月葬の都

@pappajime

忘れられた記憶が都を蝕む。巫女ユナは光と影の運命を紡ぐ。

シーン1

月葬都――それは、現世と月の間に浮かぶ、白銀の霧に包まれた異界の都。石畳は夜露に濡れ、青白い灯籠の火がゆらゆらと揺らめく。静寂に包まれた大路には、今日もまた、死者の行列がゆっくりと進んでいた。

都の中央に位置する月送りの広場では、淡く光を放つ月輪石が静かに鎮座し、その周囲には人々が集まっている。彼らは亡き者の名を胸に刻み、そっと手を合わせた。月の光に照らされながら、彼らの祈りが夜気へと溶けていく。

広場の最奥、月輪石の前に立つのは、一人の少女――月送りの巫女、ユナ。白の衣をまとった彼女の長い黒髪は、月光を受けて銀糸のように輝き、ユナの瞳は、静寂の湖面のように澄んでいる。

「……この世に残された想いよ、月の光に包まれて、安らかに帰りたまえ。」

ユナの声は広場に響き、月輪石の表面にゆらめく光が広がった。すると、その上に淡い光の粒が浮かび上がる。それは、生前の記憶を抱えた死者の魂たち。名残惜しげに揺らめきながら、やがて月へと導かれていく。

ユナは一つひとつの魂に寄り添い、静かに言葉を紡ぐ。

生前の記憶、残された想い、別れの言葉――それらを織り込むように、彼女は祈りを込める。魂が迷わぬよう、月の道へと優しく送り出す。その姿は静謐な舞のようであり、広場の人々は彼女の祈りに心を揺らされた。

儀式の途中、ユナはふと胸の奥に微かな痛みを覚えた。眉をひそめながら、その感覚をやり過ごす。何かが揺らぐのを感じるたび、彼女の意識の奥で静かな波紋が広がっていく。

「……あなたの記憶は、私が紡ぎます。どうか、安心して月へお帰りください。」

月送りの儀式は、都の均衡を保つために欠かせないもの。魂が正しく月へ帰らなければ、影が満ち、死者の想いが現世に留まり続けてしまう。ユナはその重責を背負い、今日もまた、数多の魂を月へと送り出していった。

やがて最後の魂が月輪石の光に包まれて消えた。広場に残るのは、祈りの余韻と、月光の下に佇むユナの姿だけ。人々は静かに頭を垂れ、巫女への感謝と、亡き者への別れを胸に、それぞれの道へと帰っていった。

ユナはそっと息を吐き、月輪石に手を添える。

冷たい感触が指先を包み込み、彼女を現実へと引き戻す。ふと瞳に、一瞬だけ迷いの色が浮かんだ。

――私は、本当に魂を月へ帰しているのだろうか?

その疑問は、いつも心の奥底に沈んでいる。だが、巫女の役目が終わることはない。ユナは再び顔を上げ、夜空を仰ぐ。

月は何も語らない。ただ、静かに都を照らしている。

その光の下、ユナは自らの秘密を胸に、明日もまた魂を送り続けるのだった。


シーン2 月送りの儀式が終わった翌朝、月葬都の空には薄い霧が立ちこめ、いつもより重く沈んだ静寂が街を包んでいた。ユナは巫女の館の縁側に座り、朝の光を浴びながら、昨夜の儀式の余韻を胸に感じていた。だが、どこか落ち着かない気配が、都全体に漂っている。

 「……最近、魂の数が増えている気がする。」

 館の下働きである少年・サクが、そっとユナの隣に腰を下ろした。彼はまだ幼いが、死者を見送る都で育ち、魂の気配には人一倍敏感だった。ユナは静かにうなずく。

 「ええ。昨夜も、月輪石の前に現れた魂は例年より多かったわ。」

 サクは不安げに空を見上げる。雲間から差し込む光は弱く、都の大路にもどこか影が濃く落ちているように見えた。

 「それに……最近、影の領域が広がっているって、町の人たちが噂してる。」

 影の領域――それは、月へ帰れず迷った魂たちが集まる、都の外れにある薄暗い場所。普段は結界によって隔てられているが、近頃その境界が曖昧になり、影が都の中へとじわじわと侵食してきているという。

 ユナは立ち上がり、館の庭に目を向けた。そこには、かつては見られなかった黒い靄のようなものが、草花の間を漂っている。彼女はそっと手を伸ばし、その靄に触れようとした。しかし、指先が近づくと、靄はするりと形を変え、すぐに消えてしまう。

 「……やはり、影の領域が広がっている。」

 ユナは静かに呟いた。その声には、巫女としての責任感と、どこか拭いきれぬ不安が滲んでいた。

 その日、都のあちこちで異変が起きていた。市場では、突然冷たい風が吹き抜け、商人たちが思わず身を縮める。路地裏では、子供たちが「黒い人影が見えた」と怯えて泣き出す。神殿の僧侶たちも、影の領域から流れてくる不穏な気配に顔を曇らせていた。

 巫女の館にも、都の長老が訪れた。長い白髪を結い上げた老女は、ユナの前に座ると、深いため息をついた。

 「ユナよ、影の領域の異変、そなたも感じておるな?」

 ユナは静かに頷いた。

 「はい。魂の数も増え、影の気配も強まっています。何か、都の均衡が崩れ始めているような……。」

 長老は目を細め、遠い昔を思い出すように語り始めた。

 「かつて、影の領域が都を覆い尽くしかけたことがあった。その時も、月送りの巫女が魂を導くことで、均衡を保ってきたのじゃ。しかし、今の影の広がり方は、あの時とは違う。まるで、何かが都を覆い尽くそうとしているようじゃ。」

 ユナは胸の奥に不安を覚えながらも、巫女としての責務を思い出す。

 「私にできることがあれば、何でもします。」

 長老はしばし黙考し、やがて静かに言った。

 「そなたの役目は、魂を正しく月へ送り出すこと。それ以上のことに首を突っ込むのは危険じゃ。だが……都の均衡が崩れれば、いずれ儀式も成り立たなくなる。慎重に動くのじゃぞ。」

 その夜、ユナは再び月輪石の前に立った。だが、いつものように儀式を始めようとすると、石の周囲に淡い黒い影が揺らめいているのに気づく。魂たちの光と影が交錯し、まるで何かが彼女に語りかけているようだった。

 「……誰?」

 ユナがそっと問いかけると、影の中からかすかな声が響いた。

 ――ここは、どこ……? 帰れない……。

 その声は、確かに迷える魂のものだった。ユナは胸を締めつけられる思いで、影の方へと歩み寄る。しかし、影はすぐに消え、広場には再び静寂だけが残った。

 月葬都は、今まさに変わり始めていた。影の領域が静かに、しかし確実に都を侵食し始めている。ユナはその異変の只中で、巫女として、そして一人の少女として、何をすべきかを考え始めるのだった。

 夜の帳が下りる頃、都の片隅で再び黒い靄が揺らめく。そこには、まだ名も知らぬ、帰れぬ魂たちの囁きが満ちていた――。


シーン3

夜の帳が都を覆い、月葬都の大路には静寂が広がっていた。儀式を終えたユナは、巫女の館の奥で瞑想をしていた。しかし、胸の奥に沈んだ不安の欠片が、じっとりと意識の底に張り付いて離れない。

影の領域の異変――それは、ただの偶然ではない。何かが都の奥底から、静かにうねり、広がっている。

その夜、ユナはふと、胸の奥に冷たい気配を感じて目を開けた。障子の隙間から、黒い靄がゆっくりと忍び込んでくる。まるで手招きするかのように、静かで、確かにそこに存在するものだった。

彼女は立ち上がり、足音もなく庭へ出た。月光が草花の影を揺らし、その隙間に異質な気配が溶け込んでいる。風が止まり、夜の静けさが異様なほど濃密に感じられる。

庭の隅――ユナの視線が、淡い人影を捉えた。

それはうずくまり、揺らめきながら存在していた。輪郭は曖昧で、霧が人の形を取っているようにも見える。

ユナは慎重に歩み寄り、そっと声をかけた。

「……あなたは、迷える魂なの?」

影は、一瞬だけユナの声に反応したかのように揺れた。だが、すぐに沈黙し、ただ地面を見つめている。その佇まいには、言葉にできぬ悲しみと孤独が滲んでいた。

「ここは、月葬都。魂は月へ帰る場所。どうして、ここに留まっているの?」

ユナの問いかけに、影の魂はかすかに身を震わせ、低く呟いた。

「……帰れない……記憶が……わからない……。」

その声は、風に溶けるようにかすれ、しかしユナの心に深く響いた。彼女は静かに膝をつき、影と同じ目線で語りかける。

「あなたの記憶、私が紡ぎましょう。どうか、思い出せることがあれば、教えてください。」

影の魂は沈黙し、そのまましばらく動かなかった。しかし、やがて、途切れ途切れの言葉がこぼれ始める。

「……暗い……冷たい……誰かが、呼んでいる……でも、遠い……。私は……私は……」

その言葉は断片的で、まるで壊れかけた織物のようだった。ユナはひとつひとつを丁寧に受け止め、心の中で繋ぎ合わせようとする。しかし、影の魂の記憶は深い霧に覆われ、核心に触れることができない。

「あなたの名は? 生前、何を望んでいたの?」

だが、魂は首を振るようにして、再び沈黙に包まれる。

「……わからない。名も、想いも、すべて……影の中に消えた。」

ユナは、その言葉に胸を締めつけられる思いがした。魂が月へ帰れない理由――それは、記憶を失い、自らの存在すら見失ってしまったからなのかもしれない。

彼女はそっと手を伸ばし、影の肩に触れようとする。だが、その指先は何も掴めず、冷たい空気だけがすり抜けていった。

「あなたの記憶が戻るまで、私がここにいます。どうか、ひとりで苦しまないで。」

その言葉に、影の魂はかすかに光を帯びた。まるで、僅かな希望の灯火が揺らめいたかのように。

しかし――次の瞬間。

庭の隅に黒い影が渦巻き、魂は吸い込まれるように消えた。

ユナは慌てて手を伸ばすが、何も掴むことはできない。

「待って……!」

彼女の声は夜空へと虚しく響き、やがて静寂が戻る。

ただ月光だけが、淡く地面を照らしている。

ユナはその場に膝をつき、しばらく動けなかった。魂が残した「帰れない」「記憶がわからない」という言葉が、彼女の胸の奥に深く突き刺さる。

送り出した魂たちも、もしかすると同じように迷い、影の領域に囚われているのではないか――

そんな疑念が、彼女の心を揺らした。

やがてユナは立ち上がり、夜空を仰ぐ。

月は変わらず都を見下ろしていた。しかし、その光の中には、今夜はどこか冷たさが混じっているような気がした。

「……私は、もっと魂たちの声を聞かなくてはならない。」

ユナはそう決意し、館へと戻る。

だが、その背後で、庭の隅に残った黒い靄が、再びゆらりと揺れた――

それは、影の領域からの新たな呼び声の始まりだった。

ユナはまだ知らない。

自分自身の過去と、影の魂たちの記憶が、やがてひとつに繋がっていくことを――。


シーン4

 翌朝、月葬都の空はどこか重苦しく、遠くの山並みさえ霞んで見える。ユナは昨夜の出来事を胸に秘めたまま、巫女の館を後にした。館の門を出ると、すでに都の長――白髪を結い上げ、深い皺の刻まれた顔の老女が、使いの者と共に待っていた。彼女の名はカグヤ。月葬都の歴史を知る、最も古い長老である。

 「ユナ、少し話がしたい。」

 カグヤは静かに言い、ユナを館の裏手にある小さな庭園へと導いた。そこは竹と苔に覆われ、静寂が満ちている。二人は並んで腰を下ろすと、カグヤは深い溜息をついた。

 「昨夜、また影の領域が広がった。都の北端では、すでに結界が揺らぎ始めている。」

 ユナは静かに頷く。彼女自身も、影の気配が都のあちこちに染み出しているのを感じていた。

 「……儀式を重ねても、迷う魂が減りません。むしろ、影に引き寄せられるように集まっている気がします。」

 カグヤはしばし黙し、やがて低い声で語り始めた。

 「昔、都がまだ若かった頃にも、同じような異変があった。あの時は、巫女たちが力を合わせて影を封じ、均衡を保ったものじゃ。しかし、今は何かが違う。影の領域が自ら意思を持ち、都そのものを侵食しようとしているように思える。」

 ユナは、昨夜出会った「語りかける魂」のことを思い出す。

 「影の中に、帰れない魂がいるようです。記憶を失い、自分が誰かも分からずに、ただ苦しんでいる……。」

 カグヤはユナの顔をじっと見つめる。その眼差しには、長い年月を生きてきた者だけが持つ、重い覚悟と優しさが宿っていた。

 「ユナ、そなたは巫女として多くの魂を月へ送り出してきた。しかし、影の領域に関わるのは危険だ。あれは、ただの迷いではない。過去の巫女の中にも、影に囚われて帰ってこなかった者がいる。」

 ユナは唇を噛みしめる。

 「でも、放っておけません。あの魂たちは、私たちの儀式だけでは救われない。何か、もっと根本的な原因があるはずです。」

 カグヤはしばし黙考し、やがて静かに首を振った。

 「……都の均衡を守るのが巫女の務め。しかし、影の領域は巫女の力だけではどうにもならぬこともある。そなたには、まだ知らぬことが多い。無理に踏み込むな。」

 その言葉には、警告と同時に、どこか哀しみが滲んでいた。ユナは、カグヤが何かを隠していることを感じ取る。

 「長……私に、何か隠していることがあるのですか?」

 カグヤは目を伏せ、しばらく沈黙したまま苔むした石を見つめていた。やがて、重い口を開く。

 「……昔、月送りを拒んだ巫女がいた。その巫女は、影の領域に囚われ、今も帰ってこぬ。都の記録には残されていないが、私だけは覚えている。」

 ユナは息を呑む。影の領域と巫女の関係――それは、彼女がこれまで知らなかった事実だった。

 「なぜ、その巫女は月送りを拒んだのですか?」

 カグヤは首を振る。

 「理由は分からぬ。ただ、彼女が消えてから、都の均衡は一時的に保たれたものの、影の領域は消えなかった。それ以来、巫女たちは影に近づくことを固く禁じられている。」

 ユナは胸の内に、言い知れぬ不安を抱える。自分が見送ってきた魂の中にも、影に囚われている者がいるのではないか。もし、巫女自身が影に囚われることがあるのなら――。

 「私は……どうすればいいのでしょう?」

 カグヤはユナの手をそっと握った。

 「そなたは優しすぎる。だが、今は都の均衡を守ることだけを考えよ。影の領域には近づくな。それが、都のためでもあり、そなた自身のためでもある。」

 ユナは静かに頷いた。しかし、心の奥では決意が芽生えていた。影の領域に囚われた魂たちを救うためには、真実を知るしかない。たとえ、どんな危険が待ち受けていようとも――。

 庭園に風が吹き抜け、竹の葉がさやさやと揺れる。その音に紛れて、遠くから微かな囁き声が聞こえた気がした。

 ――帰れない……助けて……

 ユナは顔を上げ、静かに決意を新たにした。影の領域の謎を解き明かすため、彼女は自らの運命に立ち向かう覚悟を固めるのだった。


シーン5

 夜の帳が深く降りる頃、月葬都は静寂に包まれていた。街灯の灯りもまばらに揺れ、石畳の道は冷たい風にさらされている。ユナは巫女の館の一室で、長老カグヤとの対話を反芻していた。影の領域の異変、そしてかつて月送りを拒んだ巫女の話。すべてが彼女の胸に重くのしかかっていた。

 「影の領域には近づくな――それが長老の言葉だった。」

 だが、ユナの心は揺れていた。迷える魂たちの声が、彼女の内側で静かに、しかし確実に響いている。あの夜、庭で出会った「語りかける魂」の切実な声が忘れられなかった。

 「私は、このまま見過ごすことができない。」

 決意を固めたユナは、薄手の白衣を身にまとい、静かに館を出た。月光が彼女の黒髪を銀色に染め上げ、冷たい夜風が頬を撫でる。都の外れ、影の領域へと続く道は、普段は結界に守られ、誰も踏み入れることを許されない場所だった。

 しかし今夜、ユナはその結界の前に立っていた。彼女の胸は高鳴り、手はわずかに震えている。だが、巫女としての使命感がその恐怖を凌駕していた。

 「魂を導く者として、真実を知るために。」

 ユナは深く息を吸い込み、結界の境界に手を伸ばした。指先が触れた瞬間、冷たい波動が全身を駆け抜ける。しかし、彼女の意思は揺るがなかった。結界はゆっくりと波紋のように広がり、やがて薄い霧のように消えていった。

 その先に広がるのは、月葬都とはまるで異なる世界だった。影の領域――そこは薄暗く、空気は重く淀んでいる。地面は黒い土のように見えたが、足元はふわりと宙に浮く感覚があった。周囲には、形の定まらぬ影が漂い、時折、かすかな声が風に乗って聞こえてくる。

 「ここが……影の領域。」

 ユナは小さく呟き、足を踏み出した。影の中には、迷い込んだ魂たちが彷徨っている。彼らは輪郭がぼやけ、時折、苦悶の表情を浮かべているように見えた。ユナはその一人ひとりに目を向けるが、彼らは彼女の存在に気づかず、ただ彷徨い続けている。

 「どうして、こんなにも多くの魂がここに囚われているの?」

 胸に込み上げる切なさを抑えきれず、ユナは歩みを進める。すると、ふと、微かな囁きが耳に届いた。

 ――助けて……帰りたい……

 声はか細く、しかし確かに彼女の心に届く。ユナは声の方へ顔を向けると、薄暗い影の中に一つの人影が浮かび上がった。先日の「語りかける魂」と同じ、輪郭の定まらぬ存在だ。

 「あなたは……また、迷いの魂?」

 ユナが問いかけると、影はゆっくりと頷いた。だが、その瞳は深い闇に閉ざされている。

 「記憶が……戻らない……」

 ユナはそっと手を差し伸べるが、影は触れることのできない霧のようにすり抜けてしまう。

 「私が、あなたたちの記憶を紡ぎ、月へ帰る道を示す。」

 そう誓いながら、ユナは影の領域の奥へと歩みを進めた。だが、歩くたびに周囲の影は濃くなり、冷たい風が彼女の体を包み込む。時折、囁き声が増え、まるで影そのものが彼女に語りかけているかのようだった。

 「巫女も……帰れない……」

 その言葉が、風に乗って耳元で囁かれた。ユナは立ち止まり、振り返るが、そこには誰もいない。ただ、影が揺れているだけだった。

 胸に謎めいた不安が広がる。自分自身もまた、影の領域と深く関わっているのかもしれない――そんな予感が、彼女の心を締めつけた。

 それでも、ユナは前へ進む。影の世界の奥底に、迷える魂たちの真実が眠っていると信じて。

 月の光は遠く、影の領域は深く広がっていた。そこに踏み込んだ巫女は、これまで誰も知らなかった秘密と対峙することになるのだった。


シーン6

 影の領域は、月葬都の静謐とはまるで異なる世界だった。空は常に薄暗く、どこからともなく冷たい風が吹き抜ける。ユナは足元の感覚が曖昧なまま、まるで夢の中を歩くようにして、影の奥へと進んでいった。周囲には形の定まらない影が無数に漂い、時折、誰かの記憶の断片がさざ波のように浮かんでは消えていく。

 「ここは……本当に、魂たちが帰れなくなった場所……。」

 ユナは立ち止まり、目を閉じて耳を澄ませる。すると、遠くからかすかな囁き声が聞こえてきた。それは幾重にも重なり合い、悲しみや戸惑い、怒りや諦めといった様々な感情が混じっている。

 ――どうして、帰れないの……

 ――私の名前を、誰も呼んでくれない……

 ――忘れられたくない……

 ――巫女は、私たちを救ってくれるのか……

 ユナは胸が締めつけられる思いで、その声のひとつひとつに耳を傾けた。影の魂たちは、皆が何かを求めている。だが、その願いは形を持たず、ただ闇の中で彷徨い続けている。

 「私は……あなたたちを、月へ帰すためにここへ来たの。」

 ユナが静かに語りかけると、影の一つがふわりと近づいてきた。その影は、どこか人の面影を残しているが、顔はぼやけていて判然としない。影はユナの前で立ち止まり、かすれた声で囁いた。

 「巫女……あなたも、帰れないの?」

 その言葉に、ユナの心臓が一瞬止まる。彼女は自分が抱えている秘密――「自分自身の魂が月へ帰れない」という事実を、誰にも明かしたことがなかった。だが、影の魂はまるでそれを見透かすかのように、さらに言葉を重ねる。

 「あなたの中にも、影がある。忘れたい記憶がある。だから、ここへ来たのでしょう?」

 ユナは思わず後ずさった。影の中の囁きは、彼女の心の奥底を鋭く抉る。自分が送り出してきた魂たちの中に、救えなかった者がいるのではないか――そんな罪悪感が、胸の奥で疼き始める。

 「私は……私は、みんなを救いたいだけ。」

 そう言いながらも、ユナの声は震えていた。影の魂は、彼女の言葉に応えるように、さらに近づいてくる。

 「本当に? あなたは、私たちの記憶を紡げる? それとも、忘れ去るだけ?」

 ユナは目を閉じ、深く息を吸い込んだ。自分が何のためにここへ来たのか――その意味を、今一度胸に問いかける。

 「私は、あなたたちの記憶を紡ぎたい。たとえ、それがどれほど苦しいものであっても。」

 その言葉に、影の魂はしばし沈黙した。やがて、かすかな光が影の奥から滲み出し、ユナの周囲に淡い輝きが広がる。影たちはその光に引き寄せられるように集まり、ひとつ、またひとつと、囁き声を重ねていった。

 ――巫女も、帰れない……

 ――でも、あなたなら……

 ――私たちの記憶を、つないで……

 ユナはその声に導かれるように、影の領域のさらに奥へと足を踏み入れる。彼女の中で、何かが静かに目覚め始めていた。自分自身の過去、忘れたい記憶、そして巫女としての運命――それらすべてが、影の中で交錯し始めていた。

 やがて、ユナの前に一つの影が現れる。その影は他のものよりも濃く、どこか懐かしさを感じさせる気配を纏っていた。影はユナに近づき、低く囁く。

 「――あなたも、影の巫女……?」

 その言葉は、ユナの心に深く突き刺さった。自分が本当に何者なのか、なぜ魂を月へ送り続けているのか――その答えを求めて、ユナは影の領域の奥へと進んでいく。

 影の中の囁きは、彼女の運命を大きく揺るがす予兆となって、静かに響き続けていた。


シーン7

 影の領域の奥深く、ユナは足を止めた。空間はどこまでも薄暗く、時折、遠くで誰かの泣き声や叫び声が木霊している。月葬都の静謐な夜とは違い、ここでは時の流れさえ曖昧で、現実と幻の境界が溶け合っていた。

 ユナの周囲には、形の定まらぬ影が無数に漂っていた。その一つひとつが、帰れぬ魂――かつて月へ帰ることを果たせなかった者たちの成れの果てである。彼らは自分が誰であったのか、なぜここにいるのかさえ思い出せず、ただ苦しみと後悔だけを抱えて彷徨っている。

 「あなたたちの記憶を、私が紡ぎます……」

 ユナは静かに語りかけ、影の一つにそっと手を伸ばした。すると、影は淡い光を帯び、ユナの手の中で震え始める。彼女の意識の奥に、誰かの記憶が流れ込んでくる――

 ――幼い少女が母の手を引き、春の野を駆けている。

 ――老いた男が、家族に看取られながら静かに目を閉じる。

 ――戦で命を落とした若者が、最後に見た夜空の月。

 それは、魂たちが生前に抱えていた想いの断片だった。愛する人への未練、果たせなかった約束、消えゆくことへの恐怖――それぞれの影が、強い感情を抱えたまま、この領域に囚われているのだ。

 ユナは次々と影に触れ、記憶の断片を受け取っていく。彼女の心には、魂たちの痛みや悲しみが重く積み重なっていった。だが、その中に、どこか既視感のある記憶が混じっていることに気づく。

 ――白い衣を纏った巫女が、影の中で泣いている。

 ――「私は帰れない……」と呟きながら、誰かを探し続けている。

 ――その巫女の顔は、どこかユナ自身に似ている。

 ユナははっと息を呑んだ。影の中に、自分と深く関わりのある魂がいる――そんな確信が胸に浮かぶ。

 「あなたは……誰?」

 ユナが問いかけると、一つの影が彼女の前に現れた。その影は他のものよりも濃く、形もはっきりしている。影はゆっくりとユナに近づき、低い声で囁いた。

 「……巫女よ。なぜ、私たちを見捨てたの?」

 その声には、恨みと悲しみ、そして深い孤独が滲んでいた。ユナは戸惑いながらも、影の目を真っ直ぐに見つめる。

 「私は……あなたたちを見捨てたつもりはありません。ただ、月へ帰る道を示すことしかできなかった……」

 影は小さく首を振り、さらに言葉を重ねる。

 「私たちは、記憶を失い、想いを抱えたまま、ここに囚われている。月送りの儀式だけでは、私たちは救われない。あなたは、それを分かっているはずだ。」

 ユナの心に、痛みが走る。自分が行ってきた儀式が、すべての魂を救ってきたわけではないという事実――それが、彼女の胸を締めつけた。

 「私は……どうすれば、あなたたちを救えるの?」

 影はしばし沈黙し、やがて静かに答えた。

 「私たちの記憶を、もう一度紡いでほしい。忘れ去られた想いを、あなたの中で織り直してほしい。それができれば、きっと……」

 その言葉が途切れた瞬間、影の領域全体が微かに震えた。遠くで、また別の魂の叫びが響く。

 ユナは影の手をしっかりと握り、決意を新たにした。

 「必ず、あなたたちの記憶を紡ぎます。月へ帰る道を、もう一度探しましょう。」

 その瞬間、影の中に一筋の光が差し込んだ。魂たちの囁きが、少しだけ優しいものに変わる。ユナはその光を頼りに、さらに影の奥深くへと歩みを進めるのだった。

 ――その先に、自分自身の過去と、影の巫女の秘密が待ち受けているとは知らずに。


シーン8

影の領域で魂たちの記憶に触れたユナは、巫女としての自分の役割に疑念を抱き始めていた。月送りの儀式だけでは救えない魂がいる――その事実が、彼女の心に重くのしかかる。

影の中で出会った、**「巫女によく似た影」**の記憶が胸に刺さったまま離れない。その姿は、まるで彼女自身を映し出すかのようだった。

「私は、本当に魂たちを救えているのだろうか……?」

眠れぬまま、ユナは巫女の館の書庫へと足を運んだ。そこには、月葬都の歴史や儀式に関する古文書が静かに眠っている。薄く灯りをかざし、埃をかぶった巻物や書板を一つひとつ丁寧に開いていく。

夜更けの静寂の中、紙をめくる音だけが響く。

やがて、ユナの目に一冊の古びた帳面が留まった。表紙には**「影送り秘記」**とだけ記されている。彼女は慎重にページをめくった。そこには、過去の巫女たちが影の領域とどのように向き合ってきたのかが、断片的な記録として残されていた。

――「影の領域に囚われし魂、月送りの儀式にて救われず。

ある巫女、影の魂と対話し、月送りを拒む。

その日より、都の均衡揺らぐ。」――

ユナは息を呑む。儀式を拒んだ巫女――それは、長老カグヤが語った伝説の巫女に違いない。

さらにページをめくると、影の領域が広がった時期と、巫女の失踪が重なっていることが記されていた。

――「巫女、影の記憶を紡ぎし時、己の存在もまた影に溶けゆく。

月へ帰れぬ者、都に災いをもたらす。」――

ユナの心にざわめきが広がる。

影に囚われた魂たちの中には、**「月へ帰れない者」**がいる。そして、その存在が都の均衡を乱し、影の領域を拡大させているのだ。

「月へ帰れない者……それは、私自身も含まれているのかもしれない。」

ユナは、幼い頃から抱えていた記憶の空白を思い出す。自分がいつから巫女として生きてきたのか、なぜ魂を送り続けているのか――その始まりが、どうしても思い出せない。

ページの隅には、さらに意味深な記述があった。

――「影の巫女、己の記憶を紡げず。

月送りの法則、ここに乱れる。

新たな巫女現るまで、影の領域は消えず。」――

ユナの手が震える。

もし自分が**「影の巫女」**だとしたら、都の均衡を保つどころか、むしろ影の領域を拡大させてしまっているのではないか――そんな疑念が胸を締めつける。

そのとき、書庫の奥でふと気配を感じた。

振り向くと、薄暗い影が一瞬だけ揺らいだ。

ユナは思わず立ち上がり、灯りを高く掲げて周囲を見渡す。しかし、そこには何もいない。ただ、古文書のページが微かに風に揺れているだけだった。

「私は……何者なの……?」

ユナは帳面を胸に抱きしめ、静かに目を閉じた。

影の領域の謎、月へ帰れない魂の存在、そして自分自身の正体――すべてが、ひとつの糸で繋がっている気がした。

夜明け前の静寂の中、ユナは決意を新たにする。

影の領域の真実を知り、月へ帰れない魂たちを救うために、さらに深く自らの過去と向き合う覚悟を固めるのだった。

その決意の先に、都の運命を揺るがす新たな真実が待ち受けていることを、ユナはまだ知らない――。


シーン9

 夜明け前の月葬都は、まだ薄闇に包まれていた。ユナは書庫で得た「影の巫女」の記述を胸に、心の奥に渦巻く不安と疑念を抱えたまま館を出た。影の領域で出会った魂たちの声、古文書に記された「月へ帰れない者」の存在――そのすべてが、彼女自身の記憶の空白と奇妙に響き合っていた。

 「私は……本当に巫女なのだろうか?」

 そんな思いを抱えながら、ユナは都の外れにある「記憶の織物師」の庵を訪れた。織物師は、魂や人の記憶を糸のように紡ぎ、織り上げることで真実を映し出すとされる、都でも稀有な存在だ。その庵は古びた竹林の奥、朝露に濡れた苔むす石畳の先にひっそりと佇んでいた。

 庵の戸を叩くと、柔らかな糸の香りとともに、白髪の老女が現れた。彼女の名は「ツヅリ」。年齢を感じさせぬ澄んだ瞳で、ユナをじっと見つめる。

 「……巫女よ、今宵は何を紡ぎに来たのかい?」

 ユナは深く頭を下げ、己の疑念と影の領域で見たもの、古文書で知った「影の巫女」の話をすべて語った。ツヅリは黙って頷き、静かに織機の前に座ると、色とりどりの糸を指先で撫でた。

 「人の記憶は織物のようなもの。一本でも乱れれば、全体が歪む。巫女の記憶もまた、例外ではない。」

 ツヅリはそう言うと、ユナの手をそっと取り、織機の前に座らせた。ユナの指先に、温かな糸の感触が伝わる。

 「目を閉じて、心の奥に眠る記憶を思い出してごらん。」

 ユナはゆっくりと目を閉じ、深い呼吸を繰り返した。すると、意識の底から、断片的な映像が浮かび上がる――

 ――月光に照らされた古い神殿。

 ――白い衣を纏った自分が、誰かの名を呼び続けている。

 ――影の中で、もう一人の自分が泣いている。

 ツヅリは静かに糸を織り進めながら、ユナの記憶を言葉にしていく。

 「巫女の中には、影を恐れず、影の記憶を紡ごうとした者がいた。だが、その者は月送りの法則を揺るがし、都の均衡を崩した。……巫女が巫女でなくなる時、影の領域は拡大し、魂は帰れなくなる。」

 ユナの心に、冷たい波紋が広がる。

 「私は……私の記憶は、本当に私のものなのですか?」

 ツヅリは微笑み、織物の一部をユナに見せた。そこには、白い衣の巫女と、影の中で泣く少女が織り込まれている。

 「記憶は時に、他者の想いと混じり合う。巫女として生きる者は、魂たちの記憶を紡ぎながら、自分自身の記憶もまた、影に染まることがある。」

 ユナはその言葉に、深い孤独と同時に、奇妙な安堵を覚えた。自分の記憶が曖昧なのは、魂たちの痛みや悲しみを受け入れてきた証なのかもしれない。

 「私は……どうすれば、魂たちを本当に救えるのでしょう?」

 ツヅリはそっとユナの肩に手を置いた。

 「答えは、影の奥にある。巫女としての使命を超え、己の記憶と向き合うこと。それができたとき、影に囚われた魂もまた、月へ帰る道が開かれるだろう。」

 庵の外では、朝日が竹林を金色に染め始めていた。ユナは深く礼をし、ツヅリの言葉を胸に刻む。

 「……ありがとうございます。私は、影の奥へ進みます。」

 ツヅリは静かに微笑み、ユナの背中を見送った。

 「忘れるな。記憶を紡ぐことは、痛みを受け入れること。だが、その先にこそ、真の救いがある。」

 ユナは再び影の領域へと向かう決意を固める。その胸には、自分自身の記憶と、魂たちの想いを紡ぐ覚悟が、確かに芽生えていた。

 ――影の奥に眠る真実が、いよいよ明かされようとしていた。


シーン10

 竹林を抜け、朝焼けに染まる都の外れから、ユナは再び影の領域へと足を踏み入れた。記憶の織物師ツヅリの言葉が胸に残る。「己の記憶と向き合うこと――それが、魂たちを救う道」。その意味を確かめるため、ユナは影の奥深くへと進む決意を新たにしていた。

 影の領域は以前よりも濃く、重く、まるで都全体を飲み込もうとするかのように広がっていた。足を踏み入れるたび、ユナの周囲には無数の魂の囁きが渦巻く。だが彼女は、もはや怯えず、その一つ一つに耳を傾けながら歩を進めた。

 やがて、影の奥に奇妙な気配を感じる。そこは、他の場所よりもさらに闇が深く、空間そのものが歪んでいるようだった。ユナが立ち止まると、足元に淡い光の糸が現れ、彼女の足首に絡みつく。ツヅリの織物の糸だ――それは、記憶の道しるべとなって、ユナを導いていた。

 「……ここが、過去の巫女の記憶に繋がる場所……?」

 ユナは糸を辿り、さらに奥へ進む。すると、闇の中に一つの影が現れた。白い衣を纏い、長い髪を垂らした少女――かつて月送りを拒んだとされる、伝説の巫女だった。彼女は静かに微笑み、ユナに手を差し伸べる。

 「あなたも、私と同じ道を選ぶの……?」

 その声は、どこか懐かしく、同時に胸を締めつける哀しみを帯びていた。ユナは思わずその手を取り、影の巫女の記憶の中へと引き込まれていく。

 ――そこは、遥か昔の月葬都。

 ――巫女は、迷える魂たちの声をすべて受け止め、彼らの記憶を紡いでいた。

 ――だが、魂たちの痛みや未練はあまりにも深く、巫女自身の心を蝕んでいった。

 ――やがて巫女は、自らの存在が魂たちの影となり、月へ帰れなくなることに気づく。

 「私は、魂たちの痛みを知りすぎた。彼らを救いたいと願ったが、私自身が影になってしまったの。」

 影の巫女の声が、ユナの心に響く。彼女は、魂たちを救うために儀式を拒み、影の領域に留まることを選んだのだった。その選択が、都の均衡を大きく揺るがせた。

 「あなたは、どうするの? 魂たちの記憶を紡ぎ続けるの? それとも、月送りの法則に従うの?」

 ユナは、影の巫女の問いに答えられずにいた。自分自身もまた、魂たちの痛みや悲しみを受け入れ、その重さに押しつぶされそうになっていたからだ。

 「私は……私は、まだ答えが見つかりません。でも、あなたの記憶を知りたい。なぜ、月送りを拒んだのか――その理由を。」

 影の巫女は静かに頷き、ユナの手を引いてさらに深い記憶の中へと誘う。

 ――月送りを拒んだ夜、巫女は都の長老たちに問うた。「魂たちの苦しみを無理に消し去ることが、本当に救いなのか」と。

 ――長老たちは「儀式こそが都の均衡」と答えたが、巫女は納得できなかった。

 ――彼女は、魂たちの記憶を消さずに抱きしめ、影の領域に残ることを選んだ。

 「私は、魂たちの痛みを忘れさせたくなかった。たとえ影となっても、彼らの想いをこの都に残したかったの。」

 ユナはその言葉に、胸の奥が熱くなるのを感じた。自分がこれまで迷い、苦しんできた理由が、影の巫女の想いと重なっていく。

 「私は……あなたの想いも、魂たちの記憶も、すべて紡いでみせます。」

 影の巫女は微笑み、ユナの手をそっと離した。

 「ならば、影の奥へ進みなさい。そこに、あなた自身の答えがある。」

 ユナは深く頷き、影の領域のさらに奥へと歩みを進める。過去の巫女の記憶を胸に、彼女は自分自身の運命と、魂たちの救済の道を探し続けるのだった。

 闇の奥から、かすかな光がユナを導く。その先には、まだ知らぬ真実が待ち受けている――。


シーン11

 影の領域の深部で、ユナは過去の巫女――かつて月送りを拒んだ者――の記憶に包まれていた。闇の中に浮かぶ白い衣の巫女の姿は、どこかユナ自身と重なって見える。彼女の周囲には、無数の魂の影が漂い、そのすべてが巫女の選択を見守っているようだった。

 「なぜ、あなたは月送りを拒んだのですか?」

 ユナが問いかけると、影の巫女は静かに語り始めた。その声は、遠い昔の風のように、優しくも切なく響いた。

 「私は、魂たちの痛みを知りすぎてしまった。月送りの儀式は、魂を安らかに月へ帰すためのもの。でも、儀式のたびに、魂たちの記憶や想いが薄れていくのを感じたの。彼らの悲しみも、愛も、未練も……すべてが消えてしまう。」

 影の巫女の目には、深い哀しみが宿っていた。

 「私は、魂たちの想いを消し去ることが、本当に救いなのか分からなくなった。だから、私は儀式を拒んだ。魂たちの記憶をこの都に残し、影の領域に留まることを選んだの。」

 その選択は、都の均衡を大きく揺るがせた。影の領域は拡大し、月葬都のあちこちに黒い靄が現れるようになった。長老たちは巫女を責め、儀式の再開を強く求めた。しかし、巫女は決して首を縦に振らなかった。

 「私は、魂たちの痛みや未練を受け止めたかった。たとえ自分が影になっても、彼らの記憶を消さずに、この都に残したかったの。」

 ユナは、巫女の想いに胸を締めつけられる思いがした。自分自身もまた、送り出す魂の一つひとつに、消えてほしくない記憶や想いがあることを知っていたからだ。

 「でも、それは……都の均衡を崩すことになったのですね。」

 影の巫女は静かに頷いた。

 「私の選択が、都に影をもたらした。けれど、私は後悔していない。魂たちの記憶が消えずに残ること――それが、私にとっての救いだった。」

 ユナはしばし沈黙した。影の巫女の選択は、正しいとも間違いとも言い切れない。だが、その想いは、確かに魂たちの中に生き続けている。

 「私は……どうすればいいのでしょう。魂たちの記憶を守るべきか、それとも月送りの法則に従うべきか……」

 影の巫女はそっとユナの手を取り、優しく微笑んだ。

 「答えは、あなた自身の中にある。私のように過去に囚われることも、ただ儀式に従うことも、どちらも救いにはならない。あなたが本当に信じる道を見つけて。」

 その言葉に、ユナの心に一筋の光が射し込む。自分自身の選択こそが、魂たちを救う唯一の道なのかもしれない――そう感じた。

 影の巫女は、ユナを静かに見送る。

 「あなたなら、きっと新しい答えを見つけられる。私の想いも、魂たちの記憶も、あなたに託すわ。」

 ユナは深く頭を下げ、影の巫女の想いを胸に刻んだ。影の領域の奥で、彼女は新たな決意を抱き、月葬都と魂たちの未来のために歩み始めるのだった。

 ――その背後で、影の巫女の姿は静かに闇に溶けていった。だが、その想いは、ユナの中で確かに生き続けていた。


シーン12

 影の領域の奥で、ユナは影の巫女の想いを受け止め、静かに目を閉じた。魂たちの記憶を守るか、月送りの法則に従うか――その選択が自分に託されたことを、重く受け止めていた。

 だが、そのとき。闇の奥から、微かな囁きがユナの耳元に届いた。

 ――ユナ……ユナ……

 それは、どこか懐かしく、しかし恐ろしいほどに切実な声だった。ユナは思わず振り返る。すると、影の中にひときわ濃い影が現れ、彼女の名を呼び続けている。

 「あなたは……誰?」

 ユナが問いかけると、影はゆっくりと形を変え、やがて幼い少女の姿をとった。その顔は、どこかユナ自身に似ている。少女は涙を浮かべ、ユナをじっと見つめていた。

 「私は……あなたの記憶。」

 ユナは息を呑んだ。胸の奥に、幼い頃の記憶が一気に溢れ出す。月葬都の片隅で、ひとりぼっちで泣いていた幼い自分。誰にも名前を呼ばれず、ただ影の中で彷徨っていた日々。そこに現れたのは、白い衣の巫女だった。

 ――「あなたも、月へ帰りたいの?」

 ――「……わからない。でも、ここにいたい。」

 そのとき、巫女はユナの手を取り、こう言った。

 ――「あなたは、記憶を紡ぐ巫女にはなれない。けれど、あなたの存在が、きっと新しい道を切り開く。」

 ユナの中で、断片的な記憶が繋がっていく。自分は本来、巫女として生まれた存在ではなかった。むしろ、影の領域に囚われていた「帰れぬ魂」の一人だったのだ。だが、前の巫女が自らの記憶と力を分け与え、ユナを「新たな巫女」としてこの世に送り出した――それが、彼女の始まりだった。

 「私は……記憶を紡ぐ巫女ではない。私は……影の巫女……?」

 少女の姿をした影は、静かに頷いた。

 「あなたは、影の記憶を受け継ぐ者。だから、魂たちの痛みや未練が、あなたの中で消えずに残っている。あなたがいる限り、影の領域は消えない。でも――」

 ユナは、涙が頬を伝うのを感じた。自分が都の均衡を乱す存在であること、その痛みと孤独が胸を締めつける。

 「でも、あなたには選ぶことができる。影の記憶を抱いて、この都に残るのか。それとも、すべてを手放して月へ帰るのか。」

 ユナは静かにうなずいた。自分の正体、自分が「記憶を紡ぐ巫女」ではなく、「影の巫女」として生まれ変わった存在であること――その事実を、ようやく受け入れ始めていた。

 「私は……もう逃げない。魂たちの記憶も、影の痛みも、すべて私が受け止める。」

 影の少女は微笑み、ユナの手をそっと握った。

 「あなたなら、きっと新しい答えを見つけられる。私たちの記憶を、未来へと繋いで。」

 その言葉とともに、影の少女は光の粒となって消えていく。ユナは静かに目を閉じ、胸に手を当てた。自分自身の秘密と向き合い、影の巫女としての運命を受け入れる覚悟が、彼女の中に静かに芽生えていく。

 遠くで、月が静かに輝いていた。ユナはその光を見上げ、これから自分が選ぶべき道を、静かに見据えるのだった。


シーン13

月葬都の空は、これまでにないほど暗く沈んでいた。

影の靄が街路の隅々へと広がり、家々の灯りさえも吸い込むように揺らいでいる。人々は窓を閉ざし、家の中で身を寄せ合いながら、ただ祈ることしかできなかった。

静寂の中に響くのは、影のざわめきと、時折聞こえる誰かの微かな嗚咽。

都市が崩壊する兆しが、今まさに迫っていた。

巫女の館では、長老カグヤが巫女たちと共に、儀式の場に集まっていた。彼女の目には、深い憂いと覚悟が宿っている。

「影の広がりが止まらぬ……。月輪石の光も弱まってきている。」

カグヤの言葉に、巫女たちは沈黙する。館の外では、街のあちこちから悲鳴や祈りの声がかすかに漏れ聞こえた。

都の中心、月輪石の前に立つユナは、目を閉じて影の気配を感じ取っていた。

「影の領域が……都市全体を飲み込もうとしている。」

冷たい風が広場を駆け抜け、ユナの衣が揺れる。彼女の胸の奥には、影の囁きが流れ込んでくる。

「巫女よ……選べ……」

その囁きは、都の底から湧き上がるように響き、ユナの心を揺らす。

これまで守り続けてきた月送りの儀式は、本当にすべての魂を救うものだったのか――

影の記憶を受け入れることが、都市の均衡を崩すことになるのか――

ユナの中に、選択の時が迫っていた。

その瞬間、月輪石が震えた。

光が脈打ち、影と絡み合いながら、まるで都市の運命を問うように揺らぐ。

「私が……都市を決める鍵になる……?」

ユナは息を呑み、目を見開いた。

都は今、崩壊の淵に立たされている。

その影の中で、彼女の選択が、すべての魂の未来を左右しようとしていた。

夜空には、雲間からわずかに月が覗いている。

その光は、まだ消えていなかった――。


シーン14

 影の領域が月葬都を呑み込み始めたその日、巫女の館はかつてない緊張に包まれていた。結界は次々と崩れ、館の外にも黒い靄が忍び寄っている。人々は不安と恐怖の中で祈りを捧げ、館の中では長老カグヤと巫女たちが最後の対策を巡って言い争っていた。

 そこへ、影の領域から戻ったユナが静かに現れた。彼女の顔には、これまでにない決意と、どこか影を帯びた静けさが宿っていた。カグヤはユナの姿を見るなり、厳しい声で問いかける。

 「ユナ、お前は影の領域に足を踏み入れたな。何を見てきた?」

 ユナは真っ直ぐにカグヤを見つめ、静かに答える。

 「私は……影の巫女としての自分の正体を知りました。そして、影に囚われた魂たちの痛みも、月送りの儀式では救えない記憶も、すべて受け止める覚悟を決めました。」

 館の中に緊張が走る。カグヤは一歩ユナに近づき、低く重い声で告げる。

 「都の均衡を守るためには、儀式を続け、魂たちを月へ送り出すしかない。それが唯一の道だ。影の記憶を抱えたままでは、都も魂も救われぬ。お前は、都のために何を選ぶつもりだ?」

 ユナはしばし沈黙し、やがて静かに口を開いた。

 「私は……魂たちの記憶を消し去ることだけが救いだとは思いません。影の記憶をも受け入れ、魂の痛みや未練も抱きしめて、都の未来を紡ぎたい。たとえ、それが新しい苦しみを生むとしても、私は魂たちの声を無視できません。」

 カグヤは顔をしかめ、声を荒げた。

 「それは、都をさらなる混乱に導く危険な道だ! 過去にも、影の巫女が同じ選択をし、都に災いをもたらしたことを忘れたのか!」

 ユナは、影の巫女の記憶を思い出す。彼女は自分の選択が都の崩壊を招いたことを悔いてはいなかった。ただ、魂たちの想いを残したいと願っただけだった。

 「私は先代の巫女の想いも、都の人々の祈りも、すべて受け止めて進みます。私が選ぶのは、魂たちの記憶を消さずに未来へ繋ぐ道です。」

 館の中に、重苦しい沈黙が流れる。カグヤは深く息を吐き、目を閉じた。

 「……ならば、ユナ。お前が都の運命を背負う覚悟があるのか、今ここで示してみせよ。」

 ユナは静かに頷き、館の中央に進み出る。その姿は、これまでのどの巫女よりも強く、そして儚げだった。

 「私は、影の記憶も魂の痛みも、すべてを抱いて都を救います。私自身が、その鍵となる覚悟を持っています。」

 その言葉に、館の巫女たちも息を呑み、カグヤはしばしユナを見つめ続けた。やがて、老いた長の目に、かすかな涙が浮かぶ。

 「……ならば、行け。お前の選択が都の未来を決める。その責任を、決して忘れるな。」

 ユナは深く頭を下げ、館を後にした。外には、影の靄が静かに広がっている。都の運命を背負う覚悟を胸に、ユナは月輪石のもとへと向かった。

 ――その背に、館の人々の祈りと、魂たちの記憶が重くのしかかっていた。


シーン15

 月葬都の空は、影の靄に覆われてほとんど光を失っていた。ユナは館を出て、月輪石の前に立つ。都の中心に鎮座するこの石は、かつて魂たちを月へ送り出すための祈りの場であり、今や影の領域と現世の境界が交わる場所となっていた。

 ユナは静かに目を閉じ、心の奥底に意識を沈めていく。影の巫女としての自分、魂たちの痛み、都の人々の祈り――すべてが重なり合い、深い闇の中で渦を巻く。その闇の奥から、再びあの懐かしい声が聞こえた。

 「ユナ……また会えたわね。」

 目を開けると、そこにはかつて月送りを拒んだ巫女――影の巫女が立っていた。彼女の姿は、今やユナ自身の影と重なっているように見える。影の巫女は優しく微笑み、ユナに手を差し伸べた。

 「あなたは、私の記憶を辿ってここまで来た。もう迷うことはない。さあ、影の奥へ――真実を見つけに行きましょう。」

 ユナはその手を取る。二人は闇の中を歩き、やがて記憶の織物のような光景が広がる場所に辿り着いた。そこには、歴代の巫女たちが魂と向き合い、苦悩し、祈り、涙を流してきた記憶が織り込まれていた。

 「私は、魂たちの記憶を守りたかった。でも、それは都の均衡を壊すことになった。あなたは、私の過ちを繰り返すの?」

 影の巫女の声には、迷いと希望が入り混じっていた。ユナは静かに首を振る。

 「私は、あなたの想いも、魂たちの痛みも、都の祈りも、すべて受け止めて新しい道を探します。影をただ消すのではなく、記憶を解き放つ方法がきっとあるはず。」

 その言葉に、影の巫女は目を細め、やがて静かに語り始めた。

 「影を解放するには、魂たちの記憶を否定せず、すべてを受け入れること。痛みも未練も、愛も絶望も、消し去るのではなく、都の歴史として紡ぎ直すこと……。それは、巫女自身が自らの存在を賭けて、魂たちと一つになる覚悟が必要なの。」

 ユナはその意味を噛みしめる。自分が影の巫女として生まれ変わった理由、魂たちの記憶が自分の中に残り続けている理由――すべては、影と光の両方を受け入れるためだったのだ。

 「私が、魂たちの痛みも記憶もすべて受け入れて、都の新しい歴史として織り直す……それが、影を解放する唯一の方法……」

 影の巫女はそっとユナの手を握り、静かに微笑んだ。

 「あなたなら、きっとできる。私にはできなかったことを、あなたが成し遂げてくれると信じている。」

 その言葉に、ユナの胸に新たな決意が灯る。自分が都の均衡を揺るがす存在であることも、影の巫女としての運命も、すべて受け入れて進む覚悟ができた。

 「私は、都の過去も未来も、魂たちの記憶も、すべて紡ぎ直します。」

 影の巫女は静かに頷き、ユナの背を押した。

 「さあ、影の領域の核へ。そこに、あなたが解放すべき魂が待っている。」

 ユナは深く息を吸い、月輪石の前で目を開けた。都の空はなお暗く、影の靄が渦巻いている。だが、彼女の心には確かな光が宿っていた。

 ――影を解放する方法を胸に、ユナは最後の戦いへと歩みを進めるのだった。


シーン16

 月輪石の前で新たな決意を胸にしたユナは、都を覆う影の靄の中へと静かに足を踏み出した。空はますます暗く、もはや昼夜の区別もつかない。都の人々は家々に閉じこもり、祈りの声だけがかすかに響いている。ユナはそのすべてを背に受け、影の領域の最深部――「核」へと向かった。

 影の領域の奥へ進むほど、空間は歪み、現実と幻の境界が曖昧になっていく。足元には無数の魂の残滓が漂い、時折、誰かの記憶の断片がユナの心に流れ込んでくる。愛する人を失った悲しみ、約束を果たせなかった悔恨、忘れ去られることへの恐怖――それらが波のように押し寄せ、ユナの胸を締めつける。

 「私は……このすべてを受け入れる。」

 ユナは歩みを止めず、影の奥へと進み続けた。やがて、闇の中心にぽっかりと空いた空間が現れる。そこは、まるで時が止まったような静寂に包まれていた。中央には、ひときわ濃い影が渦を巻いている。

 「ここが……影の領域の核。」

 ユナが静かに呟くと、渦の中心からひとつの魂が姿を現した。その魂は他のものよりも強い存在感を放ち、どこか懐かしさを感じさせる気配を纏っている。ユナはその魂に近づき、そっと呼びかけた。

 「あなたは……誰?」

 魂はしばらく沈黙していたが、やがてゆっくりと口を開いた。

 「私は……かつて巫女だった者。影の領域に囚われ、月へ帰れぬまま、ここに留まり続けている。」

 その声は、どこかユナ自身に似ているようにも感じられた。ユナは胸の奥に熱いものが込み上げるのを感じながら、さらに問いかける。

 「あなたが……影の領域の鍵となる魂?」

 魂は静かに頷いた。

 「私がここにいる限り、影の領域は消えない。私の記憶も、魂たちの痛みも、すべてがこの場所に縛られている。だが、あなたが私を解放できれば――都も、魂たちも、自由になれる。」

 ユナはその言葉を深く受け止めた。自分が影の巫女として生まれ変わった理由、魂たちの記憶を紡ぐ運命――すべては、この魂を解放するためだったのかもしれない。

 「私は、あなたの記憶も、魂たちの痛みも、すべて受け入れます。あなたを、必ず解放します。」

 魂は静かに微笑み、ユナの手を取った。その瞬間、周囲の闇が大きく揺れ、無数の記憶の断片がユナの心に流れ込んでくる。過去の巫女たちの想い、影に囚われた魂たちの叫び、都の人々の祈り――それらすべてが、ユナの中でひとつに織り上げられていく。

 「あなたが私を受け入れることで、都の運命もまた変わるでしょう。」

 魂の声は、どこか安らぎを帯びていた。ユナはその手をしっかりと握りしめ、影の領域の核で、すべての魂の記憶と向き合う覚悟を新たにする。

 「私は、あなたと共に都の未来を紡ぎ直します。」

 影の領域の核で、ユナはついに「鍵となる魂」と出会い、都の運命を変える最後の儀式への道を歩み始めるのだった。

 ――その瞬間、都の空にかすかな光が差し込む。その光は、すべての魂に新たな希望を告げていた。


シーン17

 影の領域の核で、ユナは「鍵となる魂」と向き合っていた。都の外では影の靄がますます濃くなり、家々は闇に沈み、人々の祈りと不安が空気を震わせている。月輪石の淡い光だけが、かろうじて都の中心を照らしていた。ユナは核の中心で、魂の手を握りしめながら、己の胸に重くのしかかる問いと向き合っていた。

 「私は……どうすればいいの?」

 ユナの心の中には、二つの道が浮かび上がっていた。ひとつは、これまでの巫女たちが守ってきた月送りの法則に従い、魂たちの記憶や未練を消し去って月へ送り出す道。もうひとつは、影の巫女が選んだように、魂たちの記憶を都に残し、影の痛みや未練も受け入れて共に生きる道。

 「魂たちの記憶を消せば、都の均衡は保たれる。でも、それは彼らの想いを否定することになる……。記憶を残せば、都は再び影に呑まれるかもしれない。でも、私は……」

 ユナの脳裏に、これまで出会った魂たちの声が蘇る。

 ――「忘れたくない……」

 ――「私の想いを、誰かに伝えたい……」

 ――「帰れないままでも、ここにいたい……」

 彼女はまた、都の人々の祈りも思い出す。

 ――「どうか、都を救ってください……」

 ――「もう、誰も影に呑まれませんように……」

 ユナの心は激しく揺れた。どちらを選んでも、誰かの願いを裏切ることになる。影の巫女の記憶も、長老カグヤの言葉も、すべてが彼女の中で交錯し、答えを出せぬまま時が過ぎていく。

 そのとき、核の魂が静かに語りかけた。

 「ユナ……あなたは、どちらを選んでも間違いではない。大切なのは、あなた自身がどんな未来を望むか。その覚悟が、都の運命を決めるの。」

 ユナは涙をこぼしながら、魂の手を強く握った。

 「私は……私は、魂たちの想いも、都の祈りも、すべてを守りたい。でも、それはきっと叶わない願い……。それでも、私は……」

 彼女は深く息を吸い、心の奥底に問いかける。

 「私は、影の記憶も、魂の痛みも、すべて抱いて生きる道を選びます。たとえ都が苦しみに満ちても、私は誰一人、忘れ去られることのない世界を紡ぎたい。」

 その瞬間、核の魂が優しく微笑んだ。

 「あなたの選択が、新しい歴史を創る。影を受け入れることで、都は変わるだろう。痛みも未練も、喜びも悲しみも――すべてがこの都の記憶となる。」

 ユナは涙を拭い、静かに立ち上がった。都の空に、わずかながら光が差し始める。彼女の決断が、影の領域と都の未来を繋ぐ新たな道となるのだった。

 ――「私は、すべての記憶をこの都に残します。影も光も、未来へ紡ぐために。」

 その言葉とともに、ユナは最後の儀式へと歩みを進める。都の運命を賭けた選択が、いま静かに動き始めていた。


シーン18

 影の領域の核で、ユナは自らの選択を胸に刻み、最後の儀式の準備を始めていた。都の空はなおも暗く、影の靄が街路を覆い尽くしている。月輪石の光は、ユナの決意に呼応するように、わずかに強さを増していた。

 核の魂――かつて月送りを拒み、影の領域に囚われ続けた巫女――は、ユナの前で静かに語り始める。

 「ユナ……あなたは、私の記憶と痛みを受け継いだ存在。影の巫女として、都の歴史を紡ぐために生まれ変わったの。」

 その言葉に、ユナの胸の奥で、今まで断片的だった記憶が一気に繋がっていく。彼女が幼い頃、影の中で泣いていた自分に手を差し伸べてくれた白い衣の巫女――それこそが、目の前の魂であり、かつての自分自身だった。

 「私は……あなたの記憶の継承者?」

 魂は静かに頷く。

 「私は、魂たちの痛みを消すことも、都の均衡を守ることもできなかった。だから、私の記憶を託し、新しい巫女としてあなたをこの世に送り出した。あなたは“影の巫女”として、影の記憶と共に生きる運命を背負っている。」

 ユナの中で、これまでの疑問がすべて答えに変わっていく。なぜ自分は記憶が曖昧だったのか。なぜ魂たちの痛みや未練が、他の巫女よりも深く胸に残り続けていたのか。すべては、彼女が「影の巫女」として生まれ変わったからだった。

 「私は……影の巫女。魂たちの影と記憶を抱き、都の未来を紡ぐ者。」

 その瞬間、ユナの身体の奥から、これまで感じたことのない温かな光が溢れ出す。影の領域の核が震え、都を覆っていた黒い靄がわずかに揺らぐ。魂たちの囁きが、優しい歌声となってユナの耳に届く。

 ――「ありがとう、ユナ……」

 ――「私たちの記憶を、未来へ繋いで……」

 ――「影も光も、あなたと共に……」

 ユナは涙を流しながら、魂たちの声を受け止める。自分が影の巫女であること、その運命を受け入れた今、彼女は初めて本当の意味で魂たちと一つになれたのだと感じた。

 「私は、あなたたちの記憶を、都の新しい歴史として紡ぎ直します。影も光も、すべてを受け入れて。」

 核の魂は、安堵の表情を浮かべ、ユナの手をそっと握る。

 「あなたなら、きっと新しい都を創れる。私の願いも、魂たちの想いも、あなたに託す。」

 その言葉と共に、核の魂は光の粒となってユナの身体に溶けていく。ユナは静かに目を閉じ、すべての記憶と痛みを受け入れた。

 ――その瞬間、都の空に一筋の光が差し込む。影の靄がゆっくりと晴れ、月葬都は新たな夜明けを迎えようとしていた。

 ユナは影の巫女として、都の未来を変える最後の儀式へと歩みを進める。その背には、無数の魂たちの想いと、かつての巫女の祈りが静かに寄り添っていた。


シーン19

 ユナが影の巫女としての真実を受け入れ、核の魂と一つになったその瞬間、月葬都全体に異変が走った。夜明けを知らぬ闇が、都の隅々まで覆い尽くし、家々の窓からは誰も外を覗かなくなった。石畳の道には黒い靄が流れ、神殿の鐘の音さえ、影の中に吸い込まれていく。

 月輪石は冷たく沈黙し、影の息遣いに覆われていた。巫女の館では、長老カグヤや他の巫女たちが必死に祈りを捧げていたが、その声は影の壁に遮られ、都の外へは届かない。人々は家の中で身を寄せ合い、震える手で家族の名を呼び合っていた。

 「……ユナ、どうか……」

 カグヤは涙を浮かべ、月輪石に手を重ねる。都の人々の祈りと不安、魂たちの未練と痛み――それらすべてが、影の領域に引き寄せられていく。空間そのものが歪み、現実と幻の境界が崩れ始めていた。

 その頃、ユナは影の領域の核で、すべての魂の記憶と痛みを受け入れたまま、静かに立ち尽くしていた。彼女の周囲には、無数の魂の囁きが渦巻いている。彼女の身体を中心に、影と光が複雑に絡み合い、やがて都全体を包み込む巨大な渦となっていく。

 ――「ユナ……私たちを、忘れないで……」

 ――「影も、光も、あなたと共に……」

 魂たちの声が、ユナの心に直接流れ込む。その一つひとつが、都の記憶となり、歴史となり、未来への祈りとなっていく。

 外では、影の靄がついに月葬都全体を呑み込んだ。空は完全な闇に閉ざされ、月さえも雲の向こうに隠れてしまう。都の人々は、もはや祈ることしかできなかった。誰もが、世界の終わりを静かに受け入れようとしていた。

 だが、その闇の中心――月輪石の前に、ユナの姿が現れた。彼女は白い衣を纏い、影と光をその身に宿していた。都の人々は、窓越しにその姿を見つめ、最後の希望を彼女に託す。

 ユナは月輪石の前で静かに手を合わせ、深く息を吸い込んだ。彼女の中で、すべての魂の記憶がひとつに織り上げられていく。影の巫女として、そして都の未来を紡ぐ者として、ユナは最後の儀式を始める覚悟を決めた。

 「私は、影も光も、すべての記憶をこの都に残します。どうか、私たちの願いが、未来へと繋がりますように――」

 その声は、影の壁を震わせ、都の隅々まで響き渡った。闇に包まれた月葬都の中で、ユナの祈りだけが静かに、しかし確かに輝き始めていた。

 ――都市の最後の崩壊。その先に、まだ誰も知らぬ新たな夜明けが待っている。


シーン20

 月葬都は、かつてない深い闇に包まれていた。影の靄が都の隅々まで満ち、家々の灯りも、祈りの声も、すべてが黒い波に呑まれていく。人々は窓越しに外を見つめ、ただ静かに、最後の時を待つしかなかった。

 その中心、月輪石の前にユナは立っていた。白い衣の裾が影と光の狭間で揺れ、彼女の背には無数の魂の記憶が寄り添っている。ユナの瞳は、これまでのどの巫女よりも強く、そして優しく輝いていた。

 「私は、この都のすべての記憶を紡ぎます。影も、光も、痛みも、願いも……すべてを未来へ繋げるために。」

 ユナは静かに両手を月輪石の上に重ねた。すると、石の奥底から淡い光が滲み出し、やがて彼女の身体を包み込む。ユナの胸には、影の巫女として受け継いだすべての記憶――魂たちの痛み、未練、愛、絶望、祈り――が溢れていた。

 彼女は目を閉じ、心の奥に語りかける。

 「忘れられたくない想いも、消えない痛みも、すべて私が受け入れる。あなたたちの記憶を、都の新しい歴史として織り直す。」

 その瞬間、月輪石から放たれた光が、都全体に広がった。影の靄は光に触れるたびに震え、やがて無数の魂の姿となって現れる。彼らはユナの周囲を舞い、ひとつひとつが自分の物語を語り始める。

 ――「私は愛する人を残して逝った……」

 ――「約束を果たせなかった悔しさが、今も胸に残る……」

 ――「誰にも名前を呼ばれず、孤独の中で消えていった……」

 ユナはそのすべてを受け止め、糸を紡ぐように記憶を織り上げていく。影の記憶も、光の記憶も、すべてが一つの大きな織物となり、都の空に浮かび上がった。

 「あなたたちの想いは、もう消えない。私が、都が、未来の誰かが、きっと覚えている。」

 魂たちは次第に穏やかな光となり、影の靄が静かに晴れていく。都の人々は窓を開け、空に浮かぶ織物の光景を見上げて涙を流した。誰もが、自分たちの痛みや願いが、都の歴史の一部として受け入れられたことを感じていた。

 ユナの身体は、次第に光と影に溶けていく。だが、彼女は恐れなかった。自分が消えることで、都が新たな均衡を取り戻し、魂たちが安らかに眠れるなら、それが本望だと知っていた。

 「ありがとう、ユナ……」

 「私たちの記憶を、未来へ……」

 魂たちの声が、優しい風となって都を包む。ユナは最後に静かに微笑み、月輪石の光の中へと溶けていった。

 その瞬間、都の空に新たな月が昇る。影と光が調和し、月葬都は静かに新しい夜明けを迎えた。

 ――影の記憶を解き放つ儀式は、都の運命を大きく変えた。痛みも、悲しみも、愛も、すべてが未来へと受け継がれていく。ユナの祈りは、永遠に都の空を照らし続けるのだった。


シーン21

影の領域の核で、ユナはすべての魂の記憶と都市の運命を背負い、最後の選択を迫られていた。

月輪石の前で静かに手を合わせる。影の靄は都を飲み込み、月の光は雲の奥に隠れてしまっている。広場に集まった人々は、ただ息を潜め、ユナの決断を待っていた。

ユナの胸には、ふたつの道が浮かび上がっていた。

ひとつは、巫女としての役目を全うし、影を消し去り、魂たちを月へ帰す道――。

もうひとつは、影を受け入れ、魂たちの痛みも記憶も、都市の歴史として紡ぐ道――。

どちらを選んでも、何かを犠牲にしなければならない。

ユナの脳裏には、これまで出会った魂たちの声が響く。

「忘れられたくない……」

「記憶を消さないで……」

「私はここにいたことを、誰かに伝えたい……」

そして、都の人々の祈りもまた彼女の心に重くのしかかる。

「都を救ってほしい……」

「もう誰も影に呑まれませんように……」

ユナは目を閉じ、深く息を吸い込んだ。

選ばなければならない。

しかし――本当に、どちらかを消さなければならないのだろうか?

その瞬間、影の核に渦巻く魂が、ユナの前に現れる。

それは、かつて月送りを拒み、影の巫女として生きた者だった。

「ユナ……私たちの記憶を、未来へ繋ぐことはできないの?」

ユナはその言葉に息を呑む。

「私は……魂たちの記憶を守りながら、都を救う方法を見つけたい。でも、それは……叶わないの?」

影の巫女は静かに微笑み、ユナの手を取った。

「あなたが選ぶ道が、都市の新しい運命となる。影を排除するのでもなく、ただ受け入れるのでもない……そのどちらでもない、第三の道があるのでは?」

ユナはその言葉に、心の奥で何かが開かれるのを感じた。

「私は、影も光も、消えぬ想いを都に刻む。未来へ繋ぐために。」

その瞬間、月輪石が淡く輝き、影の靄が静かに揺れる。

ユナは、人々の前で静かに告げた。

「私は……影を否定しません。でも、影に囚われることもしません。私は魂たちの記憶を未来へ紡ぎ、都の新しい均衡を築きます。」

広場に沈黙が落ちる。

次の瞬間、月輪石の光が脈打ち、都市全体に広がる。

ユナの決断が、すべての魂の未来を変えようとしていた。

その光の中で、都は新しい時代へと進み始める。


シーン22

影と光が交錯する月葬都――その均衡は、今まさに変わろうとしていた。

広場に漂っていた影の靄は、静かに収縮し、都の隅々へと溶け込んでいく。かつて都市を覆い尽くそうとしていた闇が、今はまるで都と共に呼吸するかのように穏やかに揺れていた。

ユナの選択が、都市の姿を変え始めたのだ。

家々の窓が少しずつ開き、人々がそっと外を覗く。彼らは、広場に立つユナと、月輪石から発せられるかすかな光を見つめていた。

「影が……消えていくのではなく、私たちと共にある……?」

誰かがそう呟くと、街の人々は静かに互いを見つめ、影を恐れることなく、その存在を受け入れ始めた。

影はもはや都市を脅かすものではなくなった。

むしろ、忘れられていた記憶が蘇るように、人々の心の奥で響き始めた。

巫女の館では、長老カグヤが目を閉じ、深く頷いた。

「ユナ……お前が選んだ道が、都に新しい命をもたらしてくれたのだな。」

街の灯が戻り、影と光が共存する都市へと変わっていく。

空にはユナが紡いだ記憶の織物が浮かび、その中に魂たちの痛みや未練、願いが織り込まれていた。

人々はその光景を見上げ、影も光も、すべてが都の歴史の一部として受け入れられたことを実感した。

「これが……都の新しい姿……?」

誰かがそう呟くと、広場のあちこちから、静かな祈りの声が聞こえてきた。

魂たちもまた、空に浮かびながら、穏やかな表情を見せていた。

――「私たちの記憶が、都の一部となった……」

――「もう、誰も忘れられない……」

こうして、月葬都は影と光が調和する新たな時代を迎えた。

ユナの選択がもたらした変化は、都市のすべてに静かに、しかし確かに根付いていくのだった。


シーン23

影と光が調和した月葬都――その中心に、ユナは静かに佇んでいた。

月輪石の前で、彼女はそっと手を重ねる。

都市は変わった。影はもはや恐怖の象徴ではなく、記憶の一部として人々の心に寄り添っている。

しかし、ユナの胸には、ひとつの問いが残っていた。

「私は……これからどうなるの?」

彼女の選択は、都市の均衡を新たな形へと導いた。

だが、その均衡の中に、ユナ自身の居場所はあるのだろうか――。

巫女の館では、長老カグヤが静かに目を閉じ、深く息を吐いた。

「ユナ……お前がこの都に遺してくれたものは、計り知れない。」

ユナは穏やかに微笑み、静かに首を振った。

「私がしたのは、魂たちの想いを受け入れ、都の一部にしただけです。私は……影と光の狭間にいる者。」

その言葉の通り、ユナの身体は徐々に光と影の粒子となり、空気の中に溶けていく。

彼女は都の人々に、魂たちに、そしてカグヤに最後の言葉を贈る。

「どうか、影も光も、すべてを忘れずに歩んでください。私は、あなたたちの記憶の中に生き続けます。」

その瞬間、ユナの姿は完全に消え、月輪石の光と一つになった。

しかし、彼女の祈りと想いは、都の空に浮かぶ記憶の織物となって、永久に人々を見守り続ける。

カグヤは涙を拭い、静かに空を見上げる。

「ユナ……ありがとう。お前は、都の新しい歴史の礎となったのだ。」

こうして、ユナの存在は都市の記憶と人々の心に深く刻まれ、彼女自身は**「影と光の巫女」**として、永遠に都を照らし続ける存在となった。

――ユナの物語は終わり、しかし彼女の祈りは、これからも都の空に響き続ける。


シーン24

ユナが消え、月輪石と一つになってから、月葬都には穏やかな時が流れ始めた。

影と光が調和した都市の中で、人々は日々の営みを取り戻しつつあった。しかし、都の人々は知っていた。

ユナの祈りと記憶が、今も空に浮かぶ織物となって見守っていることを――。

季節が巡り、ある夜。

月輪石の前に、ひとりの少女が静かに立っていた。

彼女はまだ幼く、けれどその瞳にはどこか懐かしい光が宿っている。

長老カグヤがそっと近づき、少女の肩に手を置いた。

「あなたも、何かを感じてここに来たのですね。」

少女は頷き、空に浮かぶ記憶の織物を見上げる。その目には、影と光、そして無数の物語が映っていた。

「私……みんなの声が聞こえる気がするの。」

カグヤは優しく微笑み、少女の手を取る。

「ユナが遺してくれた祈りと記憶は、あなたの中にも受け継がれているのでしょう。これからは、あなたが都の語り部となり、新しい巫女として歩んでいくのです。」

少女はゆっくりと月輪石に手を重ねた。その瞬間、石から淡い光が溢れ、少女の身体を優しく包み込む。

都の人々はその光景を見守り、静かに頭を垂れた。

こうして、月葬都には新たな巫女が誕生した。

彼女はユナの祈りを受け継ぎ、記憶を紡ぐ新たな語り部となる。

都の人々は、影を恐れず、痛みも喜びも分かち合いながら、未来へと歩み始めるのだった。

――ユナの物語は終わり、新たな巫女の物語が静かに始まる。

――都は影と光を紡ぎ続ける。新たな語り部の声が、未来へと静かに広がっていく。

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月葬の都 @pappajime

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