第10話_Bパート_割れた地図

 火星時間、夕方。


 アドマ・セクター南端、かつてレヴが初めて火星に足を踏み入れた駐機プラットフォームに、ハーミットクラブが滑り込んだ。薄赤く霞んだ空と、硬化舗装の濃褐色。戻ってきたという感覚よりも、“境界に戻った”という感触が近い。


「こっちは変わりないですね」

 レヴが荷下ろし作業の傍ら、肩越しにミロへ声をかけた。


「変わらないように見せるのがエクソディーンの美学、ってことかもね。中は静かに瓦解してたりして」

 ミロはそう答えながらも、声の調子には張りがなかった。


 物資の補充は最小限だった。通信障害騒ぎと株式/DAOの暴落により、補給予算そのものが一時凍結されたのだ。


「アブラムに会ってくる。今日じゃないと、きっと自分に嘘をつく」

 レヴはそう言って、端末を防塵マントに滑り込ませた。


 ---


 エクソディーン中央の旧管制棟跡。再利用されたこの空間には、常設オフィスのような設備はない。だが、アブラムの席だけは常にそこにある。


「ただいま、祖父さん」

 アブラムは顔を上げた。その瞳は、視線の奥で次の問いを待っていた。


「……旅を続けます。火星をもっと見ておきたい。“どこで何が起きて、誰が知らないふりをしているか”を、自分の足で見て確かめたいです」


「その道が、お前の中で“帰る”という意味を持つならば、好きに行け」


「持ち帰れるものを探します。LISAにも、ここにも。僕自身にとっても」


 アブラムはしずかに、うなずいた。


 ---


 その頃、ハーミットクラブはアドマからわずか数時間でパイプラインを辿り、ノエマの小拠点へと到着した。

 夕陽が地平線に沈むその前に、ミロは診療所の裏手から回り込み、管理棟に入る。


 そこでは既にルセイン所長が立っていた。表情は読めなかったが、手にしていた携帯端末のスクリーンが激しく光っているのは見えた。


「──あの騒ぎで、お前の資産も溶けただろう」

「ええ。3割ほど、デリバティブ付きの火星コインがまとめて……。目減りでいえばロックインされている火星インフラはもっと救いがないですが。」

「私のは5割以上だ。だが、それはまだいい」


 ルセインは言葉を切った。


「補給便が一便飛ばなかったら、ここは終わりだ。分かっているのか? ノエマは生産拠点だ。だが原料が、容器が、電力が──この火星のどこにも残らない」


 ミロは視線を伏せた。だが、顔は上げたまま言った。


「……分かってます。調査を続ける許可が出るなら、全力で動きます。ハーミットの乗員、活動に必要な物資も確保してある。命も真実だって、両方運べます」

「真実ね。今の火星、その全体像を見て言えるなら立派だが、現場で技師のひとり二人が動いても、構造は変わらない」


「でも、動かないと構造のせいにすらできないです」

「きれいごとはよせ、ミロ・エリアス」

 ルセインは静かに言い捨てた。


「生き延びるには、まず椅子を確保する。立場も、資格も、資本も、輸送力もだ。ノエマがまだ血を流してないのは奇跡だ。

 ……だが次の補給が遅れたら、きっと誰かのせいにされる。LISAか、スワルジャか、あるいは──“到達者のミロ”、お前かもしれない」


 ミロは何も言わず、うなずいた。


 だが、立ち去り際、こぼすように言った。


「──この状況、あと一滑りしたらで全員が助かる方法なんて突然なくなるんです。だけど……全部が終わってから“何かすればよかった”なんて言われるの、癪なんですよね」


 その背中に、ルセインは返事をしなかった。


 夜が訪れたノエマの一角。残光は薄れ、冷たい赤錆色の空気が、彼らの皮膚に滲んでいた。


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