私の実家は
クライングフリーマン
私の帰りたい場所
私の帰りたい場所
強いて言えば「実家」かな。本当の実家と、母の実家。
時間は、小学生高学年の頃か。
私の実家は「借地借家」だった。そのことを知ったのは随分後の時代だった。
「借家」だということだけは、中学の時に知った。
通っていた学習塾が「大家」で、家賃を運ばされたりしたからだ。
小学校中学年を境に、ウチは文化革命が徐々に進んでいた。
電気冷蔵庫、電気洗濯機、テレビ、トースター。トランジスタラジオ。
順番は覚えていない。
ドラマなどで、その頃の日本の生活風景なんかを見ると「ウチ」と同じだあ、と思った。
近所もみな、「借地借家」か「借地」か「借家」だった。
地主が、区画を区切って貸していたのだ。
それで、「長屋」とも呼ばれた。
長屋と聞くと、時代劇や落語に出て来る、屋根が連続しているアパートスタイルを思い浮かべる人が多いだろうが、この場合は違う。
皆、一軒ずつ独立した家が建っていたから、子供達でそんな「驚愕の事実」を知る者はいなかった。
その長屋も何軒か並んでいたから、余計に分かり辛くなっていた。
北側に向かって4軒先の家で学習塾が始まり、近所のおにいちゃんおねえちゃんは通った。後から分かったが、この家は、持ち家だったらしい。生徒は近所のおにいちゃんおねえちゃん、姉だったのだが、私や妹は自由に出入りした。
『隣組』の範疇だったからだろう。ウチの隣組は仲良しで、小旅行に行ったこともあった。遊園地や海水浴場。記念写真もあった。
平和な日々だった。東京オリンピックが始まり、日本中が沸いた。
後に、知り合いの家で当時のオリンピック中継がカラーだったか白黒だったかで夫婦喧嘩になる、と聞いたが、真実は「開会式」と一部の種目だけがカラー放送で、後は白黒だった。「東洋の魔女」で知られた、バレーボールの試合は、カラーではなかった。
カラーテレビも普及しだしていたが、カラーテレビであっても白黒放送だった。
近所のおじさんおばさんおじいさんおばあさんに、よく叱られた。
そんな時代。そんな場所。
母の実家は今もあるが、私の実家はもうない。
父の死後、借地借家の「貸主」さんに返したからだ。
今年の年度末で、「来客用駐車場」の借地スペースも「貸主」さんに返した。
母の死後、「年季の入った」当家は売れなかった。いや、正確に言うと「売って借家住まい」は叶わなかった。
私の命は、いつ神様に「返す」のかな?
帰りたい場所帰りたい時間はある。でも、それは叶わない。
でも、皆同じ気持ちだろう。「世間知らず」の「おぼっちゃま軍団」の王国になりつつあるのだから。
―完―
私の実家は クライングフリーマン @dansan01
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