逢うことの絶えてしなくば白梅も鬼にかわらざらまし

にんふぇっ島

逢うことの絶えてしなくば白梅も鬼に変わらざらまし

 ・出典「今昔諸国百鬼」(1787 烏山岩燕)


苧冴蚜部(おさかべ)

天守閣に住んでいる鬼女。真夜中に現れ侍女を連れ廊下を歩いているのを目にする事がある。これを見かけたものは後にどこかへ姿を消すと言われている。



 

 駅から10 分の上 1LDK1,5000円と、相場と比べ余りの良心的な家賃は逆に不安を掻き立てなくはない。

いやに愛想が良い不動産屋に特に何の説明も求めることなく新生活を始め、慌しいあれこれもひと段落ついたある日。

自分の部屋のある階だけその異様な好条件にも関わらず、他全て空いていることに気付く。


そもそも他の階の部屋数は10であるにも関わらず自分の部屋の階だけは七部屋しかない。おまけによく見ると突き当たりの壁は不自然にまるで後から立てかけた様に見える。

はてと思い、とりあえず外から100均で買ってきたチャチな双眼鏡で眺めてみると、一応廊下の続きがその壁の向こうに存在しているのが分かった。

気づいてしまった事に若干の後悔を覚えながらも、しかし知ってしまった以上見ないふりをしてここに住み続ける事はできない。

側から見れば随分と豪胆な泥棒だろうが、幸いこの怪しいスペースの階は二階であったため、頭から落ちさえしなければ大丈夫だと手すりに跨り、壁の向こうを横から回り込む様にして覗き込む。案の定その廊下の続きがふた部屋あり、半身を外廊下の手すりから外に乗り出す形で壁を避けて横から回り込んだ。

壁の先に並ぶ二部屋分のドアはどちらも他と変わったところは見られず、廊下にも意味深なシミやお札、供えられるような花瓶の類もない。

勿論部屋のドアが開くこともない。


釈然としないようなほっとしたような気持ちのまま、首を傾げつつ外階段側から周って部屋に戻ろうと廊下の先の階段へ向かったが、外階段に出る扉を開けたとこ何故か上下共に繋がる階段が存在していない。つまり外階段側では二階だけ切り離されていると言うかなり不自然な構造となっている訳である。そして階段の代わりには、更に奇妙な事に二畳程の幅のごく短い廊下が真っ直ぐに伸びている。ぎょっとしたまま廊下の向こうを凝視すると、何故か突き当たりであろう所の前には御簾のようなものがかけられていた。

空振りでほっとしたところから一転、全く意味の分からない内装の存在を見せられるともう進む事も引き返す事も出来ない。

あれは一体何なのか、あの御簾の向こうはどうなってるのか、という疑問。元々何処かと何処かを「仕切る」為のものであり、聖と俗、貴と卑を分けるものと言う事は、さしてその手の文化伝統に明るくなくとも肌感覚で分かる。勿論目の前のその仕切りも例に漏れず何かしらの心理的障壁、つまりはここから先は「関係者」以外立ち入り禁止と言うメッセージを仄めかしている。

しかし今この時足を止めているモノの正体はその「立ち入り禁止」とは恐らく少し違う。

同時に浮かぶ御簾の向こうの何かの存在。

背を向けて歩き出したら、その視界から離れた御簾が自分の知覚の外でひらと揺れたとしたら。

その揺れた御簾の裂け目から、何かしら、何かしらが自分の背中を叩いたとしたら。

そんな突拍子もない、怖いテレビを見た後の子どもの様な、そんな子どもじみた想像が、そんなものが踵を返し来た道を戻るだけの動作をまるで夢の中で走っているかの様にままならなくしている。

つま先から身体の向きを変えようとするだけで重心が傾き、手足の振りがてんでバラバラな、四肢のない生き物が初めて手足を動かす様な奇妙なもがきで、どうにか頭とつま先を反対に向けることができたのだが。


「やや?」




ぱっと見ただけでも恐らく数歩程の長さはあるだろうに、何より確かに人の気配なんて無かったはずなのに。

そんな思いをよそに、眼前にはさっき降りた階段がある自分の肩に


ぽんと


手を置かれたと思うと、ふっと春先に梅の花が色付く頃のような匂いが鼻に抜けた。と同時に


「あなや、うつくしうらうたしげな…」


背後のか細い声はまるで頭蓋を真っ直ぐ抜けるように頭に入ってきた。








 ・出典「老媼夜話」(1765 山本平太郎坐右衛門)


その昔侍所別当山名持豊の娘が病に臥した時、延暦寺の高僧が病の平癒のため加持祈祷をしていた。

そのある夜臥していた娘が立ち上がり、「御前様がおわします、とく、とく」と走り出した。慌てて高僧が後を追いかけると、暗闇の中に身の丈が一丈近くにもなる十二単衣を纏った女が立っていた。

高僧が叱咤すると、闇から何かを投げてよこされ、見てみるとそれは城内に飾られている兜の錣(しころ)であったという。




「あれ…?」

はっと気付くと、目の前は青暗い見慣れた自分の部屋であった。軽く左右に視線を二往復ほどし、とりあえず部屋の電気をつけたもののまだ頭はぼんやりしたまま数秒程立ち尽くしてしまっている。

取り敢えずスマホの電源を付けると、「22:07」の表示。ぼんやりとした頭で今日の行動を思い返すと、日中の太陽が差し込む外階段が朧気に脳裏に浮かんできた。しかし部屋に戻るまでの記憶がすっぽり抜けているため、果たして一体いつから電気も付けず部屋に立っていたのかなぞ考えると途端に目が冴え背筋に冷たいものが走る。


「起きられましたか?」


いきなり背後からした声にぎょっとし振り向くと、ガラッといきなり開いた押し入れから同じおかっぱの同じ着物を着た子どもがぞろぞろと五人這い出てきた。

あまりに突拍子のない現実離れした光景に、ただ金魚のように口を動かす事しか出来ない家主の様子には何ら興味を示さず、ぱんぱんと服の埃を払い律儀に横一列に並んで、可愛らしくお辞儀をした子供に釣られるようにぎこちなくお辞儀を返す。


「どうも、旦那さま。」


「右から、桔梗(ききょう)、女郎花(おみなえし)、萩(はぎ)、葛(くず)、撫子(なでしこ)ですわどうぞよしなに。」


「は、はぁ…」


「まぁ気のない返事、あんな夜這う真似しておきなさって非道い御方ですわぁ」


「は?え?な、なんの話ですか…」


「まぁ非道い、すきずきし御方はどうして皆こうもつらしお人なんでしょうか」


「いはけないお顔の割に、一体何人のいとほし乙女を生んできたのでしょうね」


揶揄うように、なんの話かさっぱりわからず困惑する家主を横目で見ながらクスクス嗤う子ども達、綺麗に揃ったその声音がかえって不気味で、胸の奥から不安感が首をもたげる。


「こらこら、あんまり揶揄うものではありませんよ」


か細くも不思議とはっきりと耳に入る鶯の様な声が、梅の花の香と共に胸の不安感を和らげ一瞬の安らぎが生まれたその時。押し入れの戸に常人の倍はありそうな長い指がかかったと思いきや。胡粉の様な白と濡羽の黒そして長い梅紫の袖が、まるでずるずると音を立てる大蛇の様に、乱雑に荷物を放り込んだままの筈の押し入れからゆっくりと這い出て来た。

天井に頭をつき少し窮屈そうに屈んで家主を見下ろすその女は、艶かしいその髪をはらはらと揺らしつつ、その合間に見える切長で長いまつ毛の瞳を、鮮血を固めた宝石の様にきらきらとさせている。目の前の異形とも言えるそれに対し声にならない吐息しか出せないが、それは恐怖よりも寧ろ姿形と声の美しさへの感嘆であった。その事への驚きとともに立ち尽くしたまま、数秒にも何時間にも感じる時間、そのままその鮮血の宝石と睨み合う形になっていた。


「きゃーっ!!もう無理ですぅー!! 」

「こ、こんな……こんなお近くで見つめ合うなんて……」


のだが、いきなり先程とうって変わったかしましい様子で騒ぎ出すとともに、本邦の一般的サイズ感な間取りの中でその大きな体躯を逸らしたがために思いっきり頭を打ってしまった。

翻って神々しい迄の妖しさを放つ彼女も思いっきり本棚の角に頭を打つと流石に悶絶せざるを得ないようで、その大きな身体を思わず横たえると今度は襖にぶつかりそのまま隣の部屋へ大きな音を立て襖ごと倒れ込んだ。


「まぁ奥様ったら、まだほんの一間目を合わせただけではありませんか」


「流石罪作りな殿方で御座いますこと」


子ども達は先程と変わらず揃った抑揚のないトーンのまま、静々と彼女を手を引っ張って起こす。先程迄の見惚れるような美しさと出刃を突き付けられる様なプレッシャーを孕んだ空気を断ち切る様な、とぼけた絵面に思わず気が軽くなるのを感じる。蛇に睨まれた蛙であったさっきまでとは違い身体が軽くなったのか、取り敢えず彼女に手を差し出して大丈夫かと声をかけるだけの余裕は生まれた。と言っても体格的に手を取ったところで立ち上がるのになんの助けにもならないが、手を取った彼女は目を丸くしながら今度は全く聞き取れない蚊の鳴くような声でごしょごしょ呟き、立ち上がってはまた軽く頭をぶつけ袖で顔を覆っている。


「お、お見苦しい姿を晒してしまいまして……」

顔を隠したままもじもじと大きな体躯をくねらす傍らで、子どもたちはそれぞれ転んだ彼女の埃を払ったり、倒した襖を直してくれていたりする。明らかに現実の理の外、どう考えてもこの世のものではないであろう「それ」を目の前にしながらも、何故か彼女達への恐怖は薄れていく。


「あ、あの……うちになんか用ですか……」


取り敢えずは一番知りたいことを尋ねる事にした。









泉(いずみ) 千晶(ちあき)。その御名を独りごち、舌が口蓋に触り、離れ、喉の少し奥で音を発する時、ち。あ。き。

想い人の名を指でなぞるように、口からその音が発せられる時。僕(やつがれ)の様な凄絶な物の怪には触れがたき柔和なその御顔。震えるような、それでいて囁くようなその声。清流の底で光る緑のように優しい貴方の命の光が、私の目を覆ったあの瞬間の、あの高鳴りが、私の心をまるでいざよう月の様に憧らせるのです。

しかし貴方の元へ参る事に思いやすらうことも出来ず、貴方の前に姿を晒してしまうことで、私はやはり貴方を恐れ慄かせてしまうのでしょうか。それならばいっそ、梨の花でも一瞥するように、私の事なぞ通り過ぎて欲しい。

私は貴方に恐怖の眼差しを向けられること、それが、何よりも恐ろしいのです。



泉千晶、大学ニ年生。特に何かに秀でていただとか容姿に恵まれていただとかの評価を貰った覚えもなく、勉強はしてなくもなかったつもりではあったが、そんな立派なネームバリューの大学に行けた訳でも無しに、ただただ中途半端な青年未満、それが自分の評価。友人は居なくもないが、結局地元からの付き合いの奴等と連んでいる。新しい場所に行きたい言いながら、蓋を開けてみれば居心地の良い日常に流れてしまう、そんな人生だった。


あの時、突如適当に荷物を押し込んだままの筈の押し入れから彼女達が現れてから一週間が経った。あの後取り敢えずウチに何の用事なのかと尋ねはしたものの、子ども達はこちらを揶揄うように笑うだけで、当の本人に至っては顔を袖で覆ってごしょごしょと声にならない音を発するばかり。現在侍女を名乗る子どもたちは冷蔵庫の箱入りのアイスをめいめい勝手に取り、主人である彼女は顔を見せはするもののジロジロ横目でこちらの顔を見るばかりで、こっちが顔を向け目を合わせると途端に伏せてしまう。そして子ども達はともかく、その主人の方は何か質問を投げかけても

「あの…その…」

と蚊の鳴くような声で囁くばかり。初見の恐ろしさや得体の知れない緊迫感は何処へやら、さしずめ一昔前の所謂萌え漫画や美少女ゲームの照れ屋枠であろうか。

幸い部屋は学生にしては広めなものの、流石に5人の子どもと常人離れした体格の成人女性一人となるとかなり手狭になってしまう。子どもたちは家主が寝ようとするとぞろぞろと押し入れに戻って行くが、しかしどう考えても彼女らの入るスペースなぞ存在しない。ある時寝る前に少し開けてみたが、入居時に乱雑に詰め込んだ荷物があるばかりであった。

やはりこの世の理の外のものである事は明白であるが、それ故の得体の知れない不気味さと現状の無害さ(勝手に冷蔵庫は漁られるが)から特に何も働きかける事は出来ずに共同生活となってしまっている。


しかし明日から新学期であるためこうしているわけにも行かないのである。正直部屋にこの人知の及ばない連中を置いて外出するのは不安ではあるものの、背に腹はかえられない。


「あの…じゃ言った通りぼく学校があるので、その、もし表に出るのでしたら鍵はかけて頂いて…」

「承りました、ご心配なさる事は何もございませんよ。」

「「「「「妾達奥様と旦那様の侍女として、お二方のお手をわずわらせる事は許されませんからね。」」」」」

揃って自信満々気に言うが、正直他人の冷蔵庫を勝手に漁ったそばからそんなことを言われたところで説得力には大分乏しい。

「あ、あの…お帰りのほうは何時ほどで…」

そんな中不安と憂いを覗かせた表情で小さく手を上げ、か細くも透き通る囀りの様な声で聞く彼女に、思わずドキッとさせられる。

「あっ…えと、夕方近くには…多分。」

「分かりました、ではお待ちしておりますね。」

微かに微笑んだ彼女の顔は、息を呑む様なあの時の白い肌と真紅の瞳のままに、今は暖かい春の日差しのような柔らかい印象を与える。濡羽の様な美しい黒をさらさらと靡びかせ、一つの動作のたびふっと優しい梅の香りを鼻腔に届かせる彼女に、思わず見惚れてしまいながらも慌てて背を向け部屋を出る。この数日で何か心境に変化があったのか、あのどう考えてもこの世のものではない異様な怪異を受け入れて行く自分に戸惑いを残しながらも自転車に跨った。



「ねぇ、ちあきってさぁ〜香水とか好きだった?」

緩めの少しふんわりしたボブヘアーに、恐らく激安を謳うかの量販店で買ったであろうジャージの彼女は、地元からの付き合いの代表こと幼馴染の葵響香(

あおい きょうか)である。

「えっ、いや?なんで?別につけてないけど…」

「え〜だってなんか良い匂いするもん。」

他人の頭を雑に撫で回したり肩や手首のあたりをペシペシ叩きつつ、彼女は小動物のように鼻先をあっちこっちに動かす。

「うーんなんか、香水というより…お香?みたいな?」

「なんか優しい感じの匂い、春〜って感じ。」

「そうかなぁ、そんななんか洒落た趣味始めた覚えもないけど…」

「女じゃないでしょな、なぁ。」

漫画のような眉間にしわを寄せた疑いの面持ちで、なぁなぁと軽く肩を揺らす。こう言う表情が分かりやすいとこが彼女の人好きのするところなのだろうなぁと改めて思うが、しかし全く身に覚えがないと言うと嘘になる。その春らしい香りの正体は、考えるまでもなくつい先週部屋の押し入れからまろび出たあの連中である。しかし押し入れからこの世のものでは無い怪異が現れて住み着き、それの香りが移った。そんな事を口にしようものなら向こうは流石に馬鹿にされてるとしか思わないだろう。現状まだじゃれあいで済んでるものを怒りに変えてしまうのは避けたい。

「いや…ほら彼女うちに呼ぶならさ、お洒落なアイテムでもあったらいいかなって。」

「いくら相手はジャージでどこでも行くようなやつでもさ。」

「えーいいじゃーん、楽なんだもーん。」

「そんならそのおしゃれになったお部屋とやら、早速見せてもらおっかな。」

「えっ!?」

まずい、今家に他人を呼ぶのは非常にまずい。あの連中をなんと説明すれば良いのか、どう贔屓目に見ても人間離れした連中である。あんなの目の当たりにして普通ならパニックではないだろうか、何故か受け入れている自分を客観視すると改めて今の異様な状況に気付かされる。

「えってなに、なんかやっぱやましい事あんの?」

彼女の視線が先程よりも疑惑の色を強める。まずい、連中を見られることもまずいが下手に隠し立てして変に怪しまれるのもまた話がややこしくなる。

「えっ、いやさ引っ越してから押し込んだ荷物流石に整理しないとまずいよなぁって、あとゴミも捨ててないし……」

「ふ〜ん、別に気にしないけどねぇ、長い付き合いだし、今更」

「いやいやさ?流石に人様を足の踏み場もない部屋には通せないよ」

「腐れ縁とは言えもう一応彼女相手だしね、カッコつけたいじゃん? 」

「ふーん……まぁ……それなら?そう言うことで納得してあげても良いけど? 」

今日の所はそれで丸め込まれてやると言いながらも、何処か満更でもなさげな表情で毛先をなでる。感情が表に出やすい彼女の愛らしさに表情が緩むが、今は取り敢えずこの場を乗り切れた安堵感が勝つ。

「じゃさ、その代わりに荷物持ちしてよ」

「あったかくなって来て新しい服も見たいしさ、後最近YouTubeで料理の動画見てんだよね、実験体にさせてあげるからさ、よろしく」

場を凌いだ流れで意図せずデートの運びとなった訳だが、異様な事が続いた中ここで楽しい日常に戻れることは正直かなり助けになる。が、一方で部屋を連中だけにしておく不安が影を落とす。しかし一応彼女らからこちらを脅かそうという意図は見られないし、子どもたちも勝手に家を漁って飲み食いするのが常になってしまっているので、まあ帰りが遅いなら遅いなりに勝手にするだろう。彼女の「お待ちしております。」の台詞が一瞬頭を掠めたが、まあ侍女のあいつらもいるだろうし何より先程の疑惑の芽を放置しておきたくないため、ここは彼女を優先すると言う事で荷物持ちの任に就くことにした。







A.M3:38、深夜と早朝の間、早起きの犬に付き合わされる飼い主も、夜遊び帰りも見かけない恐らく一番人の気のない時間。朝帰りでも、なんならそのまんま向こうから大学へ行ってもいいが、どうしてもなにか引っかかるものが拭えなかった。ドアノブを握った瞬間、腹にずっと重たいものがのしかかるの感じ、まるで何か大きな不義理を咎められるかのような、そんな重い気まずさが胸に立ち込める。本来絶対の安地である筈の自分の部屋に帰って来てこの重圧に迎えられると、歩みは相当に鈍くなる。春先にしては寒々しい中、玄関を通りリビングの電気をつけようと手を伸ばしたその時。

「お待ちしておりました。」

背後からした囀るような、しかし重い鉛の塊のような、質量を持ったようなあの声に思わず身体が硬直してしまう。まんじりとも出来ないまま、確かに玄関から入った時には居なかったはずの背後の存在に、全身の神経が逆立ち汗が噴き出す。

「私は貴方を、いとめでたしと見奉るをば……」

「こんな、こんなかくなることなき人を……」

「否、違うんです。貴方が逢うその女を憎んでいるのではなく……」

「戻ってくると言った貴方を独り待つ間、それを考えると身を砕かれるようで、辛く思い惑ふ自分が、惨めで……」

袖で顔を覆いさめざめと泣きはらす姿に、無神経にもそのあまりの艶やかさに心惹かれつつ、同情なのか罪悪感なのかそれなりの居た堪れなさを感じはする。するのだが、しかしそれを差し置いて胸中を埋めていくのはひたすらな恐怖のみであった。


「貴方が如何につれなくとも、如何に情け無くとも、私に心付き無しけれども」

「この恋が、たとえ私が独り見る夢のようなものだったとしても、あの時」

「あの時、貴方から私に逢いに来てくれたのではないですか、貴方が私を迎えにいらしてくれたのではないですか」


今まで仄かに香っていた暗香が、彼女が言葉を紡ぐ度に徐々に鉄錆の様な臭いに変わっていく。

それにつれて囀りのような声は濁り、瞳から流れ出る涙は、抑える指から溶けた水銀のように頬を伝う。その隙間から覗く真紅の瞳に見据えられた瞬間、身体は全身の血管に霜が走ったように凍え固まる。

「たとえ他の女へ通おうとも、貴方が戻ると言ってくれたから……」

頭上から鈍く歪んだ声で、まるで鉈を振り下ろすように重く、鋭く語りかけられる。その最中、動かない身体で必死に目だけは合わないよう足掻いていると、ふとある事に気付く。

子ども達の姿が見えないのである。常に彼女の周りに侍り、いつもゾロゾロ五人揃って動いているあいつらが。よりにもよって大事な主人が平静を失い取り乱していると言うのに、一人も姿が見えないのは何故か。


かたん、と背後から音がなる。振り向くまでは行かないが、なんとか横目でその音の出所を視界に捉えると、すーっと押入れの扉が僅かに開いた。その開いた隙間から五人分の目元が覗き、にいぃっと、繊月状に歪む。それ迄の揶揄うようなそれとは違う、はっきりとした明確な「悪意」の笑顔。「敵意」でも「怒り」でもない、もっと厭な、邪悪な笑み。その時、何に納得したのか分からないが不思議と、ああ自分は勘違いしていたんだな。と腑に落ちる感覚がした。そうなると、何故だかそれ迄の凍り付くような震えも、止まらない胸の騒めきも凪を打ったように静かになる。


「奥様、奥様、荒ぶる事は御座いませんよ」

「奥様、旦那様は奥様の手の中にいらっしゃるではありませんか」

「飛び立ってしまうのをつらしと思いなさるのなら、ほら、そのお手を閉じて仕舞えばよろしいではありませんか」

5人は遊びの掛け声のように主人を囃す。

「しかし、手を閉じ封じて仕舞えば、蝶は死んでしまう。」

「私が手を閉じる時、あのお方の目に私がどう映るのか、あのお方からしたら、私が……」

逡巡するように身体を屈め、消え入るようなか細い声で呟く。

「しかし奥様、その大事な蝶が他の花へ飛んで行ったまま戻らなかったら?」

「奥様、何もずっと手の中に閉じ込める必要などございませんよ」

「そうですよ、そのまま寝屋の内へ、連れて帰って仕舞えばよろしいではありませんか」

いつの間にかあの五人が、まるで我々が押さえておきますよとばかりに腰を抜かした自分の周りに集まっている。

そして彼女は梅紫の長い袖を広げ、ゆっくりと近づいて来る。自分を見下ろす顔は、垂れる髪と影に隠れ鮮血を固めたような赤い眼の他表情は確認出来ない。しかし近付く鉄錆と濃い梅の混ざった匂いが頭に響くにつれ、頭の中には白濁した霧がかかり、何もかもがぼんやりしていく。

彼女の袖が自分をすっぽり包み、その艶やかな黒髪が顔にかかる時

「あっもうおしまいなんだ」

と、何故だかそう納得できてしまった。その確信の中、思考が溶ける最後に頭に浮んだ彼女、「葵響香」が自分に向けた笑顔。このまま彼女に何も言えずに自分は「お終い」なんだろうか、せめて彼女にだけは、と口にする前に、白濁した霧の波に思考ごと彼女の顔も埋もれてしまった。








「ねぇお父さんの遺書見た?あんだけ家族に迷惑かけておいてさ、お母さんにごめんの一言もないの」

「ああ……なんか、まああんな事件起きちゃったとは言えなぁ……延々あの学生への謝罪繰り返してるってなぁ」

「なんかちょっと気味悪いよね、今更そんなの気に病むガラかね」

「マンションの値段が下がるだろってぐちぐち文句言ってそうなのにね、書いてあることも意味わかんないし」

「あの人、土地転がしでなんか後ろ暗いとこでもあったんじゃないの?バブルの頃だしさ、恨みなら散々買ってるでしょ」

「あ〜なんかあの件のマンション、確か建てる時も反対あったんでしょ? そもそも元々の土地も上になんか祀られてた祠があったのを潰しちゃったって聞いたわ」

「え〜なんか祟りとかそう言う話? でもその割には大往生よね、恨みなら星の数ほど買ってそうなのに」

「まあ……身体も弱ってさ、独りになって心境の変化でもあったんじゃないの、あんな気味悪い事件も起きちゃったしさ」

「いい気味よ、ベッドの上で死ねるだけでも温情だわ、どうせ地獄行きでしょうよ」

「男の子の方はまだ見つかって無いんだっけ? 女の子の方は……」








一体いつからこうしているのだろう。頭には、未だ乳白の春霞が浮かんでは消える思考の残滓をあっという間に覆い隠し、輪郭すら掻き消して行く。辛うじて記憶に残っている自分の名前を反芻しながら何とか意識を繋ぎ止めようと足掻くものの、隣りに座る彼女の吐息が、香りが、正気の端を離さんと込める力をすっと解く。微睡んだ視界の前には、開かれた襖と行燈が延々と前方に続き、先には黒々とした闇が覗いている。大部屋の四隅に置かれた行燈の灯りは、ぼんやりと襖に描かれた白梅を照らし、まるで白梅の枝がゆらゆらと揺らめいているかのように錯覚される。

「ち、あ、き、嗚呼……千晶様、私の……」

彼女はそっとその長い指先で、羽で擽る様に唇をなぞり、うっとりした様に何度も彼の名前を呟く。呟きながらぐぐっと彼の口元を覗き込むように屈むと、唇でその彼の唇を優しく食む。そうしてまた鮮血を固めたようなあの瞳を見開きながら、彼の焦点のぼやけた瞳を覗き込んでいる。


「霜枯れし梅にも、春は忘れざりけるに、契りを交わしたのに、なおや待つべきなのでしょうか? 」

「嗚呼……元より、こうするべきだったのでしょうか……」

「それとも、やはり私は、貴方と言う蝶を握り潰した愚か者なのでしょうか……」


まるで絵に描かれた阿片中毒者のように、微睡んだ表情のまま彼女の戯れに流されていると、開いた襖の闇の奥からすっすっと5人分の揃った足跡が耳に入って来た。

「まぁまぁ、睦まじいご様子で何よりで御座います」

「御覧、障子の梅が揺れ胡蝶も彼処に舞っていらっしゃいますよ、きっとお二人の仲を気に入り、喜んでおりますことですわ」

5人は何やら白布のかかった大きな台を持ち、慇懃ながらも笑みを湛えつつやってきた。

「拝謁ながら御二方に、我々5人からのささやかな贈物で御座いますわ」

「きっと御二方の思し召に叶いましょう」


さっと取られた白布の下には、色とりどりの花に飾られ、彼女、自分の意識が霧に埋まる最後に見た顔「葵響香」の首が、普段自分に見せるあの人懐っこい顔そのままに鎮座していた。

「まぁ、なんと可憐な」

「そうでしょう、雅でございましょう」「特にこの枝付きの獅子頭など、この瑞々しい娘の首を彩り、一層映えるではありませんか」

混濁した意識のせいか、何故だろうか、悪夢のような悍ましい光景の筈なのに微塵の恐怖も嫌悪感も、そして悲しみも、その何も感じない。寧ろ美しいとすら感じてしまう。大切な恋人なのに、人生の大半を一緒に過ごし、お互いにこれから先の時間をずっと共にしたいと願っていた筈なのに。その彼女の生首が生花のように彩られている、その猟奇的な目の前の物体の美しさに、見惚れてさえいる。

「御二方、気に入って頂けたようでなによりで御座いますわ」

「「「「「それでは我々はこれで」」」」」

まるで悪戯が成功して可笑しくて仕方のないとでも言うように、笑い声を漏らしながら静々と5人は闇へと消えていった。


「千晶様、私は千歳百歳と言わず、永劫お側に」

「前世も後世もありません、今、ただ二人でこうして居られる今だけでよろしいのです」

「ほら、梅の木々達も蝶もあの美しい花々もみな私達を寿ぐようですわ」

彼女がそう言った瞬間、襖の梅はさざめいて花弁を散らし、蝶は辺りを飛び回り襖のみならず四方の壁全てを色付け出す。その中で、飾り付けられた変わらずあの頃のままの明るい微笑の響香と目が合った。

「さぁ、千晶様、今は私を見て下さいまし」

「その美しくも優しい指で、これからは私だけを、私だけをなぞって下さるのですよね? 」




・出典「夭怪百物語」(1675 北原南鶴)

慶長十八年、城主池田輝政の時代、ある夜天守に怪しい光が灯った。若侍が命を受け確認に向かった所、闇の中に7つばかりの子どもが「お前の息子が三つになる前に我らが迎えに行くから、無礼のないよう常に支度をしておくよう伝えよ」と若侍に言い消えていった。

恐れた池田輝政は阿羅漢を招き、その日から日夜加持祈祷をさせ城の廊下には兵を置き迎え撃った。やって来た物の怪達は阿羅漢の祈祷に怯み背を向けた所、剣術指南役の卜部朴伝に斬りつけられた。

その明朝、天守では身の丈一丈程にもなる鬼が死んでいたと言う。






「んで、その時の鬼のミイラがこの寺に祀られてると」

「そうなんすよ!!」

「で、その人魚や河童のミイラの親戚みたいなモンの為にこんなど田舎まで俺は付き合わされてると」

「違いますよ先輩、鬼です鬼、鬼のミイラです」

「インチキと言う点では一緒だろ」

「インチキじゃないですぅ〜秘仏なんですよ秘仏、二十年に一度しか公開しないんですよ!!」

「それにですよ!!実はですね、その鬼を退治した翌日がその池田輝政の命日なんですよ!!」

「しかも死因は脳梗塞らしいんです!!これ絶対祟りですよ!! 」

「はぁ……祟りねぇ」

「しかも噂では記録によれば同じ日にその斬りつけた指南役も自宅で殺されているとか、祈祷に参加した僧侶達も謎の病で頓死したとか……」

「そしてその鬼のミイラ、実は生きてるらしいんですよ!!瞬きしたって目撃証言が沢山あるんですって!!」

「はぁ……さいでっか」

「じゃあなんでそんな恐ろしい鬼のミイラがこんなとこにあんだろな、姫路城から何県離れてると思う? ここ」

「あっ、来ましたよ先輩!!あの大きな箱!!あれですよあれ、いよいよですよ!!」

こんな辺鄙な場所に朝早くから見える多くの人影に、同じ穴の狢なのは承知だが呆れてしまう。スマホで近間の温泉が何時から開くのか見ていると、ザワッと辺りが騒めいたのが分かった。隣りにいる後輩もよく喋る口をあんぐりと開け黙りこくっている。

「おい、どうしたよ」

「せ、先輩……あれ……ミ、ミイラが……」

「は?」

「ミイラが……二つ……」

何言ってんだと思いながら見てみると、そこには劣化しながらも気品を残す着物を纏ったミイラの横に、明らかに現代の、それもその辺の学生みたいな格好の新しそうなミイラが、抱かれるように横たわっていた。

見た瞬間に(ああこの二人は夫婦なんだ、よかったなぁ結ばれて)と、何故か妙に腑に落ちるような安堵に胸が包まれた。

その意味の分からない納得にゾッと肌が怖気立ち、俺達は、多分寺の関係者含めその場にいた全員が、暫く話す事おろか指先一つ動かすことすら出来ずにそれを見ていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

逢うことの絶えてしなくば白梅も鬼にかわらざらまし にんふぇっ島 @nnft_island

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ