老婦人と形見の煙草
その人が店のドアを開けるとき、いつもわずかに鈴の音が変わる。
乾いた金属の鳴りが、ほんの少し長く尾を引くのだ。
杉山には、それが風の音のように聞こえることがあった。
午後五時前。喫茶店「スモーク・レーン」の窓際には、春先の薄い陽が柔らかく差し込んでいた。
店内には、コーヒーの香りと共に、タバコの煙が静かにたゆたっている。
その煙のなかへ、一人の老婦人がすっと現れた。
黒い帽子、深緑のコート。杖を手に、ゆっくりと歩を進める。
歳は七十を越えているだろう。だが背筋はまっすぐで、目元には穏やかな、しかしどこかしら強さを感じさせる光があった。
「いらっしゃいませ、奥村さん」
杉山が言うと、老婦人はふっと微笑んだ。
「今日は少し冷えるわね。空気が乾いていて、煙がよく上がる」
「今朝の風が残ってます。この時期は、煙がよく伸びるんです」
いつもの席へ腰かけた奥村は、バッグからひとつの缶を取り出した。
小さな銀色の缶。そこに入っているのは、「ホープ」。短く、強い煙草だ。
今となっては、珍しい存在だ。
「ご主人のですか」
「ええ。主人が亡くなって十年になるけど、まだ残ってるのよ。不思議ね、一本だけ吸わずに取っておいたみたいで」
奥村は指先で丁寧に一本を取り出し、火をつける。
慣れた手つき。けれど、吸い込んだあと、しばらく何も言わずに煙を眺めていた。
「若い頃、主人はこれを吸っていたの。吸うとき、少しだけ目を細めるのよ。照れ隠しだったのかしらね」
笑う声は、ごく小さかった。
杉山は無言で湯を沸かし、ネルドリップの準備を始める。豆は深煎り、ブラジル。奥村の好みに合わせている。
「タバコって、記憶を残すのね。どんな写真よりも鮮明に」
「そうですね。煙には、時間が溶けてますから」
コーヒーの香りが立ち上がる。老婦人は、ゆっくりと目を閉じた。
「若い頃、主人と待ち合わせたのがこの通り。あの角の写真館の前で、何度もすれ違ったのよ。あの人ったら、時計を見ない人でね」
「昔はこの辺も、人通りが多かったでしょう」
「ええ。戦後の混乱が少し落ち着いた頃。喫茶店はたくさんあった。でも、今はここだけね。煙が許される場所も、もう、ほとんどないわ」
老婦人の言葉には、惜別と感謝が混じっていた。
煙は静かに天井に昇り、灯りの傘をぼんやりと曇らせる。
杉山は奥村の前にコーヒーを置いた。
湯気が、カップの縁からゆるやかに立ち上がる。
「うちの孫が言うの。『タバコは毒だ』って。『ばあちゃん、それ肺がんになるんだよ』って」
「……なるかもしれません。でも、それでも吸いたい煙草があるんですよね」
「そう。これはね、病気になっても構わないほど、大切な一本なの。私にとっては、“さようなら”の練習みたいなものだから」
カップに口をつけた老婦人の瞳は、昔を見つめていた。
それは懐かしさではなく、いまこの瞬間に“戻ってきている”という確信だった。
「また来ても、いいかしら?」
「もちろん。煙の道は、いつでも開けてます」
老婦人は微笑んだ。そして、テーブルの灰皿に、灰を落とした。
静かな音が、時の奥から響いたように思えた。
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