日記

おっさん

第1話

 一郎は沈金の施されたその漆箱を、長い間、開けたことがなかった。

 

 先年亡くなった母は、人を叱ったことがない呑気さとは裏腹に、これについては大事なものだからと繰り返し遺言していた。雑事に阻まれ押し入れの奥に眠っていたそれだったが、目を刺すような紺色の一越縮緬に覆われ一郎の記憶から完全に消え去ることはなかった。

 

 箱を再び開けるきっかけとなったのは、小学生に入ったばかりの長女、朱莉が親に隠れてゲーム機を友達から借り、押し入れの中に隠したことだった。登校直前になってなかなかランドセルを背負おうとしない朱莉が、突然、靴を履くのをやめて廊下を走って行ったところに、母親の麗美が不審に思い、追いかけ、発覚したのだった。


「アラ、それ、買った覚えなのに」

「借りたの、由愛ちゃんに」

朱莉が泣きそうな目をよそに、

「だからダメだって、いったでしょ」

涙目でヒクヒクしながら頷いた。

「今日はバレーでしょ」

厳しい先生の姿が思い浮かんだのか、朱莉は輪をかけてうつろな目になった。

「ちゃんと返しなさい」

 

 麗美は裕福な家庭の出なのに、子育ては厳しかった。仕事で成功するより、家庭を選んだ。夫より先に帰り、食事を作って家を守った。

 学校までは隣人の何人かの年上の子達と行くことになっている。途中で交通整理のおばさん、おじさんもいるし、送迎はなくとも安全な経路で問題が起きたことはない。

 朱莉を送り出し、開けっ放しの押し入れを閉めに戻ると、青く光った布の一部が布団の端に見えた。

 一度だけ開けたことがある。仲には表に、にっき、と書かれた和綴じの紙束があった。


「これ、そういえばお義母さんから直接受け取ったものよね」

「ん?」

 麗美は夕食の横にドスンと置かれた風呂敷を小突いた。

 ビール缶から勢いよく泡が噴出し一口飲んで後、一郎は満足したように深呼吸をした。

「あ、ゴメン、おつまみ!」

「冷蔵庫でしょ、自分でとるから」

一郎が冷蔵庫の中を見回していると、

「ア!」

麗美が甲高い声を出した。

「なに?」

「おもちゃって書いてある」

手でつまんだ鶏むね肉のラー油和えを口に、もごもごしたまま一郎は聞き返した。

「おもちゃ、だから?」

「べつに、それだけ」

 

 開いた紙束を見ると、そこには子供の落書きみたいにべっとりとした太いひらがなで、おもちゃ、と書かれていた。

「それにしても毒々しい字体だね」

「前に見た時はそんなものなかったでしょ」

「そうだっけ?」

 

 一郎のそっけない反応に、とたんに興味が薄れたのか、麗美は裏返った紙束を閉じ箱の中に仕舞って風呂敷を結んだ。

 

 麗美は結構な学歴なのに子育て中心の主婦が性にあってると、不動産屋や個人病院の事務職の臨時雇いの職歴しかない。長男の雄介は3歳になったばかりで、まだまだ手がかかる。しかし年齢を気にして、早めに3人目がほしい。今日は排卵日だったから「にっき」なんかより、一郎が2缶目を飲んで酔っぱらってしまわないか、気になる。

「これ、明日、食べるから、おやすみ」

 一郎は一郎で、最近いわゆる中間管理職に昇進したばかりだったから、だいぶ疲れていた。早く寝て明日に備えたい。

 一郎は残った夕食にさっとラップをかけ冷蔵庫に押し込み、速足で風呂場に向かった。きょとんとした顔の麗美とははっきり目を合わせなかった。

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