突風がきた。追い風だ。

 風を翼で上手く捕まえると一気に上昇した。風に乗ることが出来た後で、船に乗った老人に向けて一度だけ鳴く。船を見ると老人は小さく手を振っていた。

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