酔わない夜に乾杯を!【小説】

Unknown

【本編】

 人間の一生とは、とても長い夢のように曖昧な幻想に過ぎないのかもしれない。

 何故なら人間が幸せだと感じたり不幸だと感じたりするのは、単なる脳の電気信号の働きでしかないからだ。つまり人間の幸・不幸は置かれた状況や立ち位置に起因するものではないという事。

 そう考えると、なんだか生きるのはバカバカしく、とても儚いものに思えてくる。

 信じられないほどの金持ち・富豪だとしても重い精神疾患になってしまえば人生は地獄及び戦争でしかない。逆に全てを失った汚いホームレスの歯抜けのジジイが必死になって集めた小金で買って飲む激安の不味いワンカップ焼酎を日頃の疲れと共に煽る時、そのホームレスはこの上ない幸せを感じているはずだ。

 酒、大麻、セックス、覚醒剤、麻薬。

 これらが生み出す快楽は全て「ドーパミン」という快楽物質から成る。

 幸せホルモンと呼ばれる「セロトニン」や「オキシトシン」とは全く種類が異なるものだ。

 そして、ドーパミンは実は【快楽物質ではない】という驚きの研究結果がこの世に存在している。

 専門家によれば、ドーパミンには様々な働きがあるのは確かだが「気分を良くする」効果はないという。

 1986年に学術誌「Journal of Neurophysiology」に発表された論文で、食べ物やその他の報酬を受けたときに脳がこの物質を放出していることが示された結果、ドーパミンには楽しい気分を仲介する役割があるという考え方が広く受け入れられた。

 しかし、1990年代から2000年代初頭にかけて、これを否定する証拠が次々に出てきた。ドーパミン系を遮断した動物でも、報酬を受け取ったら同じように喜ぶことが明らかになったのだ。その一方で、もっと手に入れようとする“やる気”が完全に失われることも分かった。

 寝る前にネットの暗い記事を読んで落ち込んだり薬物や酒でひどい気分になったりするのに、それらの行為を辞められないのは、このためだ。

 例えばスマホやパソコンを見ていて、面白くて衝撃的な、または興味をそそるコンテンツが目に留まると、脳はドーパミンを放出し、その瞬間の詳細な情報を記録する。そしてスマホの通知音など何らかのきっかけがあったときに、同じことを繰り返す傾向を高めようとするのだ。

 つまり簡単に一言で言うなら、ドーパミンは何かを「好きにさせる」のではなく、それを「欲しがるようにさせる」ものでしかない。

 つまり、ドーパミンによって得られる幸せとは、まやかしの、偽りの、ハリボテの幸福感に過ぎない……。

 だから、精神と身体を酷使しながら浴びるように酒を飲んでいる我々は、自分たちがあまりにも愚かでバカバカしい行為をしていると“自覚”しなければならない。

 夜にテレビを点けると、日本では当たり前のように酒のCMがバンバン流れる。YouTubeでも酒の広告はよく流れる。だが実は海外ではテレビで酒のCМを流すことが禁止されている国が多い。アルコールの有害性を国民に広めないためだ。しかし日本はその真逆を往く。酒を飲むことを国全体が推奨してくる。

 日本の酒のCМでは、有名な芸能人の男女が、めちゃくちゃ旨そうに笑顔で酒を飲む。まるで酒は素晴らしい飲料であるかのように、国民の多くを洗脳しようとしてくる。彼ら彼女らは実に旨そうに酒を飲み、「酒を買え」と我々に押し付けてくる。本当はただの合法的な危険ドラッグでしかないのに。

 日本の政府は税収の多くを酒税から得ている。だから1人でも多くの国民に酒を買ってほしいのだ。そして我々はアホのように気持ち良くなりたくて、無い尻尾を振りながら酒を買い求める。そして日本国の資産は潤い、その代償として不幸なアル中はどんどん増える。

 ──そこまで知っておきながらも酒を飲みまくっている俺は超アホなのである。


 そんな話を、いきつけの小汚い【ふくろう】という居酒屋の店主の小林啓二さん(55歳のおっさん)にカウンター越しに話してみたところ、


「ああん? テメェなに難しい話してんだ馬鹿野郎! 俺にはさっぱり理解できねえ。それよりテメェ全然まだ酒飲んでねぇじゃねぇか! もっと酒を飲め酒を! ここは居酒屋だんべ? 酒を飲まない奴はこの店から出てけ! さっさと注文しな。日本酒か? 焼酎か? 好きなもん何でも頼め。酒あっての人生だんべぇ! 斎藤君!」


 と群馬の方言交じりで怒られてしまった。標準語の「~だろ」を群馬県の年配者は「~だんべ」と言う。


「じゃあ小林さん、強い焼酎と日本酒をそれぞれ5個ずつください」


 と俺は言った。

 すると、小林さんは缶ビールを勢いよく煽ってから、


「あいよ! ちょっと待ってな、斎藤君!」


 と黄色い歯を見せて笑った。

 ちなみに俺はこのふくろうという老舗居酒屋の常連客であり、基本的に1週間のうちの7日間、全て必ず訪れている。ちなみに俺は梟に来た日は必ず閉店まで店にいる。

 ふくろうは、群馬県の高崎市の場末にある、ひっそりとした目立たない和風の居酒屋だ。店は老舗というかボロボロで小さいし、看板もとても小さくて外観の灯りも最小限だから全く目立たない。内装はかなり古くてボロボロだし、厨房や店内の壁は油や往年のタバコのヤニで物凄くベタベタしていて汚いし、小林啓二さんという店主は営業中も常に酒を飲んでいて、店主のくせして自分自身が誰よりも酔っ払っている。

 でも俺はこの梟という居酒屋が大好きで仕方なかった。俺以外の常連客も沢山いる。その多くは俺より年上、50代から上が多かった。つまり俺の親世代が多い。今の日本の若者は俺のようなアルコール依存症が減少しまくっている。

 俺は親世代の常連客たちから、まるで自分の息子であるかのように可愛がってもらっている。

 このふくろうに来る常連客はみんな基本的に酒を飲むと性格が明るくなるが、みんなどこか必ず心の中に闇を抱えていた。精神疾患を30年以上抱えている者、事業に大失敗して全財産の全てを失った者、愛する妻を若い頃にガンで失って以来ずっと独りぼっちな者、シングルマザーとして息子を愛しながら育てたが息子を交通事故によって失った者、他にも色んな人がいる。今、俺が挙げたのはほんの一例である。また、店主の小林啓二さん自身も、熟年離婚で今は独身だ。彼曰く、


「梟に来てくれる客のみんなが俺の家族」


 だそうだ。

 あとは単純にお酒を愛しているだけの客もいた。

 あとは、単純にバカな客も多かった。

 バカとはつまり俺のことだ。

 締め切りに追われているというのに、一切執筆の仕事をせずに夕方からふくろうに足を運んで酒をぐびぐび飲んでいる。今日もいつも通り、梟の閉店時刻までいる予定だ。


 ここで俺の自己紹介を軽くする。

 

 俺の名前は斎藤涼。28歳の男。血液型はB型。群馬県高崎市の家賃の安いアパートに住んでいる。最終学歴は専門学校中退。


 職業は、売れない小説家。つまり自由業だ。だから毎日この梟に来ることが出来る。


 19歳の時に新人賞を取って世の中に出したデビュー作の「教室の隅っこで世界征服を企むのは僕です」という小説が100万部以上の大ベストセラーになって以降、俺の小説は全く売れなくなった。新人賞を取って100万部も売れて、これから薔薇色のレッドカーペットのスター街道を歩いていくものとばかり思っていたから、俺の2作目以降の小説がほとんど売れない現実がショックで仕方なかった。

 ネットやSNSでは「斎藤涼は一発屋の小説家だったな」だとか「斎藤涼はオワコン」だとか書き込まれている。俺は何を書いても鳴かず飛ばずで、5000部がやっと、という現状が何年も続いている。

 やがて俺は執筆活動のスランプや強い不安に陥り、何も小説が書けなくなった。

 そのストレスを発散するために本格的に酒に依存し始めたのが、23歳の頃だった。

 そんなある日、梟という目立たない居酒屋を偶然発見し、ふらりと中に入ってみたら居心地がとても良い。日頃のストレスや鬱憤が、酒はもちろん店主の小林さんや常連客の皆さんのお陰ですっかり消えたのだ。

 梟という居酒屋は一瞬にして、俺の唯一の憩いの場となっていった。

 そして、そのまま俺は28歳になってしまった。

 ヒット作に全く恵まれない俺は、今ではすっかり執筆よりも酒が主食。昼間から缶チューハイを開けてウォーミングアップして、夕方になったら梟に行って本格的に酒を飲み始める。そんな堕落した毎日を過ごしている。

 俺がカウンター席で日本酒を飲んでいると、やがて仕事を終えた常連客たちがぞろぞろと梟に集結し始めて、今宵も騒がしい宴が始まった。

 ちなみに俺が執筆の仕事を開始するのは、まだ酔いが覚めない深夜からだ。毎日そう。

 

 ◆


 現在は2025年の6月上旬である。

 そういえば今年は大きな変化があった。今年度、4月の頭から俺の担当編集者が代わったのだ。デビューしてから今までずっと40代の関口さんという男性が担当編集だったが、今年の4月から、俺より1歳年下の27歳の大島香織さんという女性の編集者になった。

 大島さんはキャリア2年目の若手だそうだ。

 この大島さんという編集者は俺にとっては非常に厄介な人であった。

 大島さんはせっかちというか、しっかり者で、とにかく無能な俺を急かすのだ。しかも口調が全てきつめだ。「今、何文字まで書けていますか?」「酒ばかり飲んでいないでキーボードを叩いてください」「私はお酒の席が大嫌いです。お酒を沢山飲む人も嫌いです。ですので斎藤先生の人間性は私の中では評価に値しません」などと毎日LINEで言ってくる。

 ──そして、つい昨日、大島さんから電話が掛かってきて、不作続きの俺は遂に最後通告を受けた。


『斎藤先生、とても大切なお話があるので、覚悟を決めて聞いてください』

「……えっ、なんですか……?」

『今回の原稿、落としたら契約打ち切りです』

「ああ……そうですか……薄々覚悟はしていましたが……」

『もう締め切りはちょうど1か月後ですよ。それまでに必ず原稿を完成させてください。もうお酒を飲んでいる暇はありません。これは斎藤先生の作家人生を賭けた戦いです! ですから今すぐ死ぬ気で小説を書いてください。死ぬ気で書いても絶対死にませんから。私は担当編集者として本気で斎藤さんをサポートをします。あとは斎藤さんが酒に溺れた自堕落な生活を控えて本気を出すだけです。よろしくお願いしますね!』

「……はい」

『ちなみに今回依頼している小説は、断酒をテーマにした感動小説です。皮肉にもお酒が大好きな斎藤先生には最悪のテーマですね。せめて原稿が完成するまでで良いので、断酒してください。死ぬ気で小説を書いてください。まぁ私がこんな事を言うまでも無く、斎藤先生は今シラフで、真剣な目つきでパソコンの前に座っていると思いますが……』

「あ~、すいません。今、居酒屋のトイレの中で電話してて、お酒を飲んでる最中です。かなり酔っ払ってます。原稿は進んでいません」

『はぁ? バカなんですかあなたは。斎藤先生、あなたは自分がどういう立場に置かれてるのか考えてください。もう、本当に本当に崖っぷちなんですよ!』

「そうですね……」

『もう居酒屋でお酒を飲んでる時間的余裕が無い事を自覚してください。原稿が完成するまで、必ず断酒してください』

「分かりました。断酒します」


 そんなやり取りがあったのが昨日の事。


 だが、なんと俺は今日も昼間から缶チューハイを飲み、夕方から梟に来ていつものように酒を飲んでいた。原稿は一切進んでいないし、「断酒してください」という大島さんの言葉も無視していた。

 危機感が無いと言えば嘘になる。だが俺は、残り1ヶ月という締め切りの焦燥感やストレスに加えて、今回の原稿を落としたら契約が打ち切りになって無職になってしまうというプレッシャーに耐えかねて、結局いつもと同じように酒を飲んでしまっていた。おそらく今日も執筆作業の開始は梟の閉店後の深夜になるだろう……。この悪事が大島さんに仮に知られたら、めっちゃ怒られるに違いない。

 だが、やはり今の俺には酒という名のガソリンが必要である。酒のガソリンで名作を書いてやるのだ。

 そうやって自分の飲酒を正当化しながら、俺は酒をどんどん鯨飲していった。次第に酔いが回ってきて、店主の小林さんや常連客の皆さんとの会話に大輪の華が咲く。

 超楽しい。

 唯一、梟にいる時だけは煩わしい事やストレスや不安から解放される。

 何時間も梟に滞在して完全に酔って“出来上がった”俺は、もうすっかり小説の原稿の締め切りや最後通告の事なんか忘れていた。

 だが、その瞬間のことである。

 俺のポケットの中のスマホが着信音を発しながら振動を開始したのだ。

 梟の喧騒の中、体勢がふらつきながらポケットに手を突っ込んで、スマホを見ると、なんと、俺の担当編集の大島さんからのLINE通話が掛かってきていた。


「うわっ、うそだろ……!? やばいな……」


 俺はカウンター席の椅子から立ち上がり、急いで梟の店内から出た。もちろん千鳥足で、ふらつきながら。

 梟の中の喧騒が全く聞こえない遠い暗がりまで来て、俺は鳴り止まない大島さんからの電話に出た。

 大島さんは早口でこう言った。


『もしもし斎藤先生お仕事は順調ですか? もちろん順調ですよね?』

「んん? んあぁ? あ~、うん。まぁ、もちろん。仕事の方は順調そのものと言った感じでぇ、全身ぜんryeeeをかけて、いや、全身全霊をかけて、ふぉん気で、本気で取り組んでいてぇ……」

『呂律が全く回ってませんけど!? まさか、今日も居酒屋にいるんですか!?』

「……えっと、はい。すみません。います」

『噓でしょ!? ありえない! はぁ……。斎藤先生! 今本気を出さないでいつ本気を出すんですか! 今すぐ家に帰って小説を書いてください! ほんとに! マジで! お願いします! 今回の原稿を落としたら契約が打ち切りになって、作家生命が終わってしまうんですよ!? 良いんですか!? 良くないでしょ!? 無職になりたくないでしょう!?』

「無職になりたくありまセントルイス。ちなみにセントルイスは、アメリカ・ミズーリ州にある都市です。メジャーリーグ球団のセントルイス・カージナルスが有名ですわな。俺は無職になりたくありまセントルイス」

『なにそのクソつまらないギャグ』


 と冷静に一蹴された。

 なので俺は言った。


「あ、すいません」

『とにかく、締め切りは1か月後です。厳密には残り30日! それまでに原稿を間に合わせてください!』

「んぁ、あのぉ、俺の意見を聞いてください。大山さん」

『私は大山じゃなくて大島です。話は一応聞きます。それで、なんです?』

「以前とある本で読んだんですが、人間が目覚めてから自分を見つめ直すのに、最短で4年かかるって書いてありました。なので、締め切りを4年延ばすことは可能でしょうカイワレ大根。are you カイワレ大根?」

『締め切りを延ばすことは不可能です』

「そうですか……」

『そんなに小説が書きたくないんだったら、いっそ4年間、自分探しの旅にでも出てください。さっさと』

「……現実は小説よりも非情ですね」

『はい、その通りです。分かってるなら今すぐに居酒屋から帰宅して小説を書いてください。小説のテーマは断酒と感動ですよ。分かりましたか?』

「う~ん、わかりました。今から帰って書きます……」

 

 というのは嘘だ。今日も閉店まで梟にいるつもりだ。

 

「それじゃあ、今からアパートに帰るので、電話切りますね。では」


 と、俺は嘘を言った。


『あっ、ちょっと待ってください!』

「ん?」

『明日、東京から群馬まで新幹線で行って、斎藤先生のお宅を訪問します。ちゃんと仕事をしているか1日中監視させてください』

「えぇ!? いや、それはちょっと……」

『第一、昨日私言いましたよね? 原稿が完成するまで断酒してくださいって。その時、斎藤先生は「分かりました。断酒します」って言ったんです。なのに今日も居酒屋にいる。もうあなたの事は信用ならないので、私が明日1日、斎藤先生を朝から晩まで監視します。いいですね!?』

「あ、はい……」


 俺は大島さんの圧に押されて、思わず了承してしまった。

 どうやら俺は原稿が完成するまでは本気で断酒を頑張るしかないらしい。

 

『斎藤先生。私は本気です。でも、作者であるあなたが本気を出さないなら、編集者である私が本気を出す意味がありません。私は、本気で、斎藤先生の次回作をヒットさせたいんです! あなたの栄光が過去のものにならない為に! だから、お願いします! 斎藤先生! 私はあなたの事を信じたいんです! だから、あなたも私を信じてください! あなたは私を、やかましいだけの嫌な編集者だと思ってるかもしれない……。だけど実は私は、あなたのデビュー作に救われて泣いた経験があるんです。私は担当編集であると同時にあなたのファンでもあります。あなたには唯一無二の才能がある。だから弱冠19歳で書いたデビュー作が100万部も売れたんじゃないですか。私は……あなたを、あなたの作家人生をこんなところで終わらせたくないんです!』


 俺は、酒が入っている事もあり、熱の込められた言葉が胸にダイレクトに突き刺さり、感動した。俺は大号泣して、嗚咽してしまった。それが電話越しに聞こえたのか、大島さんは、


『え? 泣いてるんですか?』


 と言った。


「はい。泣いてます。ごめんなさい」

『私、編集会議の時に、編集長から「あの斎藤涼って作家、まだ息してる?」って聞かれたんです。なので私は、かろうじて息はしてますと答えました。そしたら編集長、「あいつはまだ小説を書けそうなのか?」って聞いてきたから、私が絶対に書かせますと宣言しました』

「はい」

『そしたら編集長は「ふぅん、じゃあ、お前が責任持って見届けろ」って言ったから、私はこう言ってやりましたよ。見届けるだけじゃ嫌です。私はあの天才を蘇らせます、絶対に! って』

「そうだったんですか……」

『そうなんです。だから、二人三脚で頑張りましょうよ。今この瞬間から』

「……分かりました。今この瞬間から、俺は断酒を始めます。原稿が完成するまで」


 俺はボロボロ泣きながら、そう言った。

 

『じゃあ明日、斎藤先生のご自宅のアパートに訪問させていただきます。朝の10時頃でも構いませんか?』

「大丈夫です」

『ちゃんとシラフで仕事してる背中、私に見せてくださいね』

「はい」

『じゃあ、電話切りますね』

「はい。じゃあ明日はよろしくお願いします」

『はい。こちらこそ。よろしくお願いしますね』


 そして通話は終わった。俺は涙を服の袖で何度も拭きながら、ふらつく足取りで梟の店内に戻り、飲みかけの酒には一切手を付けず、会計を済ませた。

 その際、店主の小林さんは、泣いて赤く充血した俺の目を見ながら、


「お、珍しいな。斎藤君がこんなに早く帰るなんて。それに、なんで泣いてるんだ? 失恋でもしたか?」


 と聞かれた。実は俺は自分の職業が小説家であることを小林さんや常連客の誰にも教えておらず、在宅の仕事としか伝えていなかった。


「いや、失恋ではないです。仕事を本気で頑張りたいと思えたから泣いてるだけです」

「おお、そうか」

「小林さん。俺は1ヶ月、このお店には来ません。会社の人との約束で、1ヶ月お酒をやめることになったんです」


 すると小林さんは少々困惑したような表情を浮かべたが、すぐにいつもの笑顔になり、


「おう! 分かった! 応援してるからな! 1か月後、ここに良い報告をしに来てくれ」

「はい。良い報告が出来るように頑張ります」


 俺は力強く宣言をして、梟の店内を後にした。


「よっしゃ。頑張ろう」


 夜風に当たりながら、俺はさっきの電話の大島さんの声を反芻して、そう呟いた。


 ◆


 居酒屋・梟から歩いて僅か5分の場所に俺の住む3階建ての安い1Kのアパートがある。その2階の角部屋が俺の部屋だ。

 ふらつきながら帰宅した俺は、まず最初に部屋の明かりをつけて冷蔵庫を開けて、冷蔵庫を占拠しているストロング系の缶チューハイを手に取り、1本1本、洗面所の排水溝に中身を全て捨てる作業を始めた。

 20本くらい入っていた缶チューハイを全て排水溝に流し捨てた。

 これで自宅アパートの中に酒は全く存在しなくなった。

 俺は缶を全て潰して、缶の日にまとめて捨てられるように袋の中に入れた。

 その直後、俺はゲーミングチェアに座って、ノートパソコンを開き、小説の執筆を開始した。

 書き始めたら、キーボードを叩く手は一切止まることが無かった。

 ちなみに今俺が書いている小説の主人公は、28歳の売れない崖っぷちの小説家の物語。

 つまり、俺は俺の人生そのものを小説という形に変換して書いていた。

 

 ◆


 そのまま眠らずに朝を迎えた。気合が入っているから、眠気は一切襲ってこなかった。

 やがて朝の10時近くになると俺のスマホが鳴った。画面を見ると、電話を掛けてきたのは大島さんだった。俺はタイピングを止めて電話を取った。

 

「はい、もしもし」

『あ、斎藤先生。今先生のアパートの最寄り駅まで来ました。なのでもうすぐ着きます。執筆は進んでいますか?』

「はい。順調です」

『その言葉、信じていいですか?』

「信じてください」

『分かりました。今日は1日、斎藤先生がちゃんと執筆しているか部屋で監視させてもらいます。部屋のカギ開けといてください。たしか、ハイツ●●の209号室でしたよね』

「はい」

『じゃあ電話切りますね』

「はい」


 俺は通話を切って、椅子から立ち上がって、209号室のカギを開けて、再び執筆作業に取り掛かった。

 

 ◆


 そのうち部屋のインターホンが鳴らされた。俺はサッと椅子から立ち上がり、1Kのアパートに大島さんを招き入れた。

 黒のスキニーに白のTシャツ姿の大島さんは「おはようございます。先生を監視しに来ました」と真顔で言いながら狭い玄関で靴を脱ぎ、片手に持っていた大きめの青いエコバッグから新品の安そうなスリッパを取り出して、履いた。俺が来客用のスリッパを持っていない事など予測済みだったのだろう。

 最後に大島さんと直接会ったのはいつだったか忘れたが、茶髪から黒髪に変わっていた。だがセミロングなのは変わらない。彼女の目はまるで仕事を全くしないアル中の俺を監視するために作られたのではないかと思うほど大きくて澄んだ目だった。アルコールで濁った俺の目とは見える世界が違うのではないかと思う。(これはあくまで比喩だ。俺の眼球も白く、澄んでいる)

 俺の部屋に大島さんを入れるのは、もちろん初めてだ。

 大島さんは、若干の笑顔を浮かべながら、部屋を眺めて、


「綺麗に整頓されたお部屋ですね。想像の1億倍、綺麗です」


 と言った。


「大島さんは一体どんな部屋を想像してたんですか?」

「荒れに荒れまくった超ゴミ屋敷を想像してました」

「逆に、何もないでしょう。俺の部屋」

「そうですね。先生は、いわゆるミニマリストなんですか?」

「そういうわけではないんです。よくこんな言葉を聞くでしょう? “部屋はその人の心を映す鏡”だって」

「ならつまり、先生の心は空っぽという事ですか?」

「そうですね。俺の空っぽの心を唯一満たしてくれるものは、この世で酒だけです」

「あれ、そういえばお部屋にお酒が全く無いですね。冷蔵庫の中にあるんですか?」

「冷蔵庫の中の酒は、中身ごと全て捨てました。そこにある白い袋の中に空き缶が入ってます」

「すごいじゃないですか。お酒を自ら捨てるだなんて」

「俺は、やる時はやる男です」

「そんな事を言いつつ、普通に居酒屋に行ってしまうのが先生です。なので今日は夜まで監視します。ところで睡眠は取りましたか?」

「全く取っていません」

「え? あの電話の後からずっと寝てないんですか?」

「はい。あの電話の直後すぐに帰宅して執筆を開始して、今に至ります」

「そうですか。眠くなったら無理せずベッドで寝てくださいね。作業能率を上げる為にも睡眠は大事ですから」

「はい」

「ところで斎藤先生、執筆はどのくらい進みました?」

「今、30000字くらいですね。予定だと大体200000字くらいで完結する予定なので、まだまだ先は遠いです」

「残り1ヶ月で170000文字、なんとか書ききってください。それが達成できなければ、契約打ち切りとなってしまいます」

「頑張ります」

「じゃあ、今から夜まで監視をスタートさせてもらいます」

「じゃあ俺も、今から作業を再開します。あ、座布団とか椅子とか無くて申し訳ありません」

「大丈夫ですよ。床に座っています」


 そう言って、大島さんは床に尻をついて、そばにエコバッグを置き、体育座りをした。

 俺はゲーミングチェアに座り、ノートパソコンをカタカタとタイピングし始めた。

 その様子を、後ろから体育座りの大島さんが無言でずっと眺めている。

 大島さんの監視が始まってから約2時間くらいが過ぎた時、大島さんが初めて声を発した。


「作業中のところ、すみません」


 俺は後ろをゆっくり振り返り、


「ん?」


 と言った。


「斎藤先生、水分はちゃんと摂った方が良いですよ。冷蔵庫の中に飲み物はありますか?」

「いや、一切ないです」

「じゃあ水道水だけになってしまいますね。ちょうどお昼の時間なので、今から私は近くのコンビニに行って水分と昼食を買ってきます。どんなものが1番いいですか?」

「そうですねー。麦茶と、おにぎり1つでお願いします」

「1つでいいんですか? おにぎり」

「今、食欲が無くて」

「分かりました。じゃあ行ってきます」

「コンビニの場所、分かります?」

「分かります。ここに歩いてくる途中で見かけたので」

「そうですか。じゃあ、よろしくお願いします」

「はい」

 

 大島さんはエコバッグを持って立ち上がり、部屋の扉を開けて、姿を消した。その後、ガチャンと玄関の扉が閉まる音がした。

 俺は一旦作業を中断し、椅子に深く座って、


「ふぅ」


 と天井を見上げながら軽く腕のストレッチをして息を吐いた。

 大島さんは、他の仕事だってもちろんあるだろうに、今日この1日を俺の為だけに費やしてくれている。大島さんは本気だ。本気で俺に再生してもらいたいと思ってくれている。再び売れる小説が書けるかは、正直分からない。俺にはもう、なにが面白い小説で、なにがつまらない小説なのか、その判別すらつかないほど、自分の小説に関して悩み尽くしてきた。「小説を書くのが楽しい」という自分の原点すら、今はもうどこを探しても見つからない。ただ1人ぼっちで暗闇の中を歩いているような感覚だ。

 もう俺には、新人賞を受賞した時のような力や才能は残っていないかもしれない。

 もう何を書いても売れないかもしれない。

 それでも書くしかない。

 大島さんの熱意に応える為に。そして作家・斎藤涼がここで死んでしまわない為に。

 俺は大島さんがいない間に1本だけ紙タバコを吸おうと思い、ライターでロングピースという銘柄のタバコに着火して、吸い始めた。

 大島さんはタバコを吸うタイプの女性には全く見えない。だからタバコの臭いが部屋から早めに消えてほしくて、俺は部屋を網戸にした。

 すると、川のせせらぎや車の通過音がした。

 俺は椅子に座って、タバコの煙を吐く。

 作家とは、小説家とは、俺とは、一体なんなのだろう……。

 世の中に“俺”という存在は求められていない。また、俺自身でさえも、俺という存在を求めてはいなかった。だから、こうしてシラフの時の俺はまるで幽霊にでもなったかのような虚無感や空虚感に心が苛まれてしまう。そこに酒が入る事で初めて命が芽生える。そんな感覚すらあった。

 俺が生きている意味とは一体なんだろう。

 人生とは、一体なんだろう。

 そんな巨大な疑問を抱えながら、俺は口から紫煙を静かに吐く。

 まだ世の中や自分を何も知らなかった子供の頃は、ただ生きているだけで楽しかった記憶がある。でも大人になって色々な事を知った俺は、酒が無ければ笑う事すら出来なくなってしまった。シラフでは俺の感情は駆動しなくなった。

 虚無。

 全て、どうでもいい。

 

「……」


 いや、今は、どうでもよくはない。

 せめて今だけは頑張らないといけない。

 大島さんの熱い気持ちに応えたい。

 あの電話の中で、大島さんは「あなたのデビュー作に救われて泣いた経験がある」と言ってくれた。俺のデビュー作は、孤独な高校生の男子が主人公のエンタメ小説だった。今は俺は、もう28歳になっていて、孤独だった高校時代の事を思い出そうとしても、あの時の感覚を思い出せない。そもそも、クラスメイト40人の顔と名前を誰一人として思い出せない。ああ、今でも唯一覚えているのは、「高校に行くのが毎日辛かった」という感情だけだ。俺は友達もいなくて、野球部でも孤独で途中で退部して、ネットに依存して不登校になりながら、なんとか高校を卒業した。

 ちなみに専門学校でも孤独なのは相変わらずで、勉強についていく気も最初からなかったから、1年も経たずに中退した。

 だが、ちょうどその時期、俺は大きな文学賞の新人賞を受賞することが出来た。

 宝くじに当たれば良いな、という感覚で応募した小説が、本当に奇跡的に新人賞を受賞した。俺はそこで人生の全ての運を使い果たしたのだと思う。今の俺の心は空っぽだ。

 この際、正直に言ってしまうと、俺は出来るだけ早く死にたいと思っている。あくまで能動的ではなく受動的に。人生に意味や価値を感じることが出来ない。俺が酒を毎日鯨飲している理由の1つに、「早く死にたいから」というものがある。

 重度のアルコール依存症の人間の平均寿命は大体50代と言われている。

 今、俺は28歳。このままのペースで飲酒を続けたとする。ならば俺は50代でおそらく死ぬ。人生の折り返し地点を既に過ぎている可能性もある。

 俺は今まで酒の飲みすぎが原因で急性膵炎という病気に3度もなって入院した。

 俺の身体を酒は着実に蝕んでいる。

 身体だけではない。精神もおかしくなっている。

 実は俺は長年、精神科に通院しており、今も通院は継続している。俺は長年、鬱病と闘病していた。鬱に関しては今年の1月に寛解していると主治医に言われた。だが鬱が治ったと思ったら、今度は躁病だと診断され、毎日、気分安定薬という躁を鎮める薬を飲んでいる。だが、酒を飲んだら治療にならない。何故ならアルコールは人間を疑似的に躁や鬱っぽくさせるものだからだ。

 俺は、酒を飲んでいたら、いつまで経っても躁病は治らないだろう。

 ついでに言うと、俺は生まれつきの発達障害も抱えている。ASDという、自閉スペクトラム症というものだ。この障害は、集団生活や社会的な生活を極めて困難にさせる。全世界におけるASDの無職率は80%だとネット記事で読んだことがある。

 つまりASDという発達障害は、社会や集団を形成する本能を有する「人間」という動物の本能に全く適合できないという厄介な障害なのである。

 現に俺は今まで孤独に生きてきた。小説家という仕事に就けなかったら、今頃、俺は何をしていたのだろう……。

 俺は酒を飲まなければ、梟という居酒屋が無ければ、俺は孤独に苦しんでとっくの昔に自殺していたかもしれない。俺の心はこの部屋と同様に空っぽである。

 俺は孤独と共に生きてきた。

 そしてきっと、これから先の人生も孤独だ。

 誰からも、理解されることは無い──。

 と思っていた矢先、俺の背後から、


「──先生? 斎藤先生?」


 と大島さんの声がした。


「なんですか?」


 ゆっくり振り返った俺は、大島さんを見た。彼女はエコバッグを持って、俺の背後に立っていた。考え事をしていた俺は、大島さんがこの部屋に戻ってきていた事に気付かなかった。


「麦茶とおにぎり買ってきましたよ。ちょっとお昼休憩にしませんか? 張り切りすぎるのも、良くないです」


 そう言って、大島さんは笑顔を見せた。


「斎藤先生、はい、これ」

「ありがとうございます」


 大島さんは俺に冷えた麦茶とツナマヨのおにぎりを手渡してくれた。

 彼女は床にあぐらをかいて、エコバッグからサンドイッチと小さなペットボトルの緑茶を取り出した。そして緑茶を飲んで、彼女はこう言った。


「斎藤先生、群馬って良い場所ですね。東京とは違って、時間の流れるスピードがゆっくりな感じがします」

「俺も東京は苦手です。大都会の孤独より、田舎の孤独の方が、気楽です」

「たしかにそうかもしれませんね。東京はいつでも人で溢れていて、みんな楽しそうに見えます。私も東京に住んでいて、たまにこう思うんです。もしかしてこの東京の中で孤独なのは私だけなのかもしれないって」

「大島さん、そんな風に思う時があるんですか?」

「しょっちゅうありますよ。人間なら、誰でもみんな孤独を感じる時期が人生の中で必ず何度もあると思います」

「まぁ、そりゃそうですよね。その孤独を回避するために人間はみんな必死に共同体を作ろうとする」

「そうですね。ちなみに、斎藤先生は、孤独ですか?」


 俺は、前々からずっと抱いていた小さな違和感の正体に気付いたので、思わずこう言った。


「あの、大島さん」

「はい?」

「俺のことは、先生って呼ばなくていいですよ。先生って呼ばれると、なんかむずむずします。自分がまるで偉い存在みたいで」

「そうですか。じゃあ、なんて呼べばいいですか?」

「斎藤さん、とかでいいです」

「じゃあ今後は斎藤さんって呼びますね」

「はい」


 俺は冷たいペットボトルの麦茶を飲んだ。美味しい。かなり久々に酒以外の液体を嚥下した。

 

「あ、そういえば質問の内容なんでしたっけ?」

「斎藤さんは孤独ですか? って聞きました」

「孤独です。俺は学生時代から、今もずっと」

「今は孤独じゃないですよ。この部屋に私が居ます」

「そうですね。忘れてた」

「忘れないでくださいよ」


 そう言って、大島さんは笑った。

 釣られて、俺も少し笑った。


「私、嬉しかったんです」

「なにが?」

「斎藤さんの担当編集になれたこと」

「どうしてそれが嬉しいんですか?」

「だって私、元々斎藤さんの作品のファンだったから。歳も私の1個だけ上で、ほとんど同年代。そんな人が19歳で100万部も売れる小説を世の中に出した。私もリアルタイムで読者として読みました。あの小説は本当に凄かった。この世で斎藤さんにしか書けない小説だと思った。そんな人の担当編集を私が偶然任されたんです。嬉しいに決まってます」

「でもネットやSNSでは、もう俺という小説家は夭折したことにされています」

「それを生き返らせるのが、私の仕事です。斎藤さん、私は期待してます。だってまだあなたは28歳じゃないですか。まだまだ先も長いです。だから諦めてほしくないんです」

「先は長い、ですか」

「ん?」

「実は俺、出来るだけ早めに死にたいと思ってるんですよ」

「え、どうして?」

「どうしてでしょうね。何故か、この世の全てがどうでもよく感じてしまうんですよね」

「そうですか……。でも斎藤さん。私、こんな話を何かの本で読んだことがあります。天才が本当の意味でその才能を開花させるのは30歳からだって」

「じゃあ、それが正しいとするならば、俺の才能はあと2年後に開花するという事ですか?」

「そういう事です。未来にどんな事が起こるかなんて、誰にも分かりません。もしかしたら斎藤さんは深い孤独や絶望を感じながら生きているのかもしれない。私が想像もつかないような、深くて暗い闇の中で生きているのかもしれない。だけど、生きてさえいれば、きっといつか……」


 そこで大島さんの言葉は何故か止まった。

 なので俺は続きを催促する事にした。


「きっといつか……なんですか?」

「きっといつか幸せになれるって言おうとしました。だけど斎藤さんって綺麗事を嫌っているイメージがあるから、言うのは憚られました」

「たしかに俺は綺麗事はあまり好きではないけど、きっと極限まで病んだ孤独な人間が最終的に行き着く地点は、綺麗事なんじゃないですか?」

「綺麗事を信じないと、やっていけないっていう感じでしょうか?」

「そうですね。自分の場合は」

「そうですか。……あっ、今の会話、小説の中の登場人物に言わせるっていうのはどうですか? 良い言葉だと思いますよ。“きっと極限まで病んだ孤独な人間が最終的に行き着く地点は、綺麗事なんだ”って」

「たしかに良い言葉かもしれないですね。言わせましょう。俺の小説の登場人物に」

「あはは。私がこの部屋に来てから、初めて編集者っぽい仕事をしましたね」

「そうですね」


 俺は笑った。大島さんも笑っている。


 ◆


 執筆の途中、厳密には午後の3時から、仮眠を2時間取った。さすがに全く眠らずに作業をしていると、割と強めの眠気が襲ってくる。俺が大島さんに「今から2時間、仮眠を取っていいですか?」と訊ねると彼女は「え、たった2時間で良いんですか? 昨日から一睡もしてないんですよね」と言った。なので俺は「今、小説を書いているのが楽しいんです。だからあまり寝たくなくて」と返した。すると彼女は笑顔になり、「そうですか。じゃあ2時間、ぐっすり寝てください」と言った。

 俺はスマホの目覚ましを2時間後にセットして、ベッドに横たわり、タオルケットを身体に乗せて、目を閉じて、すぐ入眠した。


 ◆


 スマホのアラーム音が聞こえる。

 俺は目を覚まし、アラームを止めて、起床した。

 上半身を起こして部屋を見渡すと、大島さんはスマホをいじりつつ俺の目を見た。


「あ、おはようございます。斎藤さん」

「おはようございます」

「よく寝られましたか?」

「はい」

「私、斎藤さんが寝ている間もずっとこの部屋にいました。もしかしたら斎藤さんが夢遊病で、寝ながら徘徊して居酒屋に行っちゃうかもしれないと思ったから」

「めっちゃ監視を徹底してますね」

「冗談ですよ。私は普通に外に出て、散歩したり、コンビニで買い出しに行ったりしてました。エナジードリンクとかおにぎり買ってきましたよ」

「ありがとうございます。あと、大島さんは冗談が分かりづらいです」

「あはは。よく言われます」

 

 そういえば、午後3時から2時間寝て午後5時になったので、居酒屋・梟は既に開店している。いつもなら、梟に行く時間だ。

 俺は言った。


「俺の行きつけの居酒屋が開店する時間になりました」

「そうなんですか。じゃあ今から監視の目をより光らせないといけませんね。ちなみに、その居酒屋ってこのアパートからどのくらいの距離なんですか?」

「徒歩5分くらいですかね。梟っていう名前の、古くて小さな居酒屋です」

「なるほど。居酒屋ってやっぱり良い場所ですか?」

「はい。砂漠の中のオアシスみたいな感覚ですね」

「そうなんですね。私、体質的にお酒が全く飲めないので、お酒で酔える人を羨ましく思う事もあります」

「お酒は、飲まない方が良いですよ。やっぱり精神と身体への有害性が半端じゃないです。と知りつつ、俺は毎日居酒屋に行ってます」

「依存症って怖いですね……」

「依存症は脳の病気ですからね。“アルコール依存症を治す唯一の治療法は、死ぬまで一滴も酒を口にしない事だけ”です。それ以外の治療法は存在しません」

「私の願望としては、やっぱりこれからもずっと斎藤さんの担当編集で在りたいので、お酒をやめて健康に生きてほしいです。斎藤さんがおじいさんになっても私が担当編集で在りたいです」

「気持ちはとてもありがたいです。俺はとりあえず、今書いている長編小説が完結するまでは断酒します。そこから先は、正直どうなるか分かりません」

「そうですか……。でも、今書いてる小説が完成するまでは、お酒をやめてくれるんですね?」

「はい。やめます」

「分かりました」

「じゃあ、作業を再開しますね」

「はい」


 俺はベッドから起き上がり、ゲーミングチェアに座り、スリープモードだったノートパソコンを開いて、執筆を再開した。

 その様子を後ろから大島さんが無言で座ってずっと見ていた。

 大島さんの監視の効果もあって、執筆はかなり捗る。

 そして、酒が抜けた状態だと、何故かアイデアが無限に湧いてきてキーボードを叩く手が止まらなくなる。

 気が付けばあっという間に夜の9時半になっていた。

 大島さんが朝10時にこのアパートに来た段階では僅か30000文字しか書けていなかったのに、なんと夜の9時までに70000文字まで執筆が進んだ。大体この小説は200000文字で完結させる予定だ。残り130000文字。

 なんだ、やればできるじゃないか。

 俺はそう思った。

 夜の9時半頃、大島さんは俺にこう言った。


「私、そろそろ新幹線に乗って東京に帰らなければなりません」

「もうこんな時間ですね。今日はありがとうございました。とても助かりました。今日だけで物凄く原稿が進みました」

「いえ、こちらこそ、斎藤さんがしっかり仕事をしている様子が拝見できて良かったです」

「駅まで送っていきましょうか?」

「いえ、大丈夫です。道は覚えているので。あ、どうします? 明日も私が来た方が良いなら、今日はこの辺りでホテルを取って、明日も監視に来ますけど」

「大丈夫です。俺は、1人でも問題ありません」

「私も、今日の斎藤さんの様子を見ていて、確信しました。明日から私が監視に来なくても、問題ありません」


 そう言って、大島さんは笑った。

 俺も彼女の言葉通り、1人でも問題ないと思っていた。この時は──。


 ◆


 俺は大島さんがアパートから出て行った後、風呂にも入らず、そのままベッドで眠りにつこうとした。

 だが、全くと言っていいほど寝付けない。3時間ほど目を閉じていたが、一向に眠気が来なかった。

 そして、気温が高いわけでもないのに、何故か全身からとんでもない量の汗が大量に流れ続けた。特に顔からの発汗が酷い。試しにエアコンの冷房をつけてみても、滝のような汗が全く止まらない。この発汗は単なる発汗ではない。何故か焦燥感を伴う、かなり嫌な感じの、とんでもない不快感だ。

 俺は仕方なく、眠ることを諦めて、ゲーミングチェアに座って、執筆をすることにした。

 だが、今度は急に手がブルブルと大きく震え始めて、うまくタイピングが出来なくなってしまった。例えば、「こんにちは」と打とうとすると「こなんつじゃ」になったりするレベルで、手が震えまくる。

 更には、急激な不安感にも襲われた。部屋に1人でいるのが、途轍もなく怖く感じた。大島さんがそばにいてくれないと気が触れてしまいそうな程、1人の空間が怖い。1人が怖くて仕方ない。不安を消したくて、俺はテレビを無音で点けた。人の顔が映っている方が安心できると思ったが、全く効果は無かった。

 俺が急激な不安感や発汗や手の震えに襲われていると、今度は強烈な吐き気がしてきて、フローリングの上に思いきり嘔吐した。何度も何度も。

 その後、体が熱く感じて、体温計で体温を計測すると、37度4分の微熱があった。

 そして激しい動悸が俺を襲った。呼吸が自然と、物凄く荒くなる。

 直後、激しい恐怖感や切迫感が臨界点に達し「俺は死んでしまうのではないか」と本気で思って、部屋中を見渡した。

 すると、白い壁紙に、黒い文字のようなものが動いて見えた。それらの文字は、俺が今、書かなければならない文字のような気がするが、日本語でも外国語でもない謎の文字であった。

 俺は今、幻覚を見ている。

 今、俺の身に起きている事は、間違いなく急に酒をやめた事による離脱症状だ。

 

「……」


 助けてくれ。誰か。

 このままでは、俺は死んでしまう。

 大島さん。

 俺は、かなりの時間をかけて、震えながら「あるこーる 離脱症状」とパソコンで検索した。

 俺の今の症状は全てアルコールの離脱症状で間違いなかった。

 どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう、このままでは俺は締め切りに間に合わない。

 大島さん、助けてくれ……!

 俺がそう思って、震える手でスマホを操作して、大島さんに電話を掛けようとすると、急に後ろから、


「斎藤さんなんて早く死ねばいいのに」


 と大島さんの冷たい声がした。はっきりと聞こえた。

 

「え?」


 俺は途轍もない恐怖を感じながらゆっくり振り返る。だが、部屋の中に大島さんの姿はない。なら、この部屋を隔てた先のキッチンや玄関やトイレや風呂場に大島さんがいるのだ。

 そう確信して、椅子から立ち上がろうとするが、今度は全身が震えて、動けない。


「大島さん! いるんだろ?! そこに!」

「早く死ね」

「大島さん!」


 俺は動かない身体を何とか必死に動かし、立ち上がったが、歩くことができなくなっていた。立った状態のまま、そこから震えて一歩も動けない。俺は透明の壁に阻まれているような感覚に陥った。

 俺は全身を震わせて何分も掛けながら、壁に両手を置きつつ、なんとかゆっくり歩いて、部屋の扉を開けた。


「大島さん。いるんでしょ、そこに!」


 俺はなんとか電気をつけた。だが、大島さんの姿はない。

 玄関には俺の靴だけが置かれている。

 なら、靴を隠してトイレか風呂場の中にいる。そう思って確認したが、大島さんの姿は無かった。

 俺はパニックになりそうだった。呼吸が荒れる。発汗が止まらない。1人で居るのが怖い。頭がどうにかなってしまいそうだ。

 俺は床に崩れ落ちて、激しく嘔吐した。

 その瞬間、俺は全く呼吸が出来なくなった。急に俺は酸素の無い宇宙空間に放り出されたかのように、うまく呼吸が出来なくなった。

 頭が「死」に支配された。今すぐに救急車を呼ばなければ俺は今ここで死んでしまうと強く確信した。


「救急車……!」


 俺は死んでしまう。もうここで終わってしまう。俺は泣きながら、何とか必死に呼吸をしようとした。しかし、深呼吸が出来ない。呼吸が出来ない。俺は死んでしまう。本気でそう思った。

 体感にして30分くらい、俺は死の恐怖と、呼吸が出来ないという恐怖に取りつかれた。俺は涙を流した。

 

「早く死んでくださいよ。斎藤さん」


 大島さんの冷たくて怖い声が耳元で聞こえる。大島さんが死ねと言ってくる。俺は

 俺は再び嘔吐した。

 嘔吐をすると、ようやく、うまく呼吸ができるようになってきた。どうやら俺は、パニックによる過呼吸を起こしていただけのようだ。

 俺はまたゆっくり時間をかけて、壁に手をつきながら、何とか部屋に戻って、椅子に座った。

 幻聴だ。これは幻聴だ。大島さんが死ねなんて言うはずがないだろう。アルコールの離脱症状。全部俺の妄想だ。聞こえないはずの声だ。

 今が何時なのかは分からない。

 でも俺は今すぐに大島さんに電話を掛けなければならない。

 

「お前は早く死ねばいい」

「うー、あー、うー、あー」


 今度は大島さんの声ではなく、知らない男性の、のっぺりとした低い声が耳元で聞こえてきた。

 幻聴だ。

 更には、隣人の部屋からも「早く死ね!」と聞こえてきた。

 これは幻聴だと自分に必死に言い聞かせるが、隣人の「早く死ね!」という大声が止まらない。本当に「早く死ね」と言っているのか、幻聴なのか、区別が付かない。

 俺が何もできずにただひたすら恐怖感や不安感に襲われていると、今度は外から爆発音が聞こえたり、銃声が聞こえたり、女性や小さな子供の絶叫が絶え間なく聞こえてきた。戦車が砲弾を打つ音も聞こえた。そして遠くから、パレードのような音が聞こえてきた。怖い。

 俺はスナイパーライフルで遠くから銃撃されて殺される。

 そう思って、カーテンをなんとか閉めた。

 隣人からの「早く死ね!」という言葉の他に、昔の学生時代のクラスメイトや野球部だった頃の部員たちの声も外から聞こえた。全て俺を馬鹿にする笑い声だ。

 俺は、昔の学生時代の人々から部屋に監視カメラを付けられている。そうでないなら、何故、外からこんなにはっきりと昔の人達の声がするんだ。高校時代のクラスメイトや、野球部にいた頃の先輩や同級生たちが俺を馬鹿にして笑っている。

 外からそんな声がはっきり聞こえる。

 

「全部見えてるからな! お前の部屋の中も!」


 そう脅しをかけられた。

 俺は、今すぐに自殺しなければならないと思った。包丁で首を切らなければ。

 外から、高校時代の野球部の苦手だったT先輩の声が聞こえてきた。


「斎藤、お前、大島さんのこと好きなんだろ! 全部分かってるからな! ははははははははは!」


 一体、どこから俺の思考は盗聴されているんだ?

 一体、どこから俺の行動は盗撮されているんだ?

 Wi-Fiのホームルーターか? それとも、エアコンの中か? テレビの中か?


「そんなところに仕掛けてねえよ! 馬鹿じゃねえの!?」


 じゃあどこに仕掛けてるんだ。俺が持っているPS4の内部か? それともニンテンドースイッチか? それともパソコンか? それともスマホか?

 俺がそう考えていても、返事は無い。

 俺が所有する全ての電子機器に小型カメラや盗聴器があるに違いない。

 1つ1つ、全てを破壊する必要がある。

 パソコンやスマホの可能性が高い。

 だが、パソコンは壊せない。どうしてもパソコンは壊してはいけない。俺は今、締め切りに追われていて、この原稿を落とせば契約は打ち切りとなり、俺の作家人生は終わる。

 俺は巨大な恐怖心に震えながら、外から聞こえてくる色んな人の声を無視する事で精一杯だった。

 今、頼れる人は大島さんしかいない。

 俺は思考の盗聴と行動の盗撮をされている。

 スマホやパソコンの検索履歴や小説の下書きやSNSでの書き込みが既に警察にバレていて、もうすぐパトカーが俺を捕まえに来る。

 そうなれば、俺はもう刑務所入りが確定し、原稿の締め切りには間に合わず、作家人生が終わる。

 大島さんに早く電話しないといけない。


「できるもんならしてみろ! 電話!」


 外からは大勢の人々が俺を馬鹿にしてゲラゲラ笑いまくっている。俺の思考や行動の全てを把握している警察のパトカーはもうすぐ俺のアパートに到着するだろう。

 俺はLINEを開き、すぐ大島さんに電話を掛けた。

 時刻は深夜の3時半だった。

 だが緊急事態だ。迷惑なんて考えている場合じゃない。この電話はもちろん警察に盗聴されているはずだが、俺は今すぐ大島さんをアパートに呼ばなくてはならない。

 俺はスマホを耳に押し当てて、大島さんのスマホの電話の着信音を聞いている。

 早く出てくれ!!

 俺がそう思いながら待っていると、やがて電話が繋がった。


『もしもし……? 斎藤さん……どうしたんですか、こんな時間に』


 大島さんは寝ていたのか、眠そうな声だった。

 俺は大声でこう言った。


「俺はもうすぐ警察に捕まる!」

『……は?』

「俺の行動と思考が全部警察にバレてるんだ! この部屋のどこかに絶対に盗聴器と小型の監視カメラがあるんだよ! 外には俺の学生時代の人が沢山いる! そいつらもみんな俺を盗撮と盗聴してる!」

『斎藤さん! どうしたんですか!』

「この電話も警察に聞かれてるんだよ! 本当にごめん。俺は警察に捕まるんだ。今から自首しないといけない。自首したほうが罪が少し軽くなるから」

『今すぐ車で群馬に向かいます! 斎藤さん! それらは全部斎藤さんの妄想です! 私を信じて、アパートで待っててください! 今すぐ行きますから!』

「早く来てくれ! 俺は盗聴器と監視カメラを探すから。もしかしたらパソコンの中に仕掛けられてるのかもしれない。ならパソコンを壊さないといけない」

『落ち着いてください! 私を信じて、絶対に何もしないで部屋の中で待っててください! 高速道路ですぐ行きますから!』

「分かった……。俺は大島さんだけは信じる。とりあえず、スマホとパソコンの電源を切って待ってます」

『はい!』


 そこで通話は切れた。

 俺はすぐにスマホの電源を切り、書いている途中の小説のデータを保存してからパソコンの電源を切り、Wi-Fiのホームルーターのコンセントを延長コードから引き抜いた。

 それから、朝方に大島さんがこのアパートに来るまでの時間は、まるで永遠に続く拷問のようだった。

 警察に捕まるという恐怖や、思考や行動の全てが周囲に筒抜けになっているという恐怖は計り知れないものがあった。

 

 ◆


 時間は分からないが、部屋が徐々に明るくなってきた頃、自宅のインターホンが鳴らされた。俺は走ってすぐにドアのカギを開けた。

 ドアの先には大島さんが立っていた。ここまで走ってきてくれたのか、とても呼吸が荒れている。

 俺は安堵して、自然と涙を流した。

 その姿を見た大島さんも、泣き始めた。


 ◆


 大島さんが部屋に来て、数時間が経つと、ようやく俺は落ち着いてきた。

 依然として離脱症状は続いているが、真夜中の激しい幻覚・妄想状態は徐々に落ち着いてきた。だが、時折、外からパンクロックのライブの音や、銃声や、女性や子供の絶叫は聞こえた。しかし、近くで聞こえているわけではなく、とても遠くから聞こえる程度だった。

 大島さんは俺が落ち着きを取り戻すまで、ずっと「私がついてるから大丈夫」と優しく言い続けてくれた。

 俺は椅子に座り、ただ空気中をぼんやりと見ている。きっと目は死んでいるはずだ。離脱症状の身体症状はまだ続いている。

 大島さんは俺の背後にあるベッドに座っていた。

 俺は空気中を見ながら言った。


「大島さん、ごめんなさい。夜中に急に呼び出したりして。やっと少し落ち着いてきました」

「私の方こそごめんなさい。アルコールの離脱症状の可能性まで考えが及んでいませんでした」

「謝らないでください」

「……斎藤さん、今とても体調が辛そうに見えます。呼吸も荒いですし。病院に行きますか? アルコール依存症を専門に診ている病院に」

「それは、できないです」

「でも……」

「病院に行ったら、入院を勧められるかもしれません。入院は出来ないです。俺には、時間が無い。離脱症状はきついけど、締め切りに絶対に間に合わせたい。俺の為にも。大島さんの為にも」

「斎藤さん、私の方を見てください」


 そう言われ、俺は大島さんを見た。

 大島さんの目は涙で潤んで赤く充血していた。


「斎藤さんの目が本気ですね。分かりました。私は担当編集として、斎藤さんの意志を尊重します。なんとか一緒に小説を完成させましょうね!」

「はい。二人で一緒に完成させましょう」

「私は斎藤さんの小説が完成するまで、活動拠点を東京から群馬に移します。寝泊りはこのアパートの近くのビジネスホテルで行います。もし体調が悪化したら、24時間いつでも私に電話をかけてください。すぐ対応します」

「ありがとうございます。とても心強いです」

「斎藤さん、改めて言いますが、今回依頼した小説のテーマは断酒と感動です。あ、そうだ。離脱症状の辛さも小説の登場人物に体験させるというのはどうでしょうか」

「いいですね。せっかくなら、この苦しさを小説に昇華しないともったいないですもんね」

「はい。もったいないです。せっかくの苦しみは、小説に変換してしまいましょう」

「はい。そうですね」


 大島さんと俺は二人で笑った。


 ◆


 俺がネットでアルコールの離脱症状の期間について調べていると、こんな文言が出てきた。


【アルコール離脱症状は通常、最後の飲酒から6〜24時間後に発生し、24〜36時間でピークに達することが多いとされています。さらに、2〜7日くらいで徐々になくなってきます。しかし、これはアルコールの量やどれだけの時間アルコール依存症になっていたかなどにも大きく関わります。重度のアルコール依存症の場合、なかには1か月、いえ、何年もかかることも十分考えられます。】


 1か月以上、あるいは何年も離脱症状が起こるケースがあるらしい。

 俺に残された時間は少ない。

 もし締め切りまでに離脱症状が消えなかったとしても、俺はやるしかない。大島さんと二人三脚で。


 ◆


 結論から言うと、俺のアルコールの離脱症状が完全に消えるまでは2週間くらい掛かった。

 その期間、小説の執筆のスピードは著しく落ちていた。日によっては身体症状が辛くて、500文字程度しか書けない日もあった。

 だが、幸い2週間ほどで離脱症状は完全に終わったので、俺はここからフルスロットルで駆け抜けようと思った。

 大島さんは俺の小説が完成するまで、活動拠点を群馬に移してくれた。

 そして、食材や水分の買い出しなども担ってくれた。

 俺が小説の執筆に集中できる環境を作ってくれた。

 その想いに応えたくて、俺は人生で最も本気で小説を書いた。

 そして、遂に俺の長編小説は完成した。最終的には250000文字くらいの長編になった。


 ──ちなみに俺が書き上げたのは「アルコール依存症の売れない28歳のダメダメな小説家が27歳のしっかり者の女性の若手編集者と共に二人三脚で名作小説を作り上げて、その小説家が再生して、最終的に一生涯の断酒を誓う」という内容の小説だった。


 まだ世の中に出ていない作品のネタバレになるので、小説の内容を公には出来ないが、作中の最後の会話文は、




『俺はこれからもあなたと二人三脚で小説を書き続けたい。これからもずっと、よろしくお願いします!』

『はい! こちらこそ、これからもずっとずっと、よろしくお願いします!』




 である。

 

 ◆


 締め切りの3日前に、なんとか俺はギリギリ原稿を完成させた。

 現在、6月下旬の朝10時。天気は晴れていて、気温が高い。部屋は冷房が効いている。

 俺が書いたのは250000字の小説だ。今の俺に出せる本気をこの小説に全てぶつけた。

 ちなみに、この小説のタイトルは【酔わない夜に乾杯を!】である。タイトルに悩んでいたら、大島さんがこのタイトルを提案してくれたので、【酔わない夜に乾杯を!】というタイトルにした。

【酔わない夜に乾杯を!】の最後の一文まで書き終えた俺は無言でガッツポーズを何度もして、勝利の美酒ならぬ、勝利の美煙を吸った。

 

「あ~、28年の人生の中で1番うまいタバコだ」


 締め切りまでに原稿を完成させた俺はすぐに大島さんに知らせたかった。

 俺はタバコを根元まで吸い終えた後、大島さんに電話をかけた。

 彼女はすぐに電話に出てくれた。

 俺はハイテンションでこう言った。


「もしもし大島さん、なんとかギリギリ締め切りまでに原稿が完成しました!」

『え! 本当ですか!?』

「はい! 俺の今の力の全てを総動員しました!」

『今すぐアパートに向かいます!』

「はい。カギ開けて待ってます!」

『ホテルから走っていきます!』


 そこで通話は切れた。

 アパートのカギを開けて10分ほど待っていると、やがてガチャリと玄関のドアが鳴った。

 そのまま部屋のドアが開けられた。そこには汗だくの大島さんが笑顔で立っていた。


「はぁ……はぁ……全力で走ってきたから疲れた……。あー、エアコン効いてて涼しい。それよりも斎藤さん、お疲れさまでした! 汗が止まったら読ませてください! 小説!」

「タオル使います? 昨日洗濯したばかりなので汚くはないと思います」

「はい、お借りします!」


 俺は部屋干しして放置してあるフェイスタオルを洗濯ばさみから取り、大島さんに手渡した。

 すると、大島さんは顔や腕を勢いよく拭き始めた。

 それから5分くらいが経ち、いつも俺が座っているゲーミングチェアに大島さんが座り、俺の書いた小説をチェックし始めた。

 俺は大島さんの背後で体育座りしながら、大島さんの小さな背中を無言で眺めていた。

 1時間ほどが経ち、大島さんがこちらに背を向けたまま、


「全部読み終わりました」


 と言った。


「どうですか?」

「直す箇所は1つもありません。完璧です!」


 そう言って、大島さんは椅子をくるりと回転させて、こちらに花のような笑顔を向けてきた。

 その両目から一筋の涙が流れたのを俺は見逃さなかった。

 大島さんはすぐに椅子を回転させて、俺に背中を向けながら、冷静にこう言った。


「斎藤さん、小説が完成したので、もう断酒を終了しても構いませんよ。よく1ヶ月近くも頑張ってお酒を辞めてくれましたね。いつもの居酒屋にも、今日からはまた行っていいですよ」


 俺はその言葉を聞いて、笑いながらこう反論した。


「いやいや。この小説のテーマは『断酒と感動』ですよ? その小説の作者の俺が酒を飲んだら、この小説を書いた意味や作品の説得力が無くなってしまうじゃないですか」

「それもそうですね。じゃあ、今日の夜、お祝いに二人で美味しいレストランに行きましょう。私は体質的にお酒が飲めないので、ソフトドリンクで」

「俺も体質的にお酒が飲めないのでソフトドリンクで。俺、人生で一滴もお酒を飲んだことが無いんですよ」

「嘘つき!」

「ははは。すいません。でも、俺はこれからも断酒を続けますよ。今日の夜はソフトドリンクで乾杯しましょう」


 そう言うと、大島さんは椅子から立ち上がって、涙を服の袖で拭いて俺の方に向かって歩いてきた。

 俺は立ち上がって、右手を差し出した。

 すると大島さんも右手を差し出した。

 そして、2人で固く握手を交わした。

 直後、大島さんは満開の花のような笑顔でこう言った。


「酔わない夜に乾杯を!!!!!」

 

 ◆


 結論から言うと、この【酔わない夜に乾杯を!】という長編小説は、最初の売れ行きは、いつも通り良くなかった。

 しかしネット記事やブログやSNSで少しずつ取り上げられていき、ジワジワと売り上げを伸ばしていき、重版も早めに決定した。

 断酒と感動がテーマの小説という事もあり、アルコール依存症の当事者たちがSNSで「この小説に救われた」と投稿してくれたりもした。【酔わない夜に乾杯を!】を読んで断酒する事を決意してくれた人の投稿もSNSで目立った。

 そして、本を買って読んでくれた人からの手紙も出版社に沢山届いた。

 業界内でも「隠れた名作」として取り上げられ、文芸誌の片隅で紹介されたりした。すると読者層が広がり始め、世代やジャンルを超えて【酔わない夜に乾杯を!】は徐々に評価され始めた。

 そして俺が近所の書店に赴くと、書店員の手描きのPOPで俺の小説が置かれていたりした。

 断酒会などの場でも、【酔わない夜に乾杯を!】が紹介されたりしているそうだ。

 デビュー作のような大ベストセラーとまでは行かなかったが、今まで5000部ほどしか売れなかった俺の小説はその何倍も売れ、今も売れ続けているようだ。

 もちろん行きつけの居酒屋だった【梟】にも、その報告をしに行った。すると、店主の小林さんも常連客の皆さんも我が事のように喜んでくれた。

 いつしか売り上げは10万部を超えた。今もジワジワと売れ続けている。


 斎藤涼という小説家が再び息を吹き返して復活できたのは、間違いなく、大島香織さんという担当編集者のお陰だ。


 俺は今後もずっと、大島さんと二人三脚で小説を書き続ける人生を送りたい。



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 ~2年後~



 私が最後に斎藤さんと会ったのは、つい先日、うだるような暑い夏。群馬県のとある駅前の喫茶店だった。

 あの日、斎藤さんはアイスコーヒーを飲みながら、


「今作も全文シラフで書いたよ。大島さん」


 と、ちょっと照れた顔をしていた。

 斎藤さんが本当に酒を断てたかどうかなんて、私には正直分からない。

 でも、あの小説【酔わない夜に乾杯を!】のラストの会話文だけは──本物だった。


『俺はこれからもあなたと二人三脚で小説を書き続けたい。これからもずっと、よろしくお願いします!』

『はい! こちらこそ、これからもずっとずっと、よろしくお願いします!』


 この会話文だけは私が斎藤さんの担当編集者として一生胸に刻んで大切にしたい言葉だ。

 私は今後も、ずっとずっと、斎藤涼の担当編集者として、二人三脚で小説を作り続けたい。

 だから、私は今でも時々読み返す。

 あの、ちょっと不器用で、やたらと泣ける、断酒作家の作品を。













 ~おわり~

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酔わない夜に乾杯を!【小説】 Unknown @ots16g

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