Episode15. She is.
周りの音がぷつんと途切れ、身体の感覚が遠のいた。
「かの、じょ」
知らない言葉を聞いたかのように、芯のない声で繰り返す。世界がぐらりと傾いて、頭が真っ白になった。
開け放ったままの窓からぬるりと入り込んだ風が、頬を撫でる。
彼女。彼女ってなんだっけ。
広くは、女性を指す言葉。それから、彼氏彼女の、『彼女』。
「……彼女、って。恋人のこと、ですか?」
「え? うん」
私の問いにさらりと頷く先生に、足元がガラガラと崩れ落ちていくような感覚に襲われた。
信じられない。信じたくない、の方が適切か。
彼は確かに「彼女」と言った。正しく、恋人の意味で。
「え、そこそんな意外?」
かたまってしまった私のリアクションが想定外だったのか、目をぱちくりさせている。その声は水の中にいるようにぼやけて聞こえた。
教室内の光景は、変わらず目の前にある。机も、椅子も、夕暮れの光も、広げた問題集も、白紙のノートも。
何も変わらず存在しているのに、私だけ濁流に呑み込まれたように息ができなかった。
(そっか、……かのじょ)
ぐわんと揺れたままの脳が、それでも懸命に彼の言葉を咀嚼しようとフルパワーで駆動する。
徐々に現実味が出てきて呼吸を思い出した途端、ひゅうと喉が鳴った。
先生には彼女、つまり恋人――付き合っている人がいる、ということ。
「意外、でした」
ようやく水面から顔を出し、なんとか声を絞り出す。震えないよう、いつも通りの声を出そうとお腹に力を込めた。
「その、遊んでそうって。勝手に思ってたから」
「おーおー、言ってくれるねぇ」
ショックから生まれた不自然な間を誤魔化すようになんとか軽口を叩くと、先生はケラケラと笑った。
「ま、軽くは見えるだろうなぁ。その自覚はあるよ」
「自覚あるんですか」
「うん、でも俺めっちゃ一途」
そう答える先生の目は、その大切な相手を頭に浮かべているのか慈愛に満ちている。
ギリッと心臓を鷲掴みにされた気がした。鋭く爪を立てた手で。
「そうなんですね……」
じわり、と心に血が滲む。
どうにか気持ちを落ち着けようと、鼻から息を大きく吸った。
先ほどまでとは違う動悸、指先が冷えていく。
(……そう、だよ。いないわけないのに)
何故、私は今までその可能性を考えなかったのだろう。
私が知っていたのは、先生の数ある生活のうちのほんの一部分。どれだけ隙を見せてくれていても、所詮それはこの学校内だけのこと。
そんな単純で当然のことを、分かっていたようで分かっていなかった。
一定以上の距離まで近寄ることを許されて、2人だけの秘密ができたと舞い上がっていた。それよりももっと近いところに、すべてを知る唯一無二の存在がいることに気づきもせず。
つい数分前まで、勢いで告白しようとしていたのだ。自分が先生にとっての何かになれると思い込み、ひとり突っ走って、この先の展開に期待して。
あまりに滑稽で、膨れ上がった気持ちの着地点が見当たらなくて、急に笑いがこみ上げてきた。
「は……」
思わず顔と声に出てしまって、慌てて引っ込めようとするも体が言うことを聞いてくれない。
悲しいのに、面白くて仕方がない。
「あははっ! 先生って、そういう感情あるんだ」
もう、自分でも何を言っているのか分からない。何か言わなきゃ、と思うのに頭の中に霧がかかって言葉が浮かばず、考えるより先に舌が勝手に動き出すのを止める術もない。
「えー? どういう意味それ」
「ふふ、だって……人を好きになるとかって、あんまりイメージできなくて。特定の人を作らずに、いろんな人を誑かしてるんだと思ってました」
可笑しい、と言って笑う。
私が勘違いしたように、その類稀な容姿で人を惑わせて、何でもない顔で近づいて、特別を匂わせて夢を見せて。
棘の混じった私の言葉にも、先生はいつも通り「ひでぇな、イメージ書き換えといてよ」と余裕の笑みを浮かべるだけ。
表では笑みを崩さないまま、それがたまらなく悔しかった。
「いつから付き合ってるんですか?」
先生に彼女がいたことに対して、私は別に何も思っていないのだとアピールするために、自分に言い聞かせるために。あえて、傷口を広げることを厭わずに尋ねる。
それが今できる精いっぱいの、私の反撃だった。声が震えていないことを願い、表情が崩れていないことを祈りながら。
「んー、もうすぐ2年?」
「わあ、結構長いですね」
「そうだね。俺なんかと2年も一緒にいてくれんの、感謝しきり」
叫んでしまいたくなるのを、奥歯を噛んでグッと堪えた。
「……仲、良いんですね」
心の中で渦巻く色々なものを押し込めて、それでいて感情を殺しすぎた声にならないように、いつも通りを必死に思い出す。
私が欲しい想いを、向けられている人。読めない先生の内側に入ることを、許された人。
いいですね、とどうにか笑ってそう返したその声は、少しだけ泣きそうだった。
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