鏡の中の私

神楽堂

鏡の中の私

 私が「彼女」の存在に気付いたのは、このアパートに引っ越してきて、二週間が過ぎたくらいであろうか。

 壁に打ち付けられた木の板を不自然に思い、こっそり外してみた。

 すると、そこには薄汚れた鏡があった。

 今日は会社はお休みなので、なんとなくその鏡を磨いてみようと思い立った。

 埃に覆われ曇った表面を布で丁寧に拭っていると、不意に、鏡に映る自分が微笑んだ。

 驚きのあまり、手にしていた布を床に落とす。

 鏡の中の「私」は、確かに私の顔をしていた。しかし、どこか異なっていた。

 髪は私よりもわずかに長く、身に纏うのは部屋着ではなく、緑色のブラウスだった。


「驚かせてしまって、ごめんなさい」


 鏡の中の「私」が、「私」に向かって語りかけてきた。

 喉元まで押し寄せた悲鳴を、私はかろうじて飲み込む。

 深呼吸をしてもう一度、鏡を見てみる。

 不思議なことに、恐怖よりも未知への好奇心の方が勝っていた。


「あなたは……誰?」


「あなたよ。でも、あなたとは異なるあなた」


と、彼女は言った。


「きっといつか、気付くわ」


 その日を境に、私の日常は変わり始めた。

 毎朝、私は鏡の前に立ち、もう一人の自分と語り合うようになったのだ。


 鏡の中の「私」は、「私」のよき話し相手となってくれた。

 彼女は私と同じ顔、同じ趣味や関心をもちつつも、私よりもどこか自信に満ちており、私よりも一歩踏み出した存在であるように映っていた。

 鏡の中の私と会話することは、私の生活にとって欠かせないものとなっていった。


* * *


「今日も、あの会社に行くの?」


 ある朝、鏡の中の「私」が、こちらの「私」に問いかけてきた。


「行かなきゃ。生活があるから」


 私が答えると、鏡の中の私はふっと微笑んだ。


「でも、本当は行きたくないのでしょう?」


 さすがは私だ。私の本心をよく分かっている。

 私は今の仕事が嫌いだ。しかし、生活への不安から退職という選択肢を選べずにいた。


「昨日、絵を描いていたでしょう?」


 突然の指摘に息を呑む。

 私が夜遅く、密かに風景画を描いていた姿は、鏡には映していなかったはず。


「どうして知っているの?」


「気配を感じたのよ」


 鏡の中の私は微笑みを絶やさずに答えた。


「実は私も絵を描くの。だって、私はあなただからね。で、その絵、見せてくれない?」


 その日から、私と私の会話はより親密なものとなった。

 鏡の中の私は、私の描いた絵を称賛し、時には厳しく批評した。それらの意見に耳を傾けるうち、私は自らの表現力に対する理解を深めていった。

 時折、彼女との対話は激しくなり、意見が衝突することもあった。だが、それすらも私の孤独を癒す一部となっていた。

 鏡の中の私は、私のよいところも駄目なところも、そのすべてを分かっていた。

 鏡の中の私は、私にとって最高の理解者であった。


* * *


 曇天にわずかな光が差し込む、そんな静かな午後のこと。

 鏡の中の私は、私にこう言った。


「あなたには才能があるのに……本当は美術学校に行きたいのでしょ?」


 正直、芸術系の学校に進学したいという夢を私はもっていた。

 けれども、私は養子であった。産みの親については何も知らされていない。

 里親は、私を実の子のようにかわいがり、育ててくれた。だからこそ……これ以上、経済的に負担をかけさせては申し訳ないと思った。すぐに就職することが、育ての親に対する孝行だと思ったのだ。

 しかし、鏡の中の私は、私が隠してきた夢を見抜いていた。


「無理よ」


 私は小さく呟いた。


「絵を描いて生活なんて、できるはずがない」


 鏡の中の私は、微動だにせず私を見つめ返す。鏡の向こうの私に潜む熱が、私にかすかな疼きをもたらした。


「一生後悔して生きていくの?」


 その問いかけは、甘美な誘惑にも聞こえ、また、容赦ない断罪のようにも聞こえた。


「私は、絵で生きていくと決めたよ」


 鏡の中の私にそう言われたこともあって、私は本格的にキャンバスに向かい合ってみることにした。

 絵の具を絞り出し、筆先に色を含ませる。

 その瞬間、描きたいという衝動が心の中で跳ね回った。

 私は夢中になって描き続けた。

 目の前のキャンバスと対話を続けた。

 色が重なり、形が生まれ、消えてはまた新たな像を結ぶ。

 その反復に酔わされるうち、夜の静寂はいつしか薄明の光に押し流され、窓の外には新しい朝がひそやかに訪れていたことに気付けずにいた。

 鳥の囀りが耳に届いて初めて、私は夜が明けたことに気付いたのだった。


 私は描いた絵を、鏡の中の私に見せた。


「素晴らしいわ!」


 彼女は微笑みながら語った。


「この色使い、この構図、あなたには才能があるわ!」


 彼女の言葉に背中を押され、私はついに退職を決意した。

 一度きりの人生。後悔なんてしたくない。


 美術学校の夜間コースに身を置き、昼間はカフェでアルバイトを始めた。

 収入は減ったが、心は軽やかだった。

 夜毎に新しい技術や出会った絵描き仲間について鏡の中の私に話すと、彼女はその全てを共有しているかのように頷き、微笑んだ。

 いつしか私は、鏡の中の私こそが私の内に潜む「真の私」であると感じるようになっていった。

 鏡の向こうの彼女は、私の弱さと願望を映しながら、いつでも私を導いてくれていた。

 筆を取るたびに、鏡の中の彼女は静かに微笑み、私の中の迷いを溶かしてくれた。

 キャンバスに残る色は、私と鏡の中の私とが、共に描いた証ともいえた。


* * *


 その日は突然訪れた。


「おはよう」


 いつものように、私は鏡に向かって声をかける。

 その日は違った。鏡に映るはずの私の姿が、そこにはなかった。

 何も映らない。

 私は呆然と立ち尽くした。


 翌日も、その翌日も、私は鏡の前に立ち、何度も呼びかけた。


「おはよう」

「こんにちは」

「おやすみなさい」


 時間帯も変え、光の角度を調整し、鏡の曇りも拭ってみた。

 夜更けに囁き、朝焼けに問いかけ、それでも、鏡の中の私は帰ってこなかった。

 虚ろな鏡に向かいながら、胸の奥に空洞が広がるのを感じた。

 自分が自分でないような、不完全な感覚。

 失われたものは単なる鏡像ではなく、最高の友、最高の理解者、そして、私そのものであった。


* * *


 一週間ほど経った頃、管理人が訪ねてきた。

 鳴らされたチャイムの音は、不意打ちのように響いた。


「お隣の方が引っ越しました。つきましては、清掃作業を行いますので、しばらくうるさくなりますがご了承ください」


「隣の人……?」


 思えば、隣人と顔を合わせたことなどなかった。


「どんな人だったんですか?」


「若い女性ですよ。あなたによく似た方でした」


 彼の言葉に、私は不意に息を呑んだ。

 胸の奥で止まっていた何かが動き出す感覚がした。


 再び鏡の前に立ってみる。

 そこにはやはり、私は映らなかった。


 ────あれ?

 鏡に管理人が掃除をしている姿が映っている。

 私は目の前の「鏡」を見つめ直す。

 静かな違和感が胸の奥に広がっていく。

 これは、本当に鏡なのだろうか?



 いや、鏡ではない!

 目の前にあるのはただのガラス。

 私が鏡だと信じていたもの、それは隣の部屋との透き通った境界にすぎなかった。

 ──鏡の中にいた私は私ではなかった──

 隣の部屋に住んでいた、私とそっくりの誰かだったのだ。


* * *


 月日は流れ、自分が通う美術学校の展覧会に足を運んだ時のこと。

 なんと、「私」は「鏡の中の私」と再会した。

 彼女は私と同じ顔を持ちながら、少し長い髪と異なる装いをしていた。

 それは鏡の中で見慣れていた私だった。


「隣に住んでいたの?」


 ようやく声を絞り出すことができた。

 私たちは静かなカフェに席を移し、それぞれの人生を語り合った。

 隣の部屋に住んでいたこと、壁に埋め込まれた特殊なガラスの存在を知っていたこと。

 そして好奇心から私と会話を重ねたことを告白してくれた。


「私は養子だったの」


 彼女は語る。


「生まれた時、双子の妹がいるなんて知らなかった。でも、あなたを見つけたとき、すぐに気付いたの」


 私達は、互いの存在を知らずに育った双子の姉妹なのであった。

 奇跡のような巡り合わせで、同じアパートの隣同士に住んでいたのだった。


「なぜ教えてくれなかったの?」


「驚いて、何も言えなかったの」


 彼女は静かに答えた。


「あなたが私を『鏡の中の自分』だと思っていることに気付いて、なんとなく続けてしまったの。ごめんなさい」


「でも、急に姿を消したのは……」


「急な転勤で引っ越さなければならなかったの。でも、あなたに会いたくて、美術学校の展覧会の案内を見て来たの」


 私たちは互いの顔を見つめた。

 二人の私は、ようやく一つの真実を共有することができた。


 その日を境に、私たちは長い歳月を越え、姉妹としての時間を重ねるようになった。

 彼女の描く絵は、私の想像を超えていた。

 大胆な筆致と鮮烈な色彩は、私の大人しめな画風とは異なる。

 しかし、その根底に流れる感覚は、どこか共鳴し合っているように感じた。

 いつか二人で展覧会を開く。それが私達の目標となった。


 後に分かったことなのだが、あのアパートはかつて一つの広間として設計され、後に分割されたということだった。

 あのガラスは、その名残として壁に残された奇妙な遺物だったのだ。


* * *


 時折、私はあの「鏡」を思い返す。

 あのガラス越しの彼女の姿が、私の知らなかった私を教えてくれたということは確かだ。

 相手の言葉が自らの声のように響き、相手の仕草が自らの動作のように感じられた。

 そして、それは私の内側に潜むものを映し出していたように思えた。


 あのガラスは、やっぱり「鏡」だったのだ。



< 了 >

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鏡の中の私 神楽堂 @haiho_

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