好きな人

三河遥

第1話

木下きのした!」

 放課後の教室。そこにいる木下は私だけ。

 またか。そんな風に嘆息して、私は席を立った。

「ごめん、すぐ戻るから」

「あ、うん」

 一緒にいた佐々木ささきにそう声をかけて、私は教室を出る。佐々木も、同じクラスになってそこそこの時間が経っているわけで、私のこうしたことにもずいぶん慣れてしまっている。それは楽でありがたいことだとも思うけれど、こんなことに慣れられるのもなあ、なんて風にも思ったりする。

 緊張した面持ちの男子に目を合わせる。私の瞳と目を合わせた彼はサッと目を逸らして、「二人で話したい」だなんてありきたりな発言をする。

「うん」

 短く返事をして、彼と二人で、二人きりになれる場所に歩いていく。


 ――。

「お待たせ」

「いつもと同じ?」

「うん」

 椅子を引いて彼女の後ろの席に腰を掛ける。

 告白。

 学生にとっては大きなイベントの一つだと思う。

 はあ、と私はため息を吐く。

「疲れるのはわかるけどさ、なんでいつも教室に残ってるの? 本読みたいだけなら、ここじゃなくてもいいじゃん」

「前にも言ったと思うけど、教室の匂いが好きなんだよ」

「でもなあ」

 佐々木とは放課後はいつもここで話している。文芸部には入っていないけれど、二人とも本が好き。放課後に教室に残って、同じように本を読んでいることに気付いて、意気投合。

 好きな本くらい自分で探せるのだから、敢えて文芸部に入るつもりがないと彼女に話すと、おんなじだと彼女は笑った。

「あたしだったら、家に帰って本読んでる気がする」

「ため息を吐いたけど、私はこういうの嫌いじゃないもの」

「うわ、自慢?」

「そう聞こえたんならそうなのかもね」

 週に一回とまでは言わないけれど、月に数度はこうして私は二人で話せる場所に呼ばれる。高校一年生のころは佐々木がいなかったから、放課後ならそのまま教室で告白という流れになることが多かった。多分その時、一年前は二個隣のクラスだった佐々木は私の関知しないところで本を読んでいたんだろう。

「いつもなんて断ってるの?」

「ごめんなさい」

「一言だけ?」

「一言だけ」

「他に好きな人がいるとか」

「佐々木にはいるように見えるのかな?」

 私が言うと、佐々木はうーんと唸る。ジト目で私の方を見て、また「うーーーん」と唸る。

「……期待してるようにも見えるんだよねえ」

「……」

「逆に聞くけどさ、教室の匂いが好き、なんて、そんな理由で納得してるように見える?」

「それは……」

 わざわざ突っ込まれなかったから、納得しているものだと。

 とはいえ、確かに苦しい言い訳のように聞こえているのかもしれない。

「……くだらない」

 栞で挟んでいた本を開いて、目を落とす。こうしていたら、本当に苦しい言い訳になってしまうと思いながら、佐々木と目を合わせられなかった。

「逃げた」

「佐々木と本の話以外で盛り上がるつもりもないし」

「コイバナって学生の本分じゃない?」

「少なくとも、佐々木の口からその言葉を聞くのは初めてだね」

「簡単にメッキは剝がせないか」

「簡単に剝がれるメッキなら、とっくに剥がれてるよ」

 そんなことより、と私は声を出す。

「この前本屋で見つけた本なんだけど」

「……」

「聞けよ」


 ☆


 鞄を肩に提げて、私は校舎を出る。ここから近所の塾に通う佐々木は、私より先に教室を離れて塾に向かっていた。

「バレてるよなあ……」

 はあ、と私はまたため息を吐く。駅に向かって歩き出した。


 ――今、高校二年生。好きになったのは中学二年生のころだ。

 学力の足りていなかった私は、必死に勉強して意中の相手と同じ高校に合格した。親は塾には通わせてくれなかったから、私は必死で勉強をして志望校を引き上げた。

 本なんて、本当は好きでも嫌いでもない。嫌いじゃないから読んでいるけれど、好きかといわれたら好きな人が好きだからというのが答えになる。

 佐々木は、中学で私と同じ学校に通っていたことを、多分知らない。私だって、最初から佐々木のことを気にしていたわけじゃない。

 授業が終わって、なんだか少し眠たかったその日、私は教室に誰もいなくなってからうたた寝をした。今の高校と同じで、極端に遅くならなければ教室にたむろしていたって叱られることはない学校だ。数十分教室の机に突っ伏して寝て、それから起き上がる。

 目を擦って、欠伸をしながら教室を出た。

 廊下の窓から外を見る。今は冬の真っ只中だ。真っ暗とは言わないけれど、少しの睡眠でも日は落ちかけている。わざわざ教室に残っている人もいないだろうなあ、なんてぼやきながら、今度は逆に教室の方に目を向けた。

 目を奪われた。

 そこには、教室で本を読む、ひとりの少女の姿があったのだ。長い黒髪を掻き上げる仕草が、なんだか妙に扇情的だった。

 私の髪は短くて、その仕草はどうやったって映えない。彼女の長くて、そして艶のある黒髪だからこそ、その仕草は映える。

 俗っぽい言い方をすれば、ひとめぼれだったのだ。自分の心臓に手を当てる。どくんどくん。その鼓動を、はやる鼓動をどうしようもなく意識する。

 私はその場から逃げ出した。それまで気にしてもいなかったけれど、足音を立てないようにして、彼女に気付かれないようにその場を去った。

 次の日に、クラスメイトに聞いてみる。七組で、放課後に本を読んでいる女子のこと。

 聞いてみると、答えはすぐに帰ってきた。放課後に活動しているわけではないので当然帰宅部。そのクラスメイトは、一年生の時彼女と同じクラスだったらしい。授業が終わってから、教室でひとり、本を読み耽る女子がいたから、その存在は随分と印象に残ったと聞かされた。確か七組だったと思うけどちょっと自信ない、と告げて休み時間に見に行ってもらったけれど、やはり七組で間違いないようだった。

 佐々木優香ゆうか

 それが彼女の名前だった。

 なんで? と聞かれたけれど、昨日偶然見かけて気になっただけと答える。彼女はふーんとどうでもいいように呟いて、話題は別のものに逸れていく。気にしているのは私だけなのだ。彼女らにとっては、地味でどうでもいい少女ということなのだと思う。「かわいい子」、なんて風にも言われていなかった。

 私からしたら、ひとめぼれしたくらいなのだから絶世の美少女だ! そうやって話題を続けることもできたけれど、流石に躊躇われた。

 かくして、私は佐々木の存在を知り、彼女と同じクラスになった子から情報を掠め取り、同じ高校に合格し――

 そして、二年生では同じクラスになった。

『他に好きな人がいるとか』

 彼女の疑問は大正解だ。でも、それが自分のことだなんて露ほども思ってないんだろう。

 高校生に上がってから妙にもてるようになってしまって、「いつか好きな人と結ばれるんだろうなあ」なんて思われているのかもしれない。

 告白を何度も受け、それらを毎回跳ねのける。具体的な理由なんかも話していないので、自分だったらと飛び込んでくる蛙は止まるところを知らない。

 二年生に上がってからは、その光景を佐々木は何度も見ている。

 だというのに。

『他に好きな人がいるとか』

 である。自分はその光景の蚊帳の外にいると、そう思い込んでいるのだ。本当は、誰よりも渦中にいるというのに、それに気付く素振りがない。

 性的マイノリティであるということは重々承知の上だ。だからこそ、はっきり言わねば気付かれないのだとわかっている。同じ趣味を持つ親友という一点に甘え切っている自覚はあって、甘えている自分を許しているのはほかでもない自分自身。

「あああもう……」

 そんなことを考えている間に駅に着く。中学が同じなので、塾のない日なんかは一緒に帰ったりもする。

 定期券をタッチ。構内で少し待てば、ごごごという音が響いて電車が着く。

「……ほんと、どうすればいいんだろ」

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