カタルシスナシ

とろし

トモル

ーーーまたこの夢だ、夢なのか。


 動けない。天井の隅にある真黒な影が膨張し、人の形を成した。跨ってきたそいつは、体全体に重力が掛かっていく。息ができない。一本動かせないのに、不公平だ、と思う。そいつの伸びてきた子供の落書きのような、烏の翼のような手が首筋を絞めた。冷たくも温かくもない。ただ、呼吸が苦しくなってゆく。


 圧死もしくは窒息のどちらが先か知らないが、おそらく死んだのだろうという瞬間、目が覚める。

全く同じ配置の布団に、全く同じ気温の空気に、全く同じ薄暗さを保つ自室へ、引き戻される。そんな悪夢を毎日見ることを想像してほしい。貴方が15歳の時に。どう思う? 


 現在進行形で悪夢に悩まされる15歳としては、たぶん世に生きる15歳は咄嗟にこう思ってしまうと思う。


ー死にたい。


 呉屋トモルはボサボサの髪を水道水で撫でつけ、顔を5秒でパッパと洗い、自身の消えない隈を指で触った。洗面台の鏡に映る姿は、高架橋下の乞食のようだ。とても血色が良いとはの言えない青白い顔色、ギョロリとした茶色の瞳、痩せぎすの体‥。前髪から雫が数滴、頬に垂れた。


 頭を振ることで液体を振り払い、昨晩アイロンしていた制服に着替えた。階段下へ足音を立てないように降りる。キッチンへ向かい、戸棚からシリアルを取り、無駄にでかい冷蔵庫からこれまた無駄にでかい牛乳(プラスチックの容器に入っている蓋付き)を取り出し、両者を器へ投入する。無言で食す。最近灯は、自分の感情の揺れが感じられにくくなっていた。今食べているシリアルも、好きな味なのか嫌いな味なのか分からない。普段から食べている物に好きも嫌いもない、考えることも無駄だ、どうでもいい、なんて思っているのかもしれない。ただ、自分で好みを判断できなくなるのは、単に興味がない場合と少し違う気がした。


ーーなんだろうな


 トモルは、シリアルを食べているだけなのに気分が落ち込む自分がいる事実に驚愕した。平日の朝はどうしてか、時々、不安で寝れない夜中のような心持ちになってしまう。


 「学校、行きたくないな」


 ぽそりと出た本音を聞く者は誰もいない。冷蔵庫のジーッとした音が虚しく響くだけだ。トモルは1人だった。古びた一軒家にただ1人だった。去年まで家にいた兄、コウガの名残で、朝の足音だけは気をつける癖がついていた。コウガは夜型で、午前の高校をほぼサボっていた。それでもちゃんと卒業して、今は東京で大学生をしているのだから不思議だ。コウガはLINEの返信は既読をつけて、文字の返信はしないタイプだ。つまりトモルが元気かと問い掛けても、大学の様子を聞いても、返事は既読だけだ。先週送った「夏は帰省するの?」に対して、既読がついているのを確認する。トモルは肩を落とした。相変わらず分かんないやつだ。


 黒いリュックを右肩に掛け、黒いシューズを左足から突っ掛けて、黒い傘を持って外へ出る。灰色を厚塗りしすぎた分厚い雲が、天を覆っており、むわりとした空気が漂っていた。吹き荒ぶ風がいつもより強めに感じる。向かい風が、学校へ行く気力をますます削いでいく。


「行きたくない……」


猫背気味の少年は、シャッター通りを俯いたまま1歩、1歩と進んだ。落書きの無いシャッターがひとつもない、寂れたゴーストタウン。それがトモルの住んでいる街だった。夜は例外的に賑わうが、未成年のトモルには関係のない世界だ。道端の吐瀉物や、寝転がっている中年男性を避けるときに、そういう街だった、なんて思い出すくらいだ。


 トモルは早く大人になりたかった。大人になれば、自分の関わりたくない人とも関わらなくていいし、自由が得られるだろう。学校は苦手の巣窟だ。好きになれる所が何一つない。


銀色の看板は、今日もうるさいくらいに太陽を反射している。上からベタベタと貼られたシールで擦り切れたバスの時刻表は、時刻表としての機能を全く果たしていなかった。といってもバスが時間通りに来ることはそうそうないが。それはこの県全土における共通事項だった。


定刻より13分遅れた時間に、バスが来た。サングラスを掛けた運転手を睨む。運転手を睨んだってどうしようもないのは百も承知だが、むしゃくしゃしているのだ。何事もうまくいかない世の中で、バスの定刻ぐらいは、頑張ればうまくいきそうなことだと思うのだ。


 1人席の端に座り、窓に頭を傾ける。額にひんやりとした空気を感じた。冷房の効いた車内が、学校への緊張を加速させた。サボりたいが、サボるほどの度量も持ち合わせていない。一度本気でサボり漫喫へ行こうと計画したことはあるが、やめた。地理の先生が、中学生の頃、創立記念日にゲームセンターへ行くと、警察に補導されかけたという話をしていたからだ。トモルは高校生だが背丈が小さく、もやしのような貧相な体つきをしていた。金曜の夜はうろうろできないとの自覚もあった。

 

 「ピンキーじゃん。今日もネクラってるやっし」


 トモルが学校を嫌いな理由は沢山あるが、その中のひとつはこの男にあった。いつも周りにチンピラ臣下を侍らせている猿山の大将、あだ名はザル。由来は想像にお任せする。体格もでかいし、それ以上に態度もでかい。


 ザルは当たり前のように、トモルの机に足を乗せ


「しにあちぃ、突っ立ってんなら飲み物買ってこいよ、トーヘンボクがよ」


 と言いい、周りとギャハハハと笑い合っている。


ーー何がおもしろいのか全くわからない。お前のせいで立ってんだろ。


 トモルは内心毒づいた。踵を返し、教室から出る。


学校の校歌にはその土地の様子がありありと描かれる。神奈川に住む、いとこの学校は、校歌に「車」や「富士山」が入ってるという。

「静岡と山梨限定の用語ではないんだ」

とおもわず零すと、

「日本のものだからあれは」

と返された。

トモルの学校は、「海」や「山」が入ってる。

「基地はないんだ」

と言われたので

「まあ」

と返した。


トモルは屋上から、遠くの海をぼんやりと眺めた。波の様子など見えないくらい遠かった。今日は曇っているので、太陽が見えない分、いつもよりむし暑さを感じる。風が髪を逆立てた。


船上の方が船酔いを感じにくいように、教室より屋上の方が、トモルは空気が吸いやすかった。あそこは二酸化炭素がこもっていて、ひどくひどく息が詰まる場所だった。病院の個室にある、あの二酸化炭素が規定値を超えるとブザーが鳴る装置で、計測してほしいくらいだ。先生の自分語りの時間、休み時間、体育の時間、学校行事、トモルが弱い者として見下される時間……すべてが苦痛だった。


トモルはこめかみに手をあてて、最近頻発するようになった頭痛に顔を顰めた。夜は悪夢で寝れないし、学校は居心地が悪いし、家では独りぼっちだ。

心が喜びを探すのを拒否しているかのような日々が続いていた。あんなに好きだったテレビもめっきり見なくなった。眩しい世界から目を背けたかった。暗がりの自分が、より惨めになる気がした。


時計をみると、9時5分前になっていた。そろそろ戻らなければ。


隣の教室の前がやけに騒がしかい。思わず足を止めると、誰かがトモルの首元を引っ張った。


「やー、シカトしてんじゃねぇぞ」


「飲み物買ってこいっつっただろ、ミンカーか?」


ザルの取り巻きだった。トモルは俯いて、唇を噛む。奴らからは、香水と汗が入り交じった匂いがした。あと、タバコの残り香。


「気持ち悪い……」


トモルの心情が、そのまま口から落ちた。ひどくなってゆく頭痛に、吐き気まで感じていたから、脳から口への神経回路がバグを起こしたのかもしれない。トモルは普段、もっと考えて考えて物事を発する人間なのに。


「あぁ?」


怒気を孕んだ声が降ってくる。しまった、と思った時にはもう遅かった。腹部への衝撃、つばが口から零れる。


 穴の空いた天井が目に入った。遠巻きに見ていたクラスメイトの一人とばちんと目が合って、さっと目を逸らされる。遠くからザルの笑い声が聞こえる。最悪だ、終わってる。大嫌いだ。それよりもっと、何も言い返せない自分が、一番嫌いだ。

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