第4章:悪夢

朝、目を覚ますと、渚がカーテンを開けていた。

白い光が差し込む部屋に、彼女のシルエットが透けて見える。


「朝だよ、湊。起きて」


優しい声。あたたかい匂い。

それが確かに「現実」だと、僕は疑わずにいた。

でも――


ふと、ベッドの脇に、赤黒いものが落ちているのに気づいた。

乾いた――血のような……いや、埃だったのかもしれない。


「……ねえ、渚」


「ん?」


「昨日、怪我してた?……脚とか」


渚は首を傾げた。


「ううん。なにそれ、夢でも見た?」


「……ああ、そっか。ごめん」


妙な胸騒ぎがした。でもそれは、昨夜の幸福が大きすぎた反動だろう。

それに、彼女の脚はいつも通り美しい。滑らかで、よく動く。

あの夜、壊れていたはずの脚なんて、最初からなかったのかもしれない。


朝ごはんを食べながら、渚が言う。


「ねえ湊、夢ってさ、何かを忘れるために見るらしいよ。嫌な記憶とか、消したいやつ」


「へえ……どこで仕入れたの、そんな話」


「……なんとなく」


笑う彼女の唇が、ひどく青白く見えたのは、たぶん朝の光のせいだ。



仕事中、ふいに、頭の中にノイズが走った。


「脚が……ぐちゃぐちゃでさ」


――誰の声だ?


いや、そんなことはない。渚の脚は綺麗だった。

毎晩、僕の身体に巻き付くたびに思う。

どんな脚より美しいって。


でも、どうしてだろう。

教室の窓からグラウンドを見ていたとき、不意に感じた。


この角度――どこか見覚えがある。

白線の上に、黒い点があったような気がする。

それはじわじわ黒い渦のように広がりをみせて…


「遠野先生!」


声がして、我に返る。生徒のひとりが僕を見ていた。


「え? ああ……ごめん、考え事してた」


「今日、あたしが作った小説、評価してくれるって言ってましたよね?ちゃんと読んでくださいね?」


「ああ、もちろん」


小説。……小説。

僕は、誰かの小説を読んでいた。

渚の――そうだ、彼女は僕に自作の小説を見せてくれていた。

そこに、こう書かれていた。


「愛とは何か。壊したいと思うことか」


……何の話だったっけ。


帰宅すると、渚はまた夕飯を用意してくれていた。

食卓の下、彼女の脚が見える。

裸足で、すべすべで、十全に動いている。

でも僕は、ふと感じる。


――あれ、渚って……

――あの夜、立てたっけ?



次の朝、目覚めたとき、

僕の足元に、細くて黒い糸のような髪が落ちていた。

ほんの一本だけ。

でも、それは“何かを思い出せ”と告げるように、冷たく床に横たわっていた。

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