充電禁止

自己否定の物語

第1話「感情のない日々」

 気がつけば、部屋の壁がケーブルで埋まっていた。


 俺はその事実に、今日の朝ようやく気づいた。いや、「気づいた」というよりは、「改めて確認した」と言うほうが正確かもしれない。


 もともと何の変哲もないワンルームだった。十畳弱の狭い空間に、ベッドと机、それから無数の電化製品。コンセントの口数が足りなくて、たこ足配線にさらに延長タップをかませて増設する。その繰り返しの果てに、今や壁という壁が白いコードで埋め尽くされた。


 俺の身体も似たようなものだった。常時スマホを握りしめて、パソコンの前からは離れず、夜はスマートウォッチを装着したままベッドに沈む。デバイスの中に暮らし、端子の中に感情を詰めて、たまに音楽でも流しておけば、それで十分だった。


 名前はもう、誰にも呼ばれなくなった。


 SNSのアカウントはあるが、通知はすべてオフ。LINEのタイムラインは半年以上更新されておらず、最後に「いいね」を押した記憶もない。電話は来ないし、来ても出ない。


 食事はレトルト。カーテンは常時閉めっぱなし。室温と湿度はAIスピーカーが管理してくれる。昼夜の区別も、生活のリズムも、すべて通知と残量とタイマー次第だ。


 感情というものが、自分の中からいつ消えたのか、もう思い出せない。


 今日もそのはずだった。だが、何かが少しだけ違った。


 夜、スマホのバッテリーが切れかけていた。通知ランプが赤く点滅し、「充電してください」と無機質なアラートが画面に表示されていた。


 いつも通りだ。机の上に伸びた白いケーブルに手を伸ばし、スマホの端子を差し込もうとしたその瞬間——


 ビリ、と。


 静電気のような、でももっと柔らかくて、温かいものが、指先から流れ込んできた。


「……え?」


 思わず手を引いた。けれど、指先に残った感触は痛みでも熱でもなかった。


 なんというか、懐かしさ——に近いものだった。


 その白いケーブルを、改めてまじまじと眺める。百円ショップで買ったような、どこにでもある無名メーカーのコード。見た目に異常はない。断線しているわけでも、焦げているわけでもない。ただのコードだ。


 それでも、気のせいとは思えなかった。触れた瞬間、確かに何かが流れてきた。体温に似たなにか、だけど俺のものじゃない。


 誰かの感情のようだった。


 いや、そんなバカな——と思いながらも、俺はもう一度そのケーブルに触れた。


 今度は、ほんの少し強く握ってみた。するとまた、微かに伝わってくる。痛みでも震えでもなく、もっと深いところ——胸の奥にまで届くようなぬくもり。


 そのぬくもりが、しんと冷えきっていた心の底に、波紋のように広がっていった。


 何年ぶりだっただろう。自分の心が「揺れた」と感じたのは。


 それから、俺は毎晩、そのコードに触れるようになった。


 握るたびに、違う感情が流れ込んでくる気がする。喜びや、安心や、誰かに抱きしめられた記憶のような、うまく言葉にできない想い。


 それが誰のものなのかは、わからない。


 だけど、その感情を感じている間だけは、自分が「人間」だったころのことを、少しだけ思い出せた。


 それが嬉しくて——怖かった。


 もしかしてこれは、俺の感情じゃないのかもしれない。


 このケーブルを通して、誰かの「心」を盗んでいるのかもしれない。


 だけど、それでもかまわないと思った。


 俺の中にはもう何もない。あるのは無数のコードと、空っぽの時間だけだ。


 だからせめて、この感情だけは——


 その夜、俺は眠らなかった。眠るよりも、その感触をずっと味わっていたかった。


 そして次の日、あのアラートが初めて現れる。


 「充電は禁止されています」

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