第16章 初めてのデート、そして彼の優しさ

PC教室でのぎこちない再会から数日。結衣の心は、依然として落ち着かなかった。田中悠人からの告白、そして彼が「Kernel_Panic」だったという衝撃の事実。これら全てが、彼女の心を激しく揺さぶり続けていた。彼と顔を合わせるたびに、胸の奥がざわつき、視線を合わせるのが精々だった。


そんな結衣の様子に、親友の葵はすぐに気づいた。


「結衣、なんか元気ないね? 田中くんのこと、どうするの?」


放課後、いつものカフェで、葵はストレートに尋ねてきた。結衣は、ストローでカフェラテをかき混ぜながら、曖昧に言葉を濁す。


「うーん…まだ、よく分かんない…」


「よく分かんないって、それじゃ田中くんが可哀想でしょ! ちゃんと自分の気持ちと向き合って、答えを出さないと!」


葵の言葉は、いつも結衣の背中を押してくれる。彼女の言う通りだ。いつまでもこんな状態ではいられない。結衣は、意を決して、葵に相談した。


「ねぇ、葵。私、どうしたらいいと思う? 田中くんと、どういう風に話せばいいのか、分からなくて…」


葵は、結衣の真剣な表情を見て、少しだけ考え込んだ。


「まずは、ちゃんと向き合う時間を設けるのが一番だよ。二人きりで話せる場所とか、行ってみるとか…要するに、デートだよ、デート!」


葵の言葉に、結衣は「デート」という単語にビクリと反応した。彼女にとって、「デート」とは、まるで遠い異国の文化のように、縁のないものだった。


「で、デートなんて、どうすればいいか分からないよ…」


「もう! 大丈夫だって! じゃあさ、今度の週末、映画とかどう? 田中くん、SF映画とか好きそうじゃない?」


葵の提案は、結衣にとって、まるで新しいLinuxのディストリビューションをインストールするかのように、未知の領域だった。しかし、この現状を打破するためには、一歩踏み出すしかない。結衣は、意を決して、田中悠人にメッセージを送った。


結衣:「田中くん、今度の週末、もしよかったら、映画に行かない? 私、SF映画の新作が気になってて…」


メッセージを送った後、結衣は心臓が口から飛び出しそうになるほどドキドキした。彼がどんな返事をするのか、想像もつかなかった。もし、断られたら…? そんな不安が、彼女の頭の中を駆け巡った。


数分後、スマホが震えた。田中悠人からの返信だった。


田中悠人:「いいよ。何時の回がいいかな? 映画館のURL送るね」


その簡潔な返信に、結衣は心の中で小さくガッツポーズをした。承諾してくれた! 彼の返信は、いつも通り控えめだったが、その中に、彼なりの喜びが込められているように感じられた。


そして、週末。結衣は、いつもより少しだけおしゃれをして家を出た。普段はTシャツにジーンズといったカジュアルな服装が多い結衣だが、この日は、葵に選んでもらった淡いピンクのブラウスに、膝丈のスカートを合わせていた。慣れない服装に、少しソワソワする。


映画館の前に着くと、田中悠人がすでに立っていた。彼もまた、いつもより少しだけきちんとした服装で、見慣れないシャツを着ていた。その姿に、結衣は新鮮な驚きを感じた。普段のPC教室で見せる彼とは、少し違う雰囲気だ。


「田中くん、待った?」


結衣が声をかけると、田中悠人は、少し照れたように視線をそらした。


「いや、今来たところだから。…その、似合ってるよ」


彼の不意打ちの言葉に、結衣の顔は、カッと熱くなった。彼は、こんなストレートな言葉も言うんだ。そんな彼の意外な一面に、結衣はまたしても胸がキュンとなった。


映画は、宇宙を舞台にした壮大なSF作品だった。広大な宇宙空間を漂う宇宙船、未知の惑星での探査、そして、AIとのコミュニケーション。映画館の暗闇の中、結衣は、隣に座る田中悠人の存在を強く意識していた。時折、彼の横顔に目をやると、彼は真剣な眼差しでスクリーンを見つめている。彼の隣にいると、心が落ち着く。彼が、彼女にとってどれほど大切な存在なのか、結衣は改めて実感していた。


映画が終わると、二人は近くのカフェに入った。映画の感想を語り合う中で、二人の会話は自然とPCや科学の話題へと移っていった。


「あの映画に出てきたAI、あんなに感情豊かになるまで、どれくらいの学習データが必要なんだろうね」


結衣がそう尋ねると、田中悠人は、少し考え込んだ後、真剣な表情で答えた。


「今の技術だと、まだ無理だね。でも、深層学習の技術がもっと進化すれば、不可能じゃないかもしれない。特に、自律的に思考するエージェント型のAIが実現すれば、映画みたいなことも…」


彼の言葉は、結衣にとって、まるで専門的な論文を読んでいるかのように、いつも刺激的だった。彼は、単に知識をひけらかすのではなく、結衣が理解できるように、丁寧に、そして分かりやすく説明してくれる。彼の話を聞いていると、結衣は、自分が知らなかった世界が、どんどん開かれていくような気がした。


ふと、結衣は、彼に聞いてみたくなった。


「ねぇ、田中くん。田中くんが、あの『Kernel_Panic』だってこと…私、知ってるんだ」


結衣の言葉に、田中悠人の顔から、一瞬にして血の気が引いた。彼の瞳が、大きく見開かれ、完全にフリーズしたように見えた。彼は、まさか自分が匿名掲示板に投稿した内容を、結衣が知っているとは、夢にも思っていなかったのだろう。彼の表情は、まるで致命的なシステムエラーが発生したかのように、真っ青になっていた。


「え…どうして…」


彼の声は、蚊の鳴くような、か細い声だった。


結衣は、彼の反応を見て、少しだけ申し訳ない気持ちになった。けれど、このことは、きちんと彼に伝えるべきだと思った。


「偶然、あのスレッドを見つけて、読んだんだ。…私、田中くんが、あんな風に私のことを想ってくれてたなんて、全然知らなくて…ごめんね」


結衣がそう言うと、田中悠人は、さらに顔を赤くし、俯いてしまった。まるで、彼の内なる「プログラム」が、恥ずかしさで暴走しているかのようだ。その彼の反応が、結衣には、とても愛おしく思えた。


「田中くんが、私のこと『Linuxの神様』って呼んでくれてたのも…嬉しかったよ」


結衣が、彼が匿名掲示板で使っていた言葉を口にすると、田中悠人は、さらに顔を赤くし、テーブルに突っ伏してしまった。その仕草に、結衣は思わずクスリと笑ってしまった。彼のそんな、人間らしい一面に触れるたびに、結衣の心は、じんわりと温かくなった。


しばらくして、田中悠人は、恐る恐る顔を上げた。その目は、少しだけ潤んでいるようにも見えた。


「…重い、って思わないかな…?」


彼の不安そうな問いに、結衣は、優しく、そしてはっきりと答えた。


「いいえ、重くないよ。全然。むしろ、嬉しかった。田中くんが、私のこと、そんな風に思ってくれてたなんて…」


結衣は、真っ直ぐに田中悠人の目を見た。彼の瞳には、安堵と、そして、かすかな希望の光が宿っていた。


「私ね、田中くんのこと、最初は『Linuxの達人』って尊敬してた。でも、文化祭の準備で、一緒に作業するようになって…田中くんの優しさとか、真剣なところとか、たくさん知って…」


結衣は、自分の心に生まれた感情を、正直に、そしてゆっくりと彼に伝えた。言葉にするのは、簡単なことではなかった。しかし、今、彼の目を見て、自分の心を伝えることが、何よりも大切なことだと、彼女は知っていた。


「私、田中くんのことが…好きだよ」


その言葉は、結衣の口から、まるで必然のように、自然に流れ出た。その瞬間、彼の顔は、まるで魔法にかけられたかのように、ぱっと明るくなった。これまで見たことのない、満面の笑顔だった。その笑顔に、結衣の心も、温かい光で満たされた。


カフェの窓から差し込む夕日が、二人の顔を優しく照らす。それは、結衣にとって、初めてのデートであり、そして、彼女の人生の新しい「起動プロセス」が、正式に始まった瞬間だった。彼の優しさと、彼の告白が、彼女の心を、これまで以上に深く、そして温かく満たしてくれた。

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