夏の足跡 残ったままの熱
ボーズ
第1話
期末テストが終わり、解放感に満ちた週末を迎えた。 金曜日の最後の授業を終えるチャイムが、待ち望んだ自由を告げるように、いつもより長く、耳の奥で心地よく鳴り響いた。大志は、重かった教科書をいつものんびりとした動作で閉じ、机の引き出しにしまい込む。そのまま腰を上げ、部活の荷物とは違う、普段使いのシンプルなスクールバッグを手に、帰宅の準備を始めた。窓の外に広がる空は、吸い込まれるような群青色に染まり、陽射しは容赦なく肌を焼き、校庭の砂埃がキラキラと舞い上がっていた。 まるで、本物の夏がすぐそこまで来ていることを、全身で主張しているかのようだった。
「ねえ、大志」
不意に、隣の席からひらりと日和が振り返った。光を吸い込むような栗色の髪が、結んだばかりのポニーテールで軽やかに揺れる。そこから覗く白い項が、妙に眩しく感じられた。夏の始まりを思わせる陽光を浴びて、彼女のポニーテールが、きらりと光る。
「この後さ、海行かない?」
予想もしなかった言葉に、大志は思わず手にした消しゴムを落としそうになった。海? 今から? 平日の放課後だぞ? 頭の中で、状況が瞬時に整理される。急な誘いに心臓がドクリと鳴った。どうして俺を?他の奴じゃなくて?
「期末テスト終わったし、たまには羽伸ばしたいじゃん? っていうか、大志も帰る方向一緒でしょ?」
日和は屈託のない、いつもの笑顔で、まるでジュースでも誘うような軽い調子で言った。その無邪気さに、大志の胸はトクンと小さく跳ねた。いつも通りの、飾り気のない日和の言葉なのに、どこか期待が混じる。まさか、日和から、こんな風に誘われるなんて。放課後に二人きり。心の奥底で、これは単なる偶然ではないのかもしれないと、心に小さな泡が弾けるような感覚を覚えた。 「いいよ」と、ほとんど反射的に声が出た。
電車に揺られながら、二人の他愛のない会話が続く。期末テストの話題は、もう過去のものだ。
「期末、どうだった? 大志はいつも真面目だから大丈夫でしょ?」
「いやいや、全然。全然自信ないって。日和こそ、今回も余裕でしょ? いつも休み時間に教科書とかちゃんと読んでるじゃん」
「うっそー、やだー、そういう大志こそ、実は影でめっちゃ勉強してるタイプでしょ? 私なんて全然ダメダメだよー」
日和は茶化すように笑う。その笑顔を見るたびに、大志の心は、凍り付いた氷が溶けるように少しずつ温かくなるのを感じた。隣に座る日和の制服から、かすかにシャンプーと、ほんのり甘い汗の混じった香りが漂ってくる。それだけで、なぜか胸の奥がきゅっとなるのを感じた。
「ねえ、大志ってさ、高校入ってから、もう友達できた?」日和が不意に尋ねた。「私、中学の友達とばっかりで、あんまりクラスの人と話せてないんだよね。」
「俺もそんな変わんないかな。部活もまだ仮入部だし。でも、日和はクラスでも明るいじゃん? 結構みんなと話してるように見えるけど。」
「えー、そうかな? 結構気使ってるんだよ? 大志は誰とでも普通に話してるからすごいなって思う。カーストとか気にしないタイプ?」日和は、体を少しだけ大志の方に傾け、顔を覗き込むように尋ねた。その距離感に、大志の心臓が不規則に脈打つ。
「カーストとか、別に気にしたことないけど…」大志は、急に近づいた日和の顔から視線をわずかに逸らし、「べ、別にそんな大げさなことじゃないけど…せっかくだし、祭りって誰かと行ったほうが楽しいだろ?」 口元が不自然に引きつるのを感じる。「でも、日和みたいに誰とでも仲良くなれるのは才能だと思う。」
「え、才能? なんだそれ、面白いね、大志のそういうとこ!」日和は楽しそうに声を上げて笑った。その笑い声が、電車の揺れと窓の外を流れる景色に溶けていく。「なんかさ、大志と話してると、ホッとするっていうか、変に気張らなくていいから楽なんだよね。私、そういうの、結構大事にしてるんだ。」日和の言葉に、大志の胸の奥がじんわりと温かくなった。
最寄りの駅で降り、海岸へと続く道を歩き出す。アスファルトの照り返しが、まるで地面から熱気を吹き上げているように熱い。制服のシャツが、じっとりと背中に張り付く。しばらく歩いていると、不意に、ローファーの中に砂の粒が入り込んできた。チクチクとした感触に、思わず顔をしかめる。
「あ、もう無理!」
日和が唐突に声を上げ、その場で立ち止まった。大志が何事かと見ると、日和は慣れた手つきで、ためらいもなくローファーを脱ぎ始めた。白い靴下が脱がれ、すらりとした足首が露わになる。
「ほら、大志も脱ぎなよ! 気持ちいいよ!」
日和は、素足でフワリと砂浜へ駆け出す。その白い足跡が、まだ乾ききらない砂の上に、くっきりと、そしてどこか儚げに残った。大志もためらいがちにローファーを脱ぎ、靴下も脱いで裸足になった。熱い砂の感触が、足の裏からじわりと、全身に広がるように伝わってくる。波打ち際へ向かうと、ひんやりとした波が足元を洗い、熱くなった肌に心地よい冷たさを与えてくれた。ザア、ザアと寄せては返す波の音。遠くでカモメが寂しげに鳴いている。それは、どこか遠い記憶を呼び覚ますような、穏やかな音だった。中学生の時には、こんな自由な時間はなかった。いつも部活に追われ、放課後は友達とゲームセンターに直行するか、家でだらだら過ごすだけだった。高校生になった自分たちの、新しい夏が、今まさに始まるような気がした。足の指の間を、さらさらと砂がくすぐる。その感触が、すべての束縛から解き放たれたような、清々しい気持ちにさせた。
日が傾き、空がオレンジから深紅へと、刻一刻と表情を変え始める頃。波打ち際で立ち止まった二人の間には、それまでとは違う、少しだけ静かで、それでいて濃密な空気が流れていた。波の音だけが、ザア、ザアと規則的に響く。その音が、二人の心臓の鼓動と重なるようだった。
「ねえ、大志はさ、夏休み何するの? どっか行く予定とかある?」日和が、窓の外を流れる景色に目をやりながら尋ねた。
不意に、大志は、自分の住む地域で毎年恒例の夏祭りが、夏休み中に開催されることを思い出した。その祭りの規模は大きく、毎年多くの人で賑わい、日和もきっとその存在は知っているだろう。胸の奥で、じわりと、それでいて確かな熱いものが広がる。今この瞬間を逃せば、きっと一生後悔する。そう直感した。
沈みゆく夕陽が、その決意を固めるように、そしてすでに赤くなっているだろう自分の頬を隠すように、大志の視界を染めていく。西の空一面が、燃えるような赤に染まっていた。
「あのさ、日和」
絞り出すような声だった。喉の奥がカラカラに渇き、心臓が耳元で激しく脈打つ。大志は、勇気を振り絞る。
「夏休みにさ、俺の地域の地元で祭りがあるんだけど、もしよかったら、一緒に行かないか?」
日和は一瞬、目を見開いて驚いた。大志からの予想外の言葉に、ふと彼女の表情が固まる。微かに口元が動いたが、言葉にはならなかった。しかし、すぐにいつもの、少しだけ茶目っ気のある笑顔に戻った。その笑顔に、大志はほんの少しだけ息を吹き返す。
「えー、急にどうしたの、大志。もしかして、デートのお誘い?」
日和は片眉をぴくりと上げ、大志の顔をじっと見つめる。大志は視線を逸らそうとしながらも、懸命に日和の目を見返した。
「べ、別にそんな大げさなことじゃないけど…せっかくだし、祭りって誰かと行ったほうが楽しいだろ?」
「ふーん?」日和は意地の悪い笑みを浮かべる。「いいけど、大志がしっかりエスコートしてくれなきゃヤダよ? 夜店で美味しいものいっぱい買ってくれるって約束してね!」
大志は安堵と喜びで、大きく頷いた。夕陽が二人の顔を赤く染めているせいで、互いの顔が本当に赤くなっていることには、まだ気づかない。伸びた二人の影が、まるで自然と手が重なっているかのように見える。足元からじんわりと伝わる砂の温かさが、全身に広がる熱と重なり合った。それはまるで、二人の間に生まれたばかりの熱を帯びた感情が、体の奥底から湧き上がってくるような感覚だった。
夏の足跡は、確かにそこに残っていた。そして、その足跡が、二人の間に生まれたばかりの、熱を帯びた感情の証のように思われた。この熱は、きっとこの夏が終わっても、ずっと残っていく。
夏の足跡 残ったままの熱 ボーズ @namakokokinoko
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