- Epilogue -
雨が降っていた。
道にはいくつもの水たまりができ、アスファルトに雫が落ちてはぽつぽつと染みをつくっている。
(やっぱり雨、か)
私は傘の下で空を見上げながら、湿気で巻きが取れてしまいそうな髪を耳にかけた。
以前からの予報どおり、空は朝からずっと灰色の雲に覆われている。
せっかくの今日という佳き日が雨予報だと知ったとき、本日の主役たる彼女は「初めてちゃんと喋ったのも梅雨だったし、私たち雨に縁があるんだよねぇ」ところころ笑っていた。
梅雨真っ只中の時期の挙式ということもあり、事前に届いたWeb招待状のモチーフは雨とカエル。載っていた前撮りの写真にもカラフルな傘を差した2人がいたから、式当日も雨であることを前提で進めていたのかもしれない。
「来てくれる亜湖たちには、天気が悪い中で申し訳ないけど……」
出会った頃から変わらない、他人への気遣いを忘れない親友。1週間前に一緒にお茶をした時、そう言っていた。
家を出る時に比べれば雨の勢いはかなり弱まり、空の雲も薄くなってきている。きっともうすぐ止むだろう。
どうか彼女が参列者側の負担を気にかけすぎず、自分のことに専念できていますように、と願った。
「亜湖、そこ水たまり」
まばらに雨粒を落とす空を見上げながら歩いていると、突然隣からクイと腕を引かれる。
「わっ、ほんとだ。ありがとう」
「上ばっか見てると転ぶよ?」
そう言って、夫になったばかりの彼が呆れ混じりの優しい顔で笑った。
今日の結婚式には、夫婦2人で招かれている。1ヶ月半前に連名で招待状が届いたときには、夫婦なんだなあ、と実感してくすぐったかった。
入籍してから数ヶ月経った今も、自分の薬指に光るものがあること、そして職場や病院で不意に呼ばれる新しい苗字に自分のことだと気づけないこと。まだまだ慣れないことばかりだ。
大きな水たまりを避け、一歩分体をずらした彼の方に身を寄せる。ちょうど目の前は赤信号で、信号待ちで止まる人々の色とりどりの傘がひしめき合っていた。
「雨、もう止みそうだなって。ボーッと見ちゃった」
「うん。この感じだと式が始まるまでには多分止むんじゃない?」
「だねぇ。でも雨も縁起いいっていうよね。幸せがふりこむとか、雨降って地固まるとかよく言うし」
そんな風に何気ない会話を続けていると、ふと、聞き覚えのある声が上から飛んできた。
視線を上げると、交差点の向こうにある巨大なデジタルサイネージに最近よく見る人気俳優が映っている。
「あっ! 見て、野間くん!」
「うわっ、あんな馬鹿デカいイケメン心臓に悪いわ」
目の前にいた女子高生2人組がそれを見上げて傘を揺らし、興奮した声を上げた。ファンなのか即座にスマホをかざし、画面越しの彼を写真に収めようと腕を伸ばしている。
「かっこよすぎる……あれ新CM?」
「じゃない? そういえば今度のドラマで教師役やるんだってさ、知ってた?」
「えーっ!? 嘘でしょ、やば、生徒役のエキストラとか募集しないかな」
盛り上がる2人の背中からそのまま再度デジタルサイネージを見上げ、隣に視線を移す。夫にも目の前で繰り広げられる会話はバッチリ聞こえていたようで、私と目が合うと苦笑いした。
――
去年とある映画で二面性のある役を演じ、同じ人間のはずなのに怖いぐらいに別人に見えると、主演ではないにも関わらず注目が集まりその高い演技力が評判となった。
『同じ顔なのに前半と後半で全然別人、ゾッとする』
『最初は誰だろこのイケメン〜ぐらいだったのに度肝抜かれた』
『演技力えぐい、記憶消してもう一回見たい』
『野間亜蓮、マジで何者?』
公開からじわじわとクチコミで広がり、SNSで飛び交う感想もほぼすべて、彼の存在にふれているものばかり。
実年齢は非公開、甘い顔立ちは20代前半のようにも見えるが、30代といわれても納得できる落ち着きがあり、作品中では40代、50代の錚々たる俳優陣と並んでも遜色ない色気を醸し出し見る者を魅了させる。
これまで舞台を中心に活躍していたようだが、話題となったその映画をきっかけに急激にメディア露出が増えCMで見かける日も多い。
年齢不詳かつ私生活がほぼ不明とのこともあって、そのミステリアスな雰囲気に様々な年齢層でファンが増えているらしい。
「でも実際、大学生のとき教育実習やったんだってさ。本人が雑誌のインタビューかなんかで話してた」
「えっやば! マジの先生じゃん。何年前なんだろ、学校ってこの辺かな?」
信号が青になる。
女子高生たちは斜めの方向に横断歩道を渡っていき、騒がしい声は次第に遠のいていった。
「ノマ、アレン、ね……」
なんとシンプルなアナグラムなのか。
映像の向こうで、黒いSUVらしき大きな車にもたれかかったままこちらを見つめる端正な顔。その後すぐに有名な車メーカーのロゴが真ん中に走り、画面が暗転した。
『何年後かには、誰もが知る存在になってるかもね?』
当時は冗談のような軽さで口にしていたけれど、見事あの言葉を数年越しに現実にしたのだ。
あの時に何となく感じたとおり、先生と当時呼んでいたあの人と、偶然にでも再会することは一度たりともなかった。そしてこれだけの有名人になった今、この先も会うことはないだろう。
一瞬で過ぎ去ったあの1ヶ月、私は誰よりも幸せだった。
振り回されたり喜んだり落胆したり苦しんだり。あの時のすべてが、今になって思うと眩しい一幕だったと思う。
まさか親友の結婚式当日に、あの頃の思い出に触れることになろうとは。ただ、懐かしく思いながらも、もう胸が痛むことも焦がれることもない。
「亜湖? いくよ」
「あ、うん!」
青信号になって動き出した人の流れに、少しだけ乗り遅れた私を振り返って夫が手を差し出す。目尻を下げて、私はその手をとった。
*
会場に着く頃には、雨は止んでいた。
スーツ姿やドレスアップした姿で談笑している招待客たちを見ると、ずっと心待ちにしていた時がようやくやってきたのだと実感が湧いて心が踊る。
入ってすぐのウェルカムボードには幸せそうに微笑む、純白のドレス姿の彼女がいた。そしてその隣で笑顔を見せるタキシード姿の新郎、その下には「Minato & Maika」の文字。
私が呆気なく散った隣で、少しずつ少しずつ育んでいた恋を、彼女は見事成就させたのだ。
「本日はおめでとうございます」
受付でご祝儀袋を渡すと、手元の芳名帳に目を落とした。ペンを取り、サラサラと自分の名前を記帳する。
〝佐野 亜湖〟
まだ書き慣れない苗字で、自身の名を丁寧に綴った。
「見て亜湖、急に晴れてきたよ」
振り返ると、夫が驚いたようにガラス張りの吹き抜けを見上げている。
つい先ほどまで雨だったとは思えないほど、淀んだ雲はどこかへ流れ、明るい太陽が差し込んでいた。
『舞果ってほんとに、先輩のこと好きだねえ』
『うん!』
今日の主役は、雨に縁があると言っていた。
それはそれで素敵だと思うけれど、やっぱり。明るく朗らかに、花のように笑う彼女には、晴れがよく似合う。
「うん。良い日だね」
陽射しを見上げて、息を吸った。
胸がいっぱいになる。
叫びたい。おめでとう、とめいっぱい。
会場を満たすのは、ささやかなピアノのBGMと、人々が楽しげに交わす話し声。太陽の柔らかな光が、祝福するかのようにロビーを照らす。
ああ、ハンカチ1枚で足りるかな。
私は笑って、青空を仰いだ。
Ra Interlude Ar よりた いと @yu_maru_s
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