第三話 耳を貸すのか喚ぶ声に

「嫌だね」

 蓮は即答した。

 支配人室に蓮を呼び出し、本題を切り出してすぐのことだった。蓮が座るソファは、日呉のデスクに向いていたが、蓮は日呉と目も合わせなかった。

「だよな。そう言うと思ったぜ」

 日呉は張り詰めた表情のまま、ため息と共にそう吐き出した。

「だがな、どうもこの件は、これで終わりには出来ねぇようなんだよ」

 頭をがしがしと掻き、半ば独り言のように、

「“国家機密に関わる”とか、言われちゃな」




「は、はぁ、うちの蓮に、ですか。いや、……政斎庁の方がそう仰るなら、はい、働きかけてはみますが……」

 日呉は柊木にそう返しながら、内心思った。

 ――絶対無理だ。

 蓮は元々、舞台上での演劇にしか興味がない人間だ。この雲上座に来る前――専門養成機関【花殿舎かでんしゃ】にいた時からずっとそうで、毎月のように来るオファーを蹴り続けていたほどに。同期には、それこそ桜も含め、花殿舎在籍時から映像の世界で活躍していた子ども達も多かったのに、強情にも、だ。だからこそ、映像の演技では桜が一斉を風靡し、舞台の世界では蓮が時代の寵児と言い囃されて、互いに潰し合わずに共存できていたとも言える。……桜が亡くなる前になると、彼の身体を蝕むほどの過密スケジュールを軽減しようと考えたのか、積極的にそちらの仕事も受けていたが、今となっては、完全に絶望的だ。

 しかし柊木は一歩も退かなかった。表情を少しも変えず、「ええ、難しいことは承知しています。しかし、……桜亡き今、我々には彼の力が必要なのです」と宣った。

 眼鏡の奥の瞳は凪いでいるが、決して柔らかくはない。静かな冷たさを持った岩肌のような感触で、柊木は言葉を重ねていく。

「百川支配人。貴方は、小峰蓮をこちらの雲上座にスカウトなさったその人であると伺っています」

「はぁ、よくご存知で……」

「つまり、蓮に演技の場を与えられる立場の人間の中で、もっとも彼と信頼関係を築けている人物と言えるでしょう。……どうか彼を、彼の演技をもう一度、できるだけ多くの人々の見える場所へ」

 そして柊木は、深々と頭を下げた。

 日呉が日常的に目にする役者達にも引けを取らない、端正な最敬礼。さらに、彼に伴って訪れた企業関係者の面々も、揃って頼み込んでくる。

「蓮は雲上座のトップ。当然、彼が舞台に出る機会が減るというのであれば、損害もあるでしょう。そちらについても、我々が補填いたします。どうか……」

 ダメ押しに、柊木は頭を下げたままそんなことまで言う。……そこまで言われれば、少なくともきちんと事情を聞いて、蓮に話を通すくらいしなければ、後が怖い。

 日呉の中で、「絶対無理でも、ある程度はその無理を通さねばならなそうだ」という方に天秤が傾いた。

「っそ、そんな、とにかくお顔をお上げください! ……しかし、なぜそこまで? 理由をお聞かせいただけませんでしょうか」

 柊木は、顔を上げた。その表情はやはり、揺るぎない意志の固さを孕んでいたが、目元だけがわずかに、もどかしそうに歪んでいた。

 それが本心からなのかは分からないが、少なくとも表情として、「貴方の求めるようにしたいのだけれども、それができないのが自分も辛いのだ」と伝えようとしている形だった。

「……申し訳ありません。それは、お伝えできないのです」

「はぁ、それは一体……」

「国家機密に関わることです。……このような差し出がましい要求をしているところ、本来ならば筋が通らないことですが、どうかご理解ください」

 日呉は一瞬、絶句した。今、何て?

 突然差し込まれた物々しい言葉に、理解が追いつかない。突然時空が歪んで、それこそ映画の世界に入ったかのようだった。耳慣れない用語と日常的な辞令が混ざり合った文が頭をすり抜けていく。

「……困惑なさるのも、当然のことです。しかし、そのような事情でして……。我々はできる限り早く、蓮の力を借りなくてはならないのです」

 日呉が固まっているうちに、柊木は続け、鞄から一枚の封書を取り出す。

「まずは、こちらを蓮本人に。……ご返答によっては、私自ら、彼に交渉いたします」

「は、これは、どうも……」

 日呉はそれを受け取りながら、何の意味もない文句を返し、とりあえず形式だけ謙った。……それ以外にどうしろと言うのだ、この状況で。

 日呉はビジネスマンだ。それも、伊達に国一の歓楽街で絢爛の殿堂をやっていない。しかし、そんな自分が国家機密とやらと関わり合いを持つ羽目になるとは、誰が予想できるのだ? 所詮自分は、一介の商売人に過ぎないのだ。

 一方柊木は、言うべきことを言い、手渡すべきものを手渡して、すっきりといった様子で――この形容には、日呉の主観が大幅に入っているが――最後に、ずるい確認を付け加えた。

「雲上座や百川支配人としては、ご協力いただけると諒解してもよろしいでしょうか」

 日呉は表情が歪みそうになるのを、理性で押し留めた。流石、国の重要機関のお方。人の退路の塞ぎ方が鮮やかすぎて、惚れ惚れする。

「……承知いたしました。ご依頼、確かに蓮にお取り継ぎします」

 ――嗚呼、蓮が二つ返事でこの件を受けてくれればなぁ。

 日呉はたまゆら、そう夢想した。国家機密やらこんなおっかない役人やら、ついでに商売敵たちの徒党やらと、これ以上関わり合いになりたくないし、ましてそのおっかない役人が蓮と直接交渉なんてことになったら、何が起きるかわかったもんじゃないのである。

 しかし夢想とは、到底あり得ないから夢想なのである。



 ――日呉はそんなことを思い出しながら、蓮に机の上の封書を示した。

「そいつはお前宛だとよ」

 蓮はふうん、と目はやるものの、手に取ろうともしない。

「とりあえず受け取るだけ受け取ってくれ。中身は俺に見せるなよ、お役人も機密に関わることは俺には伝えられないとさ」

「……」

 蓮は、もう答えもしなかった。



 早朝の稽古場は、空気が澄んでいて好きだ。この季節は特に。

 蓮は一人、無人の稽古場に足を運んでいた。

 雲上座では、大きな演目が終わった後には、しばらく音楽やダンスメインの催しが開かれるのが慣わしだ。他にも、少ない人数での公演や、外部の劇団や楽団との合同企画など、多角的な展開にも力が入れられている。つまり、次の稽古が始まるまで、少なくとも一週間はまとまった休暇が取れる。

 それは蓮にとっては、一週間演劇ができない日が続く、やや味気ない時間でもあった。

 桜を喪ってからは、それは苦しみの期間になった。に行けない時間があればあるほど、桜のことを思い出してしまうから。

 まだ自分と同じ子どもなのに、大人達の都合に揉まれ、衰弱していった桜。

 身体が蝕まれていただけじゃない。あんな演り方で、心だって魂だって、ずっと削られていただろう--

 蓮はそこで、思考を振り切った。また、考えている。せっかく、今日も自主的に稽古場に来たというのに。

 そう、稽古がないなら、自分ですればいい。この時間のこの場所なら、独り占めできるのだ。

 蓮は、過去に演じた演目を思い出すことに集中した。

 どれにしよう――そうだ、『常夜』がいい。昼も夜もなく、闇に包まれた街で、人々に灯りをもたらしてくれる守り神に、ある女は祈り続ける。他の誰もが、自分の住む場所の明るさを競うように誇り、そのために祈る街で、彼女だけは、まだ灯りが届かず、暗闇に包まれている同胞のために、たった一人、忘れ去られた教会で祈り続けている。その女に、祈ることのできない若者が、揶揄う言葉を投げかける。初めは女の愚かしいまでのひたむきさを揺るがしたくて、いたぶるように言葉をかける若者だったが、やがて、彼は女の信じる希望に心惹かれていき、彼女を支えるようになる。そんな物語。

 稽古場の窓からは、早朝の、まだほとんど白に近い空が見える。しかしそれでも、電気をつけていなくても、十分明るい。

 けれどその中に、蓮は暗闇を作り出そうとした。

 今、現実の自分が見ている光景ではなくて、頭の中にある世界を、一つ一つ肌で感じていく。

 最初に、自分のいる現実が、無になる。

 空気が張り詰めた。自分が自分の身体を離れる感覚。この空間と一体化するような。

「……」

 蓮はその無に向かい合い、一呼吸。

 そして、虚構が一つ一つ形を持ち、色を持ち、質を持つ。

 暗闇の温かさ、祈りに応えて灯る光の熱さ。それに照らされる女の横顔。

 蓮は床に座る。そこは床ではなく、土だ。乾いた砂を被っている。表皮の剥がれた枝と、干からびきった細長い葉が手に触れる。

 蓮は、「女」の方を見た。。鏡には映らない。けれど、蓮には見える。


“君は、たった一人でその希望を遂げられると思っているのかい。とんでもない夢想家だ。けれどそうでもなければ、一人、こんな辺鄙な、薄汚れた、誰からも見捨てられるような場所で、寝るときと食べる時以外ずっと他人のために祈り続けるなんてこと、できないだろうね! なんて素敵な人なんだ!”


 台詞は、思い出すまでもなく、自然と胸に湧いてきた。

 蓮は深く息を吸った。


「   」


 台詞を言おうとして、……言葉にならなかった。

 それが声になって、空間に響くのが、それを自分で聞くのが、怖かった。

 他の誰かに聞かれるなんて、もっと耐えがたい。想像するだに、狂おしい感じがした。

 しばらく、蓮はその場を動けなかった。




「……蓮?」

 鈴を振るような声がして、蓮ははっと現実に引き戻された。

 自分は随分長いこと、そのまま座り込んでいたらしかった。

「……優里亜」

 外部の人と打ち合わせでもしていたのだろうか、優里亜は座の中では、着心地の良さそうなドレスを着ていることが多いけれど、珍しく張りのある生地のカットソーにワイドパンツなんて着ている。そんな優里亜が、稽古場の入り口から覗き込んできていた。蓮が、休暇期間中に自主練するのを知っているから、様子を見に来てくれたのかも知れなかった。

 目が合った。蓮は表情を崩した。

「僕、雲上座辞めるね」

 優里亜が顔色を変える。しかし蓮は、口に出したことで、内心さっぱりしていた。

 身体が軽い。蓮はすっくと立ち上がった。さっきまでは、床に手をついて、いくら力を込めても、尻が持ち上がってくれそうになかったのに。

 自分の中で、何かが噛み合った気がした。自然と胸に湧いた、あのセリフのおかげだったかもしれない。

 もちろん、こんな腑抜けた自分を支えてくれた、優里亜と、懸二と、日呉と、鸞汰と、……関わりのある人々、物や事、すべてのおかげでもあるが。

 あとはちょっぴり、日呉が預かったという封書のおかげでもある。



 ――もし僕が、『常夜』の「若者」だったら。

 ――「女」に、一人教会で祈るなんて選択をさせた街を、僕は滅茶苦茶に言ってやるだろう。

 ――でもそれは、雲上座じゃできないことだ。

 ――ちょうど、白羽の矢が立ちそうになったことだしね。

 ――……生贄になんてなってたまるかよ、ばーか。




――「健気さと儚さといえば、桜の専売特許でしたが。近頃の蓮の演技には、それが桜とは違った形で滲み出始めている。……一時期、彼もテレビに出てたことがあったでしょう。またあんな風に出てくれて、全国の視聴者が毎週それを見て、心に刻めるようなことがあったら、どうでしょう、世の中の空気が変わると言いますか、それぐらいの、社会現象になる気がするのですがね」


――失踪者、歯止めかからず 加速度的な増加の裏に一体何が

警察庁は、昨年三月から件数の増加が見られていた兆候なし・原因不明の失踪事件について、「状況は悪化の一途を辿っている」として、きょう二月九日緊急会見を実施した。特別捜査本部の設置、昨年七月より発足していた緊急対策チームの増員、及び、報道・教育・医療・福祉・行政等各分野と連携した対応のための特別対応組織の発足により、原因の究明と失踪者の捜索、拡大の抑止に向けて動く考えを示した。二月九日九時現在、これらの特別対応の対象となる属性の失踪者は、63,833人となっている。

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かくて蜂巣に至るまで 宵部憂(しょうぶ・うい) @wi_shobu

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