2.焦燥
高専の正門、暴走車事件の前は、同年代の男子生徒の、転落死の噂話で持ち切りだった。
ほんの、二日前まで、話題の中心でした。
古条市の私立美柑高校の二年生、杉岡裕人さんの転落死体が、古条港の近くの沿岸で発見された。
昔、村上水軍の見張小屋の付近だった。
芸予諸島と狼煙で連絡を取り合っていた。
狼煙を焚いていた場所だ。
その立入禁止の断崖絶壁から、飛び降りたとみている。
そして、古条港付近に漂着したらしい。
千景は、行った事はありません。
地元では、村上水軍見張小屋として、観光名所になっているそうです。
杉岡さんは、もうすぐ、高校三年生になる筈だった。
その直前の、春休みの出来事だった。
進路を決める、難しい時期の筈だ。
それなのに、転落死。
遺体発見現場近くで遺留品が発見された。
その中に遺書があった。
遺留品の状況と遺書の存在から、自殺として処理された。
遺書の内容は…
具体的な、校名も氏名も、記されていなかったそうです。
内容としては、他校の女子生徒と恋愛関係にあったようです。
その彼女との関係を悩んだ末、自死を選んだ。とあったようです。
ただ、テレビ等の報道だけの情報なので、詳細は分かりません。
ネットでは、いろんな噂話が飛び交っていました。
交際していた女性が浮気をした。
それで、杉岡さんが、女性を呼び出した。
揉み合った末、杉岡さんが崖から転落した。
と云う書込み。
逆に、杉岡さんが浮気をした。
それに、逆上し女性が、杉岡さんを崖から突き落とした。
と云う書込み。
真逆の書込みが、堂々と主張し合っています。
今も、ネットの論争は続いています。
この様に、余りにも突飛な内容ばかりなので、信用は出来ません。
いや、信用しません。
しかし、事件とは関係ない、個人情報については、ある友達から得た情報が、入手出来ました。
中学時代、杉岡君の成績は、学年で上位だったようです。
実際のところは、分かりません。
これといった得意分野も、無かったようです。
教室でも、可笑しな事があれば、それなりに、燥ぐ事もあるようでした。
仲の良い友達は居なかったらしい。
他校にも、親しい友達も、仲間も居なかったようです。
だから、目立つ存在ではなかったらしい。
しかし、それ程、特殊な生徒でもなかったようです。
そんな同級生は、他にも何人も居たから。
だから、気にもならなかったそうです。
と、いうように、至極、一般的な内容でした。
取り立てて、これだ。
と云う様な、情報は、ありません。
それに、杉岡君が、他校の女子生徒と、お付き合いしていた。
という事を知っている証言はありませんでした。
まあ、当然、だと思います。
稀に、全国ニュースで、同世代の同じような事件、事故が報道されます。
どんなに、極、小さな報道であっても、学校では、話題になるのです。
ましてや、地元で起こった事件なら、尚更です。
だから、地元で、こういう事があると、学校では、噂話で持ちきりになるのです。
しかし、全校の全学生が、興味本位だけで、噂話をしている訳では決してありません。
被害にあった人、亡くなった人に寄り添った会話になっているのです。
と、客観的に思えます。
勿論、極、一部に興味本位としか思えないような学生が居ることも、事実です。
しかし、それにも理由があるのです。
本校の学生の云う事に、どれだけ客観性が担保されるかは、怪しいところですが。
それでも、誹謗中傷したり、揶揄したりする事は、決して、ありません。
学校の基本理念「自主」「協調」「創造」の精神は、しっかりと引継いでいるのです。
の筈です。
くれぐれも、学校の、名誉のために、申し添えておきます。
長々と言い訳をしました。
まあ、事件、事故に異常なまでの、興味を持っている学生が一部いるのは事実です。
言い訳がましいのですが、興味といっても、真相を確かめたいという興味、いや、使命感からなのです。
それが、石鎚山高専、鈴音寮の「藤棚会」のメンバーです。
えっへん。
かく言う、私、秋山千景も、「藤棚会」のメンバーです。
「藤棚会」は、二年前、つまり、千景が新入生の時。
まだ、学校の女子寮「鈴音寮」へ入寮した頃の事でした。
鈴音寮の寮生が殺害された「鈴音寮の幽霊」事件が、発生しました。
それをきっかけに、鈴音寮の寮生が、研修棟へ集合しました。
当初は、鈴音寮の有志だけで「鈴音探偵団」と云っていました。
あっ、いや「鈴音寮探偵団」だったかなぁ。
いや、いや、やはり「鈴音探偵団」だ。
間違い無い。
筈だ。
それが、徐々に規模が、大きくなりました。
一度、鈴音寮の寮生を中心に集まる事になったのです。
それを聞き付けた、全校の学生有志が、自然発生的に、集結したのです。
その、集結した場所が、校庭の鯉の泳ぐ、水槽に面した藤棚のベンチだったのです。
それで、安易に…
あっ、いや、熟考の末「藤棚会」と命名されました。
当時の、中心メンバーだった正本先輩は、昨年、生物化学専攻科へ進学しました。
そして、鈴音寮を退寮して、近くのアパートへ引越しました。
稲田先輩も、生物化学専攻科へ進学し、正本先輩と同じ、アパートへ引越しました。
井上先輩も、この三月に卒業し、地元の有力企業、ミツバチ化学へ就職しました。
早く就職して、現場で職人を目指しているすそうです。
まだ、研修期間中で、作業の習得に集中しているそうです。
今の指導寮生は、五年生の石井友梨先輩です。
石井先輩は、電子工学科の切れ者です。
実際、女子学生の四分の三は、生物化学科と素材工学科が占めています。
機械、電気、電子工学科の女子学生は、少ないのです。
石井先輩は、以前から、あまり積極的な性格では、なかったように思えました。
どちらかと云うと、正本先輩や井上先輩に対して、批判的な立ち場のように思えました。
だから、寮の行事には、消極的だったのかもしれません。
そして、今回の、正門暴走車事件について、注意喚起のための、周知会も実施しません。
どうやら、四年生の指導寮生候補、豊田さんも、石井先輩の方向性に賛同しているように思えます。
豊田さんは、二年前の事件で、正義感、剥き出しだったのですが。
それで、大垣さんに、相談してみました。
すると。
「羊を被っている。だけやろ」
と、大垣さんの見解でした。
えっ?
と思ったのですが…
その内、本性を現すだろうから、心配ない。との事でした。
更に、石井先輩に付いても、豊田さんと、同様だ。との意見でした。
千景は、大垣さんと、馬が合うのです。
何とか乗りこなせます。
しかし、同じクラスの小倉律子は、大垣さんが、千景を乗りこなしているのだ。
と、云います。
ちょっと、失礼だと思うのですが、案外、そうなのかもしれません。
どちらが人で、どちらが馬なのか。
実は、杉岡裕人君の事です。
これは、小倉さんからの情報です。
同学年で、生物化学科のクラスに、杉岡君と同じ中学校出身の女子学生が居ます。
ただ、男子学生の事は、ほぼ、分からないそうです。
これも、小倉さんが調べたのですが。
男子寮にも女子寮にも、古条西中学校出身の学生は、入寮して居ません。
その女子学生は、自宅から通学しています。
クラスも違うので、ほぼ、接点がありません。
つまり、クラスも違うし、寮生でもないのです。
小倉さんの凄いのは、これからです。
正に、猪突猛進です。
顔見知りの生物化学科の女子学生に、お願いしたのです。
杉岡さんの学校内、学校外で知人を探し出してほしいと、お願いしたそうです。
そうしたら、すぐ、目と鼻の先、高専の同学年、電子工学科に杉岡君の中学校の同級生が居ました。
正に、灯台下暗し。
電子工学科三年生、西山真治君です。
西山君は、亡くなった杉岡さんと同じ、古条市の古条西中学校出身者です。
それで、今日の放課後、電子工学科の西山君と会う事になっていました。
小倉さんと一緒に、話しを聞かせてもらう、つもりでいたのです。
しかし、正門暴走車事件で、延期になりました。
残念。
しかし、今更、何ですが「羊」ではなく、「猫」なのですが。
羊頭狗肉とは云いますが。
意味合いとしては、若干違っているように思うのです。
これは、見掛け倒しの事ですけど。
もしかすると、羊の皮を被って、どれが獲物か見極めている。
と云いたかった。のかもしれません。
大垣さんの云った、真偽のほどは、不明です。
まあ、羊も馬も猪も、干支にありますが、猫はありません。
鼠に騙されたそうです。
干支を決める集まりに、出られなかったそうです。
また、何だか、話しが、脱線してしまいました。
なかなか、先輩には、云い出せませんでした。
コミュニケーションスペースで、話しをしていたので、それ以上、突っ込んだ話しには、なりませんでした。
今度、機会があれば、確かめてみようと思います。
それまで、覚えいるかどうかは、分かりませんが。
「正門コース暴走車」の騒動で、今日の四限目の授業が休講になりました。
と、云って、「醤鴨」へ行く気力はありません。
正門だけでなく、北門、東門にも先生、職員が、通学生を見守っています。
どうやら、警察の事情聴取は終わったようです。
寮への聞込みも、ありませんでした。
しかし、暴走した黒塗の普通のスポーツカーでした。
珍しくもない。
特徴としては、黒塗だけで、車種としてはスポーツカーです。
市内だけでも、相当な数だと思います。
多分ですが、防犯カメラの映像から、写真を起して、後で一人一人、聞込みに回るのだろうと思います。
地道な捜査です。
しかし、被害者は出なかったので、そこまで、捜査をするのかどうか、分かりません。
少し疑問に思います。
閑話休題。
学校の教師職員総出で、下校の見守りです。
ちょっと、脱出するのは、困難な様相です。
だから、決して「体力」ではなく「気力」が無かっただけです。
今はもう「食欲」が、無い訳ではありません。
何故かと云うと。
ほんの、二週間。
二週間の事でした。
二年生までは、五学科の学生が混合で、一クラス約四十名でした。
その四十名、一クラスが、五クラスに別れて授業を受けていました。
三年生からは、各学科に別れて、専門分野の学科毎に授業を受けています。
学科は、機械工学科、電子工学科、電気工学、生物化学科、素材工学科の五学科です。
千景は、素材工学の学生です。
実は、同じ地元、栗林市で出会った先輩に憧れて、石鎚山高専へ進学したのです。
先輩は、昨年、生物化学専攻科を卒業して、大阪の浪速大学の大学院へ入学しました。
その先輩の白衣姿に見惚れたのです。
千景は、その先輩の白衣姿を自身の白衣姿に置換え、想像を膨らませて、楽しんでいました。
進学の動機は、不純なものでした。
しかし、学校の制服が好きで、その学校への進学を決めた。
という生徒も居るのですから、一概に非難される事もないと思います。
千景は、白衣姿の自分を想像し、胸を膨らませて、入学したのでした。
しかし、違ったのです。
確かに、生物化学科の実習は、白衣なのですが、素材工学科の実習は、作業服だったのです。
ええっ!
しかも、真っ黒の作業服です。
まさか。
勿論、入学した時に、説明会で分かったのです。
とっても失望しました。
しかし、それでも、それでも。
それでも、先輩の作業服姿を見ていると、まんざら悪くもないなぁ。と、思えてきたのです。
格好良い、と感じたのです。
額に汗を浮かせ、油まみれの作業服で、旋盤作業している。
頼もしい、と思いました。
そして、実際に作業服を着てみると、気に入ってしまいました。
最初の実習は、旋盤です。
油だらけの作業服を着て、金属を切り刻むのです。
あっ、いや、切り刻んではいけません。
実習、初日、寮に戻って夕食を食べ始めると、何か身体が軽く感じました。
軽快という意味ではなく、力が入らないという意味です。
そして、消灯後、ベッドへ横になった時、足は脹脛と太腿、手は腕と掌、足の裏と指の関節が、熱を持ったように痛いのです。
分かりました。
筋肉痛の前兆です。
翌日の朝、はっきりと分かる筋肉痛は、更に激しく襲ってきました。
そして、その日、足を引き摺って、登校しました。
授業では、手を震わせながら、ペンを握っていました。
その日も、旋盤の実習がありました。
千景は、頑張って旋盤の作業に挑みました。
その夜、今度は、身体中が、更に激しい筋肉痛に襲われました。
そして、次の日も…
筋肉痛の上に筋肉痛が、覆い被さって来るのでした。
水曜日以外は、実習があるのです。
実習が始まった最初の週と、次の週と二週続けて、土、日曜日と「醤鴨」へも「赤シャツ」、「石寿司」、「モグ・モッグ」へも、「グリングラス」にさえも、出掛ける気力が湧きませんでした。
それでも、今週の三週目から、少し身体が慣れたようでした。
多少、筋肉痛は残っいましたが、土曜日に久しぶりで、「石寿司」へ出掛けました。
しかし、あまり沢山は食べられません。
十六皿食べただけで、寮へ戻りました。
暫く、食べていなかったので、胃が縮んだのかもしれません。
どうやら、旋盤作業の実習は、夏休み直前まで続くようです。
そして、ふと、思ったのです。
それだけ長く、この旋盤作業の実習が続くのであれば…
これは。もう、筋骨隆々女子になる。しかない。
ただ、それ程早く、縮んだ胃袋が、元に戻るだろうか。
千景は、そんな無用な、心配をしていたのです。
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