第39話 縦ロールの悪魔
アリスター先生の研究室を後にしてから、数日が過ぎた。
私たちの日常は、表面上は穏やかだったが、その水面下では、焦燥という名の濁流が、渦を巻いていた。
「はぁ……『誰の目にも触れるが、誰の注意も引かない。開かれているが、閉ざされている』か」
放課後の図書室。山と積まれた王都の古地図や、ローゼンベルク家の歴史書に埋もれながら、ヴェロニカが忌々しげにあの『謎かけ』を繰り返した。
「論理的に考えるなら、この条件に最も近いのは『王宮の公文書館』でしょうか。誰でも存在は知っているが、閲覧には厳しい制限がある。つまり、開かれていて、閉ざされている」
「でも、違う気がするわ」
古い羊皮紙のインクの匂いに少し気分を悪くしながら、私は首を横に振った。
「お兄様は、そんな誰かの管理下にあるような場所に、一番知られたくない秘密を置いたりしないと思う。もっと、こう……彼自身が、完全に支配できる場所のはずよ」
「ですが、リゼロッテ様。貴女のその『気がする』という感覚には、何の論理的根拠もありません」
「根拠ならあるわよ! 私が、彼の妹だもの!」
「それは論理ではなく、ただの感情です」
売り言葉に買い言葉。焦りが、私たちの言葉から冷静さを奪っていく。議論はいつも、同じ場所を空回りするだけだった。
レノーアはそんな私たちを黙って見守りながら、時おり冷静に資料を整理してくれる。彼女の静けさが、今にも爆発しそうな私たちの、かろうじての冷却装置になっていた。
それでも、何日経っても答えは見つからない。時間は、ただ無情に過ぎていく。
このままでは黒幕の思うつぼなのではないか。そんな焦りが私たちの心を、じりじりと蝕んでいた。
その日も私たちは何の成果も得られないまま、夕暮れの学園を歩いていた。
中庭の噴水の縁に、三人で力なく腰を下ろす。もう言葉も出なかった。
夕日が私たちの影を、長く長く地面に伸ばしている。
「本当に参ったわね……ん?」
その長く伸びた影に、不意にもう一つの影が、音もなく重なった。
「ごきげんよう、リゼロッテ様」
はっとして顔を上げると、そこに彼女は立っていた。
夕日を背に受け、金色の縦ロールの髪を輝かせながら、意地の悪そうな笑みを浮かべて。
コルネリア・アウレリアン侯爵令嬢。この学園の経営者の令嬢であり、数か月前に巨大騎士像を暴走させた張本人だ。
今日はいつも
それがかえって彼女の存在感を際立たせ、得体のしれない威圧感を放っている。
「……コルネリアさん。何か、ご用かしら」
警戒を隠さずに問いかけると、彼女は、パチンと小気味よい音を立てて、持っていた扇子を開いた。
そして、その優雅な扇で口元を隠しながら、全てを見透かしたような目で、私たちを、ゆっくりと見回す。
「随分と、難しいお顔ですこと。三人お揃いで。まるで解けない『謎かけ』にでも、頭を抱えているかのようですわね?」
どきり、と心臓が跳ねる。
偶然か。それとも。
私の隣で、ヴェロニカが、すっと眼鏡の位置を直したのが分かった。レノーアの気配が、一瞬で刃のように鋭くなる。
「……何の、ことです?」
「あら、おとぼけになって。アリスター先生から、随分と意地の悪い宿題を出されたと、お見受けいたしますが?」
知っていた。
見られていたのか。私たちの行動を、どこかから、ずっと。
「あなた……!」
「わたくしを、誰だとお思いになって? この学園で、わたくしの知らないことなど、何もありませんわ」
コルネリアは、ふふ、と喉を鳴らして笑うと扇子を閉じた。そして、その先端で、とん、と自分の顎を軽く突く。その仕草は、獲物を前にした猫のようだった。
「もしわたくしが、その『謎かけ』の答えを知っている、と申しましたら?」
その一言は、私たちの行き詰まった状況を根底から揺るがす爆弾だった。
嘘だ。はったりに違いない。
そう思うのに、彼女の自信に満ちた瞳は、それが紛れもない事実であると雄弁に物語っていた。
「……何のつもりなの」
やっとのことで絞り出した声に、コルネリアは満足そうに微笑んだ。
そして、きっぱりと告げた。
「取引をいたしましょう」
「取引……?」
「ええ。わたくしが『秘密の書斎』の場所を、貴女に教えてさしあげますわ」
彼女の唇から、はっきりとその言葉が紡がれる。
「その代わり――そこで貴女たちが見つける『真実』の全てを、わたくしにも共有していただく。これがわたくしの条件ですわ」
金銭でも、地位でもない。
彼女が求めたのは「情報」だった。それも、私たちの最も根源的な秘密。
その瞳の奥で燃えているのは、スキャンダルを暴こうという下世話な光ではないように感じられた。常識を超えた「力」の謎。この世界の理から外れたものの正体を知りたいという、純粋で、底なしに歪んだ知的好奇心の炎。
魔女が差し出す甘い蜜。そんな様子を幻視してしまう。
けれど、それは出口の見えない迷宮で途方に暮れる私たちにとって、唯一、出口を示す一条の光のようにも思えた。
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