第六話 葡萄は波動①
香りは波となり、舌に触れたとき、初めて輪郭を得る。だがその波は、まだ“誰にも見られていない”なら、どんな形にもなれる。
それは、ある晴れた午後の授業中に起きた。
「おはよう。今日のテーマは、“波動と観測”だ」
教壇に立ったタカヒコが、ラフなジャケット姿でそう言った。アルネがその隣で、いつも通り大切そうにノートを抱えている。
「今から配るボトルには、ラベルが貼られていない。中身は伏せたまま、まず“感じて”もらう」
生徒たちに、無印のボトルが配られる。透明なグラスに注がれた液体は、光を浴びて静かに揺れていた。
「……あれ? 青リンゴっぽい?」
「いや、ちょっと洋梨寄りじゃないか?」
「いやいや、俺はマスカットに感じたぞ」
タカヒコはそれを見て、にやりと笑う。
「いいぞ。混乱してきたな。じゃあ、質問だ──今、君たちは何を飲んでいる?」
一瞬、沈黙が落ちる。
「正解は、まだ“ない”。このワインは、“波”だからだ」
黒板にチョークで書かれる文字。
──波動。未観測。収束。
「誰かが『これは白桃だ』と口にした瞬間、それは“粒”になってしまう。
観測され、他の感想もそれに引っ張られ、波の可能性は閉じていく」
アルネが、そっと補足する。
「……つまり、最初に“名づけた”者が、そのワインの味を決定づけてしまう、ってことです」
タカヒコはうなずく。
「そのとおり。
いいか、波動には無限の可能性がある。君らが目の前のワインを“波”として見た時、そのワインには、まだ“確定していない無数の顔”がある。
白桃かもしれないし、柑橘かもしれない。あるいは──何にも似ていない“君だけの香り”かもしれない」
「テイスティングとは、誰かの言葉に合わせることじゃない。
自分の五感を信じて、その香りと味を、自分の“座標”に固定すること。
君が飲んだワインは、君だけの世界に存在する。
……それを“収束”と呼ぶ」
静まり返る教室に、風が一筋、窓から吹き込んだ。
誰もが、自分の前にあるグラスを見つめ直していた。
そして、そっと香りを嗅ぎ──自分だけの世界にある、まだ誰にも名づけられていない香りを探し始めた。
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