第02話 セイユとの出会い

 金属の軋む音と、水のしたたる音。身体を打った鈍い痛みは、先程の墜落が夢ではなかったことを無慈悲に告げている。


「……う……」


 ゆっくりと身を起こすと、額のオパールが柔らかな光を明滅させた。


《システム再起動完了。バイタル、安定。義肢、異常なし。プリンセス、ご無事ですか?》


 思考を通じて、忠実なAIの声が響く。

「無事……この顛末を『無事』と表現して、いいものでしたらね。ここは、どこですの?」

《座標不明。ですが、プリンセス。一つ、幸運なことが》

「幸運?」

《本艇は大破し、機密性が失われています。つまり、艇内に流入していたのは、プリンセスが呼吸可能な組成の大気でした》


 ミョーブの淡々とした報告に、キクリははっとした。確かに、息苦しさはない。それどころか、壊れたハッチの隙間から流れ込む空気は、澄んだ冷たさを湛えて、どこか心地よいとさえ感じられた。


《外部センサーにて、周辺環境の初期分析を実行します》


 ミョーブが告げると、キクリの視界の端に、次々と分析データがオーバーレイ表示されていく。


【大気組成:窒素76%、酸素22%、その他2%。有害物質、極微量。帝国基準におけるクラスA+(生存最適)環境に酷似】

【水源分析:H2Oを主成分とし、ミネラル含有。有機汚染、重金属汚染、共に検出限界以下。飲用可】


「……まあ」


 思わず、感嘆の声が漏れた。

 数百億、いや、数千億の星々が存在するこの銀河で、人間が何の補助もなく生存できる環境を持つ惑星が、どれほど稀有な存在か。彼女はそれを知識として知っていた。墜落した先が、偶然にもそのような『奇跡の星』であったという事実。


「このような極微小な確率への可能性の収縮、これこそ『奇跡』というべきかもしれませんわね……」


 誰に聞かせるともなく呟かれた言葉は、静かな艇内に虚しく響いた。忠実な護衛を失い、たった一人で未知の星に放り出された絶望的な状況。その中で見出した、あまりにも都合の良い幸運。それは感謝すべき祝福なのか、それとも、これから始まる過酷な運命への、ほんのささやかな慰めに過ぎないのか。


《プリンセスの生体反応に、微弱な感情の高ぶりを検知。アドレナリン、ノルアドレナリンの分泌が増加しています》

「少し、感傷に浸っただけですわ。……ミョーブ、エネルギー消費を最小限に抑えなさい。義体の生体維持機能を抑制的に調整。外部環境が良好な以上、過剰なサポートは不要です」

《了解。生命維持システムをレベル2・待機モードに移行します》


 指示を出すことで、キクリは意識的に冷静さを取り戻していく。感傷は無意味だ。今は生き延び、そして必ず帝国へ帰還するための、最も合理的な選択を続けることだけが重要だった。


 ミシミシ、と艇が大きく傾いた。足元に溜まっていた水かさが、急速に増してくる。

「どうやら、長居はできそうにありませんわね」


 外の様子を窺うと、今は夜のようだった。艇は大きな湖に半ば沈みかけており、周囲は鬱蒼とした森に囲まれている。空には、見たこともない星座が瞬き、月が幻想的な光を投げかけていた。


「沈む前に、脱出しませんと」


 キクリは艇内を見渡し、壁に固定されたガンメタル色のトランクケースを見つけ出した。避難艇に常備されている、非常持ち出しバッグだ。それを掴むと、躊躇なく大破したハッチから外へ出る。足先が冷たい水に浸かった。


《艇の完全沈没まで、予測時間180秒》


 ミョーブの警告を背に、キクリは優雅な義足のスラスターをわずかに吹かした。水面を滑るように、音もなく岸へと移動する。その姿は、まるで水の上を舞う妖精のようだった。


 岸辺の岩に腰を下ろし、キクリはバッグを開ける。中身は、標準的なサバイバルキットだ。


 一つは、高純度の栄養素を圧縮したレーションバーのセット。一本で一日分のカロリーと必須栄養素を摂取できる。

 一つは、再利用が可能な飲料水入りのボトルと浄水フィルタ。

 一つは、プラズマを発振して火種を作る小型の着火装置。

 一つは、万能ツールナイフ。

 そして、最後に、折り畳まれた耐熱・耐衝撃性のマント。


「最低限、といったところですわね。ですが、ないよりは遥かにましですわ」


 キクリはレーションバーを一本取り出し、包装を破った。義体のエネルギー源は、主に彼女自身の食事から変換・供給される。内蔵された超小型の生体融合炉が、摂取した有機物を効率よくエネルギーへと変換する仕組みだ。故に、食事は生命維持と戦闘能力維持の両面で不可欠だった。しかし、このレーションバーも数には限りがある。無駄遣いは許されない。


「さて、ミョーブ。現状を把握するため、周囲の地形を確認しますわよ」


 キクリは立ち上がると、その場に軽く屈み込んで。

 次の瞬間、スラスターが一瞬輝き、彼女の身体を垂直に打ち上げた。木々の梢をあっという間に飛び越え、夜空の高みへと舞い上がる。


(夜なら、高度をとっても発見されにくい。一方でこちらからは、ミョーブの解析で、短時間でも十分な状況把握ができますわ)


 眼下に広がるのは、どこまでも続くかのような巨大な樹海。その中央に、墜落してきた湖が月光を反射している。地平線まで広がる、手つかずの自然。その圧倒的な光景に、キクリは一瞬、息を呑んだ。


《……プリンセス。7時の方角、推定距離5キロ。熱源及び、人工物と思われる光を検知》


 ミョーブの報告が、キクリを現実に引き戻す。視線を向けると、確かに光点が見える。ズームアップで確認すれば、森の端の方でちろちろと揺れる小さなオレンジ色の光。焚き火だ。


「人……ではないにしても、知的生命がいるのかしら」


 それが希望なのか、それとも新たな脅威なのかは分からない。だが、確かめる価値はあった。

 キクリはスラスターの出力を調整し、音を殺しながらふんわりと着地。焚き火のあった方角へ向かって、森の中を進み始めた。脳裏に浮かぶ、義体のセンサーからの情報をミョーブが処理した、周囲の暗視映像を頼りに。


 慎重に、枝を踏む音さえ立てぬように進んでいく。焚き火の光が、木々の彼方に見えてきた頃だった。


 ——グルルル……。


 茂みの奥から、低い唸り声が聞こえた。

 キクリはぴたりと足を止める。風に乗って、獣の匂いが鼻腔をくすぐった。


《前方、三つの生命反応。心拍数、体温確認。パターン照合から、敵意を持った肉食獣タイプと判断》


 ミョーブの警告と同時に、一頭また一頭と、茂みから獣が姿を現した。帝国に生息する狼によく似ているが、二回りほど大きく、背には骨のような突起が並んでいる。獰猛に光る目が、獲物であるキクリを捉えていた。


「まあ、威勢の良さそうなこと。わたくしの夜の散歩を邪魔する気ですの?」


 三頭は同時に地を蹴った。一頭は正面から、二頭は左右に回り込んで挟み撃ちにする、熟達した高い連携攻撃。

 だが、キクリは動じない。


「遅い、わね」


 正面から飛び掛かってきた一頭に対し、キクリは身をかわすことさえしなかった。ただ、すっと右腕を前に突き出す。その細くしなやかな指が、獣の眉間に触れるか触れないかの位置で停止した。


 ——ゴッ。


 鈍い衝撃音。獣の巨大な身体が、まるで鉄槌で打ち据えられたかのようにくの字に折れ曲がり、後方へと吹き飛んでいった。最小限のエネルギーで、内部の神経系を完璧に破壊する、義肢ならではの精密な打撃だった。


 残る二頭が、左右から同時に襲いかかる。キクリは静かに目を閉じ、その場でくるりと一回転した。舞うように広げられた彼女の脚が、それぞれの獣の顎を正確に蹴り上げる。骨の砕ける嫌な音を二つ響かせ、獣たちは断末魔の声を上げる間もなく、地面に沈んだ。


「……ふぅ。余計なエネルギーを使ってしまいましたわ」


 キクリが、倒した獣たちに冷たい一瞥をくれた、その時だった。


 ガサッ、と近くの茂みが大きく揺れた。

 戦闘音を聞きつけたのだろうか。キクリは素早く身構え、音のした方へと視線を向ける。


 そこに現れたのは、獣ではなかった。

 月光に照らされて、一人の少女が立っていた。

 肩まで伸びた、美しい青緑色の髪。健康的に焼けた褐色の肌。若草色に蔦の刺繍を施した上着と七分丈の茶色いパンツを身にまとい、その手には片端に宝石のようなものを嵌めた杖が握られている。


 少女はその瞳に注意と驚きを浮かべつつ、三頭の魔物を屠ったキクリと、その足元に転がる獣の骸を交互に見つめている。


 未知の星で、キクリが初めて出会った知的生命体。

 その邂逅は、言葉のない、ただ互いを見つめ合うだけの静寂から始まった。

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