『煙の向こうに』
コテット
午後三時の灰色
午後三時。雨上がりの空に重たい雲が垂れ込め、アスファルトの熱気をゆっくりと鎮めていた。
都心の裏通り、商業ビルとマンションの谷間に、ぽつんと佇む古びた喫茶店がある。看板には煤けた金文字で「Smoke Lane」と記されていた。
ドアの上でベルがカランと鳴り、昭和の記憶を引きずるように、懐かしく響く。
杉山はカウンター内の椅子に腰を下ろし、煙草に火をつけた。
「ラッキーストライク」。もう何十年も吸い続けている。変えるつもりもない。
吸い込んだ煙を天井に向けて吐く。店内には、コーヒー、古本、そしてタバコの灰の匂いが入り混じっていた。
ここでは、誰も眉をひそめたりはしない。
壁には「喫煙可」の文字が、誇らしげに掲げられている。いや、むしろそれこそが、この店の“名物”だった。
「マスター、今日も煙いね」
いつもの声に、杉山は目を細めた。
入り口に立っていたのは、痩せぎすの男・片桐だった。スーツは皺だらけで、ワイシャツの襟にはうっすらと黄ばみが浮かんでいる。
彼もまた、「煙」に救われた人間の一人だった。
「禁煙席にするか?」
「やめてくれ、死んじまうよ」
二人は、くすりと笑った。
片桐はいつものように窓際の席に腰を下ろし、黙って煙草を取り出す。
吸うのは「セブンスター」。重く、荒々しい味の銘柄だ。
ライターに火をつける指先が、わずかに震えていた。
「雨、やんだな」
「ええ。昼過ぎに少し強く降りましたけど」
「傘、持ってんのか?」
「ビニールのやつ、どこかに忘れてきました」
カウンターの内側で、杉山はコーヒー豆を挽きながら、変わらぬ調子で相づちを打っていた。
片桐の声には、毎回少しずつ異なる色が混じっている。
今は──疲れと、微かな迷い。
「……会社、辞めたんです」
ぽつりと呟いた片桐の言葉に、杉山は手を止めなかった。
豆を挽く低い音とともに、ゆっくりとコーヒーの香りが店内に広がっていく。
それは慰めでも、同情でもない。ただ「聞く」という姿勢がそこにあった。
「この前の件か」
「ええ。どうも俺は、間違ってたらしいです」
「間違ってたって、誰が決めた?」
「上司が。部長が。会社の方針が──」
「ふうん」
湯を注ぐ音が静かに響き、片桐の煙が斜めに揺れた。
誰かが喉を鳴らして泣くような、雨の名残が、窓の外に滲んでいた。
「正義って、煙みたいですね」
「どういう意味だ?」
「吸い込むと苦いけど、見えた気になる。でも、すぐに消える」
杉山は苦笑した。
「煙の哲学か」
「マスターの受け売りですよ」
ドリップが終わり、湯気を立てるコーヒーを杉山が片桐の前に置く。
その所作には、言葉以上の何かが宿っていた。
「辞めて、どうすんだ」
「まだ分かりません。でも、ちょっと……歩きたくなったんです」
「ここは通り道じゃないぞ」
「分かってます。でも、最初に思い出したのがこの店だったんです。煙の匂いと、コーヒーと、あの椅子の軋む音が」
片桐はそう言って、椅子の背にもたれた。
確かに彼の指定席の椅子は、他のものよりわずかに軋む。
まるで彼の心音を映しているかのように。
窓の向こうには、誰もいない歩道と、曲がり角に止まった白い猫の姿。
喫茶店の中だけが、まるで時間が止まったかのように、静かだった。
「煙って、記憶なんだよ」
杉山がぽつりとつぶやいた。
「え?」
「火をつけた瞬間の部屋の匂い、風の音、誰かの声、感情……全部、煙に包まれて、ふっと蘇る」
「……それ、マスターの言葉ですか?」
「いや、誰かの受け売りさ」
二人はまた、くすりと笑った。
窓の外では、また雨が降り出していた。
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