帝都炎上

モスクワの空が、赤く染まっていた。

クレムリンの尖塔が崩れ、スパスカヤ塔の時計は爆風で止まり、

帝都の象徴が、まるで瓦礫の記号のように沈んでいく。


テロだった。

同時多発。周到で、容赦がなかった。

市内数カ所で爆破、自爆、無人機による襲撃。標的は帝政政府の中枢――そして民衆。


「ここは戦場じゃない。俺たちの国の心臓だった。

……だったはずなのに」


泣きながら銃を構える兵士の姿は、もはや敵を撃つ者ではなく、

ただ、崩れかけた自分自身を支える者に見えた。


プーチンはその時、地下の特別指揮所にいた。

瓦礫の落ちる音。壁に染み出す水。

老いた彼の手は震えていた。だが、眼だけは鈍い光を放ち続けていた。


「始まったな……これが奴らの“開戦の口実”か」


ドブロフ副長官が血のついた報告書を差し出した。

反帝政組織自由ロシア評議会。実行犯は国内の裏切り者たち。

だが資金と武器は、NATO加盟国を通じた諜報網から流れたものだった。


「西側は、我が帝国が混乱と恐怖に包まれる瞬間を、

ずっと狙っていた。

我々が分裂し、孤立し、自らを疑い始めた時をな……」


その言葉に、誰も返す言葉を持たなかった。

口を開けば、疑いと絶望が口から溢れそうだった。


その晩、帝政政府は正式に非常事態宣言を発令。

戒厳令が敷かれ、報道は一元化され、市民の自由は事実上凍結された。


だが、すでに“自由”を失っていたのは、市民ではなく――国家だった。


数時間後、NATOは声明を出した。

「ロシア帝政による国内粛清と対外進軍は、国際秩序に対する挑戦である」

その直後、ポーランド国境での小規模な衝突が報告され、NATO部隊が応戦。


事実上の、開戦だった。


そのとき、世界は静かに転落していた。

誰もが「まさか」と呟いたその言葉が、翌朝には「当然」へと変わっていた。


東京・世田谷。

大学生の川村翔太は、ニュースアプリの通知に手を止めた。


「NATO、バルト三国経由でロシア帝政と交戦開始」

「米空母、黒海へ」

「帝政ロシア、国連脱退を宣言」


彼は息を呑んだ。もう現実逃避も、皮肉も通用しない。


彼の父は自衛官だった。数ヶ月前、演習だと言って出て行き、それきりだった。

LINEは「既読」のまま、返事が来ない。


「これ、ほんとに戦争なんだな……」


独り言が、思いのほか大きな声になった。

同じ部屋にいた妹が、顔を上げて震えながら問う。


「お兄ちゃん、うちに爆弾落ちるの?」


翔太は何も言えなかった。だが、答えはすでに、彼の沈黙の中にあった。


ナポリ。

大学生のアリアは、地下の教会に避難していた。

幼い妹の手を握りながら、神父の祈りを聞いていた。


教会の鐘は鳴らない。

代わりに、上空を通過する戦闘機の轟音が、鐘のように響いていた。


「また空襲警報よ。…このままじゃ、お祈りもできない」


誰かが呟いたその言葉に、誰も反論しなかった。

神に祈るより先に、隣人を守ることすら難しい世界になっていた。


中国・重慶。

人民解放軍の部隊が市内の各所で徴兵報告所を設置していた。

「国家存亡の危機において、青年たちは立ち上がるべし」

街頭スクリーンに、戦闘機と赤い旗が映っていた。


21歳のリー・カイは通知を見つめていた。

「あなたは予備役徴兵対象です。48時間以内に報告を」


「家も、仕事も、恋人も、卒業も……全部消えるのか?」


彼はつぶやいた。友人は「大義だ」と答えた。

だが、彼の心にはただ一つの感情だけが残っていた。


――何もしてないのに、どうして戦わなきゃいけないんだ。


再び、モスクワ。


プーチンは、聖ワシリイ大聖堂の地下にある秘密の作戦室にいた。

壁には、火に焼かれたロシア地図。

そこに赤と青と黒の矢印が無数に描かれていた。


参謀が報告する。


「中国、協定に基づき南部戦線へ増派。

イラン、ロシアを支持。アフリカの複数政権が我々の側につきました」


プーチンは静かに、目を閉じた。

「世界は三つに裂けた。西側、東側、そして混沌。

だがいずれ、“混沌”が勝つ。歴史はいつもそうだ」


「陛下……この戦争に、“終わり”はあるのでしょうか」


老いた参謀の問いに、プーチンは答えなかった。

代わりに、地図の上に置かれた赤い駒を静かに動かした。


それは、ベルリンの上だった。


ネットでは“第三次世界大戦”という言葉が、もはや冗談ではなくなっていた。

「トレンドにあるのが、逆に恐ろしい」と呟いた者は、翌日には徴兵されていた。


世界が狂っていくとき、人々は皆、心のどこかでこう願っていた。

「自分だけは、巻き込まれませんように」と。


だが、火は国境を越え、願いを焼き、どこにでも落ちていった。


そして今も、モスクワでは燃え続けている。

かつて「帝都」と呼ばれた都市の夜空に、

もう星は見えなかった。


✅次回予告(第10話・最終話)

「廃墟の旗」

世界が焼け落ちた後、何が残るのか。

廃墟に立つのは、勝者か、難民か。

ロシア、欧州、日本、中国、アフリカ――

すべてが焼かれた地球の上で、かつて人類だった者たちが、

最後に手にする“未来”とは。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る