紫陽花の遺書

真島 タカシ

序章

仁助の足は、もう限界だ。

仁助は古条浦からずっと、疾走っている。

向かう先は、近見崖の見張小屋だ。


古条海に突き出た断崖絶壁が近見崖だ。

崖の下は、大きな岩が、崖を取り巻くように、岩場が広がっている。


岩場付近の海底は、さほど深くない。

潮も留まっているようで、漂着物が岩場に、よく絡まっている。


その近見崖のてっぺんに見張小屋が建っている。

見張小屋から、広く海を見渡せる。

一日中、交代で、誰かが詰める事になっている。


今は、波間集落の弥作が、見張小屋に詰めている筈だ。

しかし、古条浦からでも軍船が、はっきり見えている。


もう既に、西居島の近くまで、豊臣方の軍船が迫っている。

西居島は、古条浦から遠くに見渡して、一番奥の島だ。

それでも、見張小屋からは、はっきりと見えている筈だ。


弥作が見落したのか。

それとも、見張小屋に居ないのか。


元々は、今日の朝から、仁助の見張番だった。

しかし、弥作が、明後日の朝と交代してくれと頼んで来たのだ。

嬶の都合で、その日、出掛ける事になったと云う。

別口の給銀が、どうのこうのと、云っていたが、よく聞こえなかった。


仁助は、特に、詮索するでもなく、快く承諾した。

それなのに、見張小屋に居ないのか。


そもそも、古条浦で軍船が見えるまでに、いくつもの見張小屋がある。

その、いくつか見張小屋が、全部、見落したのか。

村上水軍の制海域へ主な高台には、見張小屋を置いている。


三之洲の見張番が見落したのか。

荒浜の見張番が見落したのだろうか。

それに、波内も能見も、伯浦の見張番も見落したのか。

しかし、あの大きな船を見落す筈もないのだが。

それとも、もう、攻められて全滅してしまったのか。


もう一つ、考えられるのは、備前、備中の辺りから、軍船が侵攻して来たのか。

それにしては、見えているのは、熊野の九鬼の軍船だ。

三之洲の前を通って来る筈だ。

だから、どの海路を通って、ここまで侵攻して来たのか謎だ。

もしかすると、誰かが、裏切ったのか。


何れにせよ、能島の船に早く報せなければ、大変な事になる。

村上水軍は全滅する。

まさか、九鬼の安宅船が、ここまで進軍して来るとは思わなかった。


能島軍船には、同じ古条浦の漁夫が六人乗っている。

他にも、西居島、波内浦など、漁夫が大勢集められている。

武者団を含めて、百数十が、軍船に乗り込んでいる。


九鬼が攻めて来るのは、分かっていた。

熊野を出たとの報が入っている。

日数を数えると、ちようど、今日の午くらいに、村上水軍の制海域に到着。

夕刻には、芸予諸島に到着すると思われた。


河野氏の軍略は、漁夫衆に知らされていない。

ただ、軍船を見付けると、陸方の武者に知らせる事になっている。


だから、九鬼の軍船が、持ち場の見張小屋を通過すると、見張番が、狼煙を上げる事になっている。


仁助も古条浦の漁夫だ。

幼馴染に与吉、亀一と弥作がいる。

与吉と亀一は、能島の軍船に加わっている。


仁助と弥作は今回、浜の守として、古条浦に残る事になった。

豊臣方の調略が激しく、三之洲の波多氏が寝返ったとの流言が、広く信じられた。

今は、既に、ただの流言だったと、誤解が解けたのだが。

この流言が、見方同士の、大きな争いを起こす、元凶になった。

村上水軍にとって、大きな傷手となった。


内紛の残火が、まだ、燻っている気配があるそうだ。

河野氏の武者団では、まだ警戒している。

それは、豊臣方の調略だ。


豊臣方の調略は、油断出来ない。

村上水軍が、進軍した後に、豊臣方が攻め入る事を懸念した。

陸方では、主の河野氏の武者団が防ぐ。

勿論、村上水軍にも、河野氏の武者団が、乗り込んでいる。

戦の、ほぼ全般をこの武者団が担っている。

軍船の漕ぎ手にも、屈強な武者が加わっている。


だが、海から浜に上陸する敵方は、水軍が防ぐ。

だから、村上水軍も河野氏の武者団が担っているようなものだ。


いや、元々、村上水軍は、主、河野氏の家臣、村上氏の武者団だ。

もっと云うと、河野氏の家臣団自体が、元々、海人だった。

だから、当然と云えば、当然なのだが。


とにかく、海域は、水軍。

陸方は、河野武者団。

ずっと以前から、そうなっている。


それで、浜にも、水軍の武者団を備える事になっている。

仁助は、陸方で備える事になったのだ。


そして、今、目の前の海を九鬼の安宅船が迫って来る。

仁助は、身体の震えを堪えて、見張小屋を目指して、疾走っている。


十年前の恐ろしい記憶が甦って来る。

摂津、木津川口で熊野水軍と、一戦交えた。


その時、仁助も、弥作、与吉や亀一と一緒に、水軍の水夫として、村上軍に加わった。

古条浦の漁夫は、皆、能島氏の軍船に、乗る事になっている。


四人は、まだ、十五、六歳で、漁夫としてでさえ、半人前だった。

まだ、とても若かった。

初めての戦だった。


「居たぞぉぉ!」

物見が大声で叫んだ。

敵の軍船が見えた。


木津川の河口付近に、織田軍が見える。

四隻の軍船の船縁から、沢山の小早船が降ろされている。


村上水軍が、木津川口に接近する前に、軍船に乗り込む戦略らしい。

村上水軍方は、火矢で応戦する。


小早船が接近する前に、火矢を浴びせた。

恐ろしい程、矢が的中する。

海に浮かぶ小早船が、次々に燃え上がっている。

炎に包まれた船から、武者や漕ぎ手が海へ飛び込む。

最初は、海に逃れた武者共を小早船が、掬い上げていた。

しかし、それも追っつかなくなった。


自身の船に、火が燃え移る。

自らも、海に逃れるしか、術がなくなった。

こうして、織田軍の小早船は、壊滅した。


村上軍は、更に、木津川口の織田軍に接近し、火矢で攻め立てた。

織田軍の軍船に、焼討を仕掛けた。

四隻を炎で包み、撃破した。

完勝だった。


織田軍の軍船から、海に逃れた武者や水夫は、数多くが、海の藻屑と消えた。

あるいは、河口の岸辺へ辿り着く者もいた。

辿り着いた者共の、その後は不明だ。


村上水軍は、無傷で…とは云わないが、損傷は僅かだった。

意気揚々、古条へ戻った。


その翌年、同じく、摂津木津川口で再度、合戦が始まった。

仁助と弥作が、能島の大将が指揮する軍船に乗り込んでいた。

幼馴染の与吉と亀一は、古条浦に留まっている。


熊野水軍の九鬼が、今回は、大きな安宅船を木津川口に六隻、回して来た。

しかも、大砲を備えているようだ。


村上水軍は、同じく、能島氏、来島氏、各々二隻で、海戦に挑む。


雷鳴か!

雷が落ちたのか。


大きな木の、へし折れる音がした。

船が大きく揺れた。

船が、悲鳴を上げて、軋んでいる。

雷が船に落ちたのか。


すぐに解った。

砲弾の音だ。

仁助は漕ぎ手だが、皆一斉に矢倉へ向った。

船の損傷に依っては、逃げる算段をしなければならない。


矢倉に出て、すぐ、目にしたのは、腹に木片の刺さった武者だ。

まだ、息があるのか、横たわって呻いている。

だが、首が後ろに垂れて、すぐ息絶えたようだ。


仁助は、人が死んでゆく様を初めて見た。

何時か…いや、もうすぐ、仁助も同じように、この戦で死んでしまうのかもしれない。

そう思うと、足が震えた。


仁助は、死体を見るのが、初めてではない。

すぐ近所の漁夫が、浜に打上げられているのを見た事がある。

その死体は、もっと酷かった。


鱶に食い千切られたのだろう、片足が無かった。

片腕も、千切れてはいないが、骨が見てえいた。

顔や身体の、そこかしこに、喰い付かれた跡があった。

漁に出て、二日後の事だったそうだ。


仁助は、足が震えて、近付けなかった。

死んだ大人は、近所の大人共に、手厚く葬られた。


その後、近見崖の岩場で一度、古条浦で二度、同じ様な死体を見た事がある。

何度見ても、怖ろしく、中々、情景が頭から離れない。


しかし、人が目の前で死んで逝く様を見たのは、初めてだ。

病で看取った事も無い。

藻掻き、苦しみながら死んで逝く様を見た。


怖い。

どうしようもなく、怖かった。


「持ち場へ戻れぇ!」

すぐに武者共が叫んだ。


船の損傷は、酷くなさそうだ。

既に、木挽衆の補修が始まっている。


砲弾が、軍船を掠めたのだ。

掠めただけで、これ程の衝撃があるのか。

命中していたら、一溜まりもなかっただろう。

そう思うと、また身体が震えた。


また、砲弾の音が一斉に響く。

持ち場へ戻り、櫂を握ったが、手が震えて、力が入らなかった。


「回せぇ!」

侍大将が声を張り上げる。

左辺の漕ぎ手が一斉に櫂を漕ぐ。

舵取りが船を回す。


「漕げぇ!」

仁助は、櫂を漕いだ。

力一杯濃いだ。


織田軍の六隻の船団から一斉攻撃を受けた。

村上水軍の六隻の内、既に四隻撃沈されている。

能島軍船一隻、因島軍船二隻、来島軍船一隻だ。

幸にも、因島大将と来島大将は、軍船が沈没する前に、小早船へ乗り込んだ。


来島大将は、もう一隻の来島軍船に、因島大将は、能島軍船に拾われた。

何人かは、各軍船に拾われたが、大半は、軍船と共に、海に沈んだ。


海戦に敗れて、村上水軍は、制海域の古条の居城へ戻った。

そして、十年、軍船の補強、兵の強化に努めた。

勿論、大砲を備えた安宅船の築造にも注力した。


一方、豊臣方は、瀬戸内海の制圧を目論んでいるらしい。

村上水軍に対しても、和睦、説得、懐柔を繰り返し、試みるのだった。

豊臣方は、専ら調略に努めた。

元々、秀吉は、調略に長けていた。


そして、遂に、来島氏は河野氏を離反し、豊臣方に通じる事となった。

能島氏と因島氏は、毛利氏に従う事になった。

村上水軍が初めて割れた。

これにより、敵味方が入り乱れ、疑心暗鬼になっていた。


そう云えば、弥作が、仁助に見張番の交代を頼んで来た時、妙な事を云っていた。

最初は、嬶の都合と云っていた。

また、今日、見張番をすると、別口から給銀をもらえるらしいと云った。

確かに、見張番や浜の警備に出ると、村上水軍から、ささやかながら、給銀が支給される。


理由は喋らなかった。

喋らなかったのか、知らなかったのかは、分からない。


嬶の都合でどこかへ出掛ける。

あるいは、今日、見張番をすると別口の給銀が入る。

だとか、どうも、話しが曖昧だ。

そもそも、別口とは、どういう事か。

今、思うと、何か隠しているようだった。


もしかすると、豊臣方の間者の仕業かもしれない。

仁助も一度、騙された。


時化で漁に、出られなかった時だ。

安芸の商人から、これを今日中に、城下の鐘屋へ届けてくれと頼まれた。

渡されたのは、大きな葛籠二包みだった。

しかも、望外な給銀を云われた。


ちょっと怪しかった。

安芸の商人だと云っていたが、堺の商人だと思った。

話しぶりが、安芸ではない。

浪速の訛りだった。


ちょっと不安だったが、引き受けた。

このところ、時化が続いて、漁に出られなかった。


だから。

弥作を誘って、葛籠二包み、鐘屋へ運んだ。

鐘屋は、十年程前、越中の薬種問屋が暖簾分けされて、古条へ移り住んでいる。

店は、繁盛しているようには、見えない。


一体、どうやって、店を維持しているのか分からない。

裏で、何か善からぬ商いをしているのでは、と噂されていたようだ。

仁助は、城下に住んで居ないので、本当のところは、分からない。


だが、頼まれた荷運びの、葛籠は不審な物は感じられなかった。

荷は、薬草という事だが、目方にも、さほど違和感は、なかった。

ただ、臭いはあった。

薬草の臭いか、とは云っていたが、どうも、硫黄の臭いだったように思う。

硫黄が薬になるのか。


怪しんでいたが、約束通りの給銀を受け取った。


それはそれで、もう、忘れていた。

もう、困っても、商人の誘いに、乗るつもりは、無かった。


ある日、弥作が泣きながら、仁助を訪ねて来た。

あの商人が、約束した給銀を支払わないと云う。

同じように、何度か葛籠を鐘屋に運んだ。

最初の二回は、約束通り給銀は、支払われた。

しかし、三回目の荷運びの際に、三回目の給銀は、四回目の荷運びの時に支払うと云う。


また、二回くらいは次の荷運びの時に、約束の給銀が、支払われた。

しかし、徐々に、給銀の支払が滞るようになった。


何度もそれを繰り返した挙句、堺の商人は姿を消した。

しかも、鐘屋自体も、店を閉めて行方を眩ませてしまっていた。


城下で、鐘屋は、余り知られていない。

店を閉めても、特に、妙な噂も無かった。


仁助の思った通り、あの商人は、食わせ物だった。

弥作も、もう、あの似非商人に近付かないだろうと思っていた。


しかし、もしかすると、また。

あの似非商人と、付き合っているのだろうか。


まさかとは、思うが、村上を裏切って、九鬼に加担していないのだろうか。

弥作は、儲かると聞けば、すく乗ってしまう。


心配しても、始まらない。

仁助は、見張小屋を目指して、疾走り続けた。

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