第45話 満月の決戦

 雲間から覗く満月が、演習場の跡地を青白く照らし出す。

 伸び放題の草の匂いと、夜風が木々を揺らす音だけが、この世界の全てだった。


 私は演習場の中心に、ただ一人立っている。心臓の音が、やけに大きい。

 それでも、恐怖はなかった。

 最高の仲間たちがいてくれるから。


『――索敵範囲に魔力反応はありません。ですが、油断はしないでください。彼は、こちらの感知をすり抜けるすべを持っているはずです』


 耳元の通信魔具から、少し離れた高台に潜むヴェロニカの冷静な声が響く。

 近くの崩れた石壁の影では、レノーアが息を殺して待機していた。彼女の双剣は既に抜き放たれ、満月の光を吸い込み、静かにその時を待っている。


 私たちは、待った。

 コルネリアが導き出した、完璧な推理を信じて。


 そして彼は現れた。

 予告も、気配も、足音もなく。

 闇そのものが人の形をとって、そこに凝固したかのように。

 漆黒の全身鎧。


 彼は演習場の中心に立つ私を認めると、ゆっくりと一切の迷いなく、こちらへ歩み寄ってくる。一歩、また一歩と、その距離が縮まるたびに空気がずしりと重くなっていく。

 物陰のレノーアが、いつでも飛び出せるように身を低くしたのが、気配で分かった。

 私はレノーアにだけ見える位置で、左手を開いて、そっと制する。


(待って。……まずは、話をさせて)


 私は意を決して、目の前の鋼鉄の巨体に向き直る。

 震えそうになる声を、心の底から振り絞った。


「私たちは、全てを知りました。あなたの主君、アラリック・フォン・ローゼンベルクが、10年前に犯した罪の全てを」


 黒鎧の動きが、ぴたりと止まった。

 私は続けた。

 アラリックの日誌に記されていた、苦悩の告白。封印儀式の失敗。その犠牲となった一人の少女、エレアの悲劇。私が知り得た全ての真実を、冷静に、力強く告げる。


「あなたはそれでも、彼の剣であり続けるのですか? 罪人の命令に従い、私たちにその刃を向けるのですか?」


 黒鎧は答えない。

 兜の奥の暗闇が、こちらをじっと見つめている。

 重い沈黙が、月明かりの下に落ちる。

 やがて。

 兜の奥から、変声機を通した、どこか諦念に満ちた、押し殺したような声が響いた。


「……全て、知ってしまったのか」


 肯定でも否定でもなかった。ただ、どうしようもない事実を受け入れたかのような、虚しい響きがあった。


「ならば――やむを得ん」


 その言葉と共に。

 黒鎧は、背負っていた長剣の柄に、静かに手をかけた。

 説得の余地はなくなった。

 口封じのために戦うという、彼の冷徹な覚悟が示されていた。


「――ッ!」


 言葉が通じないと悟った、その刹那。

 石壁の影から、刃を構えるレノーアが青白い閃光となって、飛び出した。

 鎧の隙間、関節、急所。その全てを、寸分の狂いもなく狙う、双剣の嵐。


 しかし、黒鎧はその電光石火の奇襲に、冷静に対処する。


 抜き放った長剣の一閃が、レノーアの双剣を、的確に受け止めた。

 キィンッ! と、甲高い金属音が、夜の演習場に響き渡る。

 一撃のあまりの重さに、レノーアの身体が後方へと弾き飛ばされた。


『術式発動!』


 ヴェロニカの声と同時に、黒鎧の足元の地面から幾重もの魔法のつるが伸びる。それは蛇のように彼の両足に、きつく絡みついた。

 動きが一瞬、鈍る。

 千載一遇の好機を、レノーアは見逃さない。体勢を立て直し、再び猛攻を仕掛ける。

 私も、両手を黒鎧に向けた。


「はあっ!」


 放ったのは、力の奔流ではない。

 彼の足元を狙った、小規模な『崩壊』の力。黒鎧が立つ地面を、ピンポイントで陥没させ、その体勢をさらに崩す。うまく制御できた。

 ヴェロニカの魔術的拘束。レノーアの怒涛の近接攻撃。私の精密な魔術による攪乱。

 三位一体の連携攻撃が、漆黒の巨人を追い詰めていく――かに、見えた。


「――甘い」


 兜の奥から初めて、明確な感情を乗せた声が漏れた。

 次の瞬間、黒鎧の全身から、禍々しい漆黒の魔力が爆発するように溢れ出す。

 足に絡みついていた魔法の蔦は、力ずくで引きちぎられる。次いで私が放った『崩壊』の力さえも、彼の長剣が空間ごと断ち斬ったかのように、無効化してしまう。

 そして。

 彼が長剣を地面に突き立てると同時に、強力な衝撃波が同心円状にほとばしった。


「きゃっ……!」「くっ……!」


 私とレノーアの身体は木の葉のように宙を舞い、地面に叩きつけられた。

 圧倒的な、力の差。


 私たちが必死で組み上げた連携は、彼のたった一撃で粉々に砕け散った。

 霞む視界の中、黒鎧が音もなく私の眼前に立っているのが見えた。

 その長剣が、満月を背に、高く、高く、掲げられる。


 レノーアも、ヴェロニカも、助けに入るのが、間に合わない。


 ――死。


 絶対的な予感が、脳裏をよぎる。

 振り下ろされる、無慈悲な、一閃。


 死ぬかもしれないと思った。

 死にたくないと思った。


 ──漆黒の右手を、彼に向ける。


 この期に及んで。

 彼を殺したくないとも、思った。


 私は今日、初めての魔力放出をしようとしている。万全の状態だった。


 ──この距離で撃てば。


 溢れ出す。

 黒い『崩壊』の感情。もうひとつ、別の何か。

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