第03話_Bパート_赤魚の夜と赤い星の便り


 夜七時。熊本の街にじんわりと熱の残る風が流れていた。


 玄関を開けたエリナの耳に、控えめで丁寧なバリトンの声が届く。

「おかえりなさいませ、エリナ様。本日もお疲れさまでした」


 廊下の照明が足元から順に灯り、室温と空気清浄度が微調整されていく。

 アッシュは視覚的には現れない。だが、声の主がこの家の隅々を見守っているのは明らかだった。


「……ただいま」


 その声に応えるのは、形骸化した習慣のようでいても、わずかな温もりが滲んでいた。


 居間に入ると、すでに食卓は整っていた。

 父・エリオットは端末を閉じ、母・美緒は急須を片手に湯沸かしの音に耳を澄ませていた。


「今夜は赤魚の煮付け、菜の花のお浸しです。お茶はまもなく最適温度に達します」


 アッシュの案内は、必要以上に感情を載せず、しかしどこか人を見守るようだった。


「昼の中継、見たよ」

 エリオットが、ふと話しかけてくる。

「エリナ、大変だったね。でもよくやった。映っていた時間は短かったけれど、存在感あったよ」


 その言葉に、エリナは一瞬だけ目を伏せる。


「……ありがと。特別なことは何も言えなかったけれど」


「あの場にいて、君の言葉で話せたことは大きいんじゃないかな。どこに出しても恥ずかしくない娘を持てて、誇らしかったよ」


 素直なその響きに、エリナもまた、否応なく真っ直ぐに向き合うしかなかった。


 湯の音が高まり、美緒がそれに合わせて動く。


「お茶、薄くない?」


「ちょうどいい」


 沈黙。それは気まずさではなく、言葉には至らないものの、共有できる何かを保っているようだった。


 食後、エリナは台所に茶碗を運び、自室に戻る。ドアを閉めると、また空気が変わる。

 プリセットされた明かりが灯り、アッシュの声が届く。


「エリナ様。お姉様よりメッセージが届いております。表示いたしますか?」


 軽くうなずくと、壁面パネルに文字が浮かぶ。


『久しぶり。ちょっと気になることがあるんだけど──火星にいる知り合いのサラって子、連絡が取れなくなってる。そっちで何かわかんないかな?』


 エリナは少しだけ眉をひそめた。


 リサは、実家を飛び出すように東京に出て行った頃より、少し優しい書き方になっている気がする。

 でもその裏で、何か切迫したものを感じた。


「サラって……」

 エリナはつぶやく。一度話したことがある。姉の話には何度も出てきた名前だ。火星にいる同年代の友人。

 彼女の決断にも何かかかわっていたのだろうか。


「返信は、後ほどでも構いません」

 アッシュがそう言うと、


「……ううん。ちょっと調べてみる」


 その一言に、誰かに応えたいという思いが滲んでいた。

 人は家族を選べない。けれど、歩み寄ることは選べる。

 大人も子も、同じように揺れながら、この世界に向き合っている。


 そして今、彼女もまた、小さな橋を一つ、かけようとしていた。


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