エピローグ:月の花嫁は、今日もパンを焼く
それから十年の月日が流れた。
パンローブ村の朝は、いつものように香ばしいパンの匂いで始まった。
「黄金の麦」という看板を掲げた小さなパン屋から、今日も白い煙が立ち上っている。
「ママ、お手伝いする!」
工房に響く可愛らしい声は、10歳になったルナのものだった。
銀色の髪を三つ編みにした美しい少女は、母親譲りの優しい瞳と、父親譲りの芯の強さを持っていた。
「ありがとう、ルナ」
エプロン姿のユナが微笑みかけた。
30歳を超えた彼女は、以前にも増して美しく、母としての温かさに満ちていた。
「今日は何のパンを作るの?」
「村の子供たちのために、特別なパンを作りましょう」
「特別なパン?」
「愛情パンよ。食べると心が温かくなるパン」
「わあ、楽しそう!」
ルナの目が輝いた。
母親と同じように、彼女も自然と月の魔法を使えるようになっていた。まだ小さな力だったが、パンに触れると優しく光る。
「ルナ、魔法は控えめにね」
「はーい」
工房の隅では、ライルが明日の仕込みをしていた。
彼は、村人たちに愛される立派なパン職人となっていた。王子時代の面影は残しているが、今はただの優しい父親だった。
「パパも手伝って」
「もちろんだ」
家族三人でのパン作りは、この家の日常風景だった。
五年前、ユナとライルは約束通り王宮を離れ、パンローブ村に戻ってきた。
愛と平和の同盟は軌道に乗り、各国が自立的に協力関係を築けるようになったからだ。
「私たちの役目は終わりました」
「これからは、普通の夫婦として生きたいのです」
アレクサンダー王は最初反対したが、最終的には二人の決断を尊重してくれた。
「あなたたちが幸せなら、それが一番です」
「でも、困った時はいつでも頼りますよ」
「その時は、喜んで力になります」
王宮を離れる時、多くの人が見送ってくれた。
「お幸せに」
「また会いましょう」
「村での生活を楽しんでください」
エレノア夫人は涙を流しながら言った。
「あなたたちと過ごした時間は、私の宝物です」
「私たちも同じです」
「時々、お便りをください」
「もちろんです」
村に戻った二人を、村人たちは温かく迎えてくれた。
「お帰りなさい」
「ずっと待っていました」
「また一緒に暮らせて嬉しいです」
ガルス村長(今は息子が村長だが、皆まだそう呼んでいた)が代表して挨拶した。
「お前たちは村の誇りじゃ」
「でも、今日からはただの村人じゃ」
「普通に接してくれ」
「そうはいかんよ」
村人たちは笑った。
「お前たちは特別じゃ。でも、家族でもある」
二人は古いパン屋を改装し、新しい生活を始めた。
最初は慣れない村生活に戸惑うこともあったが、すぐに昔の感覚を取り戻した。
「やっぱり、ここが私たちの居場所ですね」
「はい。心の故郷です」
トムは今では27歳の立派な青年になり、村の小学校で先生をしていた。
「ユナお姉さん、今度子供たちにパン作りを教えてもらえませんか?」
「もちろんよ」
「愛と平和の教育の一環として」
「素敵なアイデアね」
週に一度、子供たちにパン作りを教える「愛情パン教室」が始まった。
「パンを作る時の一番大切な材料は何でしょう?」
ユナが子供たちに尋ねた。
「小麦粉!」
「お水!」
「違うよ、愛情だよ」
ルナが得意げに答えた。
「正解です」
ユナは微笑んだ。
「愛情を込めて作ったパンは、食べた人を幸せにします」
子供たちは真剣に聞いていた。
「僕たちも、愛情を込めて作る!」
「私も!」
子供たちの声が工房に響いた。
こうして作られたパンは、いつも村中で評判になった。
「子供たちが作ったパン、とても美味しいわね」
「愛情がたっぷり入ってるから」
「ユナさんの教え方が上手なのよ」
平和な日々が続いた。
時々、各国から訪問者がやってきた。
「ユナ様、お元気でしたか?」
「ええ、とても幸せです」
「村での生活はいかがですか?」
「最高です」
訪問者たちは皆、二人の穏やかな表情に安心した。
「本当に幸せそうですね」
「はい。これが私たちの望んだ生活です」
愛と平和の同盟も順調に発展を続けていた。
今では50カ国が参加する大きな組織となり、世界平和に大きく貢献していた。
「私たちが始めた小さな種が、こんなに大きな木になるなんて」
「愛の力は偉大ですね」
二人は誇らしく思っていた。
でも、今の彼らにとって一番大切なのは、家族との時間だった。
「ママ、パパ、今日もパン作り楽しかったね」
夕食後、ルナが言った。
「そうですね」
「ルナも上手になりました」
「本当?」
「本当よ。あなたのパンには、特別な魔法がかかってる」
「えへへ」
ルナは嬉しそうに笑った。
その夜、家族三人で庭に出て星を見上げた。
「綺麗な月ですね」
「はい。いつ見ても美しい」
月は静かに輝いている。
すべてを見守るように。
「ママ、月の女神様って本当にいるの?」
ルナが尋ねた。
「いるわよ」
「どこに?」
「あなたの心の中に」
「私の心の中?」
「そう。愛する心を持つ人の中に、月の女神様はいらっしゃるの」
「じゃあ、私も月の女神様なの?」
「ええ。小さな月の女神様よ」
ルナは満足そうに頷いた。
「ポンおじさんも言ってた」
「ポンが?」
最近、ルナにもポンが見えるようになっていた。
「ルナちゃんは特別な子だって」
「そうですか」
ユナは微笑んだ。
ポンは今でも時々現れて、家族を見守ってくれていた。
「お姉さん、幸せそうだね」
「とても幸せよ」
「これが、お姉さんの本当の姿だね」
「本当の姿?」
「うん。月の巫女でも、王子妃でもない。ただの、愛する女性としての姿」
ポンの言葉に、ユナは深く頷いた。
確かに、今の自分が一番自然だった。
夫を愛し、娘を愛し、村の人たちを愛する。
そして、毎日パンを焼く。
それが彼女の幸せだった。
時は流れ、季節は巡る。
でも、変わらないものがある。
愛する心と、人を幸せにしたいという想い。
そして、毎朝響くパンを焼く音。
「黄金の麦」の煙突からは、今日も白い煙が立ち上る。
村の人たちが集まってきて、「おはよう」と挨拶を交わす。
子供たちが元気に走り回り、大人たちが微笑み合う。
平和で穏やかな村の一日が始まる。
ユナは今日もエプロンを締め、パン生地に向かう。
愛情を込めて、丁寧に、心を込めて。
月の花嫁は、今日もパンを焼く。
愛する家族のために。
愛する村の人たちのために。
そして、愛する世界のために。
小さなパン屋から始まった愛の物語は、今もなお続いている。
形は変わっても、愛の本質は変わらない。
月の光に見守られて、愛は永遠に受け継がれていく。
パンローブ村の、月と麦のある美しい風景の中で。
これからも、ずっと。
愛と共に。
平和と共に。
希望と共に。
物語は終わることなく、続いていく。
新しい世代へと。
そして、愛は永遠に輝き続ける。
月のように。
―完―
『月の花嫁はパンを焼く~辺境の村で始まる、魔法と麦のスローライフ~』 漣 @mantonyao
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