明日は土曜日

浅野じゅんぺい

明日は土曜日

玄関のドアノブをひねると、鍵が乾いた音を立てて回った。


ふと、鼻先をかすめたのはコーヒーの香りだった。

一瞬、誰かがそこにいるような錯覚にとらわれる。

靴のかかとを床につけたまま、動きを止めた。

けれどそれは、今朝の自分が淹れたコーヒーの匂いだとすぐに気づき、浅く息を吐いた。

冷えた空気に、まだかすかに漂っている。失われた熱の、残り香のように。


「……ただいま」


思わず、声に出してみた。

けれど、その声はどこか、自分のものではないように思えた。

部屋の中に誰もいないことがわかっていても、言葉にしなければ帰ってきた実感を持てないときがある。


まるで、心の底に沈んでいた何かが、ひとつずつ浮かび上がってくるような感覚だった。

あるいは、水面に散っていた澱が、ようやく静かに沈んでいくような。


照明のスイッチを押すと、部屋の輪郭がオレンジ色に滲んで浮かび上がる。


ソファには、脱ぎ捨てられた毛布。

床には、脱ぎっぱなしのスウェットと、丸められた靴下。

まるで、彼女が急いで出かけた朝のようだ──と思ったけれど、それも全部、自分のものだった。


テーブルの上、空のマグカップを手に取る。

指先に、じんわりと冷たさが沁みてくる。

たったそれだけのことで、少しだけ安心した。

ああ、ちゃんと、自分の場所に帰ってこられたんだ──そう思えた。


この部屋は、散らかっていて、静かで、でも確かに「自分のもの」だと、胸を張って言える。

そして、かつて「ふたりのもの」だった時間の名残が、まだここに残っている。

そのことが、たまらなくうれしかった。


──今日という日は、本当に疲れた。


会社では、用意された言葉ばかりを並べて話していた。

笑顔をつくるたびに、自分じゃない誰かになっていくようで、ふとした瞬間、何もかもが色褪せて見えた。


でも、ここに戻ってこられた。

そのことだけで救われる夜が、確かにある。


時計の針の音。

冷蔵庫の低いうなり声。

遠くで犬が吠える声。

どこかの部屋から聞こえる水音。

それらが、自分の外側で生活が続いている証のようで、少しだけほっとする。


「……明日は、土曜日か」


ぽつりとこぼれた声が、思いのほかやわらかかった。

その響きに、自分でも少し驚く。

まだ、こんな声を出せるんだ──それが、ほんの少しだけうれしかった。


アラームはかけない。

洗濯も、掃除も、明日でいい。

今日は、自分を責めないと決めた夜だ。


ソファの毛布を引き寄せる。

鼻先をかすめた柔軟剤の香りに、ふいに記憶が弾ける。


金曜日の夜、雨が降っていた。

彼女は濡れた傘を玄関に立てかけて、ソファに積まれた洗濯物を見て、眉を寄せた。


「これ、畳まないの?」


そう言って、俺をちらりと見た。

気まずくなって返事をしかけたとき、彼女はふっと笑った。


「でも……こういう生活感、けっこう好きだな」


そのときの声も、表情も、まだ耳の奥と心の奥に、ちゃんと残っている。

少し鼻にかかった、あのやさしい声。

言葉の一つひとつに、体温があった。

その体温が、この部屋のあちこちに、まだ残っている気がする。


“生活感”。


今なら、その言葉の意味がわかる気がする。

誰かと一緒にいて、選び、迷って、笑って、日々を重ねていくこと。

そしてそれが、日常という名の、愛おしい混沌をつくっていくこと。


空のグラスをテーブルに戻す。

静かな音が、夜の中に吸い込まれていく。


今日という日が、ようやく自分の中で「終わっていく」。

そう思えた瞬間、肩の力がふっと抜けた。


明日は、土曜日。

ただ、それだけのことなのに。

心の奥で、なにかがゆっくりとほどけていくのがわかる。


ひとつ、欠伸をして、目を閉じた。

毛布のぬくもりが、夜の静けさと、彼女の記憶と、

そして自分の輪郭を、そっと、やわらかく包んでくれた。







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明日は土曜日 浅野じゅんぺい @junpeynovel

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