紫陽花の咲く頃に
きこりぃぬ・こまき
紫陽花の咲く頃に
しとしとと、細かな雨粒がゆっくりと空から落ちてくる。模様を描くように地面を濡らし、しばらくすると模様の代わりに水溜まりができあがる。水溜まりを覗き込めば灰色の厚い雲と、その隙間から漏れ出る薄い日の光か映っている。
カメラを首からぶら下げた青年はビニール傘を差し、薄いとも厚いとも言い難い透明の膜を通して世界を眺める。地面から跳ね返る飛沫が靴を濡らすことを気にせず坂を上り、葉の上をのろのろと進むカタツムリを見つけては足を止める。
カタツムリにピントを合わせてからシャッターを切ってはしぼりを調節し、背景をどこまでぼやかしてカタツムリを目立たせるかを思案する。角度や距離を変えて十枚、二十枚と撮影してようやく青年はカタツムリからレンズを外す。
「いまいち」
ふっと小さな溜め息を吐きだし、青年は止めていた足を動かす。
何が撮りたいか、具体的なイメージがあるわけではない。しかし、何を撮ってもこれといった特別感を抱くことがない。他にもっと良い被写体はないだろうか。石畳の間から生えた苔を踏まないように足を進めて、青年は撮りたいものを探す。
「苔、植物……雨と植物かあ……」
雨に濡れて緑を深くした苔に青年は連想ゲームのごとく単語を繋げていく。
そうして坂の中腹まで来たとき、青年の視界の端に鮮やかな色彩が差し込む。
桃色、薄紅、珊瑚色、撫子色、薄紅藤。少女のように可憐で、過ぎ去った春を留めるように咲き乱れる。そこに存在を滲ませる群青色。
紫陽花だ。花の名称を口にすると同時に、青年はシャッターを切る。撮ろうと思い、構図を考えるよりも先にシャッターを切ったのは久しぶりのことだった。どんな風に映っただろうか。気持ちが逸るままにモニターで確認しようとするが、青年の行動を遮るように雨音に溶け込むような静かな声が耳に染み込んできた。
「うちの紫陽花に興味がありまして?」
「あ、ご、ごめんなさい!」
「あら、驚かせてしまったかしら」
「盗撮しようと思ったわけではなくて、その、とても綺麗だったのでつい」
「ふふ、気にしないでちょうだい。久しぶりのお客様に紫陽花たちも喜んでいるもの」
薄紫色のショールを肩にかけた老婦人が紫陽花の壁から顔を覗かせて、青年に微笑みかける。無断で撮影したことを咎められると思い、慌てて頭を下げるが老婦人はしとしととした雨音に紛れるように喜笑する。
花びらのように薄く柔らかそうな肌に刻まれた深い皺から老婦人と判断したが、そう表現するには艶やかな黒髪をしている。丁寧にまとめられた髪から零れたひと房を耳にかける老婦人の仕草に目を奪われた青年はそう思った。
青年の心情など知らない老婦人はゆっくりと頬を持ち上げ、時が紡いだ刺繍のような目尻の皺を深くする。
「こちらからの方が綺麗に見えるのよ。よければお茶でもどうかしら」
老婦人の名前は
紫陽花に囲まれた家の主であり、彼女は広い家で一人暮らしをしている。
亡き主人が自分によく似合うと言ってくれた紫陽花を庭に植え、大切に手入れをしている。しかし、年老いた身体では庭仕事で一日を費やしてしまうため外に出ることも少なく、話し相手が欲しいと思っていた。
青年をお茶に誘った藤島はそう語った。その日以来、青年は雨の降る日に藤島家を訪ね、お茶を共にしては紫陽花の撮影をするという1日を送るようになった。
「その紫陽花がよほど気に入ったのね。ずぅっと撮っているわ」
「はい。雨に濡れた紫陽花が魅力的なのか、それともここの紫陽花が特別なのか分かりませんが……とにかく目が離せなくて」
「ふふ、それはとても嬉しいわ。でも、そろそろお茶にして身体を温めましょう。夏になって暖かくなってきたとはいえ、雨に濡れてしまえば身体が冷えるわ」
「傘を差していますし、大丈夫ですよ」
「あらそう? 私には肩が濡れているように見えるわ」
「……本当だ」
藤島に指摘されて初めて自分の肩が濡れていることに気付く。自覚をすると急に寒気がしてきて、身震いをしながら屋根の下に駆け込む。
慌ただしい青年の様子に藤島は黒色のタオル差し出す。微かな温もりが残るふわりとしたタオルで濡れた肌を撫でる。心地の良い感触なので湿っているにも関わらず顔を埋めれば、眠気を誘う香りがした。懐かしいような、少し切ないような。瞼が重たくなるのを感じながら、覚えのある香りの正体を探る。
「どうかしたの」
「タオルの香りが懐かしくて。思い出せそうで思い出せないから気になるというか」
「タオルの香り……ああ、ミルクの香りよ。人肌ほど温めたミルクの香りって安心するでしょう?」
なるほど、言われてみればそんな気がする。青年は納得したように頷いてタオルから顔を離す。
藤島にお茶で身体を温めるように促され、青年はもう一度濡れているところがないか確認してから室内へ入る。
アンティーク調の家具で統一された部屋には何度通されても慣れない。青年は緊張を和らげるようにぎっぎっと軋む床や窓の隙間から吹き込む湿った風に五感を傾ける。
「そろそろ慣れてくれてもいい頃合いだと思うのだけれど」
「こんな高そうなものに囲まれたら無理ですよ」
「古いだけよ。だから楽にしてちょうだい」
淹れたてのお茶と菓子を並べたテーブルに視線を落とし、青年は促されるまま席に着く。カップに手の平を添えるとじんわりと熱が広がってくる。白んだ指先に熱が戻り、肩の力が抜けていく。ほっと息を吐いたところでカップに口をつける。舌の上を撫でるほんのりとした苦味が喉を通り、内側から身体を温める。
カップをコースターの上に置き、背もたれに温まった身体を預ける。雨粒がぱたぱたと窓を打ち付けてリズムを刻む。室内の静けさを強調するような雨音は子守唄にも聞こえて、青年の眠気は一層強くなる。抗うように青年は藤島に話しかける。
「写真を撮って気になったのですが、どうしてあそこの紫陽花だけ青色なんですか?」
「そうねえ。紫陽花の色って何で変わるか知っている?」
「品種とか」
「それもあるけれど、この紫陽花は違うわ」
藤島は時を紡いだ刺繍のような目尻の皺を深め、口元に笑みを咲かせる。瞳の奥に愛おしさが滲んでいるのは、紫陽花が似合うと言った亡き主人のことでも思い出しているからだろうか。艶やかな黒髪を耳にかけ、カップに口をつける藤島の仕草にから目を逸らすように窓から見える紫陽花に視線を向ける。
花びらのように薄く柔らかそうな頬を淡いピンク色に染めて、ほうと吐息を漏らす。皺が寄った、少し色褪せた唇についたミルクを舌先で舐め取る。それから、ようやく藤島は答えを語る。
「紫陽花は土の状態で変わるのよ」
「硬いとか柔らかいとか?」
「いいえ、土が酸性かアルカリ性かで変わるのよ」
「リトマス紙みたいですね」
「……面白い例え方ね」
青年の例えに藤島は目を丸める。そして、ふっと目元を和らげて子守唄のような雨音に溶け込む笑い声を密やかに漏らす。室内の静けさをそっと揺らし、カップから立ちのぼる湯気のように消えていく。ふわふわと足が宙に浮くような不思議な感覚に身を委ねながら、青年は考える。
紫陽花の色が変わる原因は分かったが、一ヶ所だけ色が異なっている理由は分からないままである。土壌のpHに影響されるとして、どうしてその部分だけpHに差があるのだろう。考え、答えが分からず青年は首を傾げる。
「でも、どうして」
青年が口を開いたとき、壁に掛けられた柱時計のボーンボーンと低く響く音が室内を満たす。
時間の報せに藤島は頬に手を添えて残念そうに視線を伏せる。
「また、雨の日に遊びにいらっしゃい」
あの日から雨が降ることなく梅雨は明けた。
もう何日も快晴が続いており、青年は藤島のもとへ訪れることができずにいた。次はいつ雨が降るのだろう。テレビを見ても、ネットニュースを確認をしても、降水確率は限りなくゼロに近かった。
藤島が毎回別れの挨拶を雨の日にいらっしゃいと締め括るので、家を訪ねるのは雨の日だけにしていたが明確に約束を交わしたわけではない。梅雨が明け、次にいつ降るか分からない雨を待つくらいなら、一度くらい晴れの日に遊びに行ってみよう。光を浴びた紫陽花の壁がどのような顔をしているのか気になるし。青年は思い立ち、カメラを首にぶら下げて外を出る。
長い夢から覚めたような、雲一つない澄んだ青空が広がっている。雨水で潤っていた葉が夏の日差しを浴びてきらきらと輝いている。残っている水溜まりには青空と伸びた枝の上で揺れる鮮やかな緑を映し出しており、梅雨の名残と夏の訪れを感じて青年はカメラを構える。
水溜まりに映し出された夏の景色にピントを合わせ、時に波紋を広げて。十枚、二十枚と撮影する。雲が浮いている日に水溜まりを作って、改めて撮影するのも良いかもしれない。そのようなことを考えながら、青年は水溜まりからカメラを外す。
湿気をわずかに残した夏の鋭い陽光が肌を刺す。すっかり乾いた石畳の隙間から顔を出す苔だけが梅雨の間にたっぷりと吸いこんだ雨水を含んだままでしっとりとしている。一斉に鳴き始めた蝉たちにより熱の籠った空気を掻き乱し、坂道を上る足を重たくする。顎を伝う汗を拭い、ふうと息を吐いたとき、青年は老爺に声をかけられる。
「きみ、今日も藤島さんのお孫さんかね」
枯れた、けれど掠れているわけではない厚みのある声だった。笑っているわけでも、怒っているわけでもない。老爺の表情は静かなもので、それが不気味に感じられた。
汗が肌に吹き出るほど暑い日なのにも関わらず、青年は寒気を覚える。肌に纏わりついていた空気が重たくなり、ひくりと喉の奥が震えたことがはっきりと分かる。
「ちがい、ますけど……」
「そうか。なら、あの家に近付くのはもうやめなさい」
「え」
青年の言葉を聞き、老爺はそっと首を横に振る。乾燥で薄皮がめれた唇をわずかに開き、音を発することなく息だけ吐いて閉じる。それは口にすることを躊躇っているようで、青年は身体を強張らせる。その反応を見た老爺は目を瞑り、言葉を選ぶ。
ぬるい風が二人の間に吹き込み、騒がしい蝉の鳴き声を遠くに運んでいく。重たい沈黙が流れ、息苦しさが増していく。青年はその場を逃げ出したい衝動に駆られるが、足を動かす前に老爺は瞼を上げて一点を見つめる。青年はつられるように老爺の視線を辿り、そしてひゅっと息を呑む。
「藤島さんは数年前に亡くなっていて、あの家には誰も住んでいないんだよ」
色彩豊かな紫陽花は見る影もなく、縁から茶色く萎びたものがくったりと首を垂らしていた。
藤島夫婦は子宝に恵まれることがないものの、いくつになっても恋人のように仲睦まじかった。夫婦は一匹の黒猫を飼っており、我が子同然に愛でていた。黒猫は人懐っこく、近隣住民の癒しにもなっていた。夫に先立たれてから、婦人と黒猫の一人と一匹で穏やかに暮らしていた。しかし、数年前に藤島文子が急逝してから黒猫の姿は見えなくなり、紫陽花の壁は梅雨の時期になると茶色の萎びたものが首を垂らすようになった。その光景は不気味で、近隣住民は近寄らなくなったという。
青年に語り聞かせた老爺が見せた藤島夫婦の写真には、梅雨の間に出会った藤島文子が黒猫を抱えて微笑んでいた。その微笑みを青年は確かに紫陽花に囲われたあの家で見た。しかし――。
「あの人は黒髪だった」
写真の藤島文子は紫陽花の色を吸い込み、時間をかけてゆっくりと溶けていったような澄んだ白い髪をしていた。
それが何を意味することか、青年は分からない。ただ一つ思ったのは、春霞のように淡く重なり合った花弁に滲んだ群青は猫一匹分の広さだということ。
「もう知ることはできないけど」
翌年、あの家は解体された。
相続人がいない上、尋常ではない速さで朽ちていく家に倒壊の危険性が高いと行政が判断したのだ。紫陽花の壁も全て撤去され、ただの更地となった。紫陽花の壁の一部だけが異なる色をしていた理由を明らかにする術を青年を持っていない。
青年は衝動的に撮影した紫陽花の写真の端に映り込んだ黒い影を撫でて目を瞑る。
「何度雨が降っても、もう」
紫陽花に囲われた家と入れ替わるように、その町のギャラリーでは毎年梅雨の時期に個展が開かれるようになった。
壁一面に敷き詰めるように紫陽花の写真を咲かせた光景は圧倒される美しさで、そして狂気を感じると人々は口にする。
「紫陽花の咲く頃に、今度こそ」
紫陽花の咲く頃に きこりぃぬ・こまき @kikorynu
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