第31話 三兄の返信
いつもの修練場。夜の闇が、東の空からゆっくりと白んでいく。
私は数日前の、あの奇跡の夜のことを思い出していた。
『力の反転』
私の強い感情が、そのスイッチになる。
だとしたら。
露わになった『漆黒』の腕に、意識を集中させる。
目を閉じ脳裏に描くのは、レノーアの姿。私を心配そうに見つめる真紅の瞳。私のために心を鬼にしてくれた、彼女の痛み。そして泣き崩れた彼女を、心の底から「守りたい」と願った、あの温かい抱擁。
この優しい感覚を維持しつつ。
「はぁっ!!」
天へ向けて、力を解放する。
迸った光線は、しかし、無慈悲な灰色の『崩壊』の奔流だった。
ほんの一瞬だけ、その光の輪郭が白くきらめいたような気もしたが、すぐにいつもの荒々しい力に戻ってしまう。
結果は、いつもと同じ。私の右腕は、ただ力が弱まったことを示す『鈍色』に変わっただけだった。
「……やっぱり、そんなに簡単なことじゃないわね」
分かってはいたけれど、溜息が漏れる。
隣で静かに様子を見守っていたレノーアが、包帯を右腕に巻いてくれる。
鞘を失った今、私の腕を隠すのはこの白い包帯の役目だった。
「お嬢様。基礎訓練を始めます」
「ええ、お願いするわ」
その日から、私たちの朝練には新しいメニューが加わっていた。
レノーアが言うところの「実践的護身術」
「本日は敵に腕を掴まれた際の離脱術です。相手の力を利用し、関節の逆を取ります。このように」
「ひゃっ!? い、痛い痛い! レノーア、本気すぎ!」
「申し訳ございません。ですが実戦では、暗殺者は手加減などしません」
「うう……分かっているけど……! もう、全身が軋むようだわ」
私が弱音を吐いた、その時だった。
レノーアが、ふと不思議そうな顔で、私のことを見つめた。
「……お嬢様。大変失礼ながら、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「なあに?」
「お嬢様は、これまで一度でも『筋肉痛』になられたことが、おありですか?」
その思いがけない一言に、私は動きを止めた。
「そういえば前にも言われたけど……私、筋肉痛ってなったことないのよ。どんな感じなの?」
「激しい鍛錬の後に必ず訪れるものです。だいたい一日~二日くらいは痛みます。それが心地よいという方もいますが……」
ああ。昔、訓練を終えたアラリックお兄様が、ひょこひょこと歩いていたのを見たことがある。威厳のある普段と様子が違って、不思議な動きだなと観察していたっけ。
レノーアの筋トレも、かなり激しい気がする。それを繰り返しても、私は一度も筋肉痛を経験していない。
原因は……最近、心当たりのあることをヴェロニカが言っていたような……?
「まさか……『再生』の力?」
「そのように……推測できますね」
背筋に、ぞくりと冷たいものが走る。
私の身体は、私が眠っている間も、常に治癒され続けている?
あの『再生』の力は奇跡の時だけでなく、極々微量ながら、常に私の身体に作用し続けている、ということ……?
その後、朝練を終えて部屋に戻るなり、寝ぐせだらけの優等生に聞いてみた。
「──ということなの。ねえ、ヴェロニカ。私のお腹がずっと割れないのって、もしかして」
「ははあ。それならやっぱり、再生の効果でしょうね。筋肉の成長は、破壊と回復です。回復するときに、以前よりも強い状態で筋組織が出来上がるのですが……んお! そういうことですか!? 面白い!」
ヴェロニカの寝ぼけ顔が一転して、目が見開かれる。
「何よ! 一人で納得してないで教えてちょうだい」
「どうやら、リゼロッテ様の再生は規格外のようです! 傷が治るとか、治癒力を高めるとかそういうのではなくて、別の概念! 本来の、元に戻すという意味での『再生』なのかもしれません。だから、貴女のお腹はいつまで経っても、ぷにぷになのです!」
私はその場で、膝から崩れ落ちた。
*
授業中も食事中も、ふとした瞬間に窓の外へ視線を送ってしまう。フェリクスお兄様からの返信を、今か今かと待ちわびていた。
そして、その日は突然やってきた。
昼食を終えて部屋に戻ると、テーブルの上に見慣れた『銀薔薇』の封蝋が押された、一通の便りが置かれていたのだ。
「お兄様からだわ!」
私は駆け寄るようにして、その手紙を手に取った。隣にいたレノーアも、ヴェロニカも、固唾を飲んで私を見守っている。
震える指で、慎重に封を切った。
『親愛なるリゼロッテへ
手紙をありがとう。私のことを、そんなに心配してくれていたとは。兄として、嬉しい限りだよ。
私の身体は、もう大丈夫。君が思っているほど、私は弱くはないからね。指輪は確かに大切なものだったが、君の無事と比べれば些細なことだ。だから君は、何も気に病むことはない』
前半は私の身体を気遣う、いつもの優しい兄の言葉で満ちていた。
けれど私の心臓は、期待と不安で早鐘のように鳴っている。
問題は、ここからなのだ。
『アラリック兄さんのことだが……。
うん。君の言う通り、彼は昔から多くのものをその背中に背負いすぎるところがある。ローゼンベルク家の長男として、そして近衛騎士団長として。その重圧は、三男の私には計り知れないほどだろう。
だからリゼロッテ。今は、ただ兄を信じてあげてはくれないだろうか。私たちが、そうしてきたように』
「……そんな」
指先から力が抜け、手紙がはらりと落ちそうになる。
手紙には、私が一番聞きたかったことへの明確な答えは、何も書かれていなかった。ただ暖かく巧みな言葉で、はぐらかされている。
落胆する私を見て「失礼します」と、ヴェロニカがその手紙を私の手から抜き取った。
「……なるほど。見事な外交官の文章ですね。一見、完璧に質問を躱しているように見えます」
「ええ……やっぱり、お兄様にも話せないことなのかしら……」
「いえ」
ヴェロニカは、きっぱりと首を振った。
「彼は答えていますよ。ただし、誰かに読まれても問題ないように『暗号』で。ここを読んでください」
彼女が指し示したのは、手紙の最後。追伸のように添えられた、一見ただの雑談にしか見えない一文だった。
『そういえば昔、ユリアン兄様が「魂の共鳴」について、熱心に研究していたのを思い出したよ。ローゼンベルク家の人間は、血の繋がりが魔力にも影響を与える、とか何とか。彼は今も変わらず、王都の研究棟で元気にやっているのだろうね』
「ユリアンお兄様の……研究?」
「ええ。何の関係もないこのタイミングで、なぜ、わざわざ次兄君の名前と、その具体的な研究内容に言及する必要があるのですか?」
ヴェロニカの言葉に、私も、はっとした。
「まさか……!」
「その、まさかです。フェリクス様は、直接は答えられない代わりに『次に話を聞きに行くべき相手』を私たちに示しているのです!」
アラリックお兄様が抱える問題は、最も信頼するフェリクスお兄様でさえ、手紙には記せないほど根深いということなのだろうか。
ユリアンお兄様は、ただの次兄ではない。ローゼンベルク家に係わる魔法的なことなら、いくらでも知っているはずだ。
ただ……。
「ユリアンお兄様か……」
ため息が漏れた。
宮廷魔術師団に所属する、私の、二番目の兄。
悪い人ではないけど、なんというか、マッドサイエンティストなのだ。彼みたいな人が悪い歳の取り方をしたら、アリスター先生みたいになるのかもしれない。
「──お嬢様? どうされました?」
「ああ、いえ。そうね、次の目的地は──」
王都にある研究棟――厄介で予測不能な、天才の根城だ
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