ピンポンは、もう鳴らない
広川朔二
ピンポンは、もう鳴らない
朝、いつもより少し遅めに淹れたコーヒーの香りが、静かな部屋に立ちのぼっていた。窓の外には、初夏の陽射しが淡く差し込み、小さな庭先の紫陽花が風に揺れている。
佐原綾は、その景色をぼんやりと眺めながら、ノートパソコンに向かっていた。
フリーの編集者として在宅仕事を始めてもう三年になるが、こんなに「静けさ」を大切に感じるようになったのは、ごく最近のことだ。都会から離れた住宅街、角地の小さな平屋。喧騒とは無縁の暮らしが、彼女の心をゆっくりと整えてくれていた。
だが、──それはほんの数日前までの話だった。
最初に現れたのは、先週の火曜日。昼下がりの、一番作業に集中していた時間だった。
不意に鳴り響いたインターホン。モニターに映ったのは、白いワイシャツ姿の男。営業スマイルを貼りつけた顔が、妙に画面越しでも鬱陶しく感じられた。
「こんにちはー! ご在宅でしょうか、お時間少々よろしいですかっ!」
歯切れよく響く声。
綾は迷わずインターホン越しに応じた。
「すみません、営業でしたらお断りしてます」
「あ、はいはい、そう仰る方多いんですけどね、でもお話だけでも──」
「……失礼します」
ピッ、と通話を切った。
相手はまだ何か言っていたようだったが、画面を見ずにドアを背にした。
ああいうの、久しぶりだったな。
この家に越してから、訪問販売なんてほとんど来なかった。ポストにチラシが入る程度の静けさが、ここの一番の魅力だったのに。
その翌日、水曜日──同じ男がまた来た。今度は午前十時。
「昨日の者ですけど、やっぱりお伝えしたくて……」と、ぬけぬけとモニター越しに言った。彼女は前日と同じ対応をしたが、インターホンを切った後も、男の声は玄関越しにしばらく聞こえていた。
木曜日。また来た。時間をずらして、夕方。
金曜日は、昼と夕方、二回来た。インターホン越しではなく、直接ノックまでしてきた。しつこさが日を追うごとに増していた。
──このあたりから、綾の中で何かが変わり始めていた。
土曜日の午後。ついにドアに足をかけてきた。
「そんなに拒絶される理由、ありますか? 一度話を聞くだけなら、損はないはずですよ」
柔らかい笑みを浮かべながら、男は玄関の敷居のすぐ内側に片足をかけた。
冷たいものが、背筋を這い上がった。
「通報しますよ」
綾は、感情を抑えたまま、淡々とそう言った。男は一瞬だけ表情をひきつらせたが、すぐに口元を整えた。
「いやいや、そんな大袈裟な……ちょっと営業のマナーが悪かったかもしれませんけど、話くらい──」
「録音してます。録画も」
男は数秒間沈黙した。そして、「……そうですか」とだけ言い残し、ようやく引き下がった。
綾は、そっと玄関の鍵を二重にかけ、深く息を吐いた。
いつからだろう。インターホンの音に、肩が跳ねるようになったのは。
……このままではいけない。
この静けさを取り戻すためなら、多少の手間を惜しむつもりはない。
彼女の眼差しが、机の引き出しの奥に差し込まれた名刺に向けられた。あの男が、最初の日に強引に置いていったもの──それは、手がかりであり、引き金だった。
その翌週、訪問営業はさらに悪質な形で続いた。
午前十時。午後三時。夕方六時。
まるで彼女の生活リズムを把握しているかのように、インターホンが鳴る。モニターに映るのは、同じ白シャツの男──名刺に記されていた名前は「志賀 真一」。
断っても、黙って帰ることはない。
彼はたびたび、ポストに手紙風の「ご提案書」を投函し、ドアノブにパンフレットを吊るした。中身は、古びた屋根の補修や外壁塗装の写真、そして「近所の○○様もご依頼済みです!」という名指しのセールストーク。
近所の誰かが依頼したのは事実らしく、同じ施工業者のロゴが入った軽トラックが、別の家の前にしばしば停まっていた。
そのせいか──ある日の買い物帰り、向かいの奥さんにこう言われた。
「志賀さん、感じいい人でしょう? あの人、前の家も丁寧にやってたって評判なのよ」
綾は苦笑いしかできなかった。
彼女が受けている執拗な営業が「感じのいい人」と評されるなんて。言えなかった。相手の姿勢が変わるどころか、地域の中で好印象を持たれているのだと知ると、逆に孤独感が増した。
──自分がおかしいのか?
神経質すぎるのか?たかが訪問営業ひとつで、ここまで疲れるのは。
自問する日々が続いた。
深夜、窓の外に誰かの気配がしたような気がして、目を覚ました。だが、何もなかった。それでも綾は、翌日から玄関前に小型の防犯カメラを設置した。アプリ連動の簡易型で、スマホから映像も確認できる。念のためにと始めた録音も、今ではデータフォルダに整然とファイルが並んでいる。
──これは、もしもの備え。
そう自分に言い聞かせながら、彼女はある種の“記録”を日課にし始めた。
そして、金曜日の午後。いつものように志賀が訪れた。だが、この日は少し様子が違った。彼は無言でドア前に立ち、こちらの応答を待たずに封筒を置いた。中には「特別割引の最終通知」と書かれた紙とともに、綾の家を撮影したと思われる外観写真が同封されていた。
──誰が撮った? いつ、どこから?
彼女の背筋を冷たいものが這った。
これはもう営業の域を超えている。
“監視”だ。“威圧”だ。“迷惑”では済まない。
その日の夜、綾は押し入れの奥から黒い書類ケースを取り出した。
大学を出てすぐに就職した会社で、十年近く担当していた部門の資料が、埃をかぶって眠っていた。
内部監査部門。コンプライアンス、情報倫理、ハラスメント相談──。
当時の名刺には、「主任」の肩書きとともに、会社のロゴが小さく印刷されていた。
あの頃の知識は、まだ脳のどこかに残っている。
苦情の書き方、証拠の整え方、法的に「脅迫」にあたる文言のライン。全部覚えている。
──私を甘く見たこと、後悔させてあげる。
綾の目に、ようやく光が戻っていた。
冷たい、精密機械のような静けさが、彼女の中に戻ってくる。
月曜日の朝、綾は冷えたコーヒーを片手に、淡々とスマホの録画映像をチェックしていた。
志賀が玄関前に立ち、無断で封筒を投函し、敷地内をうろつく姿。時間、角度、音声──すべてが鮮明に記録されている。
彼女の目は、すでに怒りを超えていた。
淡々と、静かに、冷徹に「作業」として反撃の準備を進めていた。
最初に行ったのは、消費者センターへの通報。営業記録の映像と、志賀の名刺の写真を添えて報告書を提出。
続いて、彼の所属する施工会社の公式サイトを確認し、代表者名と会社所在地、業務実態の調査を開始した。
名刺に記載されていた会社「株式会社ワールドリノベ」は、法人登記されているが評判は芳しくない。口コミサイトには「見積もりを断ると態度が急変」「しつこい訪問」「高額請求」など、類似の苦情が並んでいた。
綾は、それらをすべてスクリーンショットし、法務局から会社の登記簿謄本を取り寄せる申請まで行った。
次に向かったのは、SNS。匿名のアカウントを立ち上げ、記録した被害の一部を“モザイク付きで”公開。
《悪質訪問営業の記録です。再三断っても来続ける男の一部始終。ご近所の方、ご注意ください》という一文とともに、志賀の特徴と、会社名を伏せた状態で投稿した。
動画は予想以上に拡散された。コメント欄には、
『うちもこの人来た!同じ名刺!』
『会社ググったら、似た口コミ出てくるね……』
『こういう営業、ちゃんと処分されてほしい』
という反応が次々と寄せられ、気づけば数万件の再生数に達していた。
数日後、施工会社から「お客様相談室」を名乗る人物からメールが届いた。
「一部不適切な営業行為があったかもしれず、詳細を確認させてほしい」「投稿は削除いただきたい」──要するに、穏便に済ませたいという意図が見え見えだった。
綾は、それに対してきっぱりと返信した。
《そちらの社員が私に行った行為は、録音・録画含めてすべて証拠として保管しています。投稿の削除は、正式な謝罪と再発防止策を確認してから検討します。なお、法的な手段も辞さない構えでいることをお伝えします》
返信は、それきり途絶えた。
──だが、翌日。
またしても志賀が現れた。
「ちょっと、やりすぎじゃないですか?」
綾がインターホン越しに応対すると、彼は怒りを押し殺した声で言った。
「俺を晒して、会社にまで通報して……。名誉毀損になるかもしれませんよ? 逆に訴えられますよ?」
綾はゆっくりとマイクに口を近づけた。
「お言葉ですが。現在、あなたの行為は“つきまとい”にあたり、ストーカー規制法および軽犯罪法の対象にもなり得ます。録画・録音はすべて警察に提出済みです。なお、名誉毀損は“真実であり公益性がある場合”は成立しません。以上」
志賀は数秒、黙った。
そして、ふいに顔をしかめ、吐き捨てるように言った。
「……ちっ、面倒くせえババアが」
志賀が最後に姿を見せた日の夜、綾は玄関前に録画された映像を確認し、静かにため息をついた。
男の捨て台詞も、苛立った表情も、もう驚きではなかった。ただ、これが最後だと信じていた。
翌朝。
彼女はこれまでに収集してきた録音・映像記録をひとつにまとめ、消費者センターと市の防犯相談窓口に正式な苦情として提出した。
あわせて、施工会社「ワールドリノベ」の本社宛てに、法的措置をちらつかせた内容証明郵便を送付。
それから一週間も経たないうちに、会社から「お詫び」と記された封書が届いた。
そこには、形式的な謝罪文と、志賀を“担当から外した”旨の一文、そして「二度と訪問しないことを誓約する」という書面が添えられていた。
綾は何も返事をしなかった。ただ、受け取って静かに机の引き出しにしまった。
その後、近所の住民の間で小さな変化が起こり始めた。
彼女がさりげなく「録画してたらすぐ静かになった」と漏らしたことで、玄関先に『営業お断り』と書かれたステッカーを貼る家が少しずつ増えていった。
誰かが大声を上げたわけでもない。誰かが有名になったわけでもない。
ある日の午後、綾はベランダで洗濯物を取り込みながら、ふと玄関を見やった。
チャイムは鳴らない。あの低くて重たい「ピンポン」が鳴らないだけで、生活がどれほど穏やかになるかを、今さらながらに実感していた。
静かな雨が降り出した。
ポットから立ちのぼる湯気とコーヒーの香りが、部屋を満たしていく。
綾は微笑んだ。
自分にだけわかる勝利。誰の目にも触れない、けれど確かな平穏。
それだけで十分だった。
ピンポンは、もう鳴らない 広川朔二 @sakuji_h
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