1000字くらいのふしぎな話
千葉朝陽
いちばんあたたかいレシピ
町のはずれに、小さなパン屋があった。
扉を開けると、ふわっとあたたかい匂いが鼻をくすぐる。
木の床は少しきしむけれど、それがまた、心地よかった。
この店をひとりで切り盛りしていたのは、17歳の少女、ノノ。
もともとは、おじいさんと二人でこのパン屋をやっていた。
名は『クロベエ』。ちょっと強面だけど、笑うと目尻がくしゃっと下がる人だった。
ノノは小さなころから、おじいさんのパンづくりを隣で見て育った。
そして、いつも聞かされていた言葉がある。
「パンは、ハグするように焼け」
ノノは最初、それがどういう意味なのか、よくわからなかった。
力をこめすぎると生地が固くなるし、優しすぎると焼きムラができる。
ハグって、一体どのくらいの力なんだろう?
そんな疑問を抱いたまま、ノノは少しずつパンを焼けるようになり、気づけばほとんどの作業を任されるようになっていた。
そして春先のある日。
おじいさんは静かに、パン窯のそばで息を引き取った。
何の前触れもなく、まるで少し休んでいただけのように。
ノノは泣いた。
焼きたてのバターロールの香りのなかで、静かに、声もなく泣いた。
お店は続けた。
やめる理由はなかったし、やめるにはパンの匂いが、あまりに生きていた。
でも、なにかが違った。
朝早くから起きて生地をこねても、窯の前に立っても、ノノのパンは、どこか「味が薄い」と言われるようになった。
昔から通ってくれていたおばあさんが、ぽつりと言った。
「あなたのパン、きれいにできているけれど…なんだか、冷たいの」
ノノは落ち込んだ。
レシピは変えていない。材料も、分量も、温度も、全部きちんと守っている。
でも、思い出した。
「パンは、ハグするように焼け」
ハグ。
そうだ。おじいさんはいつも丸パンの生地をこねるとき、その手がとてもあたたかそうだった。
まるで赤ん坊の背中をなでるように、そっと、ていねいに、でもしっかりと包みこんでいた。
ノノは、もう一度、生地に手をのせた。
時間がかかってもいい。形がいびつでもいい。
「誰かの朝が、あたたかく始まりますように」
そう願いながら、手のひらに思いをこめて、生地を包んだ。
焼き上がった丸パンを、ひとつ手に取る。
つるんとした表面。ほどよい弾力。
ひと口かじると、ほんのり甘くて、やさしくて。
「…ああ、これだ」
ノノは、小さく笑った。
その日から、ノノのパンは、少しだけ味が変わった。
レシピは同じ。でも、お客さんたちはこう言った。
「ここのパン、なんだか…抱きしめたくなるねぇ」
それから何年たっても、ノノのパン屋には、変わらず“ハグの味”が香っていた。
扉を開けるたび、ふわっと包まれるような、あの匂い。
これはきっと、クロベエがノノに残した、いちばんあたたかいレシピ。
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