彼女はサイレン
青王我
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「くそっ、なんだってこんなことに……」
僅かな月明かりを頼りに路地裏を駆ける人影があった。
男にはまだ、少なくとも無駄口を叩ける程度には体力に余裕があるようだ。しかし心理的には、ひどく憔悴していた。
走る男の背後からはカツン、カツンと響く別の足音がある。それはゆっくりと歩いているように聞こえるが、どういうわけか走っている男との距離はまったく広がらず、むしろ僅かずつ迫っているようにも聞こえる。
それも複雑に折れ曲がる路地裏の中で反響し、正確な距離はもはや分からない。
「なんなんだ……なんなんだ、あの女は」
男はほんの30分前のことを思い返す。
街を歩いていた男は裏通りでキョロキョロと辺りを見回す若い女を見つけた。歓楽街の微妙な照明でなんとも言えないが、背格好からして学生だろうか。
女との距離を縮めるにつれ、女の不思議な格好が目に入ってくる。農家のような野暮ったい服に、ピンク色のエプロン。いったいどこのキッチンから迷い出たのだろうか。
「やあ君、どうしたの――」
声をかけられるくらい近付いた男は早速口説こうと声を掛けるが、その中途で、女のエプロンがピンク色なんかではないことに気付く。
そのエプロンは確かにピンク色掛かってはいるが、どちらかというとクリーム色で、色褪せによるもののようだった。更に言えばそれはよくある布製のものではなく、厚ぼったく頑丈そうな、そう、何かの革のような。
「あら――、こんなところにも豚さんが」
そう言って振り返ったその女の手には、大振りのナタのようなものが握られていた。
それから男は一も二もなく、道を引き返して走り出していた。体力にも土地勘にも自身がある――そう考えていた男はいつしか路地裏の中で追い詰められつつあった。
「くっ、撒けたか?」
額を伝う汗が目に入り、男の視界が一瞬遮られる。慌てて腕で汗を拭った男だったが、その視界が晴れる前に何かが男の口を覆った。
「なかなかイキの良い豚さんですね」
驚きに目を見開く男が手を振り払おうとするが、女の力は異常に強くまったく引き剥がせない。
女は男の顎を摑んだまま、男を引きずって路地裏を歩き出す。月明かりに照らされた女のエプロンには意味深な赤い染みがこびり付いていて、男は更に暴れる。しかし女はくすくす笑いながら路地裏の闇に消えていくのだった。
それきり男の行方は杳としてしれない。
彼女はサイレン 青王我 @seiouga
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