Episode14. 地獄
突然顔を上げた私に、先生は首を傾げる。
「……先生って、先生に向いてますよね」
「ややこしいなその言い方」
「だって私、まんまと乗せられてる」
そう言うと、先生はわずかに目を見開いた後、私の顔を見てふっと笑った。
そう、抱え込んだ問題集を見下ろして気づいたのだ。さりげなく、自力で解くよう誘導されたことに。
そもそも、今日は課題をやろうと思って残っていたわけではない。タイミングよくやってきた先生をこの場に留めるために、思いつきで出しただけなのに。
会話の繋ぎにするため、あわよくば答えまで教えてもらうため。そう思っていた課題に対して、ものの数分でやる気になって向き合っている。
その笑った顔が答えのようなものだけれど、問うように先生の顔をジッと見つめると「なんのこと?」と私の目を見返したまま、確信犯の顔で嘯いた。
(ああ、ほんとに――)
好きだと、言ってしまいそうだ。
じわじわと内側で広がる熱が、喉まで迫り上がってくる。こんな時間を過ごせるのは残りわずかという事実が、信じられなかった。
急に現実が迫ってくる。
今、先生は当たり前のように目の前にいて、慣れた様子で私の名前を呼んで、いつものように揶揄って。それなのに、実習が終われば泡沫のように消えてしまう。
もうその存在はすっかり私の学校生活の一部になってしまっているのに、実習生としての立場を脱いで大学に戻ってしまったら。
この先きっと、会うことはないのだ。
(――もし今。この熱を、先生に伝えたら?)
ふと、誰かが囁いた。
今、私は先生への恋焦がれる気持ちを必死になって抑えて隠して、表に出ないよう懸命に取り繕っている。
それは、何故?
恥ずかしいから、自分の気持ちをさらけ出すことが怖いから、下手に気まずくなるのが嫌だから。
理由はいくつもあれど、このまま何も変わらなければ先生は先生のままいなくなってしまう。
今はこの学校の存在が、唯一私たちを繋いでいる。「実習生」と「生徒」という、なんとも頼りなく脆い糸一本。
その糸を、どうにか増やすことができたとしたら。もし実習が終わっても、この先会える約束を取り付けられたとしたら。
そんな都合の良い展開が、あるだろうか。
「……先生」
口が勝手に動いた。一度冷静になれ、と脳が指令するのを横目に、震える声を絞り出す。
自分のものとは思えない頼りない声に、先生が「ん、なんか言った?」と耳を寄せた。
その何気ないその仕草に、近づいた匂いに、息が上がる。
心臓が喉元にあるようだった。今にも破裂しそうで呼吸が苦しくなる。
「先生、あの」
一音一音、自分の耳に言い聞かせるようにはっきりと口に出す。そうしないと、言葉にならずにばらばらと崩れていきそうだった。
(好きです、って、言えばいいだけ、言えば)
喉が焼けそうだ。
先週、お菓子にかこつけて口にしたセリフと同じ。同じように、言えばいい。
「……すみません、ちょっと」
突っ走る私を咎めるように、呼吸が浅く、鼓動が速くなった。
ペンを握ったままのてのひらは、汗でじっとりと湿っている。
たったひとこと、たったの4文字。勿体ぶらずにさっさと出してしまえ、伝えてしまえと心が急かす。一方でどこかまだアクセルを踏み切れない脳は、一旦止まれと叫んでいた。
「え、大丈夫? 体調悪い?」
突然フリーズした私に、先生がふと真剣な表情になる。あまりに私が切羽詰まった顔をしていたのか、眉を顰めると「ちょっとごめん」とこちらに手を伸ばした。
そして、ぴとりと私の額に手の甲を当てる。
構える暇もないまま自然に触れられて、ひくっと喉の奥が痙攣した。
「熱はなさそうだけど」
そう言って、自分の額にも手を当てる。
触れられた箇所から、ぶわりと熱が広がるようだった。たった一瞬、こつりと触れ合っただけなのに。
限界だった。指切りの時もそう、勉強を教えてくれる時もそう、そして、今も。
どうしてそんなにも無防備に、私に近づくのか。
「先生、私――」
もう、言ってしまえ。
未だ静止を訴える理性を振り切って、す、の形に口を窄めた時。
「甘いもの足りてないんじゃない?」
そう言って、先生はポケットから何かをゴソゴソと取り出した。
「…………へ?」
「これあげる。何味が良い?」
大きな手のひらに乗せて差し出されたのは、いくつかの一口サイズの袋。全速力で走っていたところに急にストップをかけられ、前につんのめりそうだった。
思考回路がもつれ、飴だ、と気づくのに数秒かかった。
「あめ」
「うん。この間のクッキーのお返しってことで」
黄色、オレンジ、ピンクなど色とりどりの包装が雑多に机の上に置かれる。
先生は端にあった緑色を取ると、ピッと封を切って中身を口に押し込んだ。
かろん、と涼しげな音が鳴る。
「飴なんて……珍しいですね」
今にも飛び出そうだった「好きです」の言葉が、出番を見失って喉奥に滑り落ちる。
こちらの心の動きなど何一つ知らない先生は、ガリッと奥歯で飴を噛んだ。
ふわりと鼻をくすぐったのは、爽やかなリンゴの香り。
「ん。吸えない時はこれで口ん中誤魔化すの」
「誤魔化す? あ、煙草」
「そう。ニコチン欲を糖分のかたまりでかき消すっていうね、超絶不健康」
あは、と悪い顔で笑う。
清潔な香りがする『雨野先生』から飛び出したとは思えない、荒くて汚れたセリフだった。
それでも、人間らしい一面が見えるたび、ますます沼から抜け出せなくなる。これは、今この場所では私にしか見せていない顔なのだと。
やっぱり、もう誤魔化しきれない。だから。
「禁煙への道は遠いですね」
「ねー。一応努力したことはあるんだけどね、怒られるから」
「怒られる?」
「そう、服に匂いつくじゃん。それで彼女の部屋とか行くと、速攻で消臭剤かけられる」
その言葉が前触れなく放たれた瞬間。
バチン! と横っ面を派手に引っ叩かれたかと思った。
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