第2話 ツナグ想い、実る畑
社用車のエンジン音が静かに途切れた。
早朝の山あい。澄んだ空気のなか、鋭く整えられた緑のラインが静かに浮かび上がる。
ここが、アベリアグループ傘下の果樹農園――ノーザンリーフ。
区画ごとに几帳面に引かれた白い境界線。枝ぶりまで管理された果樹。無駄のない動線と、色分けされた作業道具。「農園」というより、最先端のプロダクションスタジオに足を踏み入れたようだった。
冷えた空気が、金属板をなでるみたいに肌を撫でる。
私はガラス張りの温室を背景に、黙々と働くスタッフの動きを見つめた。
小さな掛け声ひとつで全員が同時に動く。そこにあるのは自然の奔放さではなく、「人の意志で制御された自然」。
(この空気……現場を完全にマネジメントしている。)
そう思わせる現場の中心に、ノーザンリーフの農園主――
「今年も、いい実がついたわね。」
稲城さんは、指先でブルーベリーの房をそっと持ち上げる。光沢のあるネイルが濃い青紫の果実に映える。手入れの行き届いた指先が、几帳面な性格と細部への矜持を物語っていた。
理知的な顔立ち、隙のない佇まい。鋭く整えられた眉の下、長い睫毛に縁取られたまっすぐな瞳。どんな状況でも動じないその目は、圃場の隅々までをスキャンする高性能のレンズみたいだ。
薄手の作業ジャケットに防水ブーツ。飾り気はないのに、纏うだけで洗練になる。
――現場に立ち、作物の育ちを肌で感じ、数字と感覚をすり合わせて判断する。
稲城葵さんは、ただの経営者ではない。土地と作物と人をひとつの「生き物」として見つめる、稀有な調整者だ。
私は歩み寄って頭を下げた。
「はじめまして。アベリアグループ営業第四課の蓮見めると申します。本日はよろしくお願いします。」
「こちらこそ。遠いところ、ありがとう。稲城葵です。さっそくご案内するわね。」
葉の間からのぞく青紫の実が、朝日を受けてきらきらと光る。
「この区画は、アベリアさんと共同開発中の“ブルースノー”。糖度と抗酸化成分のバランスがよくて、品種登録も視野に入れているの。」
稲城さんは果実の表面をそっと撫で、言葉を継いだ。
「見た目は地味だけれど、内に秘めたポテンシャルは相当よ。既存品種と比べて平均糖度は一・五度以上高いし、ポリフェノールも安定している。……ここまで育てるのに、本当に時間がかかったわ。」
視線が遠くの区画へ流れる。
「三年前、最初にこの交配株を見つけたとき、正直、ここまでうまくいくとは思っていなかったの。枝は細くて折れやすいし、初年度は結実率も低かった。……でも、不思議とね、この実だけは風味が群を抜いていた。何度も剪定を変えて、土壌を微調整して、夜中にデータを見返して……。諦めなかったのは、この味を“名前のあるもの”にして市場へ届けたかったから。品種登録はもうすぐ。あとは最終テストを越えれば。」
最後のひと房をそっと摘み取り、私に向き直る。
「あなたたちとの共同開発が、ただの“取引”じゃなくて“信頼”に変わる証にもなると思っているわ。“ブルースノー”は、ここで育った“誰か”の物語になるべきだから。」
胸の奥に、すとん、と何かが落ちた。こうして誰かが、時間をかけて、悩んで、育ててきたものを預かるのだ――。
肩書きでは表しきれない想い。数字や契約書には載らないけれど、確かな重さがある。
「……大切なお話をありがとうございます。責任をもって、この価値を届けます。ちゃんと、伝わるように。」
私は深くうなずいた。営業担当として、というより一人の人間としての誓いに近かった。
そのとき、稲城さんの表情にわずかな陰が差した。
「……本当は、今日ひとつ、相談があって来てもらったの。」
「はい。」
「ここ数日、この“ブルースノー”の区画だけ、収穫前の果実がごっそり消えるの。跡形もなく。」
「……盗難の可能性でしょうか。」
「高いと思う。先日、防犯カメラを設置したわ。」
私たちはオフィスで映像を確認した。
映っていたのは夜中の畑に、細身の人物。帽子を深くかぶり、フードを被っている。
「……これ、誰?」
稲城さんが目を細める。
「……新海亮。元研修生よ。昔、うちにいた子。」
「今は。」
「独立している。“しんかいファーム”の名前で活動しているはず。」
私はスマホで検索した。すぐにSNSの出店の投稿が見つかる。
《本日出店!新商品『ブルースカイ・ジャム』登場!》
――商品名が似ている。今なら、間に合う。
ファーマーズマーケットの通り。テントが並ぶなか、目的のブースを見つけた。
《しんかいファーム》
濃い紫のジャムや焼き菓子。試食コーナーに、笑顔で立ち寄る家族連れ。
「こんにちは。少し、お話よろしいですか。」
店番の青年が顔を上げる。日に焼けた肌、素朴な笑顔。
「……はい。何か。」
「アベリアグループの蓮見と申します。こちらのブルーベリー、品種名は。」
「え? えーと……ブルースカイです。」
「“ブルースノー”ではありませんか。」
青年――新海亮さんは、口をつぐんだ。
「先日の夜、ノーザンリーフの特別区画に入っていましたね。防犯カメラに映っています。」
背後から近づいてくる稲城さんに、新海さんの視線が揺れる。
「……やっぱり、来たか。本当にごめんなさい。」
新海さんは両手を前に差し出し、頭を下げた。
「……“ブルースノー”に惚れ込んでいました。最初に味見させてもらったとき、衝撃で。こんなに甘くて香りがあって、雑味がない果実が、本当にあの土地から生まれるなんて。」
言葉が詰まる。
「でも、正式には栽培も販売も許可されていないのは分かっていました。品種登録前で、アベリアさんとの共同開発中だってことも。……分かっていても、この果実が誰にも知られずに埋もれるのが、もどかしくて。だから名前を変えて、産地表示もぼかして、少量だけ出していました。“ブルースカイ”として。お客さんの『なんだこの味は』という反応が嬉しくて……背徳感より先に、喜びが来た。最低ですよね。」
そこには悔いと憧れが混ざっていた。
「葵さんがこの果実にかけてきた年月と汗と信念を知っていながら、軽はずみなことをしてしまった自分が恥ずかしい。……僕には、あの果実を育てる資格なんて、なかったんだと思います。」
「なぜ、そこまで。」
私が問うと、新海さんはしばらく沈黙した。拳を握りしめ、自分の内側と向き合っているようだった。
やっと開いた口から、かすれた声。
「……この品種が、俺の農業人生のはじまりだったから。ノーザンリーフで出会ったあの味を、自分の手で届けたいと思った。初めて口にした時、稲城さんの“この果実は、誰かの物語になるべき”という言葉が頭に残って……。」
顔を上げた目元に、光るものがあった。
「その“誰か”に、自分がなりたかった。小さな農園でも、あの味を広められたら意味があると思った。……でも、こんな形になるなんて。」
風が樹の枝を揺らす。
稲城さんは静かに息を吐いた。
「……想いだけなら、誰よりも強かったのかもしれない。だからこそ、ルールを越えたのは残念よ。」
言葉は冷たくない。けれど、一線は守る。それが「種」を守る者の責任で、信頼を預かる覚悟だ。
沈黙が落ちる。新海さんは、責めも許しも求めず、ただ立ち尽くしていた。胸の奥に、言葉にならない重みが降り積もる。
私は一歩、前へ出た。その小さな一歩が、場の空気を少し変えた。
「新海さん。私はあなたを責めに来たわけではありません。今回の件は、きちんと社に報告します。……でも、なぜそうなったのか、背景を知りたかった。」
声は落ち着いている。芯はぶれない。
「“ブルースノー”を未来に活かしたい。その想いが本物なら、形を変えて、もう一度ノーザンリーフとやり直せませんか。」
驚きに、新海さんの目が見開く。
「……それって、許してくれるってことですか。」
私は首を横に振った。
「今日のことは記録に残します。それが私の仕事です。……でも、この出来事を“誰かの過ち”で終わらせるのは惜しい。私は、そう思っています。」
ふっと笑った。営業スマイルではない、人と人が誠実に向き合うときの表情。
「私は新人です。けれど、ただ成果を追うだけじゃなく、“つながる”仕事がしたい。数字やルールの先にある想いを、誰かと共有できる仕事が。」
その言葉に、新海さんの肩がわずかに震えた。若さの熱ではなく、信念の温度で。
稲城さんが腕を組んだまま、小さくうなずく。
「次に進む力にする。――私たちの農園は、そういう場所でありたいから。」
春の日差しが会場に差し込み、賑わいの声が広がっていく。
新海さんは目を伏せ、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます。必ず、信頼を取り戻します。」
私は前を見た。この仕事の先に、人の情熱と物語がある。そう思えた瞬間、私がここに立つ意味も、少しだけ見えた。
夕暮れのファーマーズマーケット。出店者が片付けを始め、木箱を積み直す音が小さく響く。春の風がテントの布を揺らす。人混みが落ち着き、色あせた看板や値札が外されていく。
私と稲城さんはテントの裏手、静かな片隅に立っていた。
「蓮見さん、すごいわね。あの状況で、彼を追い詰めない選択をしたなんて。」
稲城さんがふっと笑う。緊張が、少しだけほどけた。
私は空を見上げた。夕焼けがビルの隙間を染めていく。今日という一日の、余白みたいな時間。
「……まだまだです。でも、今日はひとつ、“課題”が見えた気がします。」
「課題?」
「“想い”を育てる場所が、もっと必要だって。果物だけじゃなく、人の気持ちも。ルールや手続きの先にあるものを、ちゃんとすくい上げる場所が。」
稲城さんはそっと目を伏せ、新海さんの後ろ姿を見やった。
彼は最後の荷を車に運び込んでいる。まだ揺らぎがあるのに、どこか吹っ切れた潔さもある。
マーケットに漂う果実と土の香り。名残惜しそうな立ち話の声。
私はゆっくり息を吐いた。
「作物も、人も、手をかけて、声をかけて、育てていくものなんですね。気づくのが遅かったかもしれないけれど、今なら、少しだけ踏み出せる気がします。」
「次に進む力にする。――彼も、私たちも。」
灯りが一つ、また一つ落ちていく。
果実と土の香りに包まれて、人の熱気と静けさがやさしく混じり合う。
その片隅で、私たちはしばらく立っていた。
胸に芽吹いた気づきは、やがて言葉になり、提案になり、誰かの未来へそっと差し出されていくだろう。
「売る」ではなく、「共に育てる」。
夕暮れに染まるマーケットの端に、ひっそりと、小さな“庭”が灯っていた。
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