第2話
瀬川俊明が農水省の記者会見室に姿を見せたのは、午後5時を回った頃だった。
ロマンスグレーの髪をオールバックにした彼は、発表した。
「国民の皆さま。皆様に重大なご報告があります。今、全国的に米の供給が大変逼迫しております。政府としましては、本日、備蓄米の一部を緊急的に市場へ放出することを決定いたしました」
会見室はたちまちざわついた。
「放出量は20万トン。これはおよそ全国1ヶ月分の消費量に相当します。供給の安定を最優先に、農水省が責任をもって対応にあたります」
その発言は、すぐにすべてのニュースで報じられた。
国民の多くは安堵の表情を見せた。「やっと米が戻ってくる」「瀬川大臣、よくやった」。瀬川の会見映像には、SNSでも珍しく肯定的なコメントが並んだ。
だが――省内では、別の空気が流れていた。
「……勝手にやってくれたな、瀬川大臣」
JA全中の会長、道山耕治が農水省幹部会に乗り込んできたのは、その翌日だった。
「なぜ我々に一言の相談もなく備蓄米を放出したんだ? 消費者の顔色ばかり見て、農家のことを無視する気か?」
道山の剣幕に、事務次官の戸倉周治や農政局長の中垣元太朗も赤面したまま沈黙する。
「農家を守ることと、国民に食を届けることは、矛盾しませんよ、道山さん」
瀬川大臣は冷静に言った。
「非常時です。非常時には、国民を助けるために最速で最大の行動を行う。それが政治の責任だ」
「大臣、現場をご存じないから、そういういい加減なことを言うんだ!」
「私は、すでに現場の視察も何度も行っている。農家の苦しさも理解しているつもりだ。だが今、米がないという混乱を放置すれば、農業全体への信頼が崩壊する。農家にとっても、信用こそが最大の資本ではないのか?」
瀬川の強い言葉に道山は黙った。
だが、しかし、道山は農水族議員と省内の農水官僚――「稲の番人」とも呼ばれる保守派と、水面下で連携を強めていこうとしていた。
戸倉事務次官もまた、内心でこう思っていた。
(この男……“政治家”としてはとても危険だ)
瀬川は、従来の農政と真っ向から対立する方向で動いていた。利害調整もなく、道理と正義を前面に押し出して突き進む姿勢は、省庁の古株たちにとって最も警戒すべきタイプの政治家だった。
やがて、内部文書のリークが始まった。
「備蓄米の実態は不明」「古古古米などまずくて食べられたものではない」「大臣は、国民を騙している」「瀬川は“ポピュリズム”で農政を破壊する」。そうした言葉が週刊誌やネット記事に踊り出す。
——そして、瀬川の元には、与党内の長老たちからの忠告も届く。
「大臣、もう少し穏やかにできないか。JAとの関係を破壊する気か?大票田だぞ」
「次の選挙を難しくするなよ。うちの党は、農村での支持が大事なんだよ、知ってるだろ……」
だが瀬川は動じなかった。
「私はこの国の“食”を守る責任を負っている。それが私に与えられた唯一の役割だ」
しかし、彼は、まだ知らなかった。
この備蓄米放出の裏で、ある大きな“潮流”が、静かに動き始めていたことを――。
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