第36話 過去の形3(伊吹)
ズルズルと椅子を引きずり、ベッドの横に座る。
沈黙の中、伊吹の母親がそっと伊吹の口元を撫でた。
「……また喧嘩したの?もう。大人なんだからいい加減やめなさい。来るたに傷なんて作って…」
「…うるさいな。大人になっても喧嘩くらいするって。」
心配させたくなかった伊吹は病院に行くたびに「喧嘩した」と言って誤魔化していた。
こんなこと母さんには絶対に言えない。
そう思いながら平気なフリしてニヤッと笑う。
母親はそんな伊吹にため息をつきながら額に軽くデコピンし、再び口を開いた。
「お願いだから少し落ち着きなさい。小さい頃から喧嘩ばかりして…お母さん、死んでも死にきれないわよ。」
物騒なことを言う母親に伊吹の顔が一瞬崩れる。
気づけば拳を握りしめながら母親に向かって叫んでいた。今までのものが一気に爆発してしまう。
「なんでわざわざ俺の前でそんなこと言うんだよ!?嫌がらせか!?こうやって会いに来るたびにそんなこと言われる俺の身にもなれよ!」
「……ごめんなさい。でもあなたとこうやって会話をできているのも奇跡に近いくらいなのよ。私はいついなくなるかわからない。それが今日かもしれないし明日かもしれない。そんな中であなたが傷をつけて来るのが私はとても辛いのよ。親だからわかるの。あなたはきっと……何かを隠してるって。」
悲しげな母親の声にドキッと心臓が落ちる。
バレそうな雰囲気を突き破るように伊吹はぶっきらぼうに言葉を吐き出した。
「……なんも隠してねぇよ。親だからって俺の事なんでもわかるわけじゃないだろ。知ったような口聞くな。」
「私はあなたが心配なのよ。あなたはいつも無理をして迷惑かけないようにコソコソと生きている。それがいくら耐え難いことでも何も無いかのように振舞って、笑って… 自分が傷ついてることすら忘れてる。あなたの人生は私の人生でもあるのよ。だから…」
「俺の心配するより自分の心配しろよ。俺は母さんがいなくても自分で解決できるから。いつまでも子どもじゃない。俺だって大人なんだ。」
「…そう。なら安心して逝けるわね。」
「おい!またそれかよ!」
悲しみと怒りに狂った伊吹は自分の感情をコントロール出来ずにいた。言ってはいけない。そうはわかっていても先走る口はもう止められない。
" そんなに逝きたいなら逝けよ!!俺ももう知らねぇ! "
我に返った伊吹と静寂が流れる病室。
そして……寂しげに彼を見つめる母親の視線がチクチクと痛む。やってしまった、言ってはいけないことを言ってしまった。こんなこと思っていないのに感情の不安定とは怖いものだ。
もう取り消せない言葉に伊吹自身もショックを受ける。
「……帰る。また来るかは…分からん。」
逃げるように病室を出ていく伊吹の後ろ姿を見ながら母親の頬に涙が伝う。きっとさっきの言葉は本音じゃないだろう。伊吹の事は自分がよく知っているのだから。
「…でも…伊吹がそう言うなら…私ももう頑張らなくていいわよね…」
……
ー 雨が降る道を歩き、いつの間にか家路に着いていた。顔を上げた彼の顔には言葉にできないほどの後悔が滲み出ている。もちろん本音じゃない。しかし、つい言ってしまった。で済まされることでもない。びしょびしょに濡れた伊吹の体が今の心の心境を表しているようだ。
「 …俺は…なにしてんだろう…」
震える声が雨の音に覆われて消えていく中、彼の日常が音を立てて亀裂を生んでいく。
もう二度とこの日に戻れないだろう。
月に沈む。 おこげ。 @okg_kg
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