六角の箱庭

三ツ谷ちはる

アベリアグループ編

第1話 ミライを運ぶ女たち

 プロローグ


 静かな庭先に耳を澄ませば、かすかな羽音が聞こえる。

 誰も気に留めない小さな音。それでも世界は、その羽ばたきに支えられている。

 一匹では届かない距離も、仲間と力を重ねれば越えられる。花から花へと飛び続けるその姿は、淡々としていて、けれど確かに未来を運んでいた。

 働くということ。

 生きるということ。

 そして、誰かのために尽くすということ。

 名もなく、声もなく。それでも今日も、世界は回っている。



『六角の箱庭』アベリアグループ編


「ありがとうございます。身命を賭して、全ういたします。」

 控えめに発した声は少し震えていたが、その奥には覚悟の色が宿っていた。

 六角柱の形が特徴的な本社ビル。その最上階、役員会議室。

蓮見はすみめる殿。本日付で、営業第四課へ正式に配属とする。」

 重々しい声と同時に、役員たちの視線が私に集中する。

 入社二年目、二十五歳の私は、現場での機動力と交渉力を評価され、営業第四課へと異例の抜擢を受けていた。細身のスーツを身にまとい、背筋を伸ばす。迷いのない歩みを見せるその背中に、同期たちがひそかに憧れていることを、私はまだ知らない。

 目立ちたいわけじゃない。けれど、目の前の仕事には、いつも全力で向き合ってきた。

 入社一年目の頃。商品管理部に配属された私は、倉庫と店舗の間を毎日駆け回っていた。夏場の冷蔵室も、冬の凍える屋外配送も、季節や天候に関係なく。地味な棚卸しや伝票処理にも一切手を抜かず、現場の声をひたすら記録していった。

 そんなある日。地方支店で小さな納品トラブルが起きた。原因は、発注システムの細かいバグ。それに最初に気づいたのは私だった。店舗スタッフと本社をつなぐ調整役を買って出て、丁寧にヒアリングを繰り返し、再交渉を進め、事態を収めた。

「現場に立てる子ですね。」

 視察に来ていた営業部長がそう口にした一言が、後の抜擢のきっかけとなった。


 役員会議室を出て、エレベーターに乗り込む。扉が閉まる直前、ガラス越しに遠くを見やると、霞んだ地平線の先にうっすらと丸い白い影が浮かんでいた。

 今日これから出張で訪れる農園の一つ。都心からは遠いけれど、そこも私たちのフィールドだった。


 アベリアグループ。

 食品と農業を軸に、国内外へネットワークを広げてきた総合商社。創業は戦後まもない一九五〇年代。まだ物流も冷蔵技術も未発達だった時代に、「誰もが平等に、新鮮で安全な食を得られる世の中をつくる」という理念を掲げ、青果問屋から始まった。

 今では国内の大手スーパーや飲食チェーンに供給を担い、海外農園との契約栽培や機能性食品の開発にも取り組み、従業員数は一万人を超える。

 けれど、その大きさと同時に、今なお残る伝統的な社風もある。始業前のラジオ体操。若手社員は声出しと点呼を欠かさず、日々の「報・連・相(報告・連絡・相談)」は徹底。部署を越えた横断的な連携は少なく、各課がそれぞれの役割を黙々と果たし、全体の秩序を保つ。

 そして、誰もがひそかに語るのが「社長は滅多に姿を見せない」という事実だった。社長室は最上階にあるものの、その扉を出入りする人を見た社員は少ない。朝礼にも会議にも現れず、年に数回の社内報で短いコメントを寄せるだけ。

 まるで神殿に祀られた象徴のような存在。それでも、社長の存在が、この巨大な組織を均衡させていると、社員の誰もがどこかで理解していた。


 そんなアベリアグループの中で、営業第四課は異質な存在だった。

 “現場起点の商品開発”。

 少数精鋭で各地の生産地に直接赴き、素材の魅力を引き出す商品を企画・提案する、いわば攻めの特命チーム。

 早朝六時。オフィスビルの一室で、すでに私を含めた四名の女性社員が黙々とパソコンに向かっている。

「……ったく、サンテヴィーダの出荷量、また微妙にズレてる。これ、昨日のロットじゃん。誰がチェックしたの?」

「昨日はAチーム。現地データと照合して、ズレ幅五%以内なら許容にしよう。」

「ダメです。ヴィーダは“品質第一”を売りにしています。今のままじゃブランドに傷がつきます。」

 私は端末をスワイプしながら即座に対応を指示した。配属されたばかりなのに、他の課員と対等に意見を交わす自分がいた。

「ノーザンリーフは余剰があるね。そっちはBチームに回して数量を調整しよう。」

「了解。うちの“はたらき蜂チーム”、今日もフル稼働だね。」

 隣の先輩が笑い、私も思わず頬を緩める。


 午前七時。オフィスを出て、現地農園への出張に向かう。今日はノーザンリーフ、明日はサンテヴィーダ。生産現場の確認と取引先との会議が続く。

 まだ肌寒い早朝の空気の中、スーツの襟にストールを巻き直す。社用車のドアを開け、シートに滑り込んで深く息を整える。

「行ってきます。成果、ちゃんと持って帰ってくるね。」

 独り言のように洩らした言葉は、朝焼けの光とともに窓の外に溶けていった。高層ビルの谷間を抜け、街の景色は次第に郊外へ。走り出した車の窓に光が揺れる。


――この旅が、私自身の運命を変えることを、まだ誰も知らなかった。

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