Episode8. 橙色の放課後
日没がひたひたと迫る教室。
日中の教室ではまず聞くことのない、カチ、カチ、という規則正しい時計の音がやけに鼓膜に響いた。
半分開いた窓から、カキーン! と気持ちの良い音がする。野球部がボールを打ち上げたのか、「ほら走れー!」と顧問の怒鳴り声も聞こえた。
がらんとした教室内には、普段、当たり前のようにある賑やかさや騒々しさは一切ない。
濃い橙色が、からっぽの椅子を照らす。影が、少しずつ長くなる。
「あれ、領家さん?」
問題文と睨み合っていたら突然声が落ちてきて、フッと顔を上げた。
廊下から窓枠に両手をついて教室の中を覗き込んでいたのは、
先週の木曜日以来、まともに言葉を交わす雨野先生。
必死に机にかじりつく私を見るその雰囲気は、
校内なのに、珍しく周りに人がいないようだ。
「先生……どうしたんですか?」
「こっちのセリフですよ、それは」
そう笑って、教室を見渡す。
「もうすぐ18時ですけど。まだ帰ってなかったんだね? B組に人が残ってるの珍しいなと思って」
私から見える範囲に人はいないのに、仮面をしたままだ。
校内では基本その姿勢を崩さないということか。普段の姿を知ってしまってから聞くと若干白々しさを感じるものの、そのストイックな姿勢には尊敬すら覚える。
答えようとした時、その後ろを「先生さよならー!」と他クラスの男子生徒が声をかけながら駆けていった。
「はいさよなら! 気をつけてね、あと廊下は走らないように……! って、聞こえてないか」
バタバタと遠のく足音に、きちんと先生としての注意を混ぜ込んでそう声をかける。
ああ、人がいたのか。どこで見られているか分からず気が抜けないのも大変だと思っていると、先生は後ろの入り口から教室に入ってきた。
そのまま「じゃあ」と行ってしまうかと思っていたのに、まさかのまさか、こちらに近づいてくる姿にドクンと心臓が高鳴る。
「反省文?」
「反……違いますよ、数学の課題です」
「ここで?」
家に帰ってやればいいのに、という心の声が聞こえた気がして、「分からなくて飛ばしたところがあったのがバレて」と先手を打った。
「いや、そりゃバレるだろうよ。バカなの?」
「…………言葉遣い崩れてますけど」
「領家さんしかいないからノープロブレム」
一瞬で魔法が解けた。
見上げると、廊下からしなやかに歩いてきた仮の姿はどこへやら、猫背でポケットに手を突っ込みながら、というかなりだらしない姿勢で私のノートを覗き込んでいる。
廊下を通りかかったのは偶然だろう。B組に人がいるのは珍しいと言っていた。いつもこの時間に見回りでもしているのか。
そこで私を見つけて、景色の一部として流すこともできたはずなのに、わざわざ声をかけて近づいてきてくれた。
この状況でどうにか平静を装おうとしている私を、誰か褒めてほしい。あの校舎裏での出来事がなかったら、作った笑顔を貼り付けたまま「暗くなる前に帰るんだよ」とでも言って去っていただろうから。
それに、私しかいないから、という理由で変装を解いてくれたことに仄暗い優越感を覚える。
緩みそうになる口元を抑えるのに必死だ。本当に、恋というものは厄介である。
「飛ばした問題を今日中にちゃんとやれってことね」
「いや、期限は金曜日なんですけど。家に帰っちゃうとやらない気がして」
「はあ、なるほど。つーか、分かんねぇからって飛ばした課題をここで今1人でやってんの?」
「そう、です」
「それ永遠に解けなくない?」
呆れ顔でごもっともなことを言われて、うっと言葉に詰まる。
「その、篠宮先生に聞きに行くのは最終手段かなって」
分からなかったら聞きに来いと言われてはいる。
そして聞きに行けば、思っている以上にしっかり解説してくれるであろうことも想像できる。
授業がとても分かりやすく、課題の量はえげつないけれどさっぱりとした性格の篠宮先生は男女問わず人気があるのだ。
ただ、その教え方は試験用の、いわゆる公式を暗記して当てはめて解けば良いというものではなく。
概念から理解してなぜこの解き方になるのかといった根本的な部分から、そもそもこの考え方が使われ始めたのは、今のこの技術は数学のこんな部分を応用している、この先もしかしたらこんなことが可能になるかも――などなど、遠い歴史から現代技術、さらには果てしない未来にまで話が及ぶ。
理解できれば楽しい内容だと思う(実際これで数学が好きになったというクラスの子もいた)が、情報量が多すぎてキャパの小さい私の脳ではショートを起こす。これをマンツーマンで行われたら、と思うと安易に近づけない。
そう話すと、雨野先生は「そりゃ完全なオタクだな」と簡潔かつ的確な感想を述べた。
「で? どこが分かんないの」
「え、数学分かるんですか?」
「お前ね、俺一応大学生だよ」
ガタンと前の席の椅子を引くと、そこに腰掛けて長い足を組む。
「ちょっとそれ見せてみ」
「あ、えっ? はい」
「高1のこの時期なら、たぶん余裕だわ」
広げていた問題集を自分の方に向け、形のいい顎を拳でトントン叩きながら文字を追った。
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