第11話 勇敢な彼、そっと嘆く

泉に向かって全速力で走る伊吹。息を荒らげながら足を止める。焦りが混じった視線を泉に向けると怪物が大きな口を開けて雨音に噛み付こうとしているところだった。動きがスローモーションに見える。雨音は恐怖で動けない。ただ怯えた目で怪物を見て、諦めた顔をしていた。


そんな光景を見た伊吹は躊躇いもなく蒼乃がくれたナイフを持って飛びかかり、怪物の背後に飛び乗った。狙いを定め息を飲む。失敗したら……いや、考えている暇などないだろう。今助けれるのは自分しかいないのだから。


「雨音!目を瞑れ!!」


伊吹の声にぎゅっと目を閉じる。肉が避ける音、断末魔の叫びが響き渡り大きな音を立てて怪物が倒れる音がした。再び訪れる静寂。恐る恐る目を開けると血に染った伊吹が唖然とした表情で雨音を見下ろしている。


「……大丈夫か?」


「う、うん……ありがとう……」


涙目の雨音を見つめ、緊張が溶けたように膝に手をつく。でもなにか忘れているような…。すぐにハッとした顔を浮かべる。そうだ、琥珀がいない。伊吹は辺りを見渡しながら彼女の名前を叫ぶ。もしかして襲われたのだろうか。悪い考えが頭をよぎる。しかし茂みをかき分けて出てきたのは無傷の琥珀だった。伊吹は急いで駆け寄り彼女の安否を確認すると胸を撫で下ろす。


「びっくりさせんなよ…ったく。」


「……なんの声だったの……大きな声が聞こえたけど……」


「…はぁ!?お前はどこまで呑気なんだよ…!このアホが!雨音が怪物に襲われてたんだよ!お前は一体何してたんだ!」


伊吹の怒鳴り声に琥珀は首をかしげ茂みの奥を指さす。


「何って……少し用を足して……」


「あ!それ以上言うな!」


慌てて琥珀の口を塞ぎ再び雨音の元へ行く。

血に濡れた顔を適当に洗い、呆然と突っ立っている雨音の手を引き再び小屋に向かって歩き出す。口が悪く態度も悪い伊吹から想像できないような勇敢な出来事に雨音は感激の眼差しを送る。そんな視線を感じ取った伊吹はぶっきらぼうに言う。


「…なんだよ。気持ちわりぃな」


「…いや、まさかの助けてくれるとは思わなかったから…伊吹くんのことだから見捨てるのかと…あ、私今すごく失礼なこと言ってる…?」


「あのなぁ…お前。俺をなんだと思ってんだよ…」


「ごめん…ちょっと意外だったから。」


そんな二人の会話を聞いていた琥珀は雨音に向かってぽつりと耳元で囁く。


「……あなたが苦しんでた日……黙って上着かけてあげてたのもこいつだよ……」


「…え?あの上着…伊吹くんのだったの?…どうしよう…床に乱暴に置いちゃったよ……」


「……いや……そこじゃないでしょ……」


二人でコソコソ話している声を聞きながらわざとらしく咳払いをする。そんな伊吹を見て二人はクスッと笑う。伊吹の新しい一面を知れたことが嬉しかった雨音は大きな背中にそっとつぶやいた。


「…ありがとう伊吹くん。」


「別に。ただ体が勝手に動いただけだ。」


「……素直じゃない……見て……あいつの耳…」


琥珀の言葉に雨音は耳を見る。伊吹の耳は赤く染っていた。伊吹は動揺しながら耳を隠し、怒ったように歯を食いしばる。そんな伊吹から視線を逸らし二人は足早に小屋に戻ってしまった。一人残された伊吹は地団駄を踏む。素直になれないことは自分が一番を知ってる。だからこそ指摘されたことが恥ずかしい。本当は「全然いいよ、無事でよかった」と言いたかった。伊吹は虚無に向かって重い息を吐き出す。


「…はぁ…素直に喜べたら俺だって苦労しないって…こういうときだけ蒼乃になりてぇ……」


嘆きながら後に続いて小屋に入る。

伊吹の悲しい声だけがそこに残ったまま月はより深く濁り出した。

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