Episode7. 指切りげんまん、嘘ついたら


「ゆ、指切り?」

「口約束だけじゃ心許ないじゃん」


 それはどちらの持ち物なのか、有無を言わさない笑顔を浮かべる。

 指切りも口約束と同義では、と思ったが、そこにつっこむのはやめた。

 それにしてもなんだろう、この余裕綽々な感じは。まずい場面を見られたのは先生の方であって、もう少し下から出てくれてもいいはずなのに、なぜ先ほどから私ばかりがたじろいでいるのか。

 冗談かと思い目の前に出された小指と顔を見比べるも、どうやら本気らしく手を引く気配はない。意味が分からないまま、恐る恐る小指を出した。


「ほ、ほんとにやるんですか」

「もちろん」


 ちょんと爪の先が触れた瞬間、捕まえたとばかりに指が絡む。

 きゅ、と強いような弱いような力加減で結んだ指先が、ジンと熱を持った。

 つい十数分前までは、まともに言葉を交わすどころかその視界に自分が入ることすらないだろうと思っていたのに。

 もしこの光景をいつも先生を囲っている女子の先輩に見られたら、きっととんでもない顔で睨まれるだろうなとぼんやり思う。

 いや、睨まれるだけで済めばまだいい方だ。何をされるか分からない。


「今ここで見たことは一切他言しない。約束」

「やくそく……」


 ゆーびきーりげんまん、

 うーそついたらはーりせんぼーん、のーます。


 本当に忠実に、リズム良く歌う先生が途端に幼く見えた。

 ちいさな子ども同士の約束のようで、思わず笑ってしまう。


「指切りってね」


 触れ合っているのに何の色気も感じない雰囲気に拍子抜けして、絡んだ指先を解こうとした時。

 不意に先生の顔が目の前にあることに気づく。

 驚いて後退りしそうになった私の耳元に、低い声が吹き込まれた。


「昔は本当に指切ってたって知ってた?」


 ゾクリ、と肌が粟立った。

 硬直した私を見て、先生は薄く笑う。


「え……」

「昔々の江戸時代、遊女が好きな人への愛を示すために自分の小指を切って渡したんだって。それが、指切りの由来っていわれる諸説のひとつ」


 反射的に、先ほど絡めた小指を守るように反対側の手で覆った。


「怖い?」

「……怖い」

「ははっ、ごめんね」


 声が掠れた。小指が熱い。

 少年のように無邪気に笑ったかと思えば、マイペースに人を振り回し、幼子のようにわらべ歌を口ずさんで、色の付いた声音で大人びた言葉を紡ぐ。


「まあつまり、指切りってそれぐらい重い約束なわけで」


 私が憧れていた先生はニセモノなのに、つかみどころのないこの人の熱を、忘れたくないと思ってしまっている。

 そもそも、淡々と話すこの姿は本物なのだろうか。


「だから俺と領家さんは、今日から共犯」


 耳元で、綺麗な悪魔がひそりと囁いた。

 秘密の共有は、さらなる深みへ私を堕とす。






「あ、領家さん」


 教育実習が始まってから3週目。

 週明けの月曜日を終え、帰ろうと教室から出た時、とある声に呼ばれて振り返った。

 廊下をまっすぐ私の方に向かって歩いてきたその人に、「あ゛」と明らかに後ろめたさが滲んだ声が出る。

 呼び止められる理由に、心当たりがありすぎる。


「よかった、帰った後かと思ったよ」


 獲物を見つけた目でニコリと笑う。

 

(今、帰ろうとしてたんですけどね……)

 

 ひと足遅かった。心の中で盛大なため息をつく。

 数学担当の、篠宮先生だ。

 チョークが服につくのが嫌だから、という理由でいつも白衣を着ていて、女性にしては超がつくほど短い黒髪。

 凛としていて、声を荒げるわけでも手を上げるわけでもないのに、自身より体躯の大きな男子生徒を視線ひとつで黙らせるほど迫力がある。

 ただこちらに歩いてくるだけなのに、漂ってくる威圧感。


「な、なんでしょう」

「逃げ腰ってことは心当たりあるんだな?」


 数歩だけ下がった私の前に、スラリとした影が差す。

 弧を描いてはいるが全く笑っていない目で、1冊のノートを私の方に突き出してきた。


「数学の課題、これどう見てもやりかけだろ」

「あ……やっぱり」

「やっぱりぃ?」


 今日の2時間目、数学の授業が始まる時に提出した課題。

 先週出されたもので、その日の復習と次の単元の予習が組み合わさった盛りだくさんな内容だった。

 すでに授業から取り残されている私にはあまりにもハードルが高すぎて、とりあえず期限までにと分かるところだけ解いたのだ。

 呆れた顔で、ノートの背でペチンと私の後頭部を軽く叩く。


「課題はね、出しゃあいいってもんじゃないの。途中違ってんのに丸になってたところもあるし、全体的に雑すぎる。分からないままにしておいたら後々苦労するのは自分だぞ」


 やり直し、と容赦なく言われて、しおらしく受け取った。

 ぐうの音も出ない。


「あと他にも問題すっ飛ばしてる奴いたから、ついでにこのノート返却しといて。特に佐野、あまりにもひどい」


 私が受け取ったノートの上に、3、4冊をドンと乗せる。

 一番上に置かれたのは、『B組 さの けんと』とひらがなで書かれたノートだった。


「期限は金曜日の昼まで。理解できないところがあったら聞きに来なさい、放課後は職員室にいるから」

「……はぁい」

「ちなみに次の小テストで赤点だったら、私と仲良く放課後居残りコースだからな」


 ヒクリと顔が引き攣った。

 ノートを手に立ち尽くす私に、「じゃあ、よろしく」と手を振って颯爽と立ち去る。

 廊下にぽつんと取り残され、持たされたノートから一番下になっていた自分のものを取り出すとその場でぺらぺら捲ってみた。

 つけた覚えのない、赤いバツやハテナマークがあちこちにあるのを見てため息をつく。


「やるかぁ」

 

 仕方ない、自業自得だ。帰るつもりだった足を、出てきたばかりの教室に向けた。

 家に帰ってしまえば、きっとやらずに逃げてしまう。自分の意思の弱さは十二分に分かっていた。

 表紙に書かれたノートの名前を見て返却された子たちの机の上に置いて回ると、自分の席で問題集を開いた。


「……全然わからん……」


 最初に飛ばした設問を見て、さっそく弱音を吐いた。

 当然だ。分からないから逃げるように飛ばして提出したのに、今ここで1人で開いて理解できるわけがない。

 もともと人の少なかった放課後の教室は、時間が経つごとにひとりまたひとりと帰っていって、唸りながら格闘している内に気づいたら私だけになっていた。

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