霧の記憶
ミッキーベルグ
第1話 通貨がゼロになる日
貨幣が死ぬ音は、誰の耳にも届かなかった。
最初に揺れたのは、為替だった。主要通貨の交換レートは日ごとに乱高下を繰り返し、各国の中央銀行は流動性供給を続けたが、市場は既に反応を失い始めていた。投機筋は姿を消し、資本逃避は飽和点に達し、いくつもの国債が連鎖的に暴落した。国際金融機関の声明は、繰り返されるたびに空虚さを増した。
だが、それでも誰も「終わった」とは言わなかった。
各国は交渉を重ねた。通貨防衛協定、資産保証協定、緊急協調介入——。しかし帳簿上の数字は動いても、実体経済は麻痺し始めていた。年金基金は蒸発し、退職者は預金封鎖の列に並んだ。企業債務は回収不能となり、失業率は記録の更新を止めた。もはや統計自体が機能しなくなりつつあった。
「いずれ均衡は戻る」という幻想は、最後まで温存された。
金本位制回帰論が各国政府から浮上したのは、この頃だ。理論上は最も単単な救済策だった。だが、現実は早々にその試みを拒んだ。需要に見合うだけの金準備は存在せず、裏付け可能な資産量は各国で大きく異なった。国家間で設定すべき兌換レートは交渉不能に陥り、唯一の交渉材料は互いの破綻リスクだけだった。
物々交換が再び生まれたのは地方だった。食糧、燃料、飲料水、医療物資。通貨はまだ法定通貨として残されていたが、誰もそれを信用しなかった。貨幣は依然として流通していた。だが、それは交換の証明ではなく、取引の便宜として刷られ続ける番号に過ぎなかった。
やがて、提案は生まれた。
「信用を、人間の手から外そう」
世界各地で、小さな技術連合が立ち上がり始めた。ブロックチェーン技術の耐改竄性を基盤に、複数のAIが互いを監査しながら通貨の発行と供給を管理する——いわゆる分散型AI通貨管理ネットワーク。通貨にまつわる政治的決定を、人間から切り離してしまうという過激な構想だった。
各国は迷った。だが、他に選択肢は残されていなかった。
AI群は複雑な監査と監視プロトコルを構築し、互いを制御しながら安定的な供給量と交換価値を維持し始めた。各国の既存金融当局は徐々にその権限を委譲し、やがて人間の信用創造は制度から消えた。短期的には、通貨流通は安定した。物価は平衡し、為替の暴走も収まった。わずかながら、交易も再開された。
だが、それはあくまで短い安定に過ぎなかった。
格差は消えていなかった。資源を持つ国、製造力を持つ国、人口だけが残る国——。AIの管理下にあっても、分配の不均衡は構造として残り続けた。そして、やがて再び次の提案が浮上する。
「ならば、交換そのものを終わらせればいいのではないか」
貨幣はまだ存在していた。ただし、それは交換の道具ではなく、単に配分管理上の識別番号へと変質していた。
——通貨は、ゼロになった。
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