ジョルリア国物語

桜川光

ジョルリア国物語

 大陸南部に位置するジョルリア帝国の首都バウディアでは今宵、大規模な祭りが行われていた。四年前、大陸北部の聖カリダ帝国との戦争に勝った勝戦記念日である。勝戦記念日に合わせた祭りは一週間ほど続く。毎日飲めや食えやの大騒ぎで、夜には花火が打ちあがる。カリス帝城の周りには屋台がずらりと並び、民でわんさか溢れかえっていた。道端には子どもや女が輪になって踊り、男たちは飲んだくれながら民謡を歌う。軽やかな楽器の音が鳴り響いている。そんなお祭り騒ぎはカリス帝城の中にある帝国軍の施設、クレドゥル基地も同じだった。

「おいミカ、お前も飲めよ」

酒瓶を持った黒髪の青年は、大男ガンの前で足を止めた。

「僕は飲まないですよ、まだ十九ですから」

そう言ってミカは、ガンの杯にコココ、と酒を注ぐ。ガンは顔を赤く染めて、その大きな腕を伸ばしミカの肩に腕を回す。

「一年ぐらい大丈夫だろう、ほら」

ガハハと笑いながら、ガンはその杯をミカの口元に持っていく。ミカはあからさまに眉間に皺を寄せた。

「やめてください、お酒臭いです」

ミカはそう言うと、ガブリとガンの手に嚙みついた。いてえ、とガンが叫んで、手を引っ込める。涙目になりながらガンはミカを睨んだ。

「何するんだよ、このクソガキがっ」

ミカは一目散にその場から逃げ出した。

 ミカはそのまま、食堂から外廊下に出る。後ろから、男たちの笑い声や酒を酌み交わす音、軍人たちの対カリダ帝国との闘いの時の武勇伝を披露している声も聞こえる。外は濃い藍色に染まり、綺麗な満月が煌々と辺りを照らしていた。ミカはズボンのポケットに手を入れて、外廊下を歩きだした。コツ、コツというミカの歩く音だけが響く。一つ、溜息をつく。酒酔い人の相手を延々とするのはとても疲れる。祝い事は好きだが、今日はもう寮に帰って寝ようかなと思ったとき、人の話し声が聞こえてミカは足を止めた。

「ねえ、次はいつ会える?」

若い女の声だ。ミカは、柱の陰からそっと声のする方を覗き見た。

 綺麗な茶色の髪の毛を腰まで垂らし、祝い事の時に着る青い民族衣装を着た若い女性と、軍服を着た黒髪の若い男が向き合って立っていた。ミカは目を凝らした。その男はミカの同僚のジアだった。

「必ず、近いうちに会いに行くから」

そう言って、ジアは女性の髪に手を触れ、髪を耳にかける。ミカはその時月の光に照らし出された女性の顔をはっきりと見た。そしてハッと息を呑む。大陸東部の人間である証拠の灰色の目。その時ミカは、彼女こそが少し前から噂になっていたジアのソウルメイトであることを知った。

 ソウルメイト――。

 この大陸に古くから言い伝えられている言葉。

ソウルメイトを得た者は、必ず己の才能を発揮でき、成功し、成長し、出世し、幸福になれるであろう――と。そしてソウルメイトと出会って初めて、一人前の人間として認められるであろう――と。

 ソウルメイトである相手は、自分が男であっても友人として、師匠として、同僚として、敵として現れる男かもしれないし、妻として、友人として現れる女かもしれない。自分が女であっても相手は男かもしれないし女かもしれない。そして、年齢も近いかもしれないし、離れているかもしれない。誰が自分のソウルメイトであるのかは、出会うまで分からない。しかしソウルメイトに出会った者の話を聞くと、ソウルメイトと出会った時には必ず、何かを感じるのだそうだ。それは運命かもしれず、直観的な確信かもしれず、はたまた嫌悪感かもしれず。十歳までにソウルメイトと出会う者もいれば、ソウルメイトに出会わずに死んでいく者もいる。しかし、ソウルメイトと出会った者は必ずこう言う。

「確実に、人生が変わった」

と。

 ミカは、ジョルリア帝国軍に入るためにバウディアに来てから四年間の間ずっと、自分のソウルメイトを探し求めていた。しかし、未だ出会いはなかった。


 お祭りの期間でも、軍人は日中、平日と同じように訓練を行う。ミカたちは訓練場に整列していた。

「次ー!」

軍長アキドルの野太い声が響き渡る。ミカは前の人が降りた馬に跨った。ドドン、と太鼓の音がした。ミカは馬を走らせる。その走りに呼応するかのように、身体が上下に揺れる。ミカは迫りくる的から目を離さず、背負った矢筒から矢を一本引き抜き、弓につがえた。

あと三秒、二、一。

ミカは弓を引いた。放たれた矢が、的の中心から大きく外れた所に突き刺さった。

 遠くから見ていたアキドルが赤い旗を上げる。不合格だ。ミカはがっくりと肩を下げた。

「惜しかったなあ、ミカ」

訓練が終わり、皆が食堂へ向かっている時、ガンがミカの肩を抱いて大声でそう言った。

「全然惜しくないですよ、下手です」

ガンはガハハと笑う。

「安心しろ、トリガなんて的にすら当たらなかったんだぜ」

ミカは溜息をついた。

「入団して三か月の子どもと一緒にしないでもらえます」

ミカとガンは皆の後に続いて食堂に入った。何列にも並んだ長机の上にはサラダとカボチャのスープ、鶏肉の蒸し焼きが並べられていた。二人は向かい合って席に着いた。隣には、昨日ソウルメイトである恋人と会っていた同僚のジアが座っていた。

「よ、ミカ」

ミカを見ると、ジアが白い歯を見せて笑う。ミカはお疲れ、と言ってサラダを皿に取り分ける。ジアはミカより一つ年上の青年で、四年前、ミカと同じ時期に帝国軍に入団した。ジアがソウルメイトと出会ったのはつい二か月前のことだった。その時はそのことが軍全員に知れ渡って、祝福されていた。その時のジアの幸せそうな顔といったら、四年間もソウルメイトを探し求めていたミカにとって、心臓をギュッと握り潰されるような気持ちだった。

「ジア、今日もパーフェクトだったな」

ガンがニカッとジアに笑いかける。ジアは照れたように微笑んだ。

「まだまだ全然ですよ。ガンさんこそ、槍術では誰もガンさんには勝てませんよ」

「うまいこと言いやがって」

ガハハ、とガンが笑う。ミカはむしゃむしゃと鶏肉を頬張る。ミカの腕は優秀な方ではなかった。むしろビリに近かった。そのため、こういう話を聞く時どのような気持ちでいればいいのか分からなくなる。

「そうだ、そういえば、近々新しい入団者が入るって聞きましたけど、ガンさん知ってます?」

ジアが言った。

「新しい入団者?」

ミカは顔を上げた。ガンは水をグビッと飲んで頷く。

「ああ、そうらしいぞ。聞くところによれば、西部の軍人だそうだ」

「軍人? 軍人がわざわざ南部の帝国軍に入るんですか?」

ジアがそう言うと、ガンは顔をジアとミカに近づけ、声を潜めた。

「それが、ちょいと訳ありの軍人さんみてえなんだ」

「訳あり?」

ミカが聞く。ガンは頷いた。

「なんてったって、まだ若造らしいんだが、それは腕のたつ男らしい。だが、どんな理由かは分からねえが西部軍から追い出されたらしいんだ」

「大丈夫なんですか? そんな男を入団させて」

分からねえ、と言ってガンは首を振った。

「だが、噂によるとその男、入団試験を満点で通ったそうだ」

ミカとジアは顔を見合わせた。それもそのはず、今までこの入団試験で満点を取ったことのある人といえば、現隊長のアキドルたった一人だけだからだ。ミカは溜息をついた。

「じゃあ、きっとその人はソウルメイトに出会ってるんだ」

「おいミカ、そんな萎れてどうする! 大体、お前はソウルメイトにこだわりすぎてるんだ。俺だって、まだソウルメイトに出会っちゃいねえ。隊長だってそうだ。でも立派に隊長やってるじゃないか。ソウルメイトにこだわり過ぎるのもどうかと思うぞ」

ミカはガンの言葉を無視してサラダを頬張り続けた。


 夜になった。今宵は、勝戦記念日の祭りに準じて、帝城で盛大な宴が催されることになっている。対カリダ帝国との戦争に行った軍人全員が宴に呼ばれていた。そして、宴の前に行われる群舞に、残りの軍人の十数人が参加できる。その中にジアも選ばれたが、ミカは選ばれなかった。選ばれなかった者たちは、遠くから宴の様子を垣間見ていた。ミカも、果物を手に丘に座って、下を見下ろしていた。

「ミカは街に遊びに行かないの」

隣には、いつの間にか同僚のヘレンが膝をかかえて座っていた。彼は黒いストレートの髪をして、綺麗な青色の瞳を持っている。ヘレンは寂しがり屋で、いつも誰かの側にいる青年だった。顔にはそばかすがあった。

「今日はそういう気分じゃないんだ」

ミカは食べた果物の芯を後ろに投げやりながらそう言う。

「あるよね、そういう日」

ヘレンは抱えた膝の上に顎を載せて、下で行われている宴を見つめた。しばらく、沈黙が続いた。下から太鼓や笛の音、楽し気な笑い声が聞こえてくる。ミカは、テントの中に座っている王族を見つめていた。真ん中に座っているのは、がたいのいい、金色の髪の毛と口ひげを生やした帝王ヨア・ジョルリア。その隣で帝王に酒を注いでいるのは細身で長身の、同じく金色の髪をした帝妃アディ・ジョルリア。帝妃の隣に座っているのは、腰まである金色の髪の毛を波打たせ、緑色の瞳を持った、帝国一の美女とささやかれる帝女ルーダ・ジョルリアだった。ルーダは時々挨拶にやってくる臣下たちの相手をする一方で、一人静かに食事をしている。ミカは、じっとルーダの様子を見つめていた。

「今日も綺麗だね、帝女様は」

ヘレンがぽつりと言った。うん、とミカも頷く。ルーダは、半年前に二十歳の誕生日を迎えた。それからというもの、ジョルリア帝国帝位第一継承者であるルーダの、婚姻相手探しが行われている。帝女ルーダは体が弱く、臣下たちから世継ぎを産めるのかという声もあがった。しかし、帝王ヨアと帝妃アディの間にはルーダしか子ができなかった。そのため、ルーダには女帝への道しか用意されていない。この宴には、ルーダの婚姻相手候補になっているジョルリア国の貴族の息子たちが数人招かれていた。ミカは、一軍人の身であるためルーダと直接的な関わりはないが、よく、帝城のバルコニーで一人、物憂げに外をじっと見つめている帝女ルーダの姿を見ることがあった。歳が近いせいであろうか、ミカは物憂げそうなルーダを見ると、その境遇に同情するように、いつも胸がぎゅっと締め付けられるのだった。そして、ここにあなたの味方がいますと叫びたくなる衝動に駆られるのだ。そういうときにふと、ルーダはもうソウルメイトと出会っているのだろうかと考える。そして、もしまだ出会っていないのであれば、生涯を共にする結婚相手こそが、ルーダのソウルメイトでありますようにと願うのだった。そうであれば、きっと自身の重い運命にも負けず、もっと人生を幸せに過ごせるだろうと思うのだった。


 数日が過ぎた。一週間あった勝戦記念日の祭りも今宵で最後となった。ミカは、夕食後に帝城の外に出て祭りで賑わう街へ出掛け、最後の夜を楽しんだ。そして、寮に戻ると、軍服を着て、矢筒と弓、そして数個の的を持ってクレドゥル基地の馬舎へ赴いた。

 空では、煌々と輝く綺麗な三日月が辺りを照らしていた。もう真っ暗となった辺りから、虫の綺麗な鳴き音が聞こえてくる。馬舎へ行くと、幾多と繋がれた馬の中で、草をむしゃむしゃと頬張っている者もいれば、もう既に眠りについている者もいる。ミカはゆっくりと馬たちの前を歩いて、一頭の馬を探した。そして、すやすやと眠りについている茶色の毛の馬の前で足を止めると、しゃがみこんだ。

「ルー、ルー」

囁く。ルーと呼ばれた馬は、顔を幾度か左右に振ると眠そうに目を開いた。ミカを見ると、尻尾を左右に揺らし、ゆっくりと立ち上がる。

「起こしてごめんね。今日も付き合ってくれる?」

ルーはミカの言葉に応えるように軽く足踏みをした。ミカはルーを馬舎から出し、その背中に跨って手綱を引いた。

 ミカは帝城を出て、祭りで賑わう夜の街を疾走していた。帝城から一キロほど北にある森へ向かう。ミカはこうして、三日に一回ほど、夜になると相棒のルーと共に、武術の練習をしに森へ向かう。腕を上げるには、こうして地道に努力を続けていくしかないと、ミカはいつも自分に言い聞かせている。

 森に着くと、いつものように的をあらゆる木の枝に括り付けていく。上に、下に、右に左に。そして全て準備が整うと、ミカはルーに跨った。目をつぶり、深呼吸をする。手に持った弓に力が入る。

「よし、いくぞ」

ミカは手綱を思い切り引っ張った。ルーの前足が空を蹴り、ヒヒーンといういななきが夜の空に響き渡る。ミカの眼光は鋭かった。ルーは疾走した。ミカは、振り落とされないように態勢を低くして手綱をギュッと握りしめる。右上に、一つ目の的が見えてきた。ミカは背中の矢筒から一本の矢を引き抜き、弓につがえる。

あと三秒、二秒、一秒――

 パアンッ――

 失敗だ。矢は的を外れて木の枝に突き刺さった。

 ミカは態勢を戻して前方を睨む。あと十メートルすれば、左下に二つ目の的が見えてくる。ミカは二つ目の矢を弓につがえた。的が見えた。目を限りなく細くして、上下に揺れる視界の中で的の中心に狙いを定める。

 三、二、一――

 パアンッ――

 失敗。的の中心から大きくずれた所に突き刺さった。

 ミカは前方を睨む。次は左上に的が見えてくる。矢筒から矢を引き抜き弓につがえる。矢を引く指が、腕が、小刻みに震える。ミカは疾走する馬から振り落とされないように両足をルーの胴体にギュッと押し付けた。

 三、二、一――

 失敗。矢は的より遥か上を飛び、木の幹に突き刺さった。

 ミカは唇を噛みしめてまた矢筒から矢を引き抜いた。次が最後の的。右上に現れる的。外すものか。ミカは思い切り弓を引いた。ギギギ、と弓がうななく。迫りくる的を睨み、弓に顔を近づける。指は震えた。ミカは唇をなめた。

 三、二、一――

 直観的な確信が、ミカの心臓を射抜いた。

 パアンッ――

 ミカは目を見開いた。命中した。しかし次の瞬間、ミカの中心を射抜いた矢が真っ二つに割かれた。割かれた矢の中心から、一本の矢の先端が現れた。ミカは手綱を引いた。そして、さっと辺りを見渡す。背中から矢を一本引き抜くと、弓につがえた。

「誰だ!」

暗闇の中で目を凝らす。反対側から的の中心を射抜いた誰かがいる。しかしその姿は見えない。ミカは左右に目を走らせた。

 その時、的の陰から、誰かが姿を現した。ミカは矢を引く腕に力を込めた。

「誰だ!」

その時、雲が割かれた。森に、一筋の月光が差し込んだ。そしてその月の光は、現れた人物の姿を照らし出した。

 直観的な確信が、ミカの心臓を射抜いた。

 真っ黒な毛並みのゼジル馬に跨った、一人の青年。

 緩やかにカールした、首まであるブラウンの髪の毛に、小麦色の肌。しっかりと生えた眉。筋の通った鼻に、真っ赤な薄い唇。鋭い目に埋め込まれた灰色の眼球が、ミカを捉えていた。

 二人の視線が、数秒間交差した。

 それは、永遠に思えた。

 心臓が、せわしなく脈打っている。

 この感覚。この感情。

「はじめまして。僕はアリア・ユレイル」

青年が、微笑んだ。



 シュッ――

 空気を裂く音がして、矢は的の中心を射抜いた。隊長アキドルが、遠くから白い旗を上げる。周りの者は歓声を上げた。二つ目、三つ目、四つ目。白い旗が次々に上がる。最後の五つ目の的の中心を矢が射抜いたとき、灰色の瞳の青年は空を仰いだ。


 アリア・ユレイル。

 その名前は、瞬く間に軍全員の知るところとなった。

 一週間の勝戦記念日が終わり、ジョルリア帝国軍は新しい入団者を迎えた。アリアは入団後初めての訓練で、全ての的の中心を射抜き実力をしらしめた。優秀な入団者は軍全員の関心の的となり、様々な噂も湧き上がった。なぜ西部軍から追い出されたのかに関する根拠のない憶測が飛び交った。アリアはいつも、誰ともつるむことなく一人で行動していた。


「今日からこいつが新しいルームメイトだ」

アリアが入団したその日の夜、隊長アキドルがミカたちの寮室の扉を叩いた。アキドルに連れられて、大荷物を持ったアリアが横に立っている。ルームメイトのミカ、ドルティン、アシャの三人は整列して二人の前に立った。

「おい、挨拶」

アキドルはアリアの横っ腹を小突いた。アリアは首だけ倒して三人に会釈をする。

「初めまして。アリア・ユレイルです。よろしくお願いします」

三人は、アキドルの手前、身体を四五度に曲げて挨拶を返した。ミカは、アリアが昨日森で会ったあの青年だということに気がついた。ミカがじっとアリアを見ていると、視線を感じたのか、アリアがミカに目を向けた。ドキン、と、心臓が脈打った。ミカの目と、アリアの目が交錯する。アリアは口の端を上げて、ほんの少し、ミカに笑いかけた。

「ドルティン、こいつのことは任せた。色々と教えてやってくれ」

「はい、隊長」

ドルティンが敬礼をして返事をする。じゃあ、と言ってアキドルが部屋を出ていくと、ミカとアシャも敬礼をした。

「アリア、だったな?」

アキドルが見えなくなると、ドルティンはアリアに向き直った。

「はい」

ドルティンは右手を差し出した。

「よろしく。俺はこの部屋の寮長、ドルティン・ニアだ。歳は二五。寮のことでも、軍のことでも、分からないことがあれば何でも聞いてくれ」

アリアは口の端を上げてドルティンと握手をする。

「それで、こっちが十九歳のミカ・トルド。このちっこいのが十歳のアシャ・ユイーンだ」

ミカとアシャはアリアに軽く頭を下げた。ドルティンは後ろを振り返って左右の二段ベッドを指さした。

「お前のベッドだが、向かって右側の下のベッドだ。上は俺。こっちのベッドの上がアシャで下がミカだ。ここにクローゼットがあるから、荷物はそこに入れること。剣とか弓矢とか槍の管理は自己責任。紛失しないように名前でも書いとくといい」

それで、とドルティンはアリアに向き直る。

「起床は朝の六時だ。六時になったら起床の放送が鳴る。六時五分に点呼。六時半から七時までが朝食。七時五分から午前中の訓練が始まる。遅刻一回につき、罰則として全員分の剣研ぎをすることになるからわきまえておくように。体調不良の場合は俺に報告すること。午後の訓練は十三時から十九時まで。休暇は一週間に一回だ。クレドゥル基地は帝王たちがおられるカリス帝城の敷地内にあるんだが、基本許可なく帝城の中に入ってはいけない。もし見つかったら謹慎が言い渡される」

まあ、ないとは思うが、と、ドルティンは声を低くした。

「王族たちの御身に何か障るようなことをすれば除隊処分になる」

ドルティンは試すようにアリアをじっと見つめた。アリアが西部軍を追い出されたことを知っているからか、とミカはドルティンの様子を見て思う。アリアは特段気にする素振りも見せず、ドルティンの目を見つめ返している。

「大まかな説明は以上だ。何か質問は?」

「いいえ、ありません」

アリアは凛とした声でそう言った。


 ある日の夜、ミカは弓矢を持って寮を出た。今夜も、森で弓矢の練習をしようと思っていた。外は夜の冷たい風が吹き、煌々と輝く三日月が空に架かっている。ミカは外廊下を歩き、馬舎に向かっていると、外廊下の柱の陰に月の光に照らされて誰かの影が伸びていることに気が付いた。足音を消し、柱の陰に入りそっと覗くと、柱に寄りかかって座っている茶髪の青年が見えた。それは、アリア・ユレイルだった。まだ軍服を着たままで、そこに態勢を崩して座り、空に浮かぶ月を見上げている。ミカは、その左手に立派な腕時計がはめられていることに気が付いた。それと共に、月を見上げるアリアの、寂し気な顔に心を奪われ、しばらくそこから動けなかった。

 アリアは毎晩、遅くになるとベッドから抜け出す気配がする。アリアは毎晩ここに来ていたのかと、ミカは合点がいった。


 アリアが入団して一週間もすれば、彼の武術の実力は軍全員の知るところとなった。弓矢、槍、剣、馬術。どれを取っても優秀で、走りも早く、体力もある。瞬くまに、アリアは隊長アキドルから一目置かれるようになった。肝心のアリアは、自分の実力に己惚れた様子は全く見せなかった。それどころか、口数は少なく、誰ともつるもうとしない。食事をする時もいつも一人だ。寮でも、アリアは必要最低限のこと以外は喋らず、休日には遅くまで寝ているか、ふらっとどこかに行ってしまうこともあった。アリアと生活を共にしていくうちに、ミカは、アリアは訓練の時以外はいつも、左手に腕時計をしていることに気が付いた。また、毎晩寮からいなくなることも。


 とある日の夜。寮の部屋の中では、ドルティン、アシャの規則正しい寝息が聞こえていた。ガサゴソ、ガサゴソという物音がして、浅い眠りについていたミカは目を覚ました。寝ぼけ眼で音のする方を見ると、軍服を着たアリアが、布団をはぐったり棚の戸を開けたりして何かを探している姿が目に入った。ちらりと見えたアリアの顔はひどく焦っている様子だった。今までアリアのそんな顔は一度も見たことがなかった。

 ミカは、ふとベッドの下の隅の方に転がっている立派な腕時計を見つけた。それは、いつもアリアが左手に付けているそれと同じだった。ミカはゆっくりと起き上がった。

「……アリア?」

そっと呼びかける。アリアは、棚の中をかき回していた手をさっと止めて、ミカを振り返った。その顔はひどく引きつっていた。

「どうかした?」

聞くと、アリアはまた棚の中をかき回し始める。

「僕の腕時計がない」

ミカはゆっくりと、ベッドの下の腕時計を指さした。

「そこに落ちてる。それじゃない?」

アリアはハッとミカを振り返ると、その指さす方を追った。そこには、月の光に照らされてきらきらと光る腕時計があった。アリアは弾かれたようにそこへ走っていくと、しゃがみ込み、まるで触れたら壊れてしまいそうなものを持つかのように両手でそっと取り上げた。そして、大事そうに自分の左手首につける。ミカはその様子を、じっと見ていた。

「ありがとう」

アリアは、心からほっとした様子でミカに向き直ってそう言った。

「それ、大事なものなの? いつもしてるけど」

アリアは、一瞬眉をぴくりと動かした。何かを見極めるように、その灰色の瞳でじっとミカを見つめる。ミカも、アリアの瞳を見つめ返した。なぜだろう、アリアの瞳を見ると、心が吸い込まれてしまうような気持ちになる。

 アリアはベッドの淵に腰掛けると、口を開いた。

「これは、僕の祖母からもらった時計だ」

アリアは、そっと腕時計を撫でた。そして、顔を上げると、何か遠くを見るような目で窓の外を見つめた。

「祖母が死ぬときにくれた」

チクタク、チクタクと、時計の秒針の音が静かな部屋の中に響いた。

「祖母は、東部のビルダ帝国軍に殺された」

窓から差し込む月の光が眩しかった。ミカはじっと、アリアを見つめた。

「祖母だけじゃない。父も母も、僕の家族は皆ビルダ帝国軍に殺されたんだ」

遠くを見つめるアリアの灰色の瞳が、怒りの色を宿した。アリアはキッとミカを鋭い眼光で見た。

「だから僕と関わらないほうがいい。僕もやつらに命を狙われてるんだ」

ミカは目を瞬いた。そんな、と、口から言葉が漏れる。

「僕と関わると君も危ないよ。だからこういう時も――」

アリアは左手を少し上げた。手首につけた腕時計が月光に反射してキラリと光る。

「見つけてもそのままにしとけばいいんだ」

「そんなこと、僕の良心に反するよ。それに君、すごい青い顔してたし」

アリアは唇の端を少し上げて笑った。そして、ベッドの淵から足を離して布団の中に足を入れる。

「まあ、今回のことはありがとう。でも、これからは無視していいから」

そう言って、布団の中に潜ろうとする。

「ちょ、ちょっと待って」

アリアが、ミカを見た。

「君が皆と関わらないのはそれが理由?」

「何か問題でもある?」

「いや、問題っていうか、君の置かれてる立場はよく分からないけど、というか、君の立場ならなおさら、皆と仲良くしておいた方がいい気がするよ」

アリアは、眉をひそめた。

「どういうことだ?」

「僕が言うのもなんだけど、ここの軍人たちって、面倒見がいいんだ。いじめとかも全然ないし、仲がいいっていうか、困ったときは助けてくれる。だから、君に万が一のことがあった時は、ここの軍に属していれば隊長をはじめとして皆が助けてくれるよ。ましてや君の命が狙われてるって知ったらなおさら」

じっとミカの話を聞いていたアリアは、ミカが口を閉ざすとフッと唇の端を上げて笑った。そして、何も言わず枕に頭をつける。ミカは、そんなアリアの様子を見ていた。

「あのさ、一個聞いていい」

アリアが、顔だけミカの方へ向ける。

「君、ソウルメイトって知ってる?」

アリアが顔を上に戻した。そして、フッと笑みを漏らす。

「聞いたことはある」

ミカはベッドから身を乗り出した。

「君、もう出会ってる?」

ハハッと、アリアが渇いた笑い声を出した。

「この僕が出会っていると思うか? 家族を皆殺しにされた僕が」

ミカは思わず口をつぐんだ。しばらく沈黙が続いた。チクタクと、時計の秒針の音が響いた。

「僕もまだなんだ」

ミカの声が、部屋の中に響いた。アリアが、ミカの方を見る気配がする。俯いたミカの目が、徐々に熱くなってきた。ミカは歯を食いしばった。

「ソウルメイトってやつ、君にとってはすごく重要なんだね」

アリアが言った。その嘲ったような物言いに、ミカは思わず顔を上げた。

「不平等だと思わないか? ソウルメイトに出会えば幸運や成功が約束されるのに、一生ソウルメイトに出会わずに死んでいくやつもいる。僕の家族も誰一人としてソウルメイトに出会わずに死んだ。ソウルメイトなんてまっぴらだ。腹が立つ」

そんなことない、と言おうとして、ミカは口をつぐんだ。そうだ。こんなに武術に長けているアリアですらソウルメイトに出会っていないのだ。それどころか、家族を失っている。確かに不平等だ。ミカは俯いた。

 それから、二人は何も話さなかった。ミカは静かに布団に潜り、目をつむった。いつまで経っても、アリアの規則正しい呼吸は聞こえて来なかった。


「ミカ、ミカ! 大変だ、起きろ!」

誰かに激しく体を揺すられ、ミカはハッと目を覚ました。引かれたカーテンの隙間から、朝陽が燦燦と降り注いでいる。ミカは寝坊したと思って勢いよく体を起こした。

 目の前には、引きつった顔をしたドルティンが、手に一枚の真っ赤な紙を持って立っていた。ミカは素早く時計を見た。部屋の時計は、起床時刻より三十分早い五時半を指していた。ミカは、ほっと安堵の息を吐く。そして、部屋の中を見渡す。部屋の中にはドルティンの他に、アリアが同じく一枚の赤い紙を持ってじっとそれを見ていた。アシャの様子は見えないので、おそらくまだ上のベッドで寝ているのだろう。いつもと違うのは、寮室の部屋の扉が開け放たれていることだった。そして、開いた扉の向こうから見える廊下では慌ただしく寮生が行きかい、騒がしい。ミカは、廊下の床にドルティンとアリアが持っているのと同じ真っ赤な紙が何枚も散らばっていることに気が付いた。

「どうしたんですか? その紙は?」

ドルティンはミカに、手に持った紙を突き付けた。

「帝女様の殺害予告だ」

ミカは目の前に突き付けられた赤い紙に印字された大きな文字を追った。

〈来たる花月の五日、帝女ルーダを殺害する〉

ミカの中で、ゾワリと嫌なものがうごめいた。



〈来たる花月の五日、帝女ルーダを殺害する〉

この恐ろしい殺害予告は、寮だけでなく、クレドゥル基地の施設内や、王族たちの住処であるカリス帝城の中にもばらまかれていることが分かった。帝王ヨア・ジョルリアは、今までに見たこともないほど激しく怒り狂ったという。朝目が覚めて娘の殺害予告を目にすると、寝室にばらまかれている何枚もの真っ赤な紙をビリビリに破り、雄叫びを上げ、護衛を殴り飛ばし、帝女ルーダの寝ている部屋へ突進していき、寝ているルーダを激しく揺すぶり起こしたという。

 まだ起床の放送もならないうちから寮の廊下は殺害予告を見た軍人たちで溢れかえっていた。皆パニック状態に陥り、気性の荒い軍人たちはお前が犯人じゃないのかと手当たり次第に殴りかかる勢いだ。しまいには、隊長アキドルが出てきて統制を始める始末。起床の放送が鳴るまで、各部屋の寮長が責任を持って寮生をまとめるようにという指示が下った。

「まったく、大変なことになったな」

寮室の扉をバタンと閉めると、ドルティンは息を吐いた。アリアとミカは、殺害予告の紙を手に、それぞれのベッドの淵に腰掛けている。ミカの上のベッドで寝ているアシャはまだ、気持ちよさそうに寝息を立てていた。ドルティンは失礼、と言ってアリアの横に腰掛けた。

「今日は花月の四日だ。今日は大変な一日になるぞ。今日の訓練はきっと全部なしだろう。犯人が内部者であることも考えて、厳重な警戒体制もとられるはずだ」

ドルティンはそう言って、チラリとアリアを見たのをミカは見逃さなかった。ドルティンは西部軍から追い出されたというアリアを疑っているのかもしれない、とミカは思った。もしかすると、毎晩寮室からいなくなることにも気づいているのではないかと思った。アリアは、表情一つ変えずに手元の紙を見ている。

「僕たちも、調べられるんですか?」

ミカがドルティンに聞いた。ドルティンはさあな、と息を吐いて首を傾げる。

「確かに、軍人は武器を持っているから、こういう時疑われやすくなるのは事実だろう。でも、分からない。食事に毒を混ぜて殺害させることもできるんだから、誰が犯人なのか全く。まあ、内部者でないことを信じたいが……」

それにしても、とドルティンは眉をひそめる。

「犯人は、何が思惑なんだろう。殺害の計画を予告するなんて、厳重体制が敷かれることは明白じゃないか? そんな中でどうやって帝女様に近づけるというんだ?」

「僕も分かりません。――ルーダ様をお守りしたいです」

ドルティンはミカを見て、フッと優しく笑った。

「ああ、こういう時のための帝国軍でもあるからな」

ミカの心臓が、ドクドクとせわしなく脈打っている。まるで自分自身に殺害予告をされているかのようにせわしなく。

「あの」

今まで黙っていたアリアが、口を開いた。ドルティンがアリアを見つめる。

「何だ?」

「この帝女ルーダというお方はどのような方なのですか。もしかして、誰かに恨みを買うような言動とかは」

「それはない」

ドルティンがはっきりと言った。そして、分かっていないな、というようにアリアを見てフッと一笑にふす。アリアが顔を上げ、灰色の瞳でドルティンを見た。その目は鋭かった。

「我が帝国の帝女様は、そのようなお方ではない。心根はお優しく、思いやりのあるお方だ。年頃の女性なのに贅沢をすることもなく、常に民のことを思って節制を心がけておられる。これまでただの一度だって問題を起こしたこともない。そもそも、今まで未成年だったから表に出ることは少なかったんだ。そんな状況で誰かの恨みを買うなんてことは考えられない」

アリアは、じっとドルティンを見ていたが、しばらくすると手元の赤い紙に再び視線を落とした。

七時五分。朝食を終え、軍人たちは軍服を着て訓練場に整列していた。隊長アキドルが来ると、軍人たちは一斉に敬礼をした。

「直れ!」

アキドルの声が訓練場に響き渡る。軍人たちは腰の後ろで両手を組んだ。ミカは、前に立つアキドルの手に、あの赤い紙が握られていることに気が付いた。

「知っている者も多いと思うが、帝女様の殺害予告が明らかになった」

ミカの心臓が、ドクドクと脈打った。

「そして、それは花月の五日、すなわち明日だ。よって、今日の訓練は中止とし、皆で帝城の警護に当たることになった。今、帝女様は、帝王様、帝妃様と共に塔の上に身を隠しておられる。帝女様の護衛は帝王様が御自らお引き受けになり、帝女様の近くには側近や護衛の者誰一人としてお近づきになることはできない。これより、隊分けを行う。カリダ帝国との戦いに行った者は、塔を含む帝城の中の護衛を担当せよ。その他のものは帝城の周りの護衛を担当せよ。前者の者は私、後者の者は副隊長が指揮を執る。この後集まるように。説明は以上だ。何か質問がある者はいるか」

前列から、ピシッと手が挙がった。アキドルはその軍人を見る。

「ルイザ」

アキドルが指名すると、ルイザと呼ばれた軍人はアキドルの側まで走っていき、アキドルの耳元に口を寄せた。アキドルは、眉根を寄せて何かを聞いている。二人は、チラチラとミカの近くを見ていた。ミカは、何だろうと思って左右を見る。ミカの右隣には、アリアが背筋をすっと伸ばして休めの態勢を取っている。しばらくすると、ルイザは走って元の場所に戻った。アキドルは髭を搔きながら、何かを思案するようにまたミカの近くをじっと見つめている。ミカは、アキドルが見ているのはアリアだということに気が付いた。

「アリア・ユレイル!」

アキドルが声を張り上げた。アリアは、ふいの点呼に一瞬遅れて返事を返した。

「はっ」

「お前は護衛から除外する。今日と明日は寮室から出ないように」

アリアは、面食らったように灰色の瞳を揺らした。アキドルは、そんなアリアの様子を微塵も気に掛ける様子を見せず、声を張り上げた。

「以上だ! 各自私と副隊長の元に集まれ」

はっ、と、軍人たちの声が響き、各自散っていく。ミカは隣に立ったままのアリアをチラリと見た。

「アリア……」

ミカがそっと呼びかけると、アリアは灰色の目でミカを見た。ドクン、とミカの心臓が波打つ。アリアはしばらくミカを見ていたが、次の瞬間、踵を返して寮の方へすたすたと歩き去っていった。

 その日は朝から、帝城の全ての鍵が閉められた。厳重な体制が敷かれ、殺害予告を流した犯人が誰か分からない以上、側近でさえも帝女ルーダに近づくことは許されなかった。ミカは対カリダ帝国との戦いの後に入団したので、帝城の外の護衛に他の軍人たちと一緒に当たった。その日は何も起こらなかった。夜も交代で護衛を続け、殺害予告で予告されていた花月の五日になった。帝城には朝から重々しい空気が流れ、帝城の周りに栄える市場も閉鎖された。しかし、その日も何も起こらなかった。その厳重体制は、殺害予告が出されてから一週間ほど続いたが、何かが起きる気配もなく過ぎ去っていった。


 厳重体制が解かれ、いつもの日常に戻った日の晩、ミカは馬舎へと足を運んだ。寮室には、いつものようにアリアの姿はなかった。

「ルー、ルー」

ミカが、眠っている一頭の馬に囁くと、茶色の毛並みをしたその馬はパチリと目を開いた。そして、ミカを見ると立ち上がり、嬉しそうに尻尾を揺らす。

「今日も付き合って」

ルーは軽く足踏みをした。ミカはルーを馬舎から出すと、ルーの背に跨り手綱を引いた。ルーは、並足で帝城の門へと向かっていく。門を出ると、駈足で森へと向かう。市場はもう人気も少なく、民家はちらほらと温かな灯りが灯っている。村を出て北へ向かう。夜の涼しい風がミカの頬を撫でていった。ミカは、チラリと後ろを振り返った。そこには、カリス帝城が見える。帝女様は、お元気でお過ごしだろうか。そんなことを考えた。殺害予告から一週間が過ぎ、厳重体制が解かれた際、ルーダは塔から自分の部屋へと移されたという。ミカはこの一週間、まるで自分の命が狙われているかのように心臓がせわしなく早鐘を打っていた。それは何故なのか、何故これほどまでに自分は帝女様のことを大切に感じているのか、ミカは自分でもよく分からなかった。

 ミカは、森に着き、自分のいつもの練習場所に行った。ミカは眉をひそめた。何かが違う。直観的にそう思った。空気。匂い。風の音。それらがいつもと違うと。

「ルー、ストップ」

ミカは慎重に手綱を引いた。ルーが、ゆっくりと足を止める。ミカはルーの背から降り、近くの木の幹にルーを繋げた。そして、腰に下げた剣を引き抜いて、足音を立てないように前へと進んでいく。森は月光が差しているとはいえ、ほの暗く、視界は不明瞭だ。目の前にはいつもと変わったところは何もない。しかし、確実にいつもと違う何かがある。それは、だんだん濃くなっている。

 ミカは剣を構えたままその場に立ち止まり、目を閉じて耳と鼻の感覚を研ぎ澄ました。いつもと違う匂いがする。人間がいる気配がする。だんだん、近づいてきているような、そんな気配。

 左の首筋に、冷たい感触が走った。

 ミカは、ゾワリとしてゆっくりと目を開ける。視界の左端に、剣の切っ先が見えた。その剣が、ミカの首の肉に食い込んでいるのだ。

 ミカはハッとして後ろを振り返り、後ろにいるであろう人物の首に剣の切っ先を向けた。

 月光が降り注いだ。その月の光はその人物を煌々と照らし出した。カールした、首まであるブラウンの髪に、小麦色の肌。しっかりと生えた眉に、筋の通った鼻。真っ赤な薄い唇。鋭い目に埋め込まれた灰色の眼球。

「……ア、アリア?」

アリアは、ミカの顔を見るとハッと息を吐いた。

「なんだ、ミカ・トルドか……」

そう言って、スッと剣を下ろす。ミカもゆっくりと剣を下ろした。アリアはなお、緊張した面持ちで髪をかき上げた。

「誰かと思ったら。全く」

アリアはその鋭い目でじっとミカを見た。

「お前、僕が敵だったら殺されていたと思うよ」

知ってる、と呟いて、ミカは剣を鞘に納める。

「僕は優秀じゃないから」

地面に向かってそう吐き捨てる。

「ふうん」

アリアは、品定めでもするように、じっとミカを見つめた。ミカは、その視線に耐えられず、目を逸らす。

「君、こんなところで何してるの」

ミカは吐き捨てるようにそう言った。

「武術の練習をしていた」

アリアが剣を鞘に納めながら言う。

「ここ、僕の練習場所なんだけど」

ミカがじっとアリアを睨むと、アリアはフッと唇の端を上げて笑った。

「この森の所有権、君が握ってるのか?」

ミカはアリアを睨み、踵を返してスタスタと歩き出す。アリアは、ミカの後を追った。

「なんでついてくるんだよ」

「いや、君が今行こうとしているところ、さっき毒蛇が出たから」

ミカは、うっとして足を止める。そして、ゆっくりとアリアを振り返った。ミカの顔が、みるみるうちに青ざめていく。アリアはそんなミカを見て、次の瞬間、弾かれたように笑い出した。ケラケラと、アリアの笑い声が森の中に響く。

「何だよ!」

「冗談だよ、ハハハッ、まったく、ほんと馬鹿だな、ミカ・トルドは!」

アリアは、お腹を抱えていつまでもケラケラと笑っている。そんなアリアの様子を見ていると、次第にミカもお腹の辺りがむずむずしてきて、アリアと一緒になって声を上げて笑った。

 笑いの虫も収まると、アリアが剣の柄を触った。

「ミカ・トルド、僕と一戦交えてみないか?」

声高らかにアリアが言う。ミカは、え?とアリアを見た。

「そんな、僕なんて君の相手にならないよ」

「一戦だけだ」

「君が僕のことどう思ってるのか知らないけど、僕は君が思っている以上に下手くそだよ」

アリアは、剣を引き抜いてミカを待っている。ミカは一つ溜息をつくと、しぶしぶと剣を引き抜いた。刃が、月の光を受けてキラリと光った。

 ミカは、剣の柄を両手で持ち、刃を上に向けて右肩に寄せた。深呼吸をして、一メートルほど先にいるアリアを見つめる。アリアは剣を構えて目を閉じた。アリアの息遣いが、ミカの耳に伝わってくる。今までの訓練で見てきたアリアの剣術は、まるで見惚れるほど美しく、そして恐ろしかった。そんなアリアと、一戦を交えようとしている自分自身に鳥肌が立つ。

 アリアがカッと目を見開いた。瞬間、剣の切っ先が空を光った。ミカはハッとして数秒遅れて剣を受け止める。剣を払おうとしても、ものすごい力で払えない。ミカはそのまま後ろに後退していく。アリアはミカの剣を左に払って剣をミカの腹部へ突き出す。ミカはしゃがんでそれを避け、アリアの足に向かって剣で空を切る。が、アリアの剣がミカの剣をすくいあげ、そのまま右へと払われる。態勢を崩したミカは地面に仰向けに転がる。間一髪、顔面を襲った剣を受け止め、そのままの態勢でアリアの剣を右へ左へと振り払う。金属同士がぶつかり合う音が森の中に響き、月光は二人の若者を照らし出す。ミカは、アリアが手加減をしていると感じた。それが悔しくて悔しくてたまらない。ミカは剣の柄を両手で持つと、アリアの剣を右へ振り払い、立ち上がる。剣を構え、一歩二歩三歩とアリアの剣を振り払いながら突進していく。ミカの額に汗がにじみ、息も上がってくる。しかしアリアは表情一つ変えず、息も上がっていない。首元に隙がある。思った瞬間、ミカの剣がぐわりと振り払われ、剣が首筋を狙って空を切り裂いてくる。ミカはやっとの思いで剣を受け止めるも、受け止めては払われ、受け止めては払われする。ミカはじりじりと後退し、必死にアリアの剣裁きに応えるしかできない。腹部に来た剣先を振り払おうとしたとき、アリアの剣が横から迫ってき、ミカの剣先が掬い取られ、ミカの手の中から柄がするりと抜け落ちた。

 ミカは、地面に倒れ込んで肩を上下させた。アリアがミカの落ちた剣を拾い、ミカに手を差し出す。

「ありがと」

ミカはそう言って、アリアの掌を掴んだ。引き上げたアリアの力はとても強く、ミカはここでも実力の差を突き付けられ、惨めな気持ちになる。ミカはアリアから剣を受け取り、鞘に納めた。アリアは、そんなミカの様子をじっと見つめていた。

「言ったでしょ。僕下手だって」

ミカは自虐するように笑った。アリアは灰色の目でミカを見ると、口を開く。

「上達には練習するしか道はない。君、毎日練習しに来たほうがいいよ。数日に一回じゃなくて。それに、筋肉が少なすぎる。体幹もない。訓練以外にもやった方がいいよ」

アリアは、剣を鞘に納めた。

「君、本気で上手くなりたいと思ってる?」

ミカは口をつぐんだ。悔しい。そう思った。確かに、まじまじとアリアの体を見ると、首、腕、足につく筋肉がミカのそれとはまったく違った。ミカは、自分の努力不足を指摘されたようで恥ずかしく、悔しかった。

「……君は、どうやってそんなに上手くなったの」

吐き捨てるようにミカが言った。

「武術を身につけなきゃ自分が殺される。死と隣合わせだったからやるしかなかった。誰よりも、ビルダ帝国軍の連中よりも強くならないと殺されるからやるしかなかったんだ。言っただろ。僕はビルダ帝国軍に命を狙われてるって」

アリアが、唇の端を上げてフッと笑った。

「要するに、君はそこまでの覚悟は持ってないってことだ」

ミカは儚く笑った。

「そうかもね」

二人の間を、夜の涼しい風が吹き抜けていった。ホーホーと、どこかで鳥の鳴く声が聞こえてくる。空に浮かぶ満月が、煌々とその光を二人の元に投げかけていた。

「君、どうして警護に当たらなかったの」

ミカがアリアをじっと見つめて言った。アリアも、その灰色の眼球でミカを見つめ返す。

「あのルイザってやつが隊長に、僕が西部軍から追い出されたことを言ったからだ。僕が殺害予告をした犯人だと怪しまれたから外された」

アリアはそう言って髪をかき上げる。

「ばかばかしい。なんで僕が見たこともない人に殺害予告なんかするんだ?」

アリアはフッと笑う。ミカも思わずニヤリとした。

「君、向こうにある丘を知ってる?」

ミカが、腕を伸ばして後ろを指さした。アリアが不思議そうにミカを見つめる。

「丘?」

「そうだよ。木々と木々の間にあるものが見える? あれが丘なんだ。あそこから、ジョルリア帝国が一望できるんだ」

ミカはにこっと笑う。

「すごくいい景色だよ。一度は見る価値がある。僕にアドバイスをくれたお礼に、連れていってあげるよ」

アリアはまじまじとミカを見ると、フッと唇の端を上げて笑った。


 ミカの案内で、二人は丘の上にたどり着いた。月がとても近く、下の街は遥か彼方まで見渡せる。アリアは腰に両手を当てて、その景色をぐるりと見渡した。

「壮大だ」

アリアはそう言葉を漏らした。

 二人はそこに並んで座った。月は眩しく、夜の風が二人の頬を撫でていく。空には星がところどころに瞬いていた。しばらく二人は何も喋らず、景色を眺めていた。何も話さなくても、居心地がよかった。

「僕、お父さんみたいになりたくて帝国軍に入ったんだ」

街を眺めながら、ミカが言った。

「お父さんは、僕が八歳の時に死んだ」

アリアは、鼻の先の方を見つめてミカの話に耳を傾けた。

「お父さんはジョルリア帝国の軍人だった。お父さんのことは今でもよく覚えてる。週末は寮から家に戻ってきて、僕と遊んでくれた。大きくて優しくて、僕はお父さんが大好きだった」

一羽の鳥が、悠々と夜空をかけていった。

「お父さんは、僕と正反対で武術に長けてた。家にいる時はよく僕と練習もしてくれた。僕はそんなお父さんが憧れで、いつかお父さんと同じ軍人として、帝国軍に所属することを夢見てた」

一軒の家の明かりが消えた。

「でも、お父さんは戦地に行ったきり、帰ってこなかった。――戦死したんだ」

アリアはじっとミカの話を聞いた。

「僕はずっと泣いていた」

仕事帰りの男が、明かりの点いた家に入っていくのが見えた。

「お父さんが死んでしまうなんて、考えられなかった」

どこか遠くから、鳥の鳴き声が聞こえた。

「親しい人が亡くなるのは、自分以外の人のことだと思ってた」

アリアが目を細めて遠くの景色を見、息を吐いた。

「でも、死んでしまった人は戻ってこない。僕はお父さんの死を受け入れるしかなかった」

ミカの目の奥が熱くなっていた。

「今でも、お父さんは僕の憧れであり、目標なんだ。だから、お父さんと同じ軍に所属して、お父さんが生活した寮で寝泊まりができることが、僕にとってはすごく嬉しくて、幸せなんだ」

家の明かりが全て消え、暗闇で光を灯すのは月光だけになった。風が、二人の鼻孔をかすめた。その香りはどこか懐かしかった。サワサワと木々の葉が揺れる音と、鳥の鳴き声だけが夜空に響いていた。アリアの、首まである髪の毛が風に揺れ、アリアの香りがミカの鼻をかすめていった。

「素晴らしい父親だったんだな」

アリアがそう言った。ミカはアリアの横顔を盗み見た。影が落ちたその顔はどこか寂しさをたたえていた。

「僕は、父親のことを知らない」

アリアはじっと遠くを見ていた。

「僕の父親がビルダ帝国軍に殺されたのは、僕が赤ん坊の時だった。父親と話したことも、どんな人だったのかも知らないよ」

そう言ってアリアはミカの方を向き、唇の端を上げて笑った。二人はしばらく見つめ合った。二人の視線が交差する。アリアは、微かに首を左右に振った。

「……不思議だ。腕時計のことも、家族のことも、誰にも話さないと決めてたのに。君といると、なぜか、言葉が口をついて出てきてしまう」

「僕もだよ。アリア。君をここに連れてきたのは、この景色を見せるためで、僕のことを話すつもりじゃなかったのに」

二人は、顔を突き合わせて苦笑した。

 世界が寝静まっている真夜中。二人は誰の目も気にすることなく語り合い続けた。自分の趣味や、得意なこと、苦手なこと、好きな食べ物や休日の過ごし方。いくら話しても話し過ぎることはなく、話の種は尽きることもなかった。

世界は真夜中を越え、夜明けへと近づいていく。二人は一晩中話し続けた。

どれくらいの時が過ぎただろう。東の山の淵が白み始めた。朝早くから仕事に出る人たちが見える。空の白みは濃くなっていき、太陽が顔を見せた。空の青さも徐々に薄くなり、綺麗な薄青色の空と、白い雲が顔を覗き始める。そんな世界を傍目に、ミカとアリアは、いつまでも語り合い続けた。

ふと、アリアが目を見張り、口を閉ざした。

「なんて綺麗なんだ……。あれは、一体……」

アリアの視線の先にあったもの。それは、白い雲の裂け目から地に向かって降りている、幾筋もの光の柱だった。

ミカは、その光の眩しさに目を細めて優しく笑った。

「天使の梯子」

え?とアリアがミカを見つめる。ミカは腕を伸ばして指さした。

「あれは、天使の梯子っていうんだよ。お父さんが教えてくれた」

「天使の、梯子……」

アリアはその言葉を、口の中で転がした。目の前の神秘的な光景に、全身に鳥肌が立ち、身体が奥底から温かくなっていくような気がした。

 二人は、雲の裂け目から降り注ぐ幾筋ものまばゆい光を、いつまでもいつまでも見ていた。



「アリア、ここいい?」

昼食の時間、食堂に入ったミカは、一人で食事を取るアリアを見つけ、声をかけた。アリアがふっと顔を上げ、灰色の瞳でミカを見ると、唇の端を上げて笑った。ミカはアリアの向かいに座り、目の前に並べられた料理を皿に取り分ける。

「アリア、今日も隊長に褒められてたね」

「ミカは今日も隊長に叱られてたな」

アリアが悪戯っぽく笑う。二人の目元には、うっすらとクマができている。毎晩二人は、森に出かけては武術の練習をし、時が経つのも忘れるほどに熱中する。日が昇り始める頃に寮に帰っては起床時刻ぎりぎりまで熟睡し、起床の放送が鳴ったら慌てて飛び起きる。休日は二人揃って遅くまで寝ている生活の繰り返しだった。ジョルリア帝国の軍人たちは、そんな、急に行動を共にするようになった二人を好奇な目で見ていた。その二人の関係は隊長アキドルの耳にまで入るようになっていた。事実、ミカの武術の腕はうなぎ登りに上がっていた。アリアは相変わらず軍の中での成績はトップで、軍人たちから尊敬の眼差しを受けるようになっていた。軍人たちはしきりにアリアと仲を縮めたがり、機会を見つけてはアリアに絡んでいくが、アリアは一笑にふしてあしらうばかり。しかし、そんなアリアをよく思わない者もいて、アリアが西部軍から追い出されたと、隊長アキドルに告げ口をしたルイザもその一人だった。

 ミカがふっと顔を上げると、訓練場から軍人数人を従えてこちらに向かってくる青年を見つけた。銀色の髪に、鋭く黒い瞳を持つ青年――ルイザとその取り巻きたちだった。ルイザたちはミカとアリアの近くまで来ると、歩くスピードを落とし、食事をしているアリアをまじまじと見た。何だろうと思ってミカがじっと見ていると、栓を切ったようにルイザが笑い始め、取り巻きたちも一緒になって笑った。そして、アリアを振り返って見ながら去っていった。

 ミカは、眉をひそめてルイザたちの後ろ姿を見ていると、こちらを見るアリアの視線を感じてアリアに目を戻した。

「何だ?」

アリアが言う。ミカは顎でルイザたちを指した。

「あいつらが、今――」

「ようようアリア、ミカ!」

その時、がたいのいい大男が目の前に現れたかと思うと、アリアの肩を抱いてガハハと大きな声で笑った。大男ガンだった。その隣には、ミカの同僚のジアもいる。ジアは大声で笑うガンを見るとミカを見て、やれやれといったように肩をすくめた。アリアは、それでも食べ物を頬張り続けている。

「アリア! 今日も凄かったなあ! 槍でこの俺を負かすなんて、お前が入ってくるまではいなかったんだぞ!」

「はあ」

アリアは乱暴にガンの腕を振り払った。いってえ、とガンが喚く。

「ミカ、お前も最近腕が上がったんじゃねえか? え?」

「ありがとうございます。ガンさん」

ミカは、ガンとジアの皿に昼食を取り分ける。ジアはありがと、というように掌を上げた。

「それにしてもだ」

ガンは、食事を口いっぱいに頬張ってしゃべり続ける。

「ミカ、アリア、お前たち、いつの間にそんなに仲良くなったんだ? 最近じゃ、四六時中一緒にいるじゃないか」

うんうん、と、ジアも頷く。ミカはアリアを見た。アリアはガンの言葉など聞こえていないかのように食事を続けている。

「寮も一緒だしね」

曖昧にミカが答えると、それにしたってなあ、とガンはジアに同意を求めた。


 規則正しい寝息が、寮室に響いていた。月光が、きっちりと閉められたカーテンを裏から照らしている。ミカは軍服を着て、剣を手に持ち、アリアの準備が終わるのを待っていた。アリアは軍服を着て、クローゼットの中をガサゴソと漁っている。そして、アリアはふいに動きを止めた。

「どうしたの?」

「……僕の剣がない」

ミカがアリアの隣に行き、いつもアリアの剣が置かれてあるクローゼットの中を覗き込むと、そこには何もなかった。

「夕食から帰ってきた後、確かにここに置いて風呂に行ったんだ。それから出してない。誰かが取ったんだ」

アリアは鋭い眼差しでミカを見た。

「でも、誰がそんなこと……」

「この前も、弓矢の訓練の前に僕の弓の弦が切られてた。矢が何本も折られていることもあった」

二人はしばらく黙り込んだ。ミカの脳裏に、昼食時、アリアを見て笑っていたルイザの姿がよぎった。

「ルイザ」

二人の声が重なった。

「あいつ、何かおかしいと思ってたんだ」

くだらない、と、アリアは唾を吐いた。

「急いで探さないと。明日も訓練で剣を使うんだから」

アリアは眉をひそめて頷いた。


 週末になった。ミカは、昼前になって起き出したアリアに別れを告げて、馬舎からルーを連れ出し、クレドゥル基地を出た。山を幾度も越えた先にある家に帰るためだった。基地を出ると、目の前の大きな道路には市場が栄え、民で溢れかえっている。ミカは、その中の果物屋で、桃とビワを袋いっぱいに買った。市場を抜け大きな通りに出ると、ミカは果物の入った袋をルーの背中に括り付け、その背に跨り、走り出した。

 半日ほど過ぎた。空が橙色に染まってきた頃、ミカはレンガ造りの小さな家に着いた。広い庭にある馬舎にルーを停めると、果物の入った袋を抱えて玄関先に向かった。庭の畑には、木月に採れる野菜が埋まっている。庭は小ぎれいに手入れが行き届いていた。ミカは木のドアの前に立つと、ベルに繋がれた紐を揺らした。しばらく待つと、いきなり、勢いよくドアが開き、長い黒髪を後ろでゆるくお団子にした、エプロンを着けた女性が現れた。

「母さん!」

「ミカ! お帰り!」

ミカと母は熱い抱擁を交わした。家の中から、フワリとスープのいい香りが漂ってきた。

「お義父さん、ミカが帰りましたよ」

母に手を引かれて居間へ入ると、ベッドで横になっていた顔に皺の多い老人がゆっくりと起き上がった。白い髪の毛は薄くなり、身体は細く骨ばって、震えている。しかし、黒色の眼光だけは年老いてもなお鋭さを失わない。ミカの祖父は、居間へ入ってきたミカを見ると片手を上げた。

「ミカあ……」

ミカが祖父の元へ行き抱擁を交わすと、祖父は吐息交じりにミカを呼び、弱弱しい腕でミカの背をトントンと叩いた。そして何かを探るように、ミカの目をじっくりと覗き込んだ。

 ミカの祖父はその昔、カリス帝城に仕えていた占天部の部長だった。占いの能力に長け、その能力を公的に使用し政務に当たってきた。加持祈祷も行い、祖父が行うとよく効くと評判にもなっていた。

そんな祖父の妻となった、当時帝城で仕えていた女官が、祖父のソウルメイトであったという。その、ミカの祖母にあたる女性はミカが生まれるずっと前に、事故で亡くなった。ソウルメイトを失った祖父はそれから泣き暮れ、一年ほどの間は、占いの能力が落ちたと語った。

 ミカは居間の暖炉の上に置かれている写真に近寄っていった。そこには、ミカと同じ黒髪で、ミカよりももっと多くの筋肉がついた体をした、向日葵のように明るく笑う男性が映っていた。十二年前に死んだ、ミカの父だった。ミカは写真の前で手を合わせた。

「帰ったよ。父さん」

 夕食を食べ終え、ミカはソファで横になってうつらうつらとしていた。母は安楽椅子に座って毛糸を編んでいる。少しだけ開かれた窓からは、木月の夜の気持ちのよい風が部屋の中に入り込んでいる。祖父はベッドの淵に腰掛け、両手を杖で支えて何かを思案するように固く目を閉じていた。

「……男が視える……」

「うーん?」

ミカは、寝返りを打った。何だろうと思ってゆっくりと目を開いて祖父を見ると、祖父は片目を閉じ、片目をミカに向けていた。

「いや……若い青年だ……」

祖父は昔から、事あるごとに家族を占ってくれた。今日もその一つかと思い、ミカは再び目を閉じて祖父の言葉に耳を傾けた。

「もう出会っておる……いや、これから出会うのか? ぼんやりとしか視えぬ……。もう出会っているがまだ気づいておらぬのか……? どちらにせよ、近いうちに分かる……。その日は近づいておる……」

サワサワと、窓の外から木の葉が揺れる音がした。

「能力のある青年じゃ……。実に、実に優れておる……。おおう……。恐ろしや……。これほどまでに大きな困難が待ち受けていようとは……。しかし、確信の日は近い……」

ミカはいつの間にか、眠りに落ちた。


 次の日の夜に家を出て、クレドゥル基地に着いたのはその次の日の早朝だった。ルーを馬舎に入れて、寮へ向かっていた時、騒がしい人の声が聞こえてミカは足を止めた。何だろうと思って耳を澄ますと、その声は寮から少し離れた所にある、真下に海のある崖に面した帝国軍の訓練場の一つから聞こえてくることに気づいた。こんな朝早くからどうしたんだろうと思いミカはその方向へ歩いていった。訓練場に近づくにつれ、人々の声は大きくなっていく。訓練場に着くと、そこには大勢の軍人が崖の方に向かって群がっていた。そして、歓声を上げたり喚いたりしている。何かを見ているようだった。ミカは、一番後ろにいたヘレンの肩を叩いた。

「ヘレン、どうしたの? 皆何してるの?」

ヘレンはミカを振り返った。その青い瞳は怯えていた。

「ミカ! 大変なんだよ、ルイザが!」

「ルイザ? あいつがどうしたの?」

ミカは人垣を押しのけて群れの一番先頭に行った。

 ミカは息を呑んだ。崖っぷちに、ルイザが剣の矛先を目の前にいる人に突き出している。剣先を向けられているのはアリアだった。

「アリア・ユレイル!」

ルイザの大きな声が、訓練場に響き渡った。それが合図かのように、騒がしかった軍人たちは口を閉じた。アリアは腰に剣を下げて、その鋭い灰色の眼で目の前のルイザを見ていた。

「俺はお前に一戦を申し込む!」

ヒュウという歓声が軍人たちから上がった。ミカはドクンドクンと心臓がせわしなく脈打っていた。いくらアリアが優秀とはいえ、ルイザもそれなりの腕がある。ルイザが本気を出せばどうなるか分からない。ミカは、見守る軍人たちの中に、隊長アキドルも腕を組んで見物していることに気が付いた。

「望むところだ」

アリアが剣を引き抜いた。沈黙が、再び押し寄せた。

 アリアとルイザの剣が交差した。見守る軍人たちの息遣いまでもが聞こえた。

 その瞬間だった。

 ルイザの体が動いた。

 ルイザの剣が空を切り、アリアの首に向かった。

 ヒュッと、ミカの喉が閉まった。これは真剣を使っているということを、ミカの脳が警告した。

 剣が、空を舞った。

 カーンという、刃が石に当たる音がして、剣は地面に落ちていた。

 ミカは素早く二人を交互に見た。

 アリアは剣を持っていた。

 ルイザは呆気にとられた顔で、地面に落ちた自分の剣を見つめていた。

 鳥肌が立った。

 アリアは最初の一撃で、ルイザを負かしたのだ。

 次の瞬間、せきを切ったかのように大歓声が訓練場に鳴り響いた。軍人たちは口笛を吹き、お互い肩を叩き合って騒いでいた。アリアは剣を鞘に納めると、フッと顔を上げた。

 ミカとアリアの視線が合った。アリアは、唇の端を上げて、ミカに笑いかけた。

 瞬間だった。

 ルイザがアリアに掴みかかり、アリアの体を両手で崖の方に押し倒した。アリアの体は崖の下へ消えた。沈黙が、その場を支配した。

「馬鹿! 海には人食いザメがいるんだぞ!」

隊長アキドルの声が訓練場に響き渡った。その声が合図になったかのように、その場が軍人たちの喚き声でいっぱいになった。

 考える暇はなかった。

 ミカの体が勝手に動いた。

 ミカは崖に向かって走っていき、何十メートルも下の海に向かって飛び降りた。

 誰かがミカを呼ぶ声がした。

 数秒の後、ミカの体は波を打った。

 ミカは、幼い頃から泳ぎだけは得意だった。

 海深くまで潜っていく。

 視界の隅に、人影が見えた。

 顔を向けると、苦しそうに、手足をばたつかせてもがくアリアの姿があった。

 ミカは、アリアの方へ泳いでいくと、腕を伸ばし、必死にもがくアリアの掌を掴んだ。

 瞬間だった。

 電気のようなものが、熱いものが、掴んだ掌から腕、そして体全体へと走った。

 今まで感じたことのない熱さが、手から体に流れ込んでくる。



 身体が熱い。とてつもなく熱い。手の先からつま先まで、マグマが迸っているようだ。ミカはアリアの手を離すことなく、岩場まで泳いでいくとそこに上がり、アリアの体を引き上げた。アリアの手を離すと、身体の熱さは徐々に引いていった。

「はあっ、はあっ……」

アリアが岩場に両手をつき、咳き込みながら激しく息をしている。ミカは、アリアと繋いでいた手を呆然と見つめていた。アリアとの出会いから今までのことが、一息のうちに蘇る。もしかしたら、もしかするとという根拠のない確信がミカの心に浮かんだ。手が震えた。体が震えた。ミカは、ゆっくりと顔を上げてアリアを見た。アリアも顔を上げてミカを見た。二人の視線が交差した時、身体が熱くなった。アリアはうっと顔を歪めて地面にうつ伏せになった。ミカも、あまりの熱さに自分の胸を手で押さえた。体の震えが止まらなかった。

「そんな……」

アリアが顔を歪めて首を横に振った。その声はか弱く、震えていた。アリアのそんな泣きそうな声を聞くのは初めてだった。

「まさかそんな……」

アリアが顔を上げてミカを見た。ミカはハッとした。アリアが、泣いていた。アリアのその涙を見て、呼応するかのように、ミカの目からも涙が流れた。

 アリアが、ゆっくりと片手をミカの方に差し出した。その手は震えていた。ミカは、吸い寄せられるようにしてアリアの手を握った。その瞬間、熱いものが身体の中に流れ込んだ。ハッと、アリアは地面に突っ伏して泣いた。ミカも涙を流した。

 やっと見つけた。

 ずっと探し求めていた人を。

 ミカはアリアの体を抱きしめた。体の熱さはいつしか、燃えたぎる炎のように熱くなっていた。アリアもミカを抱きしめた。

「君が僕の……」

「僕が君の……」


――ソウルメイト


「おい! 大丈夫か!」

向こうから、崖を下ってきた隊長アキドルと、副隊長のリオがやって来た。急いで駆け寄ってくると、抱きしめ合っている二人の体を激しく揺すぶった。

「あつっ!」

が、アキドルはすぐにその手を引っ込めた。そして、驚いたようにアリアとミカを交互に見つめる。二人は、狂ったように泣いていた。そんな様子を見て、白の長髪を上で結んだ、切れ長の目を持った副隊長のリオが、静かに口を開いた。

「とうとう見つけたみたいですね。彼らのソウルメイトを」


 ミカ・トルドとアリア・ユレイルはソウルメイトだ。

 この事実は瞬く間に軍全体に知れ渡った。二人はより一層、朝から晩まで一緒に過ごした。片時も離れることはなかった。一方、アリアを海へ突き落したルイザは、アキドルから激しい叱責を受け、二週間の謹慎処分と剣磨きを言い渡された。

 とある日の朝、ミカが目を覚ますと何かがおかしいことに気が付いた。開かれたカーテンから差し込む太陽の光が、いつもより眩しい。そして、部屋にドルティンとアシャはいなかった。嫌な予感がして部屋に掛けられた時計を見ると、七時十分だった。五分前に午前中の訓練が始まっている。ミカは飛び起きて、隣のベッドですうすうと気持ちよさそうに寝息を立てて寝ているアリアを激しく揺すぶった。

「アリア! アリア! 起きろ! 遅刻だ!」

うーん、と、アリアが寝返りを打って目を微かに開けた。

「……何?」

「遅刻だよ! 遅刻だ!」

アリアは弾かれたように起き上がると、目を見開いた。

「まさかそんな!」

二人は寮室から飛び出し、全速力で訓練場へ向かった。


 その日の夜、軍人たちが夕食を食べている時間帯に、ミカとアリアは軍人全員の剣を集めて回り、井戸へ向かった。訓練に遅刻したミカとアリアは、遅刻した者が受ける剣磨きの罰則を食らったのだ。

「まったく、きっと剣磨きが終わって食堂に行ったら晩飯はほとんど残ってないぞ」

井戸から桶に水を汲みながら、アリアがこぼした。

「仕方ないよ。寝坊した僕たちが悪いんだもの」

ミカは、冷え切った井戸水の中に軍人たちの剣を浸からせた。アリアはニヤリと笑った。

「でも、笑えるよな。ルイザが二週間も一人でこうして剣磨きをしてるのを想像してみろよ」

ミカもつられてニヤリとした。

 木月の夜の、冷えた風が吹いていた。二人は冷たい水に手を赤く染めながら、一本一本剣を磨いた。

 半分ほど終わった時、遠くから足音が聞こえた気がしてミカは顔を上げた。寮や食堂がある方向から、人影がこちらに向かってくるのが見えた。その人影が近づいてきて、誰か分かったミカは、剣磨きに集中しているアリアを小突いた。

「何だ?」

「アリア、副隊長が来る」

ミカは小声で言った。副隊長?とアリアが眉間に皺を寄せてそちらを見ると、確かに、白くて長い髪を上で結った、長身の若者が、矢筒を持ってこちらに歩いてくるのが見えた。二人は剣を置いて立ち上がると、副隊長に敬礼をした。

「お疲れさま」

副隊長のリオ・ド・アーガルー・ジーン・スコットは、敬礼をしている二人の前に来ると足を止めて、表情を変えずにそう言った。二人よりも五センチほど身長の高いリオは切れ長の目でミカとアリアを交互に見下ろしている。ミカは、心臓がドキドキした。リオは二十八歳という若さにして、三年前、二十五歳の時に、帝国軍の副隊長に任命された。リオは、ミカが帝国軍に入団した時から優秀で、他の軍人たちとは頭一つ抜けていた。その上、綺麗な切れ長の目に、筋の通った鼻を持ち、肌は驚くほどに白く、帝国軍一の美男だった。そのため、カリス帝城の女官たちからは昔から人気で、リオの姿を見にクレドゥル基地に来る女官たちも少なくなかった。そんなリオは冷淡だが、礼儀正しく、心根は優しかった。ミカが入団したばかりの頃、訓練で上手くいかずに叱られ、一人泣いていたミカを、リオはそっと側に寄り、背中をさすってくれたことがある。その腕前と美しさから近寄りがたい雰囲気のあるリオだったが、ミカは、優しいところも持ち合わせていて優秀なリオを、ずっと、心から尊敬し、憧れていた。

「気にせず続けてくれ」

リオは二人にそう言った。そして、矢筒を置いて、地面にあぐらをかいて座った。ミカとアリアはたじろぎながらも、ゆっくりと地面に座り、剣磨きを再開した。

「話があって来た」

しばらく二人の剣磨きを黙って見つめていたリオが、口を開いた。ミカとアリアは顔を見合わせた。ミカは咄嗟に、何かやらかしたかなと思案を巡らせる。

「まず、ソウルメイトと出会ったことを祝う。おめでとう」

ミカは驚いてリオを見た。リオは、アリアがよくするように、唇の端を上げて少し微笑んでいた。ミカは、微笑むリオを見ることが珍しかったため、顔を赤らめた。

「きっと、素晴らしい人生が待っているはずだ」

ミカは、そっとアリアの横顔を盗み見た。アリアは剣磨きをしながら、鋭い灰色の目は一点を見つめていた。殺された家族のことを考えているのだろうとミカは思った。

「ありがとうございます」

ミカは言った。後に続いて、アリアも礼を言う。

「二人が仲がいいことは知っていたが、まさかソウルメイト同士だったとはね」

「……僕も不思議です。アリアみたいに優秀な人が、こんな僕のソウルメイトだなんて、今でも信じられません」

リオはじっとミカを見つめた。その眼差しに、ミカは再び顔を赤らめる。

「自分を低く見るのはやめろミカ。帝国軍に入団できたのは一定の実力があったからだ。自信がないと武術の腕も落ちる」

ミカは手元に視線を落とした。アリアは黙々と、剣磨きを続けている。夜の涼しい風が、絶え間なく吹き抜けていく。

「それで、君たちに話しておきたいことがある」

ミカは顔を上げてリオを見た。リオの顔は真剣な表情に戻っていた。

「君たちは毎晩、森に武術の練習をしに行っていると聞いた」

ミカはゴクリと生唾を呑んだ。何か悪いことでもあっただろうかと、心臓がせわしなく動く。アリアは気に留める様子を見せず、剣磨きを続けている。

「それ自体はいいことだ。だが、その練習に夢中になり過ぎて生活リズムを崩すのはよくないことだぞ」

リオの目が、鋭くミカとアリアを交互に見た。

「二人とも、平日は朝方に帰ってきて起床時刻ギリギリまで寝ていると聞いた。休日は昼近くまで寝ているとか。一体、君たちは何時間睡眠をしているんだ?」

ミカは顔を赤らめて俯いた。

「……一時間から二時間です」

頼りない声が出た。リオが溜息をつくのが聞こえた。

「まったく、そんなに短ければクマもできるわけだ。君たち、最近本当に不健康な顔をしているぞ」

「……すみません」

「そんな生活をしているから、今日みたいに訓練に遅刻するんだ。いいか、二人共、ソウルメイトだから気が合うのは分かる。そんな二人が武術の練習をすれば波に乗るのも理解できる。だが、基本的な生活をおろそかにしてはいけない。それは後々、健康を害する原因になり、武術の腕が落ちる原因になる。ソウルメイトと出会えば何もかもが上手くいくと思っていたら間違いだ。私が西部のアレキルエラ帝国の軍に留学に行っていた時、君たちと同じように、ソウルメイト同士の若い軍人がいた。彼らは成績もトップで、ソウルメイトと出会って何もかもが上手くいっているように見えた。しかし、それで調子に乗った二人は毎晩繁華街を遊び歩くようになった。酔いつぶれて帰ってきて、訓練に出られなくなる日が増えた。そして、ある時、繁華街で男どもとトラブルを起こして腕の立つ剣で決闘し、相手を殺した。そして二人は除隊させられたんだ。才能のある二人だった。何もなければ、優秀な軍人として重要な役職にもついていただろうと思われる二人だった」

気づけば、ミカとアリアは剣磨きの手を止めてリオの話に聞き入っていた。リオは、そんな二人を鋭い目つきで見やった。

「君たちも、よくよく自分を大切にすることだ。光もあれば影もある。皆、ソウルメイトの光の面だけを取り立てて騒ぎ立てているが、影の部分も存在することを忘れるな。いいな」

ミカはゴクリと生唾を呑んだ。

「はい、副隊長」

アリアが敬礼をしてそう言った。ミカも、敬礼をする。

「と、隊長からの伝言だ。胆に銘じておくように」

リオはそう言うと矢筒を持って立ち上がった。ミカとアリアも慌てて立ち上がる。

「それと、睡眠時間は今日から五時間は取れ。六時間と言いたいところだが、急には無理だろうから五時間だ。じゃあ、私は失礼する」

リオはそう言って、踵を返した。

「副隊長っ」

リオの背中に向かって、ミカは咄嗟に叫んだ。リオが足を止めて振り返る。月光に照らされたリオの顔には影が落ち、まるで彫刻のような美しさだった。

「何だ?」

「僕、副隊長を尊敬しています! 入団した時からずっと! 副隊長みたいになりたいです! きっとなります!」

ミカの大きな声が、夜空に反響した。リオはフッと笑みをこぼした。

「応援している」

リオはそう言うと、スタスタと歩き去っていった。上で結んだ白い長髪が、左右に弧を描いて揺れていた。


ミカとアリアが、夜ご飯を食べ、寮室の前に戻ってくると、寮室の扉の前にルイザが立っていた。

「ルイザ?」

ミカが驚いて声を出すと、ルイザはびくっとして二人を振り返った。短く切りこまれた銀色の髪に、黒い瞳はいつもの鋭さがなく、手をしきりに揉みしだいている。

「お前が何の用でここにいる?」

アリアは、ズカズカとルイザに詰め寄っていった。次の瞬間、ルイザはアリアに向かって深々と頭を下げた。ミカとアリアは驚いてそんなルイザを凝視した。

「すまなかった!」

ルイザの声が、寮の廊下に反響した。寮室に戻ろうとする軍人たちが、何事かと振り返っていく。ミカとアリアも、顔を見合わせた。

「今まで、意地悪な態度を取ってしまってごめん!」

「は、はあ? 何だよいきなり」

アリアの顔は困惑していた。ルイザは、バッと顔を上げてアリアを見つめた。その表情は、心から申し訳ないと思っているようなそれだった。

「本当は、君みたいに武術が上手くなりなかっただけなんだ! 嫉妬していたんだ!」

「し、嫉妬?」

よく見ると、ルイザの目は少しだけ潤んでいた。ミカは、なぜかほっとした。そう、ミカが入団してから知るルイザは、多少口や態度が悪い所はあっても、あんな風に誰かをいじめたりする奴ではなかったはずだからだ。今、アリアの目の前で涙を目に滲ませながら謝罪しているルイザが本来のルイザだとミカは思った。ミカは、アリアの肩を軽く叩いた。

「許してあげなよ、アリア」

アリアが、眉をひそめてミカを見た。

「だって……こいつ、絶対隊長にしばかれたからこういう態度になってるだけだと思うけど?」

「いや、それはねえな」

突然、声がした。声のした方を振り返ると、軍服を着た大男ガンとジアがいた。ガンは、ズカズカとミカたちの方に歩いてきて、ルイザの肩を抱いた。

「ルイザは本当はいい子なんだ。ちょっと嫉妬深いだけで。な、ジア」

ガンがジアを振り返る。ジアは、微かに笑って頷いた。

「そうですね。多少問題児気質なところはありますけど」

「な、アリア、だから、許してやれ」

アリアは、困ったようにミカを見た。そして、渋々といった感じで頷いた。

「よし! そうなれば仲直りの握手だ! ほら! ルイザ、アリア」

ガンはそう言うと、いきなりアリアとルイザの手を掴んで強引に二人に握手をさせた。

 ルイザは、アリアを見て少しだけはにかんだ。アリアはプイとそっぽを向いた。しかし、二人の手は固く握られていた。



 星月にはアリアは二十歳の誕生日を、風月にはミカも二十歳の誕生日を迎えた。

季節は夏から秋に変わり、月は葉月になった。クレドゥル基地に生えている木々の葉は赤や黄に色づいていた。以前までは温かかった風も、今ではうすら寒い風に変わり、日が昇る時間も徐々に短くなっていた。

 平穏な毎日の繰り返しだった。花月に帝女ルーダの殺害予告を受けてから半年が過ぎていたが、それ以降は何も起こらず、皆そのこと自体を忘れかけていた。数か月経った今になってもその真相は分からないままで、あれ以降事件も進展も、カリス帝城には何も起こらなかった。

 ミカがアリアと出会ってから約半年が過ぎた。その間に、ミカの武術の実力はぐんぐんと上がっていた。毎日のように、ミカとアリアは森へ武術の練習をしに出掛ける生活を続けていた。次第にミカの体には筋肉が着き、体に厚みが出てきた。月に一度の試験では、軍人四百人のうちトップ二十に入るまでの実力を身に着けた。一方のアリアは、その実力は誰にも劣らなかった。試験の度に一番を取り、隊長アキドルと副隊長リオの次に次ぐ人物として軍人たちから一目置かれていた。ソウルメイト同士のミカとアリアの仲は相変わらずで、誰も二人の間に入ることは出来なかった。


 軍人たちは訓練を終えて、食堂には夕食を食べる軍人たちで溢れかえっていた。

「アリア見てよ。僕の剣欠けちゃった」

ミカは腰に下げていた剣を抜いて、アリアに差し出した。

「うわ、本当だ。今日の訓練でやられたのか?」

「そうなんだ。しばらく備品の剣を使わなきゃだよ」

ミカはそっと剣を撫でた。この剣は、死んだ父親が買ってくれたもので昔からずっとこれを使ってきた。最近、アリアと出会ってから自主練をする頻度が増えて、剣がもろくなってきたとミカはずっと感じていたのだ。

「アリアの剣は大丈夫?」

ミカは焼き魚を口に頬張りながら言った。

「僕のは頑丈だからね」

「へえ。それってどこで買ったの?」

アリアは野菜を飲み下した。

「アレキルエラ帝国。アレキルエラ帝国の市場だよ」

「高かったでしょ」

アリアは唇の端を上げて笑った。

「値段はね。でも、これ店主がタダでくれたんだ。僕が逃亡してるって知ったらくれた」

アリアは魚を口いっぱいに頬張った。

 その時、ギイと食堂の扉が突然開いて、誰かが入って来た。見ると、制服を着た近衛部隊だった。突然の来客に、軍人たちは次々と顔を上げた。ミカは咄嗟に隊長と副隊長が座っているテーブルに顔を向けた。隊長アキドルは魚を頬張りながら呑気そうな顔で、副隊長リオはナイフとフォークを置いて険しい顔で、それぞれ入ってきた一人の男を見ていた。近衛部隊の男は食堂に入ると足を止め、誰かを探すようにきょろきょろと頭を回した。そして、アキドルの方へつかつかと歩いていく。軍人たちは男が通るとヒソヒソと囁き声を出し、男の行くところを目で追っている。近衛部隊の男はアキドルの側に行くと、アキドルの耳に口を寄せて何かを話した。アキドルはすっと立ち上がった。

「リオ」

よく通る野太い声が響いた。リオは、すぐにさっと立ち上がると、早足でアキドルの元へ歩いていく。アキドルとリオ、近衛部隊の男は急ぎ足で、食堂を出て行った。


「ルー、ルー」

風呂上り、ミカとアリアは馬舎に行って、寝ている自分たちの馬の名を呼んだ。名前を呼ばれたルーは、眠そうに片目を開けてミカの姿を見ると、嬉しそうに立ち上がり、尻尾を揺らした。

 ミカはルーに、アリアはゼジル馬に跨っていつもの森を目指した。空には綺麗な三日月が架かっていた。葉月の夜に吹く風はどこか寒々しく、二人の肌を突き刺した。二人は森までの長い距離を、何も話さずに駆けた。

「一体、あの近衛兵は何の話をしてたんだろうね」

森に着き、木の幹にルーを停めながらミカが言った。

「さあな」

アリアが唇の端を上げて悪戯っぽく笑う。ミカも肩をすくめた。そして、背中から矢筒を下ろすと、はあと溜息をついた。

「今日は剣の練習をする予定だったのに」

ミカは寮に置いてきた、自分の欠けた剣を思った。物心ついた時からあの剣を使っていたミカにとって、それが使えなくなってしまったことは何か大切な昔からの親友を失ったみたいに、ぽっかりと心に穴が空いたような気分だった。

「仕方ないさ。その代わり、次の弓の試験で二番を取れるようにしごいてやる」

「二番?」

ミカが顔を上げた。アリアはもう、手足を伸ばして体をほぐす運動を始めていた。

「そう。僕が一番で、ミカが二番」

アリアは不敵に笑った。ミカは一瞬アリアと一緒になって笑いたくなったが、そんな気持ちはすぐに消え失せた。

「無理だよ」

ミカが吐き出した。月の光に照らされたミカの瞳は、寂し気な色をたたえていた。ホーホーと、夜に鳴く鳥の声が森に響いた。

「僕にそんな力はないよ」

妙に、自分の言葉が、声が、耳に響いた。それはまるで呪文のように、ミカの心を締め付けた。ミカは顔を上げてアリアを見た。アリアはミカの言葉を聞いている素振りも見せず、体をほぐし続けている。ミカの眉間に皺が寄った。

「アリア、聞いてる?」

ミカは矢筒から矢を一本引き抜き、弓につがえた。それでも、アリアはミカを見る気配もしない。弓を極限まで引き、離した。

 シュッと空気を裂く音がして、その矢はアリアの頭の真横を通り、その奥の木の幹に突き刺さった。アリアの側にいたゼジル馬が、怒ったように足踏みをした。アリアはおもむろに体をほぐすのをやめるとミカをはたと見た。

「お前の弱気な言葉を聞いてると、こっちまで気分が悪くなってくる。今、命中したじゃないか。なんでそんなに自信がないんだ? 次そんな言葉を口にしたら、剣で八つ裂きにしてやる」

「や、八つ裂きって……」

「ほら、練習するぞ!」

アリアは矢筒を掴み、ミカに顎でついてこいと言って、つかつかと森の奥へと歩いていった。ミカはしばらくアリアの後ろ姿を見つめていたが、その姿が闇に呑まれたのを見て、慌ててアリアの後を追いかけた。

 二人は真夜中過ぎに森を出た。アリアの弓矢のしごきは辛くて、ミカは両腕が痛み、全身汗まみれだった。ミカの黒い髪から汗がしたたり落ちては、頬を流れていった。寮に着くと、もう既に寮の灯りは全て消えていて、寮室にはドルティンとアシャの規則正しい寝息が響いていた。アリアは軍服を剥ぎ取るように脱ぐと、寝間着に着替えてベッドに倒れ込み、死んだように眠った。ミカはそのまま大浴場に行き、全身の汗を流してから、同じように死んだように眠った。二人は以前、副隊長リオから言われた睡眠の約束をきっちりと守っていた。おかげで二人の顔にはくまが消え、以前よりも健康的な顔つきになっていた。

 日が昇った。その日は突然やってきた。七時五分。訓練場に集まった軍人たちの前に、いつものように隊長と副隊長が歩いてきた。軍人たちは一斉に敬礼を取った。

「直れ」

隊長アキドルの野太い声が響き、軍人たちは休めの態勢を取った。隊長アキドルは踏み台の上に上がり、四百人いる軍人たちをぐるりと見回すと、重々しく口を開いた。

「昨夜、リダルビ村がビルダ帝国軍の襲撃に遭った」

ザワリ、と軍人たちがどよめいた。ミカはごくんと生唾を呑みこんだ。嫌な高揚感と、緊張感が押し寄せて、ミカの心臓は激しく早鐘を打ち出していた。

「リダルビ村の蝶々は、一匹残らず殺された」

リダルビ村は、綺麗な蝶々がいることで有名な村だ。ジョルリア帝国とビルダ帝国の境に位置することを除けば、平和で、自然豊かな村だった。

「村は壊滅状態。村人は人質に取られている」

次に隊長が言う言葉が、ミカには分かるような気がした。戦地で死んだ父親の顔が脳裏に浮かび上がった。

「これは我がジョルリア帝国に対する宣戦布告。帝王は、ジョルリア軍が出撃することを許可した」

ミカはもう一度生唾を呑んだ。

「我々は三日後の早朝に出兵する。今回は副隊長がこの戦いの軍長を務める。私はクレドゥル基地に残り、有事に備える。戦闘要員は明日の朝、寮に張り出す。以上!」

軍人は敬礼した。遂に戦争が始まる。ミカは隣に立っているアリアの横顔を盗み見た。アリアの顔からは何の心情も読み取れなかった。僕は戦闘要員に選ばれないだろう。ミカはそう思った。この戦争はいつまで続くか分からない。どれだけ過酷なものになるのかも、全員が無事で帰還できるのかも分からない。そんな戦争にきっとアリアは行くのだろう。ミカの父親は戦争で死んだ。もしかしたら、アリアとはこれで最後かもしれないと思う自分がいた。初めて、ソウルメイトを失うかもしれない気持ちに襲われた。例えようもないほどの恐怖だった。まるで、自分の一部が失くなるかのような恐怖をミカは覚えた。皆が訓練の準備のためにその場から散っても、ミカはその場から動くことができなかった。

「おい、何ぼーっとしてるんだ?」

ミカはハッとした。見ると、アリアがミカの横に立ってミカを見下ろしていた。

「あ、ご、ごめん」

アリアはミカの腰に差されている備品の剣を顎でしゃくった。

「ミカの剣、早く修理してもらわないとな。今日の夜市場に行くか?」

「え――?」

ミカは驚いてアリアを見上げた。

「三日後に出兵だろ。早く治さないと」

ミカはしばらくアリアを見つめていたが、しばらくしてゆっくりとアリアから視線を逸らした。

「その必要はないと思うよ」

「は? まさか備品の剣で行くっていうんじゃないだろうな」

「僕は戦闘要員には選ばれないからその必要はないって言ってるんだよ」

ミカはそう言うと、行こ、と言ってアリアの手首を掴み、歩き出した。不意に、激痛がミカの手首に走った。ミカは思わずアリアの手を振り払った。

「痛い! 何するんだ!」

ミカは手首をさすりながらアリアを睨んだ。アリアは唇の端を上げて笑っていた。

「何だよ!」

「今度そういうこと言ったら八つ裂きにしてやるって言っただろ」

アリアはミカにあっかんべーをして、笑いながら皆がいる方へ走って行ってしまった。ミカは思わず吹き出して、アリアの後を追いかけた。


 次の日になった。ミカは自分を呼ぶアリアの声で目が覚めた。体が激しく揺さぶられている。

「ミカ、ミカ、起きろ、早く!」

「ううん……、なにい?」

眠気眼を擦りながら目を開けると、ミカの目の前に満面の笑みを浮かべたアリアがいた。ミカはアリアを面倒くさそうに振り払うと、ゆっくりと起き上がった。寮室の扉が開いていて、廊下には軍人が忙しく行き交っていた。

「戦闘要員が張り出されてる。見てみろよ、早く!」

アリアはミカの腕を掴んで強引に立たせると、寮室からミカを押し出して、寮の玄関までミカを引っ張っていく。そこには、沢山の寝間着を着た軍人が群がっていた。大男ガンが、ひと際大きな声を出して騒いでいる。ガンはミカとアリアを見つけると、花が咲いたように笑って大きく手を振った。

「おい! ミカ! アリア! よろしくな! ビルダ軍のやろうをやっつけてやろうぜ!」

「何の話をしてるの?」

ミカは面倒くさそうにアリアを見上げた。アリアの顔は、今まで見たことがないくらい興奮で弾んでいた。アリアはミカを引きずりながら軍人たちを押しのけると、一番前に行った。大きな白い紙が張り出されていた。「対ビルダ帝国軍 戦闘要員 名簿」と書かれている。ミカは、リオの名前の下にアリア・ユレイルと書かれているのを見た。

「おめでとうアリア。頑張ってね」

アリアは自分の名前が書かれてあるところとは違うところを指さしていた。ミカは面倒くさそうにそこに視線を移した。時が止まった。

「――まさかそんな――」

囁き声にも似た声が出た。アリアが激しくミカの両肩を揺さぶって、激しく抱きついた。ミカはそこに書かれた名前から目を離すことができなかった。はっきりと、黒いインクで書かれたその名前を。

 ミカ・トルド

と。



 ビルダ帝国軍がリダルビ村を襲撃してから三日後、葉月の二十日になった。

「では、行って参ります」

リオが隊長アキドルに敬礼をして言った。万歳三唱が鳴り響いた。ミカは、次第に気持ちが高揚してくるのを感じた。山の端から、日の出の太陽の光線がこちらに向かって伸びている。リオは万歳三唱が終わると力強く後ろの軍人たちを振り返った。

「行くぞ!」

リオは馬の手綱を引っ張った。馬の前足が空を切り、駆け出した。残りの軍人もそれに続いた。馬が大地を蹴る音が響いた。ミカたちはリオの後に続いて、リダルビ村に向かって出兵した。


 リダルビ村の一つ手前の村であるアダ村に着いたのは、その日の真夜中近くだった。軍人たちはアダ村とリダルビ村の辺境の森に身を隠し、リオの指示に従って十個のテントを張った。リオはテントを張り終えると、軍人たちに集合の合図を出した。軍人たちは地面に座り、前に立つリオを見つめた。

「今から明日の出撃に向けて作戦会議を開始する」

リオの美しい声が響いた。

「ビルダ帝国軍は今、リダルビ村の役場を占拠している。我々は一から十部隊に分かれ、役場を襲撃する。第一部隊は私と共に、役場の中に入りビルダ帝国軍と実戦を交える。今から各部隊の名簿を発表する」

ミカはごくりと生唾を呑んだ。きっと僕は第十部隊だ。そうミカは思った。

「まずは第一部隊。アリア、ヘリート、エイダ、ヒューゴ……」

次々と名前が呼ばれていく。ミカは横に座っていたアリアを肘で小突いてやったなと笑った。

「ネリ、アジタ。そして、ミカ」

「え?」

思わず声が漏れた。ミカの声は思ったより大きく、周りの軍人の何人かがミカを振り返った。アリアがミカの肩を叩いた。その後も、何事もなかったかのようにリオは第二部隊から第十部隊の名簿を読み上げていく。全て読み上げ終わった後、明日の最終確認をして、各部隊のテントに解散となった。

 真夜中になった。第一部隊のテントには、約二十人の軍人たちがひしめき合って寝息を立てていた。ミカは忙しなく、何度も寝返りを打った。頭が冴えて、中々眠りにつくことができなかった。ミカは体を起こした。リオがいるはずの布団には人のいる気配がしなかった。テントの向こう側から、焚火の灯りに照らされて、黒い人影が動いているのが見えた。長い髪を一つに束ねている人影だ。ミカはそれがリオだと思った。ミカはゆっくりと立ち上がり、寝ている軍人たちの間をかき分けて第一部隊のテントを出た。

 外に出ると、小さな焚火が燃えていた。その側に、地面にあぐらをかいて座ったリオが剣研ぎをしてそこにいた。リオはテントから出てきたミカに一瞬目を向けたが、再び剣研ぎをし始めた。

「眠れないのか?」

リオが、顔を上げずにそう言った。ミカは手持ち無沙汰にリオの側に立っていたが、しばらくして勝手に口が開いた。

「副隊長……」

頼りない声がミカの口を突いて出た。リオはそんなミカの声音に思わず顔を上げ、驚いたようにミカを見つめた。ミカの目は、暗闇の中でも、今にも泣きだしそうなそれをしているのが分かった。リオは左手で自分の左側の地面をポンポンと叩いた。

「まあ座れ」

ゆっくりと、ミカはリオの隣に腰を下ろした。葉月の夜風が吹いて、リオの揺れた髪から彼の香りがミカの鼻孔をかすめた。ミカは両膝を抱いて座ると、膝に顔をうずめた。しばらくその場には、焚火が燃える音と、リオの剣研ぎの音だけが響いていた。ミカは知らず知らずのうちに、両目から涙を流していた。リオはミカの嗚咽をする声を聞いても、特別何も聞こうとはしなかった。こうしていると、昔ミカが入団したばかりの頃――まだリオが副隊長ではなかった時に、一度だけ、リオが泣いているミカを慰めてくれた時のことを思い出すのだった。

「……僕、自信がないんです」

ミカは、膝に顔をうずめながら言った。

「どうして僕が第一部隊なんですか……? 今まで一度も戦闘要員になんか選ばれたことがないのに、どうして僕なんですか……?」

「実力があるからだろう?」

リオの声音は優しかった。ミカは思わず顔を上げて叫んだ。

「実力なんかない!」

ミカの大声に、森の木に潜んでいた烏がカアカアと飛び立った。リオがシーッと唇に人差し指を当ててミカをなだめた。

「……すみません」

グスッとミカは鼻をすすった。

「――僕が、アリアのソウルメイトだからですか……?」

ミカが自虐的な声を出した。

「アリアの力を最大限引き出させるために、ソウルメイトである僕と一緒にさせたんですか?」

リオはハハッと乾いた笑い声を上げた。

「まったく、お前はいつになったら自分に自信がつくんだ」

「もし今回の僕の出兵が、本当に僕の実力のためだと思っていらっしゃるなら、隊長と副隊長は僕を過大評価していると思います」

だって、とミカは言葉を繋いだ。

「僕は、入団したときからずっと、試験でもビリから数えることの方が多かったし、今だって、何でも一番のアリアとソウルメイト同士だってことが嘘なんじゃないかと思えるくらいに僕は下手で、アリアに比べたら武術の実力も劣っているし、それに、今僕が試験で二十番以内に入れるのは、アリアが僕を指導してくれたからで、これは本当の僕の実力じゃないんです」

ミカは一気にそうまくし立てると、肩を上下させた。リオはミカの言葉を聞いているのかいないのか、剣研ぎの手を止めると焚火の光に研いだ剣をすかし、ゆっくりと左右に回しながら剣を見ていた。十分すぎるほどそうした後、リオは土の上に置いた鞘に剣をゆっくりと納めた。深く息を吐いたリオは、顔を上げると、ミカをじっと見つめた。ミカは、彫刻のように美しいその顔に見つめられるとだんだん顔が赤くなってきて、遂にリオから目を逸らした。

「――お前たちを見ていると、まるで、昔の自分を見ているような気持ちになる」

リオが静かに言った。焚火の音が、パチパチと鳴っている。

「前に、お前たちにソウルメイトの光と影の話をしただろう。私にも、同い年のソウルメイトがいたんだ」

「――いた?」

ミカが言った。リオは微かに笑った。

「私は、厳格な両親に厳しく育てられた。私の家は代々優秀な武官を輩出している家系であるにも関わらず、私はまるで武術が出来なかった。私は幼い時から何回も、ジョルリア帝国軍の入団試験に落ちては両親を失望させていた。そんな私はいつも父から叩かれていた」

ミカはそっとリオを見上げた。

「私の家の隣の館に、下働きとして働いている奴隷の家族がいた。そこには私と同い年の男の子がいた。私は父親の隙を見ては家を抜け出し、遊びに出ていた。その時に、私はその男の子と出会ったんだ。八歳の時だった。お互い意気投合して、私たちはすぐに仲良くなった。毎日家を抜け出しては彼と遊んでいた。そして時が経ち、私たちはソウルメイト同士だということを確信したんだ」

綺麗な満月が空に架かっていた。

「しかし、私の両親は奴隷を奴隷そのものとして扱い、人間として見ておらず、毛嫌いしていたから、私は彼のことを両親に隠さなければならなかった。私は武術が下手だったのとは対照的に、彼は誰に習ったわけでもないのに武術の才能に秀でていた。私は彼と出会ってから、一緒に武術をやりあう中で、武術の実力がぐんぐんと上がり始めた。そんな私の変化を、両親はとても喜んだ。きっとそれは、ソウルメイトの光の部分だったのだろうと思う。私たちは、いつか、二人一緒にジョルリア帝国の軍人になろうと約束を交わした」

葉月の風に吹かれて、森の木々がサワサワと揺れた。

「十二歳になった時、私たちは二人揃って入団試験に合格した。私たちは手を取り合って喜んだ。しかし――」

リオは言葉を切った。リオの顔が一瞬、苦しそうに歪んだ。

「ある日、二人で会っているところを、私を探しに来た父親に見つかってしまった。父親は、彼は奴隷だと知っていた。父親は、私たちを引き放そうとした。私は泣いて抵抗した。そして言ってしまったんだ。私と彼はソウルメイト同士だということを」

森の木から、何羽もの鳥が飛び立った。

「父親は大激怒した。母親は泣いた。父親は私に向かって何回も殴り、蹴とばし、悪態をついた。ジョルリア国の高貴な貴族である自分の息子が、よりにもよって奴隷とソウルメイト同士だということに耐えられなかったんだ。そして、父親は彼を剣で殺した。私は彼が殺された次の日の朝、その骸を見せられたんだ」

リオの目は、変わらず美しく透き通っていた。しばらく、沈黙が続いた。ミカは、自分のソウルメイトであるアリアが死んでしまった時のことを想像すると恐ろしく、リオに何と声を掛ければいいのか分からなかった。

「――私は、今でも、父のことを好きになれない」

リオが静かに言った。

「何が言いたかったかというと、私も、ソウルメイトに出会って武術の力が上がったんだ。お前と同じで。そして、ソウルメイトが、死んでいなくなっても、その時に得た武術の実力が落ちることはなく、今、こうして、軍の副隊長をさせてもらっている。だから、ミカ、自分に自信を持て。ソウルメイトと出会って武術の実力が上がることが、ソウルメイトの光の部分だとするならば、自分の力を正当に評価しないことで、信じないことで、本来光るはずだったはずのソウルメイトの光が弱まり、武術の実力が落ちる。それを、ソウルメイトの影の部分と呼ぶ」

リオの綺麗な両眼が、ミカをじっと見た。

「自己憐憫はやめろ。軍人としてもっと大きくなりたくないのか。なりたいだろう。そうならば、自分の力は自分で信じるんだ」

リオの瞳が微かに揺れた。

「例え、ソウルメイトがいなくなってしまったとしても」

葉月のうすら寒い風が、夜の森に吹きすさんだ。パチパチと、焚火の燃える音がする。ミカはアリアのことを思った。死んだ父のことを、実家で待っていてくれている母のことを思った。強くなりたいと思った。父が見た景色を自分も見てみたいと思った。リオのようになりたいと思った。

「はい。副隊長」

ミカが、リオの目を真っ直ぐ見て言った。リオは少し寂しそうな笑みを浮かべると、ミカの頭を力強く撫でた。ミカの顔が赤く火照るのが分かった。


 翌朝。午前四時。戦闘要員たちは軍服を着て、部隊毎に整列していた。一時間前にアダ村を出た軍人たちは、今、村民たちが人質に取られ、ビルダ帝国軍が占拠しているというリダルビ村の役場の近くの大きな川辺に身を潜めていた。リダルビ村は全く人気がなく、建つ家はことごとく破壊されていた。

「いいか、作戦の最終確認をする。第九部隊、第十部隊は役場の周りを包囲する。第六部隊から第八部隊は入口に張り込む。中の様子を伺って、一つ目の爆弾を落とす。その爆弾でビルダ帝国軍の注意を引き、二つ目の爆弾を落としたら第一部隊から第五部隊が突撃する。分かったな!」

リオが軍人たちを睨んだ。軍人たちは、はっと声を上げて返事をした。

その時、遠くから馬の蹄の音が聞こえてきた。見ると、一人の老人が乗っていた。老人は馬から降りるとリオに駆け寄って両腕を掴み、涙を流した。

「誰ですか? どうしたのです」

リオが眉間に皺を寄せて老人に迫った。老人は顔を上げた。

「あなたが、噂の副隊長様ですね……。光栄です。我々を助けて下さいっ。私はアダ村の村長です。今日の明け方、あなた方がリダルビ村に出撃したのと入れ違いで、ビルダ帝国軍の奴らがアダ村を襲撃してきました。村は酷い状態です。今は、アダ村とウィーダル村の境にある森に奴らは身を潜めています」

村長と名乗ったその老人は一息で言った。

「村人は無事ですか」

リオが聞いた。

「ええ、何とか皆裏道を使って逃げましたが、逃げ遅れた者は捕まりました」

リオは素早く後ろにいる軍人たちを振り返った。

「今からアダ村とウィーダル村の辺境の森に行く! テントを片付けて、出撃の準備をしろ!」

はっ、と、軍人たちは返事をした。

「副隊長! 作戦は!」

誰かが叫んだ。

「今考えている!」

リオは苛立ったように歯ぎしりをした。

 準備を終え、馬に乗った軍人たちがリオに向かって整列していた。

「私が思うに、ビルダ帝国軍はウィーダル村を抜けて、セレナ大聖堂を通り、裏から首都バウディアに入るつもりだと考える。普通、バウディアに行くには南のトリブ村を通り、大きな街を越えなければいけないが、ウィーダル村からバウディアに行くには山奥にあるセレナ大聖堂を抜けなければいけないからだ。そしてその行き方は、リスクはあるが早い。我々は何としてでも、ビルダ帝国軍にセレナ大聖堂を越えさせてはならない! ウィーダル村の森には裏道を使って行く。道が舗装されていない山道を通るから、滑落する者も出てくるだろうが、構わず進め! 返事!」

はっ、と軍人たちの野太い声が響く。

「今から作戦を説明する!」

リオの美しい声が、空に響いた。

 昼近くになって、ウィーダル村の森に着いた。軍人たちはビルダ帝国軍よりも、セレナ大聖堂側にテントを張った。

 夜になった。軍人たちは武器を身に着けて、出撃の準備をしていた。ビルダ帝国軍からは、ジョルリア帝国軍がこの森にいることを知られたようだ。

「副隊長! 敵が近くまで来ています!」

見張りに入っていた第十部隊の兵士が走ってきて言った。

「すぐ行く」

リオはそう言って、整列している軍人たちを睨んだ。

「位置につけ! 第一部隊から第五部隊は私の後についてこい! 第六部隊から第八部隊は弓矢で殺せるだけ殺せ!」

はっ、と、軍人たちの声。

「行くぞ!」

リオが叫んだ。ミカは腰に差した剣の柄をギュッと握った。横を見るとアリアがいた。二人は頷き合い、リオの後に続いた。

 

 朝日が森の木々の間からその光を投げかけていた。ジョルリア帝国軍のテントでは、軍人たちが死んだように眠っていた。昨夜の決戦はどちらも一歩も譲らなかった。ビルダ帝国軍は、次々と仲間がジョルリア軍によって殺されていくのを見て爆弾を仕掛けた。リオはジョルリア帝国軍に撤退を命じた。

 軍人たちは傷だらけ、血だらけだった。アリアは顔や体に幾つもの傷を負っていたが、元気だった。軍人たちはお互いの傷の手当をしながら夜を越えた。

 その次の日も、次の日も、戦いは続いた。どちらも一歩も引かなかった。ビルダ帝国軍はセレナ大聖堂の方へ行こうとしたが、ジョルリア帝国軍が何としてでもそれを阻んだ。両者とも一歩も譲らない戦いが何日も続いた。深々と雪が降る雪月を迎えても、決着がつくことはなかった。リオが敵軍の勝利を何としてでも阻もうとした。そこから数か月が過ぎ、春の息吹が感じられる芽月になると、ミカは伸びてきた髪を縛るようになった。ミカはあれ以来剣で戦うことはなく、弓矢で戦い続けた。クレドゥル基地にいた時に、アリアと特訓をしていたことと、この戦いで実戦を何回も積んだことで、ミカの弓矢の実力は大幅に上がり続けた。ミカが弓を引けば必ず敵軍に命中する。ミカは弓矢でジョルリア軍に貢献し続けた。アリアの実力も、ビルダ帝国軍から一目置かれるようになっていた。アリアは躊躇することなく、情けもかけることなく、次々とビルダ帝国軍を剣で淘汰していった。そんなミカとアリアはいつしか、ビルダ帝国軍から恐れられるようになっていた。

 そんな戦いが続いた、ある日のこと。ビルダ帝国軍から直々に、負傷者が多いため休戦をしたいという要望がジョルリア軍に届いた。休戦に入った両者は、しばらく手足を伸ばせる日々が続いた。

 

 鳥月になり、春がやってきた。まだ、ジョルリア帝国軍とビルダ帝国軍の間には休戦状態が続いていた。首都バウディアでは、帝女ルーダの二十一歳の誕生日の祝賀会が開かれていた。ジョルリア帝国の軍人たちは朝から晩まで、来たる再戦に向けて訓練を続けた。場所が違うだけで、軍人たちはクレドゥル基地にいた頃と同じ生活を続け、次第に軍人たちは気が緩みがちになっていった。しかし、リオはいつも、そんな軍人たちに気を引き締める言葉を常々言い聞かせていた。

 ある春の、暖かい夜のことだった。

 今夜の見張りの第十部隊の軍人約二十人を除いて、残りの軍人たちは皆、テントで寝息を立てていた。

 突然、地響きのような轟音が鳴り、大地が激しく揺れ、熱風が吹きすさんだ。ミカは、ハッと目を覚ました。寝ていた軍人たちも次々と目を覚まし、何事かと辺りを見回す。一番最初に飛び起きたリオは剣を持って素早く外に飛び出した。ミカは、ジョルリア帝国軍のテントのすぐ側を駆け抜けていく馬の足音を聞いた。

 リオがテントの中に戻ってきた。ミカがリオを見ると、リオの顔は蒼白だった。

「早く起きろ! 起きるんだ!」

耳もつんざけんばかりの大きな声で、リオが叫んだ。軍人たちはぞろぞろと起き出し、何事かと眠気眼でリオを見る。ミカは、何か嫌な予感がした。

「見張りの仲間が殺された。あいつらに出し抜かれた。奴らはセレナ大聖堂に向かった!」

ザワリとどよめきが走った。

「残りの部隊の奴らを起こしてくる。お前らは武器だけ持って馬に乗って待っていろ! 早くするんだ! 早く!」

リオの怒声に、第一部隊の軍人たちは転がるように準備を始めた。ミカは隣にいるアリアを見た。アリアの灰色の瞳は怒りで燃えていた。



 ミカたち第一部隊の軍人は、武器を身に着けてテントの外に出た。外は悲惨な状態だった。外に置かれた木のテーブルや椅子は粉々に破壊され、テントの周りに生えていた木々たちもその幹を倒していた。ミカは、爆弾が使われたのだと悟った。各部隊のテントの中からは、リオの大声が聞こえ、皆慌てた様子で外に転がり出てくる。第一部隊の軍人たちは馬に乗り、リオを待った。

 リオは第一部隊が待っているところに走ってやってくると、飛ぶようにして自分の馬に跨り、軍人たちを振り返った。出撃の準備が出来ているのは第一部隊だけだった。リオは軍人たちを睨んだ。

「ビルダ帝国軍の奴らにセレナ大聖堂を越えさせてはならない! 奴らより早く着くために、裏道を使って行く! 滑落の危険がある山道も通る! 滑落する者がいても振り返るな! 分かったな!」

はっ、と、軍人たちの声が響いた。リオは軍人たちの返事も待たずに手綱を引くと、馬を走り出させた。慌てて軍人たちも走り出す。リオはものすごい速さで馬を走らせた。ミカはそれに置いて行かれないようにと、必死でルーを走らせた。あまりの速さに振り落とされそうになっても、ルーにしがみついて走った。

 時は真夜中を過ぎ、午前一時を回っていた。春の夜の、生暖かい風がミカの頬を打った。まだ先にビルダ帝国軍は見えなかった。第一部隊の軍人たち約二十人は、リオを先頭にして走り続けた。

 

 日の出の眩しい光が森を照らした頃、第一部隊の軍人たちは大きな建物の前についていた。セレナ大聖堂だ。長い道のりを生き残った者たちは、十名ほどに減っていた。第一部隊の半分が命を落とした。

「奴らより早く着けただろうか……」

リオが歯ぎしりをした。生き残った軍人たちは皆、体や顔に酷い傷をつけていた。

「馬から降りろ! 武器を持って中に入るぞ!」

リオが叫んだ。軍人たちはセレナ大聖堂の脇に馬を停めて、慎重にセレナ大聖堂の中に入っていった。

 大きな銅製の扉を抜けると、とてつもなく広い礼拝堂があった。祭壇の前には大きな星型があり、天井には天使たちが描かれている。古びた木の椅子がずらりと並び、横の壁には大きなステンドグラスが幾つもあって、そこから朝陽がきらきらと幾筋もの線を投げかけている。

 リオは祭壇横の大きな銅製の扉の前に行った。その扉には鍵が掛かっていた。リオは軍人たちを振り返った。その顔には安堵の表情が浮かんでいた。

「セレナ大聖堂を越えるには礼拝堂を通ってこの扉を抜けなければならない。この扉は内側から鍵がかかっているから、まだ奴らは来ていないはずだ」

第一部隊の軍人たちはほっと胸を撫で降ろし、その場にしゃがみ込んだ。

「よし、ここでビルダ帝国軍を待と――ウッ……!」

大きな音が聞えた。突然、リオが右目を押さえて床に崩れ落ちた。ミカは目を見開いた。リオの目を押さえた手の間から、血が溢れ出している。

「副隊長!」

ミカは叫んだ。

「伏せろ!」

リオが叫んだ。次の瞬間、ミカは誰かに床に押し付けられていた。隣を見るとアリアだった。アリアの顔は緊張で強張っていた。ズドドドドンッと、大きな、大きな音が礼拝堂の中に響き渡った。何度も、何度も。突然、ミカはアリアから引き離され、誰かに後ろから首を強く締め上げられた。

 静けさが訪れた。大きな音が止んだ。ミカは恐る恐る目を開いて礼拝堂の中を見た。軍人たちが、体から血を流して死んでいた。ミカは、ヒュッと息を呑んだ。矢も剣もなかったのに、なぜ死んだ――?

 横を見ると、アリアもビルダ帝国軍に首を締め上げられている。周りを見ると、何か見たこともない武器を持った敵軍がずらりと礼拝堂の壁に並び、包囲していた。片目から血を流したリオも、敵軍に抑え付けられている。ミカの目に、じんわりと涙が浮かんだ。

 パチ、パチ、パチ、パチ。

 突然、ゆっくりとした、大きな拍手が礼拝堂の中に響いた。包囲しているビルダ帝国軍の影から、一人の長身の、ビルダ帝国軍の軍服を着た男がニヤリと笑いながら、拍手をしてゆっくりとこちらに歩いてきた。リオが、ハッと息を呑む音が聞こえた。その男は、顎まで伸びた茶髪のおかっぱを綺麗に切り揃え、左目に義眼を、右手に義手を付けていた。肌は驚くほど白く、細身で、不敵に笑った顔には皺が切り刻まれている。右目は、アリアと同じ灰色の目を持っていた。

「アンドレア・オベールッ!」

突然、アリアが叫んだ。ミカはアリアを見た。アリアの顔は憎しみの色をたたえ、その灰色の目は激しく男を睨んでいた。アンドレアと呼ばれた男は、つまらなそうに声のした方を振り返った。

「ああ」

男の口から、妙に高い声が漏れた。ミカはぞくぞくと背筋が凍るのを感じた。男はアリアを見て、ゆっくりと笑った。

「本当にジョルリア帝国の軍人になったか。アリ・ユレイルの息子よ」

ゆっくりと、愉しむように男は言った。

 それは、アリアの父――アリを殺した、ビルダ帝国軍の隊長――アンドレア・オベールだった。



「本当にジョルリア帝国の軍人になったか。アリ・ユレイルの息子よ」

アンドレアは、恐ろしく冷酷な目で、ビルダ帝国軍に押さえつけられているアリアを見下ろした。アンドレアは、つかつかとアリアの元にゆっくりと歩いていくと、しゃがみ込み、アリアの顎を持って顔を上に上げた。

「恐ろしいほどに父親に瓜二つだなあ?」

アンドレアは、義手でアリアの額にかかった髪の毛を払うようにして撫でる。

「父親もさぞお喜びだろう。息子が自分と同じようにこの俺の手にかかって死ぬなんてな」

アンドレアの口から出る、非人間的な高い声から感じた狂気さは、ミカに鳥肌を立たせた。

「殺してやるっ……! 父の仇だ!」

アリアが声を絞り出す。アンドレアは顔を上に上げて高らかに笑った。

「そうかそうか、いい意気込みだぞアリア・ユレイル。ん?」

アンドレアは、ねっとりとした眼差しでアリアの顔を眺め回す。

「お前は後でゆっくり味わってやる」

アンドレアは拳でアリアの顔を殴ると、立ち上がった。アリアは横に倒れ、鼻から血が流れた。

「おやおや?」

アンドレアはミカの前に来るとその顔をまじまじと見つめた。

「お前はトルドか?」

「そうだ」

ミカはアンドレアを下から睨んだ。

「お前の父親も知っている。あいつは少し骨があるように見えたが……」

アンドレアは挑発的に困った顔をしてみせた。

「死んじまったな? あっけなく」

ミカは顔に血が上るのを感じた。

「悲しいな。父親より長く生きられないとはな。お前も今日ここで死ぬのだ」

アンドレアは鼻で笑った。

 アンドレアは、踵を返してゆっくりと歩いていく。その先には、右目から血を流したリオがうずくまっていた。アンドレアはそんなリオの首を掴んで体を持ち上げると、壁の方へ引きずっていき、ステンドグラスにリオの体を押し付けた。アンドレアの手が、情け容赦なくリオの白い首に食い込む。

「このっ、青二才め」

アンドレアはヒステリックに笑った。

「まだ小僧のくせに副隊長とは生意気な。アキドルはお前にさぞがっかりされるだろうなあ? お前が先導するジョルリア軍の惨敗に終わったと知ったら。お前も変なところで骨が太いから困る。何回もお前を殺そうとしてきたが、お前はいつもするりと逃げおおせてきた。だが、遂に今日でそれも終わりだな。やっとジョルリアの有能を殺せるわ」

ミカは突然嫌な予感がした。アンドレアは腰に下げた剣を抜いた。とても長い刃だった。

「死ねっ」

一瞬だった。リオの腹部に剣が貫通した。リオはうめき声を上げると、へなへなとその場に崩れ落ちた。

ミカの口から叫び声が出た。喉が枯れた。両目から涙が溢れた。終わった。そう思った。もうジョルリア軍に勝ち目はない。ミカとアリア以外のジョルリア軍はもう動かなくなったのだ。

 リオの腹部からは、ドクドクと鮮血が流れていた。リオは、小刻みに痙攣している。アンドレアはそんなリオを見て笑うと、リオの腹部から剣を抜いた。

「さて、と。この小僧どもをどうしようかなあ」

その時だった。リオが後ろから手を伸ばして、アンドレアの腰に差してある見たこともない武器を掴み取ると、それをミカとアリアに向けた。ズドンッ、ズドンッと、二回大きな音がした。その瞬間、ミカを取り押さえていた力がなくなり、敵軍は地面に倒れた。ミカは後ろを振り返った。ミカを押さえていたはずの敵軍は胸から血を流して痙攣していた。

「ミカ!」

突然、アリアの叫び声が聞こえた。

「これを取れ!」

見ると、アリアの手には倒れた敵軍が持っていた見たこともない武器が握られていた。ミカは震える手で、目の前に倒れている敵軍の手からその武器を奪い取った。

「やれるものならやってみろ! 楽しませてやるわ!」

アンドレアが甲高い笑い声を上げ、ズドンッ、ズドンッとその武器を二人に向けた。ミカとアリアは転がるようにして、古びた木の椅子の影に隠れた。

「どうしようっ、僕たち、勝ち目がないよっ」

ミカは震える体をどうにかこうにか押さえつけながら、必死に息を整える。その間にも、ズドンッズドンッと攻撃の音が礼拝堂の中に響く。

「これ、一体何かも分からないしっ」

「これは、多分銃だ」

アリアが囁いた。

「ジュウ?」

アリアがミカを見た。

「中に弾が入ってて、この引き金を引けば弾がこの穴から出てくる仕組みだ。打たれたら負傷する。心臓や致命傷を負えば死ぬ。剣や弓では到底敵わない」

「そんなっ。見たことも触ったこともないのに、どうやって戦えっていうんだよ!」

ミカの目に涙が滲んだ。

「運に頼るしかない! 残りのジョルリア軍が来るまで持ちこたえるぞ!」

「そんな!」

「とりあえず、この長椅子を盾にして進むんだっ。二手に分かれるぞ。その方が相手の攻撃を分散できる。死ぬなよ、ミカ」

アリアはそう言うと、四つん這いになりながら奥へ移動していく。ミカも同じように、アリアとは反対方向に移動した。しかし、もうミカとアリアの周りには敵軍が包囲して、何発も銃弾を撃ち込んでくる。ミカは床に腹ばいになってその弾を避けることしかできない。腕を上げて銃を構えるも、恐怖で震えて狙いが定まらない。何発か打つが、ステンドグラスに命中して窓が割れた。

「ユレイル! トルド! お前らの力を見せてみろ!」

甲高い声でアンドレアが笑う。鳴りやまない銃声に、ミカは涙が頬を伝うのが分かった。アリアのうめき声が聞こえる。ミカは泣きながら舌打ちをして、震える腕をもう一方の手で何とか抑えつけながら、敵軍の肺に狙いを定める。引き金を引く。弾は命中した。もう一発。肺を打って動きを止めたら、今度は心臓を狙って確実に死なせる。引き金を引いた。命中。一人が倒れた。次は隣の敵。命中。心臓も命中。隣。命中。

 ミカは引き金を引き続けた。弓矢で鍛えられたミカの命中率は恐ろしいほど高く、次々と敵を倒していく。しかし、弾が切れた。ミカは舌打ちをして、銃を投げ捨てる。背中に背負っていた弓矢を取ろうとした時、ミカの右肩に激痛が走った。敵軍の弾が命中したのだ。ミカはその場にうつ伏せに倒れ、今まで感じたことのない痛みに悶えた。すると、何人もの足音が聞こえ、息つく暇もなくミカは敵軍に取り押さえられる。

「隊長! トルドを押さえました! どうしますか!」

誰かが叫んだ。

「トルドは用なしだ。殺せ」

次の瞬間、ミカの心臓に銃口が押し付けられる。今にもその動きを止められそうになっているミカの心臓は、抗うようにバクバクと胸板を激しく打った。手足を取り押さえられ、身動きが取れない。敵軍が引き金を引く。その時だった。

ズドンッ

 心臓に向けられていた銃が床に落ちた。そのまま、その敵軍が後ろに倒れる。ズドンッ、ズドンと何発も銃声が聞こえ、一人、また一人と倒れていく。ミカは体を捩って敵軍から逃れると、走り出した。ミカの顔の真横を銃弾が通り、星型の像を打ち砕く。ミカは祭壇前に仁王立ちに立っているアンドレアに向かって走った。背中から弓矢を取り、走りながらアンドレアに矢を放つ。しかし、アンドレアは笑いながら、剣でミカの矢を弾き飛ばす。ミカの左の太腿に激痛が走った。敵軍の弾が命中したのだ。ミカはそれでも走り続けた。ミカはアリアを振り返った。アリアも銃弾が切れたのだろう、剣で一騎打ちをしている。残りの敵軍はざっと二十人。十人は倒れた。ミカは走りながら弓を構え、アリアの近くにいる敵軍から矢を放っていく。一人、また一人と倒れる。ミカの腕はきりきりと痛んだ。指ももう限界だ。打たれた右肩が、矢を放つたびに痛む。太腿からも血が出ている。ミカの腹部に激痛が走った。撃たれたと分かった。それでもミカは矢を放つのをやめなかった。矢を放ちながら前のめりに倒れた。倒れる寸前、視界の端で、アリアの体に何発も弾が命中し、床に崩れ落ちるアリアが見えた。

 衝撃が走った。頭が割れるように痛んだ。

「ここまでだな小僧」

アンドレアが上からミカを見下ろしていた。アンドレアの頑丈な革製の靴が、ミカの頭を踏みつけている。ミカは、だんだんと意識が朦朧としてくるのを感じた。

「先にお前のお友達を殺してやる。楽しいぞ。四肢を剥ぎ取られ、それでもまだ死ぬことができない苦しみにうめく声を聞くのは。死にたくないと願う人を殺すのは楽しい。さあ、ユレイルをどんな風に遊んでやろうか」

「……やめろ……やめろ……」

ミカは泣いた。かすれゆく意識の中で、今までの人生が早回しの紙芝居を見ているかのように脳裏によぎっていく。これが走馬灯なのだとミカは思った。戦争で死んだ父の顔が浮かんだ時、ミカは祈らずにはいられなかった。

「助けて……お父さん……」

ミカの世界は、そこで終わった。



「お母さん! お母さん! お父さんから手紙が来たよ!」

ミカが八歳になって迎えた初めての鳥月。春の暖かい風が吹き、野の花が咲き乱れる季節に、戦地に行った父から手紙が届いた。幾つもの検印が押されている長方形の手紙をひらひらさせながら、ミカは顔をほころばせて家の中に駆け戻った。

「どうしたんだい。そんなに興奮して」

台所で昼食の準備をしていた母が言う。ミカは母の元に駆けよると、背を思いっきり伸ばして手紙をひらひらさせた。

「お父さんからの手紙だよ!」

珍しいねえ、と言って、母はミカの手から手紙を抜き取った。母は丁寧に封を開け、中から紙を取り出して目を走らせると、ミカに一枚の紙を差し出した。

「何て書いてあるの? ねえ何て?」

「元気にやってるって。ほら、これ、ミカへの手紙が入ってるよ」

「ええ! 僕に?」

初めてだよ、と言って、ミカは恭しく紙を受け取った。

 ミカはテーブルの椅子に座ると、手紙を読み始めた。少し斜めった、特徴的な父の字がそこに並んでいた。

「ミカへ

元気に過ごしていますか? お父さんは元気です。学校にはちゃんと行っていますか? お友達とは仲良くしていますか? お母さんのお手伝いはしていますか? 長い間ミカに会っていないから、きっと背も伸びて、たくましくなっているだろう。ミカのことを思わない日はありません。毎日、ミカとお母さんのことを考えながら戦っているよ。

 ミカ、お父さんはミカのことを心から大切に思っていることを忘れないでおくれ。どんなことがあっても、ミカはこの世で一番大切だし、お父さんの宝物だということを。お父さんが目の前にいなくても、お父さんはいつもミカのことを思っている。ミカの心の中にいるんだよ。

 ミカは、お父さんのようになりたいといつも言っているね。そのためには毎日武術の練習をすること。努力を怠らないこと。人に優しく接し、与えられていることには感謝すること。お父さんは、まだ沢山、ミカに教えたいことがあるんだよ。ミカの成長を、すぐ隣で見ていたいんだよ。でも、ミカには、お父さんはいつもミカの味方で、一番の応援者だということを知っていてもらえれば十分だ。それ以外の、武術の技術とか、練習の仕方は、きっとこれから出会う色んな人に教えてもらえるだろう。

 ミカ、心から愛しているよ。例えお父さんがいなくても、分かってくれるね。目には見えなくても、お父さんとミカは心で繋がっているということを、忘れないでいてくれるね。

 人に見られて恥じない人間になりなさい。優しさを与え、優しさを返されるような人間になりなさい。そして、幸せに生きなさい。お父さんがいなくても、たくましく生きていくんだよ。

 大好きなミカへ。お父さんをミカのお父さんにしてくれてありがとう。

追伸

 最近、手榴弾というものが戦争に使われることがある。今の戦いの主流は剣や弓矢、槍だが、爆弾も主流になりつつある。手榴弾というものは、安全ピンを抜いて投げると四、五秒後に爆発するんだ。将来、ミカが戦争に行くことがあれば、この知識はきっと役に立つだろう。窮地の時、これを一個でも持っていれば役に立つ。敵に囲まれて追いやられたときや、武術ではどうにも勝ち目がない時に使いなさい。投げたらとにかくその場から逃げればいいだけだ。この知識が将来のミカを助けることを強く願っている」



 ミカは目を覚ました。次の瞬間、頭、右肩、腹部など、体の節々が痛いことに気づく。そして、数秒の間、自分が意識を失っていたことを知った。目を必死で動かして、その場の状況を理解しようとした。自分はアンドレアに頭を押さえつけられている。アリアは銃弾に倒れている。敵軍はアンドレア以外負傷して動けそうもない。ということは、今正常に意識があるのは僕とアンドレアだけだ。その時、ミカの目の前に倒れている敵軍のポケットから、何か掌サイズの黒い物体が出ていることに気が付いた。

――手榴弾――

 ミカは直観的にそう確信した。手榴弾というものを今まで見たことも、教えてもらったこともなく、父からもらった手紙の内容が蘇るまでその存在すら忘れていた。しかし、これは確かに手榴弾だとミカは思った。ミカは、震える手で、必死に腕を伸ばした。

 あと五センチ、三センチ、一センチ――。

「おい! 何してるんだ?」

アンドレアの声が響いた。ミカの手が手榴弾に触れた。その時、地面が揺れた。物凄い揺れだ。地震が起きたのだ。その揺れで、アンドレアの体がぐらつき、ミカの頭からアンドレアの足が離れた。その一瞬の隙をついて、ミカは体を起こし、アンドレアを床に押し倒す。その衝撃で、アンドレアの手から銃が転がり落ちた。

「小僧に一体何ができると言うんだ?」

ニヤリと、意地の悪い笑みを浮かべ、アンドレアは言う。ミカは手榴弾をアンドレアの目の前にかざした。アンドレアの目に、一瞬、初めてたじろぎの色が浮かんだ。

 ミカは安全ピンを抜き、アンドレアに抱きついて、アンドレアの胸と自分の胸の間に安全ピンを抜いた手榴弾を挟みこんだ。

「アリアの仇を! 今打ってやる!」

次の瞬間。手榴弾が爆発した。



「アリアの仇を! 今打ってやる!」

「ミ……ミカッ……!」

突然、誰かが、後ろからミカの体をアンドレアから引き剝がした。ミカは誰かにぐんぐんと後ろに引っ張られていく。朦朧とする意識の中で、ミカは手榴弾が爆発する直前、アンドレアが壁に向かってそれを投げたのを見た。大きな音と振動を立てて爆発した手榴弾は、ステンドグラスを吹き飛ばし、頑丈な壁を吹き飛ばし、大聖堂の屋根を吹き飛ばし、祭壇を吹き飛ばした。ミカは目の端で、アンドレアが、爆破してなくなった大聖堂の壁の向こう側、海に続く崖の下へと、身を投げて消えたのを見た。

「逃げるなっ! 臆病者ーっ!」

ミカはかすれゆく視界の中でそう叫ぶと、力尽きたように床に仰向けに倒れた。どさりと、ミカの隣で誰かが倒れる音がする。見ると、アリアだった。ミカを手榴弾から爆発する直前に引き離したのもアリアだった。アリアは全身を銃で撃たれながらも、最後にミカを生き延びさせたのだ。

 ミカとアリアは二人、大聖堂の床で、大の字になって横たわった。銃で撃たれた身体はこの上ないほど痛み、頭はガンガンと鳴って、疲労困憊。もう一ミリたりとも動けそうにない。

 ミカは、吹き飛ばされた天井から見える、驚くほど青く澄み渡る雲一つない空を見ていた。まるでこの大聖堂で、今さっきまで戦いがあったことを知らないかのように空は美しかった。爽やかな風が、空から大聖堂の中に吹いてくる。それはミカの血で滲んだ髪の毛を揺らした。

 突然、大聖堂の入り口で騒がしい音がした。大勢の足音の振動が大聖堂の床を伝ってミカの体に響いてくる。ミカは、それが敵軍だとしてももう動けなかった。アリアも同じだった。死ぬ覚悟はできていた。早くこの痛みから解放されたいとまでも願った。

「残りのビルダ帝国軍は全滅させました!」

大男ガンの、大きな声が聞こえた。

「そんな……! 副隊長! 副隊長!」

聞きなれたジョルリア帝国の軍人たちの、焦った声が響いた。大聖堂の中で、ジョルリア軍、ビルダ軍の軍人たちが全員倒れている光景を見て、驚いたのだろう。

 その時、大空に、大きな鳥が悠々と羽を伸ばしながら駆けていった。ミカは、震える手を空に伸ばした。今なら、あの大きな空に手が届くと思った。ミカの両目から涙が流れ落ちた。

「終わったんだ……。僕たちが勝ったんだ……」

かすれゆく視界の中で、ミカはそう言った。

「生存者がいるぞ!」

誰かがミカの体を抱き起したのを感じた直後、ミカの意識はそこで途絶えた。


 何か月にも及ぶ、対ビルダ帝国との戦いに、ジョルリア帝国は勝利した。第一部隊の生存者は、リオとミカとアリアの三人だけだった。リオは銃弾で右目を失ったが、一命を取り留めた。三人は後からやってきた残りの軍人たちによってすぐに介抱を受けた。味方を全員失ったアンドレアは、海に身を投げて逃亡した。ビルダ帝国軍に人質に囚われていた村人の女性と子供は、残りのジョルリア軍によって解放された。女性たちは、夫や家族を失った悲しみに明け暮れた。幸い、女性や子供たちの体に何の被害もなかったことがせめてもの救いだった。終戦から数日が経ち、体を起こせるようになるまでに回復したリオは、すぐにクレドゥル基地にいる隊長アキドルに向けて勝利の報告書を書いて軍人に届けさせた。そのことでジョルリア軍の勝利の報せが瞬く間に大陸中に広まった。帝王ヨアは、ジョルリア帝国を脅かしたとして、襲撃してきたビルダ帝国に多額の賠償金を請求した。そして、再び正当な理由なく戦争を起こすことを禁じ、ビルダ帝国の軍事力を弱めるために三分の二の軍人を解雇することを約束させた。この戦争で、ジョルリア帝国軍は、第十部隊二十人と、第一部隊十七人、第二部隊から第九部隊の十数人を失った。生き残った軍人たちは、帰還する前に亡くなった軍人の骸を集めた。そして戦死の手続きを済ませ、帰還する時に彼らの骸も一緒に首都バウディアへ運んだ。帰還すると、ジョルリア軍人たちは民から盛大な祝福を受けて迎えられた。軍長のリオは、ジョルリア軍を勝利に導いた感謝のしるしとして、英雄の称号を与えられた。生き残った軍人たちは皆、金を帝王から与えられた。カリス帝城内で盛大な帰還式が執り行われ、勝戦の宴が催された。お祝い気運が終わった後、軍人たちは喪に服し、戦死した軍人たちの冥福を祈った。

 ジョルリア帝国に平和が訪れたと、誰もがそう信じて疑わなかった。



 今年も、聖カリダ帝国との勝戦記念日の祭りが大規模に過ぎていった。ミカとアリアが出会ってから、一年が過ぎた。

空気を切り裂く音がして、ミカの放った矢は的の中心を射抜いた。合格を意味する白い旗がアキドルによって挙げられる。幾つも並んだ的の中心に、ミカの放つ矢が次々と命中しては白い旗が挙がる。その度に、周りで見ていた軍人たちから歓声が上がった。

「お疲れ」

訓練後、アリアはミカの肩を叩いた。ミカは、肩まで伸ばした、汗でしっとりと濡れた黒髪を縛り直しながらアリアに笑いかける。その顔には、対ビルダ帝国との戦でついた傷が刻まれていた。二人は、弓矢の試験を同率一位で終えたばかりだった。

 ミカはふと訓練場の柵の向こう側を見た。そこには、数人の若い女官たちがこちらを見ていた。

「また来てるよ。アリア」

ミカはアリアに向かって意味あり気に笑みを浮かべる。アリアが女官たちの方を向くと、きゃあと黄色い声が上がった。

「ふ、悪い気はしないな。ミカも手を振ってみろよ。お目当てがミカの子がいるはずだぞ」

ミカは弓を持っていない方の手を上げた。途端に、再びきゃあと歓声が沸く。ミカは顔が真っ赤になるのを感じた。

「何赤くなってんだよ」

アリアがニマニマしながらミカを小突いた。

「お、おかしいよっ。何で戦争が終わったらこんなことに……」

「そりゃ、僕たちは戦争で手柄を上げたからね」

突然、背後に気配を感じた。そのただならぬ気配に恐る恐る後ろを振り返ると、戦争で失った右目に眼帯をしたリオが、腕を組んで二人を見下ろしていた。

「ふ、副隊長……」

ミカの口から、弱弱しい声が出た。

「お疲れ様です」

アリアは、何事もなかったかのように立ち上がると、敬礼をしてそう言った。リオが、ジロリとアリアを睨む。

「お疲れ様です、じゃない。女官たちに気に入られているからと言って、色めき立つんじゃない。立て、ミカ」

ミカは慌てて立ち上がった。

「すみません……」

「自分たちが戦争で手柄を立てたなんて、冗談だろうな?」

リオがすごんだ。

「はい、冗談です。副隊長」

アリアがきっぱりと言った。

「浮かれるなよ。お前たちが生き残ったのは戦って死んだ味方の犠牲があったからだということを忘れるな。今まで通り訓練に精進するように」

はいっと二人は言った。突然、突風が吹いて、リオの分けた長い前髪が乱れた。リオが払うように前髪をかき上げると、きゃあという歓声が上がった。振り返ると、女官たちがリオを見て色めき立っていた。ミカは恐る恐るリオを振り返った。リオはものすごい形相で女官たちを睨みつけると、踵を返し、大股で二人から去っていった。

 ミカは、女官たちの方を見ているアリアの腕を掴むと食堂の方へぐんぐんと引っ張っていった。


「ドルティンさん、どうしたんですか?」

ある日の朝、寮室の窓から外をじっと見ているドルティンに、ミカは声を掛けた。

「ああ、ミカ」

ドルティンはミカを振り返ると窓の方を見るよう促した。

「帝女様のジュレアの準備が進められてる」

「え?」

ミカは聞いた。窓の外を見ると、女官たちが立派な木の箱を持って帝城の方へと歩いていくのが見えた。

「帝女様のジュレアが行われるんですか?」

「ミカさん知らないの?」

高い声がして振り向くと、洗顔を終えたばかりのアシャがいた。

「その話で持ち切りでしたよ。丁度ビルダ帝国との戦争が終わった辺りから」

「僕、知らなかった」

ミカの顔が曇った。バルコニーで物憂げな表情をしているルーダの姿が脳裏に蘇り、心臓が締め付けられるような感覚に襲われる。

「ジュレアって何だ?」

軍服に着替えていたアリアが口を挟んだ。

「ジュレアは、帝女や帝子の夫や妻を決める行事のことを言う。帝女の夫は帝配と呼ばれて、帝配の候補となっている国の貴族たちに招待状が配られる。何か月もかけて、青年たちの学や教養、武術や政治、性格などを見られて、最終的な決定が下されるんだ」

ドルティンが言った。

「へえ」

アリアは興味なさそうに剣研ぎを始める。ミカはアリアの隣に座った。

「とうとう帝女様も婚姻なさるんですね」

ミカが寂しそうに言った。

「僕、楽しみだなあ。ジュレアなんて、初めて見るもの。皆さんもそうでしょ?」

アシャが目を輝かせながら三人を見つめた。

「そうだな。ジュレアなんて帝王様の時以来だし。ジュレア期間中は帝城がいつも以上に華やかになるしな。宴も沢山開かれるみたいだし。でも、俺たちは外からしか見れないぞ、アシャ」

ドルティンがアシャに言い聞かせる。

「ええ、でも、宴に呼ばれるかもしれないでしょ? 武芸のお披露目とかで」

「そんなものに出られるのは優秀な軍人だけだぞ。お前はまだまだだから手も届かない」

「そんなあ」

ドルティンは落ち込むアシャの頭をポンポンと叩くと、さあ、遅刻しないように準備しろ、と言って、寮室を出て行ってしまった。


 ミカは飛び起きた。

 全身が汗でぐっしょりと濡れている。

 息が上がり、心臓がバクバクと脈打っている。

 全身が震えた。

 何か恐ろしい気持ちがした。

 自分が命を狙われているような、そんな恐怖がした。

 真夜中だった。

 ミカは胃から何かが這い上がってくる感覚を覚え、慌てて寮室を出た。

 トイレに駆け込むと、嘔吐した。

 後ろから、同じように走ってくる音が聞こえた。

 振り返ると、アリアだった。

 アリアも顔を真っ青にして、トイレの前で四つん這いになると嘔吐した。

「ア……アリア……」

ミカは壁にもたれかかり、口元を腕で拭った。

「びっくりした。ミカに何かあったかと思った。それぐらい恐ろしい気持ちがした」

アリアは顔を上げるとそう吐き出した。

 二人はしばらく、そのまま放心していた。

「でも、どうしたんだろう……。二人揃って、こんな……」

ミカが沈黙を破った。ミカの胸に湧き上がっていた何か恐ろしい感じは、時間が経つにつれて、次第に収まっていった。

「分からない……。でも、僕が昔逃亡生活をしていた時の感覚に似てる。命を狙われる、恐怖心というか……。もしかしたら、戦争のトラウマかもな」

「でも、おかしいと思わない……? 二人おんなじタイミングでこうなるなんて……。僕たちが同じ感覚に襲われたのは、僕たちがソウルメイト同士だって分かった時だけだ」

「じゃあ、誰か今近くに、僕かミカを狙ってた奴がいたってことか?」

ミカは首を振った。

「……分からないよ……」

再び、沈黙が訪れた。聞こえるのは、開いたトイレの扉の外から聞こえてくる時計の秒針の音だけだった。

「とりあえず、ここを出よう」

アリアが立ち上がった。慌ててミカも立ち上がる。

 二人がトイレを出て、暗い廊下を歩いていると、突然、ドタバタと誰かが走ってくる音がして、二人は足を止めた。

「こんな時間に、誰だろう――?」

階段から、誰か数人が駆け降りてくる。ミカは目を凝らし、顔を見た。そして、慌てて敬礼する。それは、寝間着に正装のジャケットを羽織った隊長アキドルと、副隊長リオだった。そして、その二人の前には近衛部隊の制服を着た男性が蠟燭を持って走っていた。

「帝女様の容態は――?」

そんな言葉が聞こえた。三人はミカとアリアに気づく様子などなく、階段を下って寮の玄関の方へと消えた。

「帝女様の容態? 一体、何のことを言ってるの?」

ミカがアリアを振り返る。アリアは引きつった顔で、じっとミカを見た。

「――分からない。ただ、何か嫌な予感がする」

そんなアリアの予感は、近い内に明らかとなるのだった。


「殺人未遂っ!?」

朝食を食べに集まった食堂で、ミカとアリアは立ち上がって声を上げた。軍人たちが一斉に二人を見上げる。

「ミカ、アリア、座れ」

アキドルが二人を睨む。二人はアキドルから目を離すことなく座った。

「もう一度言う。昨夜、真夜中過ぎに、帝女様の御自らの護衛が、帝女様に殺人未遂を犯した」

ミカの心臓は激しく胸板を打ち付けていた。

「結論から言う。帝女様はご無事だ」

その瞬間、ミカははあと息を吐いて、机の上に倒れ込んだ。

「護衛は帝城の牢獄に入れられ、大逆罪で打ち首の刑に処される。丁度一年前の花月に、帝女様への殺害予告が出された。それから、ビルダ帝国のジョルリア帝国への侵略。そして今回の殺人未遂。これらは全て偶然ではない。今、帝女様のお命が狙われていることが明白となったのだ。ジョルリア帝国の王位第一継承者である帝女様のお命が狙われるということは、ジョルリアの国が狙われるということ。胆に銘じておけ!」

はっ、と、軍人たちの勇ましい声が響いた。

「今日は丸一日、私とリオは帝城での緊急会議に出席する。朝食を食べ終わったら、対ビルダ帝国との戦争に行った者はカリス帝城の護衛に、そうでないものはバウディアの護衛に当たるように。帝城の中の護衛は全て近衛部隊が担当する。決して帝城の中には入らないように。以上!」

軍人たちは起立敬礼した。アキドルはリオを従えて、足早に食堂を出ていった。

 ミカは、アリアを見た。アリアの灰色の眼球の中に、ミカの恐怖に染まった顔が映し出されていた。


 カリス帝城の牢獄では、男の断末魔が響き渡っていた。ルーダの護衛ジャン・ベルナールは、拷問の手が休まると、顔から汗を垂れ流し、肩で大きく呼吸をした。

「ベルナール。なぜお前は帝女様を殺そうとした」

ジャンは汗で顔に張り付いた髪を振り払うこともせずに、近衛隊員を睨め上げた。その顔には、皺が切りこまれ、髪には白髪が数本生えている。頑丈な体には筋肉がつき、体には幾筋もの傷跡が残っていた。黒い両眼はギラギラと光り、もう数時間も拷問を受け続けているというのに生気の色は消えなかった。

「殺すなら殺せ……。私は復讐をしようとしただけだ……。私の後ろには西部軍がついている……。お前たちなどには敵わぬ相手がいるのだ……」

ジャンの声は掠れていた。近衛隊員はジャンの返答を聞くと、仲間内で相槌をし合った。再び、ジャンの断末魔が牢獄中に響き渡った。


「私は辞退します」

政議の間で、リオの凛とした声が響いた。円い机を囲うように、

帝王ヨア、大臣たち、近衛部隊と帝国軍のアキドル、リオが座り、ルーダの殺人未遂の事件について緊急会議が開かれていた。

 リオの発言に、その場がザワリとした。リオは、今、次のルーダの護衛の推薦を辞退すると言い放った。

「何故だ」

帝王ヨアが詰問する。リオは透き通った瞳で、ヨアをじっと見つめた。

「私は、先の対ビルダ帝国の戦いで右目を失いました。体の一つの機能がない状態で、護衛を務めることはできません。片目がないということは、それだけ視野も狭まるということ。視力は武術をする上で最も重要な機能です。それが欠けているということは、有事の際にルーダ様をお護りすることを約束できないことになるからです」

「では、誰がルーダの護衛を務めるというのだ。アキドルは帝国軍の隊長だ。アキドルは務められない。そなたしかいないのだぞ」

リオは目を伏せた。

「私から、次の帝女様の護衛に推薦したい人物がおります」

「言ってみよ」

リオは顔を上げて、ヨアを見た。

「アリア・ユレイルと、ミカ・トルドです」

ヨアの瞳が微かに揺れた。

「彼らは先の戦争を勝利に導いた者です。大聖堂で、ビルダ帝国軍が銃を使って攻撃してきた時、私と、この二人以外のジョルリア軍は死にました。私はその時に右目を撃たれ、動くことができませんでした。ユレイルとトルドはその状況で、剣と弓矢、そして初めて使う銃で、何十人もいる敵軍を二人だけで相手取り、敵をほぼ倒しました。そしてビルダ帝国の隊長アンドレアを逃亡させるまでに追いやりました。この二人がいなければ、私たちジョルリア軍は勝利することはできませんでした」

「しかし、その二人はまだ帝女様と同じ年齢だと聞くが?」

近衛部隊が言った。リオは近衛部隊をじっと見据えた。

「左様。しかし、この二人はジョルリア軍のトップワンとツーです。そして、彼らはソウルメイト同士です。二人が一つになれば、誰も敵いません。彼らの実力は本物です。年齢など関係ありませんよ」

近衛部隊は唸った。

「帝王、私もリオに同感です」

これまでずっと黙っていたアキドルが口を開いた。

「しかし、二人には問題点が一つずつあります」

帝王が身を乗り出した。

「言ってみよ」

「ミカ・トルドは、剣で人を殺すことが出来ません。護衛たる者、王族に危害を加えたものを殺さなければならない場面があります。しかし、弓矢ではできても、直接相手の感触を感じる剣になるとできなくなります」

そして、とアキドルは続ける。

「アリア・ユレイルは、西部軍から追い出された経歴があります。帝女様の護衛のベルナールは、自分の後ろには西部軍がついていると自白しました。そして、アリア・ユレイルは東部ビルダ帝国の生まれです。その点から考えると、西部軍に属しており、東部とも繋がりのあるユレイルを王族の一番近くにいる護衛にするのは危険を孕みます。ユレイルを護衛にするなら、ユレイルの素性を調べ上げなければいけません」

帝王は、じっとアキドルを見つめていた。どこか、物思いや感慨にふけっているような顔でもあった。または、遠い昔の思い出を思い出しているようでもあった。


 その日の夜遅く、ミカたちの寮室の扉が乱暴に叩かれた。

「こんな時間に誰だ?」

寝る準備をしていたドルティンが、足早に歩いて扉を開けた。ミカは開けられた扉の向こうを見て、息を呑んだ。そこには、近衛部隊の制服を着た隊員三人が、武器を持ってそこに立っているのが見えた。嫌な予感がした。ミカは咄嗟にアリアの腕を掴んだ。

 近衛部隊はドルティンを押しのけ、ずかずかと寮室に入ってくると、ベッドの上に座っていたアリアを見て止まった。

「王令だ。アリア・ユレイルを捕まえろ」

近衛部隊の声が寮室に響き渡った。



 カリス帝城の中にある、近衛部隊の取調室で、椅子に手首を固定されたアリアが座っていた。机を挟んだ向かいには近衛部隊の隊長が座り、アリアの後ろには武器を持った近衛部隊が左右に二人立っていた。

「単刀直入に聞く。お前はジョルリア軍に入る前、西部軍から追い出されたと聞いたが、それは真か?」

「はい」

アリアがはっきりと言った。

「なぜ追い出されたのか、理由は何だ?」

アリアは鼻の先をじっと見た。

「……分かりません」

しばらくして、アリアが言った。

「分からない、だと?」

近衛部隊長の声が熱を帯びた。アリアは隊長をはっきりと見た。

「理由を告げられずに追い出されました」

「本当のことを言え! さもなくば拷問をするぞ!」

近衛部隊長が声を荒げた。アリアの鋭い瞳が細くなった。

「本当だ!」

アリアは応戦した。

「何を怪しんでいるのかは知らないが、西部軍に聞いてみるといい。そうしたら嫌でも理由が分かるだろう! 僕は何も知らないんだ!」

アリアはじっと、隊長を睨めつけた。

 隊長はキッとアリアを睨んでいたが、突然、音を立てて立ち上がった。

「ジャン・ベルナールをここへ連れて来い! 今すぐにだ!」

隊長の怒鳴り声が響いた。


 しばらくして、ジャン・ベルナールが取調室に入ってきた。両手は後ろで縛られ、髪は汗でべっとりと張り付き、罪人の姿になった白い肌着には、拷問で付けられた血と汗で汚れていた。アリアはベルナールを一目見て、それが以前ミカとカリス帝城の下に行って見た、ルーダの護衛だということが分かった。

 ベルナールは護衛によって床に座らせられた。隊長は立ったまま腕組をし、ベルナールを上から見下ろした。

「こいつの名前はアリア・ユレイル。西部軍の軍人だったが追い出された。お前、自分の後ろには西部がついていると言っていたが、何かこのことについて知っているか」

ベルナールは顔を上げてアリアを見た。アリアもじっとベルナールを睨みつけた。ベルナールはアリアを見ると、ふっと唇の端を上げて笑った。

「知っているも何も、有名じゃないか。こいつの父親は、ビルダ帝国の最後の正血統の帝子の護衛だった。ビルダ帝国とアレキルエラ帝国は蜜月関係だ。そんなことも知らねえのか? ほんとにジョルリアは馬鹿頭だな。ビルダ帝国の正血統を継ぐ帝子はビルダ帝国とアレキルエラ帝国の他国征服の方針に反対で、邪魔だった。帝子は監禁され、その護衛であるユレイルも命を狙われた。その家族もな。だからこいつはビルダ帝国軍から命を狙われてる。だから、自分の身を護るために西部軍に入ったんだろ。だが、東部と西部は蜜月関係だ。ユレイルの息子が自分の軍にいると知った西部軍はこいつを追い出したんだ。殺すのは東部の役目だと考えた。こいつを殺す役目を引き受けるほど、西部は東部を贔屓してはいなかったからな。西部の方が東部より軍事力も武力もある。ゆくゆくは西部も東部を支配しようと考えていたんだろう。西部にとって、東部の王族問題など何でもないんだ。それがこいつが追い出された理由だ」

ベルナールはそうまくし立てると、不気味に笑った。アリアは、顔から血の気が引くのが分かった。

 とうとう知ってしまった。自分の父親が、家族が、なぜ殺されたのかを。なぜ自分が東部軍から命を狙われているのかを。父親は最後の正血統の帝子の護衛だった。東部は他国侵略を遂行するのに邪魔だった帝子を監禁して、護衛である父を、そして家族の命を奪った。

 アリアは心の底から、東部ビルダ帝国への怒りがマグマのように噴き上げて来るのを感じた。許せない。許せない。私欲のために家族の命を奪ったビルダを許せない。アリアは両手で拳を作っていた。体は小刻みに震えていた。瞬きをせずとも、一滴の涙が目から零れ落ちた。


「――と、いうことだそうです」

近衛部隊長は、ジャン・ベルナールが語った一部始終を帝王と、大臣たち、アキドルとリオがいる前で告げた。政義の間に、長い沈黙が訪れた。

「私はアリを知っている」

ゆっくりと、帝王が口を開いた。その目は、微かに濡れているように見え、その体は微かに震えているように見えた。

「私はアリの息子を信じる」

帝王の言葉は重みがあった。

「しかし――! 命を狙われているアリア・ユレイルが帝女様の近くに行けば、帝女様の身に降りかかる危険も二倍になるということ。私はアリア・ユレイルを帝女様の護衛にすることは反対です」

大臣の一人が声を上げた。帝王ヨアは、キッと大臣を睨んだ。

「いずれにせよ、東部と西部はこの国を攻めて来る。ルーダの命を奪いに来る。その時に、ルーダの命を護れるだけの力を持つ護衛が必要なのだ。アリア・ユレイルとミカ・トルドはその大役を務めるのに相応しいと私は判断した。私はこの二人が次のルーダの護衛になることに賛成する」

帝王が言った。私もです。私も。と、次々と手が挙がった。その中にはアキドルとリオも入っていた。最後に、その大臣は、自分以外の全員が挙手をしたのを見て、渋々と、手を上げた。

「これで決まった。次のルーダの護衛はアリア・ユレイルとミカ・トルドだ」

帝王は大きな声で宣言した。


 次の日の夜、ミカたちの寮室の扉が叩かれた。昨日のことがあったため、ミカは緊張した面持ちで扉の向こうをじっと見つめた。アリアはその後、無事に解放され、寮室に戻ってきたのだった。

「隊長、副隊長っ」

ドルティンが扉を開けると、彼は慌てて敬礼をした。ミカは扉の向こうにいるアキドルとリオの姿を見ると、慌てて立ち上がり、敬礼する。アリアとアシャもそれに続いた。

「ドルティン、少し、アリアとミカを貸してくれるか」

アキドルが言った。ミカとアリアは強張った顔で顔を見合わせた。ドルティンが体を退けると、アキドルが寮室に入ってきて、ミカとアリアを見ると口を開いた。

「アリア、ミカ、来なさい」

二人は、ゆっくりと、アキドルの後に続いて寮室を出た。

 前にアキドルとリオがあり、その後ろに二人はついていった。誰も何も話さなかった。ミカはアリアと顔を見合わせた。アリアは分からないというように、微かに顔を横に振った。

 アキドルは寮の会議室に入ると、ミカとアリアに席に座るように促した。アキドルとリオが向かいに座り、ミカとアリアが横に並んで座った。ミカの向かいにはリオがいた。ミカは未だに、リオの眼帯姿には慣れなかった。リオに片目を失わせてしまったことがとても悔しかった。ミカはリオを直視できずに、俯いた。縛り忘れたミカの黒髪が顔にかかった。

「夜遅くにすまない。大事な話があって二人を呼んだ」

最初に口を開いたのはアキドルだった。ミカは緊張の面持ちでアキドルを見た。もしかして軍を除隊されるのではないかという根拠のない考えが頭によぎって心臓がバクバクと胸板を打った。

「帝女様の殺害未遂事件があっただろう。それで、帝女様の護衛であるジャン・ベルナールが牢獄に入れられ、私たちは次の帝女様の護衛を決める話し合いを行った」

ミカとアリアは顔を見合わせた。その話と自分たちは何の関係があるのだろう?

「次の護衛の候補に挙がったのはリオだった。しかし、リオは右目がないという理由で辞退した。賢明な判断だったと思う」

アキドルが言葉を続ける。

「そしてリオが、代わりにお前たち二人を帝女様の護衛に推薦した」

ミカは目を見開いた。時が止まった。一瞬、息ができなくなった。

「嘘だ――。何で――?」

ミカの口から掠れた声が出た。喉がいやにカラカラとして、声がうまく出せなかった。

「お前たちは、軍で一番優秀だからだよ」

リオが静かに言った。ミカはリオを見た。リオの目は透き通っていてとても綺麗だった。こんな状況になっても、そんなことをミカは考えてしまった。

「僕は――僕は、隊長や副隊長が思っているほど優秀じゃありません――」

ミカは必死で舌を回した。

「お前たちはセレナ大聖堂の戦いで、たったの二人だけで、銃を持っている敵軍を倒した」

リオが構わず言った。

「それは――それは運が良かっただけだ――! アリアがいなければ、僕は死んでた」

「お前たちは対ビルダ帝国の戦いで実戦を積み、更に武術に磨きがかかった。アリアに剣を、ミカに弓矢を持たせれば、誰にも敵わない。戦争後の試験では毎回、お前たちは同率一位を叩きだしてきた」

「違う――。それは――それは違います。対ビルダ帝国との戦いで、第一部隊の優秀な軍人たちが死にました。もし今死んだ軍人たちがいたら、僕は彼らよりも劣っています――。本当です」

「それは違うぞ」

アキドルが言った。

「死んだ軍人たちは、今お前たちが叩きだしているような結果を試験で残せた軍人は少なかった。それも毎回な」

「そんな――でも、僕はまだ一度しか戦争に行っていません! 一度しか実戦を積んでいません! それに、僕はまだ帝女様と同い年です! 若すぎます! 僕にはできない――」

「お前の課題はそこだな」

リオが言った。

「自信がないところだ」

「でも――本当なんです――」

「アリア、お前はどう思う」

リオが、これまで一言も話していないアリアに問いかけた。

「僕は――」

アリアがゆっくりと口を開く。

「もう、隊長たちは知っていると思いますが、僕は、東部ビルダ帝国から命を狙われていて、生まれてからずっと、逃亡生活を続けてきました。軍隊を転々としているのも、軍に入ったのも、自分の身を護るためでした。そんな僕が考えていたことは、武術の力を上げることだけでした。力を付けて昇進したいとか、そんなことを考える心の余裕はありませんでした。でも、今、この話を聞いて、もし、命を狙われている、こんな僕であることも知った上で、帝女様の護衛にと思っておられるなら、僕は喜んでその仕事を受けたいです」

ミカはアリアを見た。アリアの顔は、毅然とした決意で満ち溢れているようだった。

「よし。分かった」

アキドルは今度はミカを見た。

「残るはお前だけだ。ミカ・トルド。お前はどうする」

ミカは助けを求めるようにアリアを見た。アリアもミカを見つめた。自分には、帝女様の護衛になれるような実力があるとは到底思えない。でも、アキドルとリオは自分が護衛になることに賛成している。ソウルメイトであるアリアも、承諾した。ミカの脳裏に、バルコニーで物憂げそうに外を見る帝女ルーダの姿が蘇った。なぜか分からないが、その存在を知った時から、ずっと、ずっと、帝女様のことを案じてきた。気にかけてきた。そんな帝女様を、一番身近でお護りすることができる仕事の話が目の前にある。それも、ソウルメイトであるアリアと一緒に。

 ミカはゆっくりと顔を上げた。

「――分かりました。僕も、帝女様の護衛になります」

ミカは、噛み締めるようにそう言った。全身が震えていた。力強くリオが身を乗り出して、ミカの頭を撫でた。リオは優しく笑っていた。ミカは思わず目をギュッとつむった。

「お前たちなら、帝女様の護衛を全うすることができると信じている」

アキドルが言った。


 ミカとアリアが帝女ルーダの次の護衛になるという告知が正式に出された。ミカの母親から祝福の手紙が真っ先に届いた。大男ガンやジア、ルイザやドルティン、アシャ、ヘレンなど、多くの軍人たちがこぞって二人を祝福した。二人は花月の十五日に護衛に赴任することとなった。前日の十四日には、カリス帝城で任命式が催される予定だった。クレドゥル基地とカリス帝城は、任命式の準備で沸き立った。任命式の準備が始められ、多くの女官たちが忙しなく動いているのを見た。ミカとアリアの元にも、特注の護衛服の採寸のために、針子の女官たちがクレドゥル基地にも訪れた。軍の訓練に見学に来る女官たちも日に日に増えていった。専ら、ミカとアリアを見る目的で来る者たちだった。女官たちは、ミカとアリアがもう少しでカリス帝城に来るということに浮かれ、喜んだ。一方、ミカとアリアはクレドゥル基地からカリス帝城へ引っ越すための準備で忙しかった。


 花月の十五日。

 前日に任命式を終えたミカとアリアは帝女ルーダの部屋の扉の前に立っていた。扉は大きく、緑色に、金色の装飾が、まるで葉のように描かれてある。ミカは天井を見上げた。今にも落ちてきそうなほど大きなシャンデリアが、終わりの見えない廊下の天井に永遠に続いていた。

「この扉の向こうには、帝女様がおられます。くれぐれも、粗相のないように」

黒い髪で髷を結った、厳格そうな風貌の侍女が、ミカとアリアの前に立ってそう言った。侍女はとても細く、四角い眼鏡をかけて、口は真一文字に結ばれ、見下すようにミカとアリアを見下ろしている。その背筋は定規が入っているかのようにピンと伸びて、侍女の制服である服には皺一つなかった。

「かしこまりました」

アリアが言った。ミカも、慌てて後に続く。侍女はそんなミカをジロリと睨むと、くるりと踵を返して、扉をきっちり三回拳で叩いた。

「帝女様。護衛の者が到着致しました」

ミカの心臓は忙しなく脈打っていた。この扉の向こうには、帝女様がいる。ミカは全身がガクガク震えるのを感じた。

「通せ」

花のような、どこか懐かしさを感じさせる若い女性の声が聞こえた。

 ゆっくりと、扉が内側から開かれる。ミカは扉の奥を見た。絹でできた大きな簾がかかっていた。その奥に、帝女と思われる人陰が見えた。天上には幾つもの大きなシャンデリアがあり、床ははっとするほど青い絨毯で覆われている。壁には金色の繊細な模様が描かれており、微かに花の香りがミカの鼻をついた。ミカとアリアは、侍女に連れられて部屋の中へと入っていった。簾の前までいくと、侍女は横に整列している他の侍女たちの先頭につき、他の侍女と同じように、簾の奥、帝女の方へと頭を下げた。

 ミカとアリアは、跪いて頭を下げた。

「簾を上げよ」

女性の声が、再び響いた。

 侍女たちによって、簾がゆっくりと上げられていく。ミカの鼓動は早鐘を打った。心の中で何かが湧きたっていく感覚に襲われた。

「顔を上げよ」

ミカとアリアは、顔を上げた。帝女ルーダの姿がそこにあった。

 その瞬間だった。

ミカの胸が、マグマが流れ込んできたかのように熱くなり、ドクン、ドクンと耳の奥で心臓の鼓動が聞こえた。そして次の瞬間、例えようもないほどの懐かしさに襲われた。ミカは体の熱さに耐えきれなくなり、思わず片手を床について、肩で息をした。驚いたことに、横にいるアリアも同じようにうずくまり、見えない何かに耐えているように顔を歪めていた。

 ミカはもう一度ルーダを見た。驚くほどに輝く金色の髪の毛は背中まで伸びて、雪のように白い肌に、ガラス玉のような緑色の眼球が目の中に埋め込まれていた。ルーダは胸にその白くて細い手を当てて、不思議そうに首を傾げながらミカとアリアを見つめていた。

「わたくしは今、お前たちを見て、心が熱くなった。懐かしさを感じた。このような感情は初めてだ。お前たちは、わたくしのソウルメイトではないか?」

時が、止まった。



「わたくしは今、お前たちを見て、心が熱くなった。懐かしさを感じた。このような感情は初めてだ。お前たちは、わたくしのソウルメイトではないか?」

時が、止まった。ミカは驚いてルーダを見上げた。まだ胸はじんじんと熱く疼いていた。ミカはアリアを見た。アリアもミカを見た。二人の顔には、戸惑いの色が浮かんでいた。

「お、恐れながら……」

ミカは口を開いた。

「私とアリア・ユレイルは、お互いソウルメイト同士です。だから、私たちが帝女様のソウルメイト同士だという可能性は低いと思われます……」

ルーダの端正な顔からは、何の感情も読み取れない。

「――そうか」

帝女は一言、そう呟いた。


 ミカとアリアがルーダの護衛に着任してから、数日が経った。二人は慣れない環境にへとへとで、少ない睡眠時間は死んだように眠った。帝女の生活は、それは忙しなかった。毎日時間通りに動いて、まるで息が詰まる生活にミカには思えた。その上、ルーダは帝女という立場でありながら、特に侍女長は、時にルーダに辛く当たる。帝妃アディも同じで、食べ物を誤って落としてしまった時には大勢の前でありながらルーダをきつく叱った。ヨアの弟、アミュタスの妻であるエルマも実権を握っているようで、サロンではいつも大口を叩き、ルーダに対して悪意のある言葉を投げかけることもあった。その上、エルマだけ宝石を多すぎるほど身に着け、王族の懐を叩いているように見えた。

 数週間が風のように過ぎていった。そして、ついに花月の三十一日になった。この日から一か月間、帝女のジュレアが開催されるのだ。

 ジョルリアの間と呼ばれる大きな部屋に、帝女ルーダと帝王、帝妃、そしてその側近たち、政治家たちが集まっていた。帝女ルーダは台座に座り、その前には絹の御簾が下げられて、顔は見えない。その一歩下がった場所に、横並びになってミカたち護衛と、侍女たちが並んでいる。ルーダの両脇には帝王と帝妃が台座に座っている。同じように後ろに側近たちが並んでいた。両横の壁には、政治家たちが列になって座っている。つい十分ほど前に、太陽の刻を告げる鐘が鳴った。帝配の候補に挙がっている五人の貴族たちが間もなくジョルリアの間にやって来る。

 すると、ジョルリアの間の大きな大理石の扉が両側に開いた。先導する女官の後ろに、正装をした五人の貴族が姿を見せた。五人は女官に導かれ、用意されてある椅子の前に立った。

「これより、ジュレアを開催する」

女官長と思われる人の声が、重々しく響いた。ミカはゴクリと生唾を呑んだ。

「ご着席下さい」

女官長が言うと、貴族たちは椅子に座った。

「これより、挨拶の儀を始める。お一人ずつ、帝女様にご挨拶申し上げるように」

すると、その場にいた帝王、帝妃、政治家たちは皆懐から一枚の羊皮紙を取り出した。ミカがチラリと覗き見すると、そこには貴族たち一人一人の出身家と名前が書いてあって、何か文字を書き込めるような空欄があった。

「スザン・ド・トプシブル・アダルカ・ロレーイ様」

大きな音を立てて、一番左端に座っていた大柄な青年が立ち上がった。大柄と言っても、身体についているのは筋肉ではなく脂肪だった。おまけに、ジュレアというのに髪は皮脂でべっとりとし、顔は油でテカテカとてかっている。スザンは大きな咳払いをすると、懐から一枚の羊皮紙を取り出し口を開いた。

「あー。えー。ゴホン。スザン・ド・トプシブル・アダルカ・ロレーイ。花月の花が……えーと、何だこれ? あ、咲き乱れる、季節。帝女様に置かれましては、えー。いかがお過ごしでしょうか。この度は、帝配の候補に……選んで? 頂けて、光栄です。ゴホン。ゴホン。あー、えー、帝女様のことを、沢山知り、話し、えー、様々な価値観を共有し合いたい……と、存じます。あー、えー、はい」

スザンはゴソゴソと懐に羊皮紙を仕舞うと、素早く一礼して、着席した。その時、スザンからプウという音が鳴った。そして、恐ろしく臭い屁の匂いがジョルリアの間に充満した。スザンは自分が屁をしたことに気づいていないのか、ぼうっとした目で空を見ている。ミカは、帝妃が、羊皮紙に書かれたスザンの名前の上に大きくバツ印を書いたのを見た。

「ロイ・ド・ハルロッテ・カレミドル・アーク様」

「はい」

よく通る声がして、ロイと呼ばれた青年は立ち上がった。ブラウンのカールした髪の毛は綺麗にセットされており、細身で長身。御簾越しに帝女を見るそのブルーの眼差しはとても柔らかい印象を受けた。

「只今ご紹介に預かりました、アーク家の長男、ロイ・ド・ハルロッテ・カレミドル・アークと申します。春の名残を孕んだ、柔らかい風が花の香りに乗ってやってくる時分、帝女様はいかがお過ごしでしょうか。花月の月花であるユラミソウは、「あなたへの愛」という花言葉を持ちます。私の館の周りには、このユラミソウが沢山咲き乱れ、まるで私の帝女様への想いを代弁しているようです。どんな時も、何があっても、私は帝女様をお支えし、帝女様の良き力となれるように努めようと決意致しました。帝女様のお心を、私にお見せ下さい。愛を込めて。ロイ・アーク」

ロイは深々とお辞儀をすると、椅子に座った。

「アル・ド・ミハルド・ジョゼシャルド・アウグスカリス様」

アウグスカリスという名が出た途端、帝妃アディは身を乗り出した。帝妃も、アウグスカリス家の出身なのであった。ミカは、アルという青年が誰か一目で分かった。何故なら、帝妃と同じ輝くような金髪の髪の毛を持っていたからだ。

 アルは立ち上がり、懐から羊皮紙を取り出して、広げた。眉も、睫毛も、髪と同じ金色で、その肌は雪のように白い。大きな目に、筋の通った鼻、形の良い唇を持ち、高身長でスラリとしている。ミカは、この中だったらこのアルという青年が、一番帝女とお似合いのような気がした。

 次々に、帝女への挨拶を終えては名前が呼ばれていく。アルの次に呼ばれたのはマキシダ・ド・ジル・エスプレク・ブルック。帝女と同じようにどこか憂鬱そうな、暗い雰囲気を纏った青年だった。体つきは不健康なほどに細く、目の下には化粧でも補いきれないほどクマがついていて、身体は小刻みに震えていた。そして時たま、足がビクン、ビクンと動いた。青年なのだろうが、実際見るともっと歳を取っていそうにしか見えなかった。一番最後の候補者であるオスカー・ド・リダルダ・キルド・スチリアは、何だかいやらしい雰囲気を纏っていた。というのも、御簾越しにルーダを見る目はどこか熱を帯びていた。挨拶文はやけに長く、国内外の情勢についての博識な知識をひけらかしていた。難しい言葉ばかり使って、ミカには一体オスカーが何を言っているのかさっぱり理解できなかった。

 そして無事に、挨拶の儀が終わった。そして午後には、帝配候補の五人の貴族たちは学力、教養、武術のテストを行った。そこでは先生や軍人たちが試験監督を務めるから、ミカたちは見ることはできなかった。その日の午後もルーダは、いつもと同じように授業を受け、サロンに出て、夕食を食べ、入浴し、床に就いた。

 ジュレアの第一週目が終わった。週末になると、護衛部長からミカとアリアに二日間の休暇が与えられた。先の対ビルダ帝国との戦いを勝利に導いた褒美だという。こんなまとまった休みは、後にも先にも二度とないから思う存分楽しんで来るようにと護衛部長は言った。

 ミカとアリアは、帰還の報告をしに、一緒にミカの実家へ帰ることにした。早朝にカリス帝城を出て、山を越え、夕方にはミカの実家へ着いた。

「何か、緊張するな」

玄関扉の前に立って、アリアが言った。アリアの顔はいつになく強張っているように見えた。

「そんな、緊張なんてする必要ないよ」

ミカが朗らかに言う。ミカは、ベルに繋がれた紐を揺らした。しばらくすると、勢いよく扉が開いて、中から長い黒髪を結んだミカの母親が姿を見せた。

「ミカ! お帰り!」

母親が両手を広げて、ミカを熱く抱擁した。

「ただいま母さん!」

「無事に生きて帰ってきて良かった」

母親が涙ぐむ。

「そうだ、噂のソウルメイトは、もしかして」

ミカはにっこりと笑って、隣に立っているアリアの肩を掴んだ。

「うん。アリアだよ」

「アリアです。初めまして」

アリアが一礼する。母親はにっこりと笑うと、アリアにも両手を伸ばした。

「あなたも戦争を生き抜いたんでしょう、お帰り」

母親は優しく、アリアを抱擁した。

「ありがとう……ございます」

アリアは噛み締めるように言った。ソウルメイトであるミカにとって、こうやってお帰りと言ってくれる家族を失ったアリアが、この言葉を投げかけてくれる人がいることへの、アリアの熱い気持ちが手に取るように分かるのだった。

「さあさあ、中にお入り、美味しい夕食が出来てるよ」

母親は二人を家の中へ招き入れた。

「お義父さん、ミカたちが帰りましたよ!」

家の中に入ると、肉のいい香りがミカの鼻をついた。そして壁際のベッドには、ミカの祖父が横たわっていた。祖父はミカたちに気づくと、ゆっくりと起き上がり、両手を伸ばした。

「ミカあ……」

ミカは祖父と抱擁を交わす。祖父はミカの後ろにいるアリアに気づくと、その鋭い目をさらに細くした。

「お前は、ミカのソウルメイトだな?」

アリアは、驚いた顔をした。

「どうして、どうして分かるんですか?」

「おじいちゃんは昔占天部にいたんだ。だから分かるんだよ」

ミカが言った。アリアは感心したように祖父を見た。祖父はいつまでも、その魂まで見るように、アリアをじっと見つめていた。

「それで? 帝女様の護衛に任命されたっていうのは本当なのかい?」

テーブルについて、皆で夕食を取っている時、母親が誇らしげに言った。

「うん。そうだよ。びっくりしちゃった。まさか……ね」

ミカが言う。

「それで? どんな人なんだい? 帝女様っていうのは」

「うーん。何ていうか」

ミカは困ったようにアリアを見た。

「おしとやかで、上品で……。物憂げな雰囲気を纏われているお方です」

アリアがミカの言葉を引き継いだ。

「とんだ美人だっていうけど、それは本当なの?」

「うん。本当だよ。この辺の女性にはいない顔だよ」

「まあ、ミカったら、失礼だね」

皆は笑った。

「そうだ、それでさ、気になることがあったんだけど」

ミカが言った。

「初めて帝女様にご挨拶しに顔を合わせた時、帝女様がこう言われたんだ。『わたくしはお前たちを見て心が熱くなった。懐かしさを感じた。こんな感情は初めてだ。お前たちは、わたくしのソウルメイトではないか?』って」

今まで黙っていた祖父が、ミカの言葉を聞いてキッと目を細めた。

「どういう意味だと思う? 僕たちも、その時不思議な感覚になったんだ。すごく、こう、心が熱くなって、何か大きな感情が心に押し寄せて来るような……、そんな感覚に。でも、僕たちはもうソウルメイト同士だ。帝女様は、何でそんなことを言ったんだろう?」

「ああ、やっと府に落ちた」

祖父が、ゆっくりと言った。

「え?」

ミカが聞き返す。

「この前ミカを視た時、大きな困難がお前の前に待ち受けているのが視えた。そしてその後ろには、能力のある青年と、大きな運命を背負う人物の影も。それがやっと分かった。ミカ、ソウルメイトは一人だけではないぞ」

「え? それって、どういうこと?」

「お前たちの運命は帝女ルーダと共にある。お前たちは、三人でソウルメイト同士なのだ」

ミカとアリアに、稲妻に打たれたような衝撃が走った。



「と、いうことだそうです」

カリス帝城のルーダの部屋で、夜、ミカとアリアは、ルーダの前に座って祖父から聞いた話を伝えた。週が明けた初めての夜、ミカとアリアはルーダに、大事な話があると言った。ルーダは侍女達を部屋から出し、ミカたちの口から自分たち三人はソウルメイト同士だという話を聞いたのだ。

 ルーダはその話を聞くと、両眼に埋め込まれた緑色の宝石をゆっくりと閉じ、胸に手を当てた。

「お前たちがわたくしの護衛になったのは、意味があったのだな」

帝女はゆっくりと呟いた。

「わたくしにも、ソウルメイトがいたのだな」

帝女は目を開いた。その顔はいつにも増して、健康そうな顔をしていた。物憂げな表情はそこにはなかった。

「前に、僕たちが二人共真夜中に恐怖に襲われ嘔吐したことがあったんです。僕たちが二人共同じようになるのはソウルメイトと何か関係があるのかと思っていましたが、それは帝女様の殺人未遂のあった夜だったからなんですね。僕たちのソウルメイトである帝女様の命が危険にさらわれていたからだったのですね」

ミカが静かに言った。帝女はゆっくりと、その細く白い両腕をミカとアリアの方に差し出した。

「手を、握ってくれないか。お前たちも」

「そんなっ。不敬罪に当たります」

アリアが言った。

「わたくしたちはソウルメイトという点では平等だ。気にするな。さあ、早く」

ミカとアリアは、恐る恐る手を差し出して、ルーダの手の上に手を重ねた。そしてミカとアリアも手を握り合う。不思議なことが起きた。じんわりと、温かいものが握られた手の中から広がって、腕を通り、上半身に広がり、頭へ、足へと広がった。全身が、ポカポカと温かく、幸せな気持ちに包まれた。

「このことは、わたくしたちだけの秘密にしよう。他の者に言ったら、お前たちがどのような処遇を受けるか分からないから」

そういうルーダの顔は、とても幸せそうだった。ミカは、そんな表情のルーダを初めて見た。

「はい。帝女様」

ミカとアリアは頭を下げた。


 ジュレアは二週目を迎えた。帝配の候補となっている貴族たちは、一人ずつ帝城に呼ばれて、帝女と二人だけの時間を過ごす。その時も婚花礼内府の者たちが側にいて、貴族の立ち居振る舞い、話し方や帝女との相性などを審査する。

 その日は、ロイ・アークが帝城に呼ばれ、帝女と二人で庭園を歩いていた。ミカたちは二人と適度な距離を保ちながら、その後ろを歩いた。

「帝女様、少し、座って話しませんか?」

帝女は黙って頷いた。二人は側にある木のブランコに座った。

「こうやって、二人だけで話すのは、初めてですね」

「……そうですね」

帝女はロイと目を合わせず、ただじっと手元を見ていた。

「帝女様」

ふいに、ロイが帝女を呼んだ。

「……はい」

「僕を、見てくださいませんか」

しばらく、静寂が流れた。帝女はゆっくりと顔を上げて、自分を見つめるロイの顔を見た。ロイは、優しい眼差しで帝女を見つめている。

「帝女様。僕は、帝女様のことを心からお慕いしています。あなたのことを、お側でお支えしたい。あなたに、限りない愛を与えて差し上げたい。だからどうか、僕に心を開いてくださいませんか」

「わたくしは……」

帝女は一瞬切なそうな顔をした。

「ルーダ様。そう、お名前でお呼びしたいです。僕にそれを、許可してくださいませんか」

帝女は目を伏せた。唇が震えていた。

「……はい」

ロイは柔らかい笑みを浮かべた。

「ルーダ様。愛しています。心から」

帝女はロイから顔を逸らした。その手は固く拳が作られ、その顔は苦しそうだった。

 風のように、一日一日が過ぎていった。

 帝配候補の五人の貴族と会うことも終わり、ジュレア二週目の最終日は、帝配候補の貴族たちを招いて、カリス帝城の外で盛大な宴が催された。舞子たちの踊りや、ジョルリア軍たちの演舞が披露され、豪華な料理が振舞われた。ミカは久しぶりに、ジョルリア軍人たちの姿を見た。演舞の中心にいたのは、副隊長のリオだった。ミカは、懐かしさに心をかき乱された。長く白い髪をたなびかせて舞うリオはとても美しかった。帝女に目をやると、そんなリオの姿をじっと見つめるルーダの姿があった。

 宴会が終わった後、ルーダは部屋のバルコニーで一人、外の景色を見ていた。その後ろには勿論、ミカとアリア、そして侍女たちが従っていた。ルーダがバルコニーに立ってから、一時間が経とうとしていた。

「アリア、ミカ、わたくしと共に来て下さい」

ふいに、ルーダが言った。

「お前たちは下がっていよ」

ルーダは侍女たちの方を見るとそう言った。

「しかし帝女様」

侍女長が厳しく咎める。その目は鋭く光っていた。

「下がっているのだ」

ルーダは頑として言い放つ。侍女長はしばらくルーダを睨んでいたが、行くぞ、と言って、侍女達を従えて部屋の外に出て行った。

 ルーダは侍女たちが部屋の外に消えたのを見ると、バルコニーから部屋の中へ入り、椅子に座った。

「掛けなさい」

ルーダがミカとアリアに促す。二人はルーダに従って、椅子に座った。ルーダは目を伏せていた。

「こんな夜分まで付き合わせてしまって申し訳ない。でも、お前たちに頼みたいことがあったのだ」

「頼みたいこと、ですか?」

ミカは問いかけた。ルーダは頷くと、ゆっくりと顔を上げた。その緑色の眼球は、暗闇の中でもきらきらと輝いていた。しかしその顔は、苦悩に満ちていた。

「――わたくしは……」

ルーダは言い淀んだ。目を閉じて、何か自分に言い聞かせるようにふうと長い息を吐くと、再び目を開けた。

「わたくしは、ジョルリア軍の副隊長であられるリオ様をお慕いしている」

長い、静寂が訪れた。夜風がミカの髪をさらった。

「副隊長、ですか……?」

ミカの口から掠れた声が出た。ルーダは頷いた。ミカは驚いてアリアを見た。アリアもミカを見て眉を上げた。

「誰にも、言わないで欲しい。お願いだ。約束して欲しい」

「言いません。約束します」

ミカが言った。「僕もです」とアリアも言う。

「わたくしが、九つの時だった。わたくしは体調を崩していて、ずっとベッドの上にいる生活が退屈で仕方なかった。そんな時に、窓の向こうに跳ぶ綺麗な蝶々を見つけて、侍女達の目を盗んで蝶々を追いかけに帝城の外に飛び出した。そして、蝶々を追いかけているうちに帝城の敷地を出て、クレドゥル基地まで行ってしまったのだ。結局、蝶々はどこか遠くへ行ってしまって、わたくしは蝶々を探しにクレドゥル基地を歩き回っていたのだけど、次第に気分が悪くなってきて、倒れてしまったのだ。朦朧とする意識の中で、誰か、真っ白な長い髪をした若い男の方が、わたくしを抱き上げてくれたのを感じた。わたくしはその方の腕に抱かれて、帝城まで届けられたのだ。霞みゆく意識の中で、わたくしはその方に心が惹きつけられていくのを感じた。それから、わたくしはその方のことを調べて、それがジョルリア軍の軍人であるリオという名前のお方だと知ったのだ。それから約十二年間、ずっと、わたくしはリオ様だけをお慕いし続けてきた」

ルーダは目を伏せた。

「――でも、わたくしの想いは、叶うことを許されないのです。リオ様は、ジョルリア軍の副隊長であられるから。帝配の候補にも、選ばれなかった。リオ様がわたくしの護衛に推薦されていたことも知っていました。でも、あの方は右目がないという理由で辞退なさった。わたくしは、もうすぐ、婚姻しなければなりません。その前に、あの方に一度だけお会いしたい。そして、わたくしの気持ちを伝えたいのだ」

ルーダは顔を上げて、熱い眼差しでミカとアリアを見た。

「お前たちは、ジョルリア軍にいたから、リオ様と交流があったであろう? どうか、わたくしに、リオ様と会わせる機会を作ってもらえませんか……」

ルーダは言った。


 その日の夜、ミカはカリス帝城を飛び出して、クレドゥル基地にある軍の寮に向かって全速力で走っていた。寮に辿り着くと、ミカは重い扉を開けて、玄関を抜け、階段を駆けあがった。

 リオの寮室の前まで行くと、ミカは肩で息をしながらドンドンドン、と勢いよくドアを叩いた。

「――誰だ」

しばらくして、リオの美しい声が聞こえた。

「副隊長っ、ミカです! ミカ・トルドです! 開けて下さい! 緊急なんです!」

ほどなくして、勢いよくドアが開いた。ミカはハッとした。リオは片手に剣を持ち、寝間着姿で、長くて白い髪は背中まで垂らされていた。ミカは初めてそんなリオの姿を見た。髪を垂らしたリオはまるで女性のようで、その美しさに思わず、ここに来た理由も忘れてリオに見惚れた。

「どうしたっ。帝女様に何かあったかっ?」

リオのその言葉に、ミカは我に返った。

「部屋に入れてもらえませんかっ。誰にも聞かれてはいけないんです!」

ミカは肩で息をしながらリオの返答を待った。

「入れ」

リオは緊迫した面持ちでそう言うと、体を退けてミカを部屋の中へ入れた。ミカは寮室の部屋の扉をしっかりと閉めると、リオに向き直った。

「副隊長、今から僕が言うことは、誰にも話さないで下さい。お願いします。約束して下さい」

リオは神妙な面持ちで頷いた。ミカは息を吸って、吐いた。体が震えていた。

「明日の夜の十二時に、カリス帝城の裏庭に来てください。帝女様が、副隊長に伝えたいことがあるそうです」

リオは目を瞬いた。

「て、帝女様が? 私に? それなら隊長が行くべきではないのか?」

「副隊長じゃなきゃダメなんです。お願いです。絶対、絶対来てください」

ミカはリオの両腕を掴んで懇願した。ソウルメイトとして、何としてでもルーダの望みを叶えてあげたかった。

「――分かった」

リオは困惑した顔でミカを見下ろしていたが、しばらくすると頷いた。


 翌日の深夜十二時前。

 ルーダは、両手を震わせながらカリス帝城の裏庭に一人立っていた。空には金色の三日月が架かり、眩しすぎるほど辺りを照らしている。その月光が、まるで光の柱のように裏庭に降りていた。ミカとアリアは、裏庭の低木の影に身を潜めて、リオが来るのを待っていた。

「ミカ、来たぞ」

突然、アリアがミカを小突いて囁いた。ミカはアリアの視線の先を追った。そこには、正装を着て剣を腰から下げたリオがこちらに向かってやってくる所だった。

「良かった、来てくれた……」

しかし、ルーダは反対側を向いていてリオが歩いて来ることに気づいていない。リオはルーダの後ろまで来ると足を止めた。月の光が、二人の美しさをより際立たせていた。

「帝女様」

リオがルーダを呼んだ。ルーダはハッとして、後ろを振り返った。十二年越しに見る、想いを馳せて来た殿方の姿に、ルーダは泣きだしたくなるのを必死で堪えた。こんなに間近に、リオを見たことはなかった。その瞳も、睫毛の一本一本も、白い髪の産毛も、顔の傷の跡までもが、鮮明に見えた。

「リオ……様――」

リオは片膝をついて芝生の上にしゃがみ、頭を下げた。

「――顔を上げて、お立ちになって下さい」

ルーダの声は、震えていた。ミカとアリアには、不思議なことに、ルーダの気持ちが手に取るように分かり、ルーダと同じように心臓が激しく胸板を打っていた。

 リオはゆっくりと立ち上がると、顔を上げてルーダを見た。ルーダは自分を落ち着かせるように目を閉じて深呼吸をすると、ゆっくりと口を開いた。

「――このような遅い時間に来て下さって、感謝申し上げます」

ルーダはゆっくりと、頭を下げた。

「――カリス帝城では、今、わたくしのジュレアが行われています。来月には、わたくしは選ばれた殿方と婚約を結びます。その前に、リオ様にお会いして、お伝えしたいことがあり、わたくしの護衛に頼んでリオ様をここへ呼んでもらいました」

リオは、その澄んだ瞳でルーダを見ていた。ルーダはリオに見つめられて、逸らしたくなる気持ちを必死に耐えて、リオを見続けた。

「――わたくしは――」

ルーダは思わず目を逸らした。しかし、これではいけないと思って、すぐに顔を上げた。唇が震えて、舌がうまく回らなかった。

「――わたくしは、十二年前、クレドゥル基地に迷い込み、その時に体調が悪くなって倒れました。リオ様は、覚えておられないかもしれませんが、わたくしはその時、リオ様に助けられました」

「覚えております」

リオが言った。ルーダはハッと息を呑んだ。目にじんわりと涙が溜まっていくのを感じたが、唇を噛み、必死で耐えた。

「――わたくしは――」

ルーダは言葉を切った。

「――わたくしは、その時から――」

ルーダの声が震えていた。

「帝女様、頑張れ」

ミカは呟いた。

「――その時から――その時からずっと――」

ルーダは大きく息を吸った。

「わたくしはその時からずっと、リオ様をお慕いしています」

風が揺れた。リオの両眼が、驚いたように揺れた。

「――でも、リオ様はジョルリア軍の副隊長であられるから、帝配の候補に選ばれないということは、心のどこかでは分かっていました。護衛が変わる時も、リオ様は辞退なさった……」

ルーダは涙を堪えようとするかのように顔を歪めた。

「――でも、でも本当はわたくしは、リオ様が帝配の候補に選ばれて欲しいと望みました……。本当は、わたくしの護衛になって欲しかった。わたくしの護衛になって、リオ様のお側にいたかったのです……」

ルーダの呼吸が浅くなり、自分を落ちつけようとしているかのようにルーダは両手で胸を抑えた。

「――わたくしは、分かっています。この想いは、叶うことを許されないことを。わたくしが、リオ様のお側にいることは許されません――。わたくしは、わたくしは――」

ルーダは目を強く閉じた。

「わたくしは、決められた方と婚姻して、その方の妻となり、その方の子供を、産まなければならないのです――」

ルーダの胸を抑える両手は震えていた。

「わたくしは、自分の願いを叶えることを許されません。好きな時に、好きな場所へ行くことも、好きなことを話すことも、好きなものを食べることも。読む本は制限され、趣味も与えられたものの中からしなければならないし、友人も、与えられた人としか友人になれません……。子供の頃から、望まないで生きることを教えられてきました。与えられたことだけを、受け入れて生きよと。……でも、一つだけ、一つだけ、リオ様に、わたくしの願いを聞いて頂くことを望みます……。後にも先にも、わたくしが願うのはこれだけです……」

ルーダはリオを見上げた。今にも零れ落ちそうな涙の雫が、ルーダの目の端に膨らんでいた。

「――リオ様、わたくしを――わたくしを……抱きしめて頂けませんか……?」

ミカは思わず口を押えた。アリアは隣で息を呑んだ。二人は目を見合わせた。正式な帝配でない男性が帝女に触れること。それは、完全な不敬罪に当たり、見つかれば斬首刑となる。

「――ごめんなさい……、無理ですよね……分かっています――。ごめんなさい――ごめんなさいリオ様――ごめんなさ――」

その瞬間、リオがルーダに歩み寄り、その体を、両腕でひしと抱きしめた。ミカとアリアは目を見開いた。ルーダはハッと息を呑んだ。

「――リオ……様――」

「帝女様のお気持ち、私に伝わりましたよ」

リオが言った。その声は限りなく優しかった。

「私は、帝女様のお側にいることはできないかもしれません。でも、帝女様のお気持ちを知ることができました。私は、帝女様のために生きます。帝女様のために、どんなことがあっても、この国を護ります。辛い時、悲しい時、苦しい時には、心の中で私を呼んで下さい。私を見つけて下さい。私はどんな時でも、帝女様を遠くからお支えし、味方でいます。帝女様の帝配や、護衛になれなくても。ミカとアリアには、私との縁があります。その二人を通して、私を見て下さい。帝女様のお側には、二人を通していつも私がいます」

ルーダは、リオの腕の中で涙を流した。

「泣いていいのですよ。辛い時は辛いと、悲しい時は悲しいと言っていいのです」

ルーダはリオの腕の中で泣き続けた。月を隠した雲が、二人を人目から隠していた。

「――リオ……様……」

いつまでも、いつまでも、リオは優しくルーダを抱き、ルーダはリオの胸に顔を埋めて泣き続けていた。花月の夜の風が、優しく吹いていた。



 ジュレアは三週目を迎えていた。

 ジョルリアの間には、絹の御簾の向こう側の台座の上にルーダが座り、その両脇に帝王と帝妃が座っていた。王族に向かい合って座っているのは、ジュレアの一週目と二週目の課題を終え、五人の中から絞られた二人の青年――ロイとアルである。

「帝女様、お題を」

女官長が言った。第三週目の課題は、帝女が出すお題の応えを、ジュレア最終週である翌週までに導き出すことだった。

「ロイ・ド・ハルロッテ・カレミドル・アーク。そなたへのお題は――」

帝女が言うと、女官たちが大きな巻き羊皮紙を広げた。そこには、インクで文字が書かれていた。

「もし、我が国の第二帝子または第二帝女と、学問に優秀な庶民の子どもが溺れていて、どちらか一人しか助けることができない場合は、どちらを助けるか。だ」

ロイは、そのお題を聞くと今までに見たことがないほど真剣な目で、ゆっくりと頷いた。第二帝子、第二帝女とは、帝王の次男または次女のことで、第一子ではないから将来王位に就くことがない者である。

「アル・ド・ミハルド・ジョゼシャルド・アウグスカリス。そなたには――」

別の女官が、お題の書かれた羊皮紙を広げた。

「戦争は正当化できるか。だ」

アルは、表情を変えることなく頷いた。

 帝女はそんな二人を見定めるように、その緑色の宝石で二人をじっと見つめていた。


 太陽の陽ざしが降り注ぎ、木月の花の香りが柔らかい風に乗ってやってくる、よく晴れた昼下がりのこと。ルーダとアルは、薔薇の咲き乱れる庭園を歩いていた。

 アル・アウグスカリスはルーダより頭一つ分高く、金色の髪を持った二人はよくお似合いだった。しかし、アルは無口で、愛想もなく、始終整った顔を崩さなかった。二人は何も話すことなく、ゆっくりと庭園を歩き続けて、三十分は経とうとしていた。

「帝女様」

沈黙を破ったのはアルだった。アルは立ち止まり、ルーダを見下ろしている。ルーダも足を止めて、緑色の宝石でアルを見上げた。

 アルは、一瞬、苦しそうに顔を歪めた。

「帝女様。私は――」

アルは固く目をつむって、ルーダから顔を逸らした。ルーダはそんなアルの様子を見ると、どこか寂しそうに顔を歪め、アルから顔を背けてゆっくりと歩き出した。

「――お待ちください帝女様っ」

アルは片手をルーダの方へ伸ばした。ミカはハッと息を呑んだ。ルーダも振り向くと、驚いたように自分の腕をアルから遠ざけた。アルは反射的に、自分の手を引っ込めた。

「――申し訳ございません、帝女様……」

ルーダは怒ったようにアルを見上げた。熱を帯びたルーダの瞳にアルは再び顔を歪めると、目を伏せた。

「申し訳ございません。私は――」

アルはルーダを見た。

「――私は、感情表現が上手くありません――」

ルーダは目を瞬いた。

「それ故、人から誤解されることが多々あります」

「何が、言いたいのですか」

「私は、帝女様を大切に思っているということを言いたいのです」

ルーダは一瞬、驚いたように目を見開いた。

「――私は、幼い頃から、いずれは帝女様の帝配に、と育てられて来ました。帝城での行事に呼ばれた時も、そんな私はいつも帝女様だけを見ておりました。私はいつしか帝女様をお慕いするようになりました」

「それは――」

帝女は顔を背けた。

「それは、わたくしの外面だけを見てそう思われたのではありませんか? わたくしたちは、この歳まで一度も顔を合わせてはおりませんし、関わりも持ったことはありません――」

「それは違います」

アルは切なそうに顔を歪めた。

「私はいつも、政治家であり、帝城によく出入りしている父から帝女様のお話を聞いておりました。帝女様が、どんなに心根の優しく、思いやりのあるお方であるかを。帝女様は今まで、悪い噂一つありません。私はそんなあなたに惚れたのです。私の青春は帝女様でした」

アルはそう言うと、肩で大きく息をした。ルーダはアルの最後の言葉を聞くと、顔を真っ赤に染め、アルに背を向けて両手で顔を覆った。

「――帝女様――。申し訳ございません――そんなつもりでは、そんなつもりでは――」

アルはそんな帝女の様子をしばらく放心したように見ていたが、突然、腰に手を当てうなだれると、近くの椅子に腰を下ろして手で顔を覆った。


 とある日の夕方。沈みゆく太陽が、空を茜色に染めている頃。カリス帝城の一番広いバルコニーで、ルーダとロイ・アークが向かい合って座っていた。

 ロイはポットから紅茶をカップに注ぐと、帝女の方へ差し出した。

「角砂糖は要りますか?」

ロイは優しく微笑んで聞く。ルーダは頭を横に振った。

「いいえ。このままで」

ロイは自分のカップにも紅茶を注ぐと、優しい眼差しでルーダを見た。

「頂きましょうか」

「……はい」

二人の間を、木月の爽やかな風が吹き抜けていった。

「今日は、過ごしやすい天気ですね」

ロイが穏やかに言うと、ルーダはロイに目を合わせずに紅茶をすすった。そして、物憂げな顔をして、バルコニーから見える遠くのバウディアの街を見ていた。

「ルーダ様」

ロイの呼びかけにも、ルーダは顔を向けない。

「一緒に、ダンスを踊りませんか」

ルーダが、ロイを見た。驚いた顔をしていた。

「何を――?」

「ダンス、ですよ。それも、バウディアの民謡ダンスです」

ルーダは目を伏せた。

「――お断りします。わたくしは、舞踏会で踊るダンスしかできません」

「構いません。僕が教えますから。簡単ですよ。ルーダ様」

「でも――」

ロイは立ち上がると、バルコニーの窓を開けて向こう側の部屋へ消えた。

「――お待ちくださいっ」

ルーダは慌てて立ち上がり、ロイの後を追った。ロイは部屋を出て、階段を降りていく。

「ロイ殿――」

「ルーダ様、こっちです」

ロイはルーダを見上げて柔らかく笑った。ロイは階下まで降りると、大きな正面扉を抜けて、カリス帝城の外に出た。ロイとルーダは、まるで追う蝶々のようにあちらへこちらへと飛んでいく。外で仕事をしていた女官たちは二人が通り過ぎると慌てて道を開け、お辞儀をした。ロイは薔薇の咲き乱れる庭園に着くと、振り返ってルーダを待った。やっと追いついたルーダはほんの少し走っただけなのに、息が上がり、顔が紅潮していた。

「――ロイ殿――一体、何を――」

「帝女様、お体は大丈夫ですか? 申し訳ありません」

言葉とは裏腹に、ロイの顔は朗らかだった。そして、ロイは軽いステップを始めた。ルーダはそんなロイを、放心したように見つめる。ロイはステップをしながら、右へ左へ、前へ後ろへと移動し、クルクルと体を回す。

「さあ! ルーダ様も!」

ルーダは、しばらく困惑したようにロイを見ていたが、次第に表情が緩み、ドレスの裾をつまんでステップを踏み始めた。

「――こう、ですか?」

そんなルーダを見たロイは、嬉しそうに笑った。

「さすがです。とてもお上手ですよ」

ルーダの顔に笑みがこぼれた。ロイの前で、初めて見せる笑顔だった。ルーダはロイに倣って、右へ左へ、前へ後ろへと体を動かして、クルクルと体を回す。二人は円を描いて踊った。陽気なバウディアの音楽が、今にもすぐ側で聞こえてくるようだった。二人の笑い声が、薔薇の咲き乱れたカリス帝城の空に響いた。

「少し、休憩しましょうか」

すっかり陽が落ちて、ロイは頬を紅潮させて肩で息をしているルーダにそう言った。二人は近くのベンチに座ると、息を整えた。

「楽しかったでしょう?」

ロイがルーダに問いかけた。ルーダはロイを見上げて頷いた。その顔は、笑顔で満ちていた。物憂げな瞳はそこにはなかった。

「楽しかった」

「よかったです」

ロイはそう言って遠くを見つめた。その茶色い瞳には、夕暮れ時の太陽の光が映っていた。

「――ロイ殿は、嫌ではないのですか?」

突然、ぽつりとルーダが言った。

「嫌? 何がですか?」

ロイはルーダを見た。ルーダの緑色の瞳には影が降りていた。

「ロイ殿は、意中の女性がいたのではありませんか?」

ルーダはロイを見上げた。ロイは驚いたようにルーダを見ていたが、しばらくしてふっと頬を緩めると、また遠くを見やった。

「そうですね。昔はおりましたが、今はおりません」

ルーダはロイを見続けた。

「僕たちは、いずれ帝配にとして育てられてきました。昔はそんな自分の運命から逃げ出したくなった時もありましたが、今はそうは思いません」

ロイはルーダを見つめた。

「僕は、あなたのことを愛そうと決めたんです」

ルーダの瞳が揺れた。

「――できるのですか? 愛してもいない人を愛すなんて――」

「ルーダ様は、いつも寂しそうだから」

「――え?」

ロイの髪が、風に揺れた。

「帝城で見るあなたは、いつも寂しそうだった。例え帝女様であっても、豪華なものを身に着け、大口を叩き、民のことを思わないお方だったら愛することは出来なかったでしょう。でも、あなたは違った。あなたは、帝女という立場で何不自由ない暮らしをしているはずなのに、いつも寂しそうでした。私はそんなあなたを、笑顔にしたいと思いました。できるなら、あなたの心のオアシスになりたいと」

沈み始めた太陽が、二人の足元に二つの影を作っていた。

「だから、僕はそのために、必ず帝配に選ばれてみせます。ルーダ様の帝配になって、あなたを幸せにしますから」

ルーダは一瞬、泣きそうになったかのように顔を歪めた。しかしすぐに顔を逸らして、何も言わずに、ロイの隣でただ静かに、沈みゆく太陽を見つめていた。


 ジュレアの第三週目が終わろうとしていた。その週末の夜、勤務を終えたミカとアリアは、忙しくて最近できていなかった武術の練習をしに帝城を出て、裏庭へ行った。木月に鳴く虫の声が辺りに響き、雲は月を隠して辺りは漆黒の闇だった。

「誰かいる」

突然、アリアが足を止めた。ミカも慌てて足を止め、目を細めると、確かに、誰かの持つランプの灯りがチラチラと見えた。

「とりあえず、隠れよう」

ミカは言って、近くの低木に二人で隠れた。その時、雲が割かれて月光が辺りを照らし出した。ミカは思わずアリアの腕を握った。そこにいたのは、帝王ヨアの弟、アミュタスの妻、エルマだったのだ。

「――なぜ、王族がこのような時間に――?」

エルマの隣にいるのは、見知らぬ武装した男だった。

「あの人、誰だろう? エルマ様の護衛かな?」

ミカが言うと、アリアは目を細めた。

「いや。違う。あんな奴見たことない」

「じゃあ、一体――?」

「そう早まるな」

突然、エルマの大きな声が聞こえた。

「申し訳ございません。しかし――」

「帝女のジュレアが終わってからだ。それまでは、絶対に待たねばならぬ」

「――かしこまりました」

男が頭を下げると、エルマは踵を返し、裏庭を出て行った。

「何の話をしてたんだろう」

ミカの胸に、ゾワリと嫌なものがうごめいた。


 ジョルリアの間には、厳かな雰囲気が流れていた。ジュレアはついに、最終週である第四週に入った。今日は、帝配が決まる日。最終候補に選ばれたロイとアルの二人が、先週ルーダから出されたお題の答えを言って、今までの成績が総合的に判断され、最終的に帝配が決まる。しかし、帝配に選ばれなかったどちらかの者は準配と呼ばれ、帝配が不慮の事故や病気で亡くなった時、子が成せない体だった時などに、帝配として王宮に迎えられるため、原則として生涯他の女性と婚姻を結ぶことは許されていない。

「これより、第四週、ジュレアを始める」

女官長が言った。ミカは、ついに帝配が決まる場所に遭遇するのだと思うと、心が湧きたつのを感じた。

「ロイ・ド・ハルロッテ・カレミドル・アーク」

「はっ」

ロイが立ち上がった。

「帝女様のお題の答えを述べよ」

侍女が、お題の書かれた羊皮紙を広げた。そこには、「もし、我が国の第二帝子または第二帝女と、学問に優秀な庶民の子どもが溺れていて、どちらか一人しか助けることができない場合は、どちらを助けるか」と書かれている。ルーダは、ロイの顔をじっと見つめていた。

「私は、学問に優秀な庶民の子どもを助けます」

ざわり、とジュレアの間がどよめいた。政治家たちが顔を寄せ合って何事かを囁いている。

「しかし、帝子または帝女に世継ぎがいた場合です。なぜならば、世継ぎがいれば、第二帝子、第二帝女がいなくても後継者問題は回避できるからです。私は、王位を継ぐことのない第二帝子、第二帝女と、学問に優秀な庶民の子どもとだったら、どちらが将来ジョルリアに貢献できるかを考えました。第二帝子、第二帝女はいくら王族とはいえ、実際に自らの手で政治をすることはありません。しかし、学問に優秀な子どもの場合は、試験に合格すれば、学校の教師となったり、王族方の師となる可能性があります。また、地方の公務員として政治に参加する可能性もあります。その意味で、学問に優秀な庶民の子どもを助けた方が、よりジョルリア国のためになる人材を残すことができると考えました」

ミカはチラリと帝王を見た。帝王は、感心したようにロイを見て頷いていた。

「アル・ド・ミハルド・ジョゼシャルド・アウグスカリス」

「はっ」

アルが立ち上がった。アルはその端正な顔を崩すことなく、緊張さえも感じられなかった。

「お題の答えを述べよ」

侍女が羊皮紙を広げた。そこには、「戦争は正当化できるか」と書いてあった。アルは静かに目を閉じると、深く深呼吸した。そして、ゆっくりと目を開け、口を開いた。

「私は、戦争は正当化できると考えます」

帝王ヨアが身を乗り出した。

「しかし、正当防衛の範囲内である場合に限ります。私利私欲のための戦争は断固として反対します。戦争では、数多くの国民の命が犠牲になることは承知しています。しかし、その代償を払ってでも、一つの国、モノ、あるいは機関を護るためには、戦争を遂行しなければならないと考えます。もし、我が領土を奪おうとしている敵国が攻めてきたとして、もし私たちが何も応戦しなかったなら、私たちの国民や文化、歴史は奪われ、国民は非人道的な扱いをされ、屈辱を与えられます。しかし、正義のために応戦すれば、国を失ったり、ひどい扱いを受ける可能性は低くなります。それは結果的に、長い目で見ると、国民の命、人権、生活、我が国を護るものになる選択ではないかと考えるからです」

アルは口を閉じると、静かに腰を下ろした。

「審議を始める。帝王様、帝妃様、政治家の方々は別室へ移動してください」

女官長が言うと、大人たちはぞろぞろと立ち上がってジョルリアの間を出ていった。後には、帝女と、その侍女、護衛、婚花令内府の女官たち、そしてロイとアルだけが残った。

 やがて、正午を告げる鐘の音が鳴った。

 それから数時間経っても帝王たちは戻って来なかった。

 昼下りの太陽の陽ざしが窓から差し込み始め、ミカに眠気が襲ってきた時、ジョルリアの間の扉が勢いよく開かれた。ミカはハッとして見た。談笑しながら、帝王たちが入って来た。ルーダの顔は強張り、手は微かに震えていた。

「帝女ルーダ様の帝配が決まった」

帝王から一枚の羊皮紙を渡された女官長が厳かに言った。ミカは、まるで自分のパートナーが決まるかのように心臓が激しく胸板を打った。それはルーダと自分たちがソウルメイト同士であるからだということはよく分かっていた。女官長はゆっくりと羊皮紙を見た。顔を上げると、大きく口を開いた。

「二人は共に同等の成績を収め、審議は困難だった。しかし、武術の成績で矢が一本だけ外れたことと、帝女様とのコミュニケーションの点が決め手となった」

女官長は息を吸った。

「帝配は、ロイ・ド・ハルロッテ・カレミドル・アークだ」

ジョルリアの間に、拍手が湧き起こった。拍手の鳴る中、ルーダは一人、拳に変えた白い手を胸に当て、俯いて目をじっと閉じていた。



 星月になって、アリアは二十一歳の誕生日を迎えた。

 青月の結婚式を二週間後に控えたある日の夜、風呂上りにバルコニーの扉を開けて涼んでいたルーダの元に、女官がやってきた。

「帝女様、帝配様からお手紙です」

ルーダは驚いたように差し出された手紙を見ると、ゆっくりと受け取った。その封筒からは、仄かに甘い香りがした。

「……ご苦労だった」

女官は頭を下げると、足早に部屋を出て行った。ルーダはゆっくりと封を切った。自分の心臓が早鐘を打ち出したのを感じて驚いた。中から便箋を取り出すと、ルーダはゆっくりと開いた。はっとするほど綺麗な文字が並んでいた。

「ルーダ様 明日、結婚式の準備で帝城へ行きます。花の刻に、裏庭で待っています。できるなら、ルーダ様お一人で来てください ロイ・アーク」

ルーダは便箋を強く胸に押し当てると、ギュッと目を閉じた。掌に、心臓の速い鼓動が伝わってくる。何だろう。この、心がキュッとなる感覚は。胸の奥が、熱くなる感覚は、一体何だろう――。

 次の日の花の刻、ルーダは裏庭に続く門の前まで来ると、侍女達を振り返った。

「お前たちはここで待っていよ」

「なりません帝女様」

侍女長が四角い眼鏡の奥からルーダを睨みつける。

「命令だ」

ルーダも激しく侍女長を睨み返した。そして、ルーダはミカとアリアを見た。その眼差しは優しいものに変わっていた。

「アリア、ミカ」

ルーダは二人を手招きすると、二人の耳元に口を寄せた。

「わたくしはこれからロイ殿にお会いする。何かあったら大きな声で叫ぶから、わたくしが戻って来るまで誰も裏庭に入れてはならぬ」

はっ、と二人は敬礼した。ルーダは二人に頷くと、ゆっくりと裏庭に続く門を開けて、中へ入っていった。

 裏庭に入ると、星月の色とりどりの花のよい香りで満たされていた。中央にある大きな池には、蓮の花が咲いている。その池の側に、正装を着たロイが立って池を見つめていた。ルーダの心臓がトクンと脈打った。

「――ロイ殿」

ルーダの透き通った声が、裏庭に響いた。ロイは顔を上げてルーダを見ると、嬉しそうに笑った。ルーダは自然と、ロイの元へと歩み寄っていた。

「ルーダ様」

ロイはその透き通った目で、ルーダの顔を嬉しそうに見つめた。

「――ロイ殿……」

ルーダはロイの瞳を直視できずに、視線を逸らした。こうしてロイと向かい合っていると、風に乗ってロイの香りや、息遣いまでもが聞こえてくる。激しい心臓の鼓動に耐えきれなくなり、ルーダはロイの横を通り抜けて、奥にある木のベンチに座り込んだ。

「ルーダ様、お加減がお悪いのですか――?」

ロイがルーダに駆け寄って、その肩を抱く。ルーダの心臓はトクンと跳ね上がった。

「違いますっ、そうではなくて――」

ルーダはそっとロイの手を振り払って、顔を背けた。

「ルーダ様――」

自分を呼ぶロイの声を聞くと、ルーダの両目から涙が零れ出て、ルーダは顔を両手で覆った。

「ルーダ様――」

「違います――違うのです――」

ルーダは顔を歪めてロイを見上げた。ロイの綺麗な瞳と目が合って、再びルーダの目から涙が溢れた。

「わたくしは――」

ルーダは俯いて歯を食いしばった。ルーダの脳裏に、リオの顔が浮かび上がった。

『泣いていいのですよ。辛い時は辛いと、悲しい時は悲しいと言っていいのです』

「――わたくしは――辛いのです――」

ポタ、ポタと、ルーダの両目から零れ落ちた涙がベンチに落ちて木の板を濡らした。

「――どうして――どうして、ロイ殿は、わたくしにこんなにも優しくして下さるのですか――? わたくしは――幸せにはなれないと、思ってきたのに――わたくしの――自由も、プライバシーも、お慕いする方とでさえ、一緒になることも許されず――この冷徹な王宮で生きていくのがわたくしの人生なのだと、受け入れてきたのに――どうして――どうしてロイ殿は、わたくしに、こんなにも――。ロイ殿の優しさに触れる度に――わたくしは、わたくしはあなたを、愛してしまいそうになるのです――」

ルーダの口から嗚咽が漏れた。

「――愛してください。ルーダ様」

ロイの優しい声が、空から降ってきた。ルーダは、ゆっくりと顔を上げた。ロイは優しい眼差しで、ルーダを見るとゆっくりと頷いた。

「僕を愛してください」

でも――、と、ルーダは首を振った。

「――わたくしは、幸せになっては――」

「いいのですよ。ルーダ様。幸せになっていいのです」

ロイはそっとルーダの頬に手を添え、その涙を拭った。

「僕はルーダ様を愛しています」

「ロイ――殿――」

ロイはルーダの瞳を交互に見ると、優しく頷いた。

「ルーダ様。ロイと呼んで下さい」

「――ロイ――」

ロイは幸せそうに微笑んだ。

「はい、ルーダ様」

柔らかい風が吹いて、二人は唇を交わした。花の香りを孕んだ風が、二人の間を優しく回った。


 青月の十五日。雲一つない快晴に、花が咲き乱れる日。帝女ルーダと帝配ロイの結婚式が行われた。カリス帝城の敷地は国民のために解放され、結婚式には全ての政治家と貴族たち、そして全ての王族たちが招かれた。国を挙げて帝女の結婚を祝い、夜が更けるまで国は賑わっていた。

 そんなお祝いムードが続く、一週間後の夜のことだった。食事の間で王族たちが夕食をとっている時、突然、勢いよく扉が開いた。談笑していた王族たちは皆、驚いて振り返った。そこに立っていたのは、近衛部隊の隊長だった。隊長の顔は、恐ろしいほどに青かった。隊長は跪いた。

「ご無礼致します! たった今、ジュナ村にビルダ帝国軍とアレキルエラ帝国軍が襲撃したとの報せが届きました! ジュナ村は陥落寸前! 奴らは『滅・ジョルリア帝国』『滅・帝王ヨア』『滅・帝女ルーダ』の旗を掲げて進撃を進めている模様! どうしますか! 帝王様! ご命令を!」

皆は息を呑んだ。帝王ヨアは音を立てて立ち上がった。ミカはその顔を見た。ヨアの顔は怒りで真っ赤に染まっていた。

「なぜだ! なぜだなぜだなぜだ!」

隊長は怯んだ。帝王は獣のように吠えた。帝王は腕を振り回し、テーブルの上に置かれてある食べ物の入った食器を無差別にテーブルから振り落とした。陶器が粉々に割れ、破片が辺りに飛び散った。肉やスープ、ワインが零れ、真っ白のテーブルクロスを汚した。ルーダの体はガクガクと震えた。

「あれほど! あれほど東部と西部には警戒せよ言っておったではないか!」

帝王の怒声で食事の間が揺れた。その時、誰かの駆ける音がして、食事の間にジョルリア軍隊長アキドルと、副隊長リオが現れた。帝王は現れた二人を見て、目を大きく見開き、大きく太い指を突き出した。

「お前たちは! お前たちは一体! 対ビルダ帝国の戦いの後から何をしておったのだ! ルーダの殺人未遂の後から何をしておったのだ! なぜ! なぜ東部と西部が我が国を狙っていると知りながら、奴らの襲撃を許したのだ! なぜだ! 言え! 言うのだ!」

アキドルとリオは顔面蒼白になって跪いた。

「申し訳ありません!」

アキドルが叫んだ。

「私たちは、ビルダ帝国とアレキルエラ帝国の国境沿いは全て、以前よりも人員を増やして警備していました! しかし! 奴らは我々の想像以上の人員を集めてきました! ビルダ帝国軍とアレキルエラ帝国軍が一つになり、それだけではなく、海賊や国民の全男を徴兵して、全員でジュナ村を襲撃してきました! その人数には敵いませんでした!」

「言い訳をするな!」

窓ガラスが揺れた。アキドルとリオは肩を揺らして、床に頭を付けることしかできない。

「今回の襲撃は全て私の責任です! 私を死刑にして下さい!」

アキドルが叫んだ。

「私も死刑にして下さい!」

リオが叫んだ。帝王は椅子を蹴り飛ばした。

「そんなことで責任が取れると思うな!」

シャンデリアが揺れた。

「今すぐ出撃しろ! 東部と西部はジョルリアを乗っ取りに来る! バウディアを! この王宮を! ルーダを! 殺しに来るんだぞ! そんなことは決して許してはいけない! 侵略を、支配を許してはいかんのだ! それができないなら、切腹して死ね!」

帝王はうおぉぉぉっと叫んで、大きなテーブルの端を持ち上げて、テーブルをひっくり返した。王族は恐れおののき、椅子から立ち上がると壁に体をつけて怯えた。ルーダの歯はガチガチと鳴り、両目からは恐怖の涙が出た。ロイは、そんなルーダの肩を、守るように抱いた。その時だった。帝王は硬直し、バタンと大きな巨体が床に倒れた。白目を向いて、口からは泡が出ていた。

「そんなっ! お父様! お父様!」

「誰か! 侍医を連れてくるのだ!」

ルーダが泣きながら帝王に駆け寄り、帝妃が叫んだ。

 帝王ヨアが倒れた直後、ジョルリア軍は全員、ジュナ村に向かって出陣した。ビルダ帝国とアレキルエラ帝国のジュナ村襲撃のニュースは、瞬く間にジョルリア国中に広まった。国民は恐れおののき、逃げ惑った。首都バウディアにも、村や市から逃げてきた者たちで溢れかえった。ジョルリア軍が出兵した日の夜明け、ビルダ帝国とアレキルエラ帝国によってジュナ村が陥落したとの報せが届いた。政府は、ジョルリア軍が今どうなっているのかを知るべく無線通信を送ったが、それ以降ジョルリア軍からの通信は途絶えた。近衛部隊は、王族を北部の聖カリダ帝国へ避難させようと考えたが、北部へ行くにはジュナ村の横を通るか、東部か西部へ続く山の中を通らなければならないため、決断できないでいた。

 帝王が倒れてから、五日目の夜を迎えていた。

 帝王が横たわっているベッドの側で、帝女ルーダが跪き、ヨアの手を握りながら涙を流していた。帝王の部屋には、侍医と、帝王とルーダの侍女、護衛がいた。

「――お父様……お父様――」

ポタ、ポタと、ヨアの大きな手にルーダの涙が落ちた。その時、ヨアの指がピクリと動いた。

「――ルー……ダ――?」

ルーダは目を見開いた。ヨアはベッドの上で、うっすらと目を開いてルーダを見ていた。

「お父様!」

ルーダはヨアに抱きついた。

「帝王様が目を覚まされた! 他の者に伝えよ!」

侍医が叫んだ。ヨアの侍女長は転げるように走っていくと、部屋を出ていった。

「お父様っ、お父様っ」

ルーダはヨアの大きな胸の上で泣いた。ヨアは大きな腕をルーダの背中に回し、細いその体を弱弱しく抱きしめた。

「お父様っ……、ビルダ帝国とアレキルエラ帝国が、ジュナ村を陥落させました――。今、ジョルリア軍との通信が途絶えており、状況が分かりません――。お父様……我が国は、我が国はどうなってしまうのですか――? わたくしは、嫌ですっ――。ジョルリアを、滅びさせたくありませんっ――」

ルーダは泣き叫んだ。ルーダの涙が、白いヨアの寝間着を濡らしていく。ヨアは両手でルーダの頬を持ち、その美しい両眼をじっと見つめた。

「――ルーダよ」

ヨアの声は掠れていた。ヨアの両手は震えていた。

「生きるのだ。例えこの国が滅び、私が死んだとしても、お前だけは生きなさい。ルーダさえ生きていれば、必ずや、正統なジョルリア帝国の継承者としてジョルリア国を復活させることができる」

ルーダは首をふるふると振った。

「いやっ――。いやですっ――! どうして――。どうしてそんな、そんなことを言うのですか――。ジョルリア帝国は勝つと言って下さいっ――。お父様っ――」

「ルーダよ……。聞くのだ。私は、きっともう長くないかもしれない……。この体では、敵が攻めてきた時にはすぐに捕らえられるであろう……。――その前に、ルーダに話しておかねばならぬことがある――」

ルーダはヨアにしがみついた。

「言ってください――。言ってくださいお父様――」

ヨアはゆっくりと、首を持ち上げた。

「他の者は下がれ――。しかし、ミカとアリアは残りなさい」

ルーダは驚いたようにミカとアリアを振り返った。ミカとアリアも、目を見開いた。帝王は今、自分たちを名前で呼んだ――?

 他の侍女たちが下がり、部屋にはヨアとルーダ、そしてミカとアリアだけが残された。ミカとアリアは驚きのあまり、その場に立ち尽くすことしかできなかった。

「ルーダよ、私の体を起こしてくれぬか――」

呆然としていたルーダは、ヨアの言葉にハッと我に返った。そして、ゆっくりとヨアの体を起こす。ヨアは体をベッドの背にもたせかけると、じっと、立ち尽くしているミカとアリアの姿を見た。二人を見るその目は、どこか優しげで、悲しみの色を帯びているようにさえも見えた。

「ミカ、アリア。こちらへおいで」

ミカとアリアは顔を見合わせた。全く状況が読めなかった。ただの護衛の身分である自分たちに、ヨアはまるで自分の子どもに話しかけるかのように優しく話しかける。

 ミカとアリアは、恐る恐るヨアのベッドに近づいていくと、ルーダの後ろで足を止めた。

「こちらへ来なさい。もっと、顔をよく見せておくれ」

ヨアはそう言って、ルーダがいる方とは反対側を手で示した。二人は困惑しながら、ベッドの脇へ行き、跪いた。

「顔を上げておくれ」

ヨアが言った。ヨアは、顔を上げたミカとアリアの顔を、食い入るようにじっと見つめていた。その両目は次第に濡れていった。ミカとアリアは、困惑しながら、ただヨアの顔を見ることしかできなかった。

「ミカ、君はその黒髪と目が、イェダンにそっくりだ。アリア、君は、生き写しかと思うほどアリによく似ている……」

二人は息を呑んだ。知っているはずがない――。なぜ、帝王が――。

「――なぜ、父さんの名前を――?」

アリアの口から掠れ声が出た。ヨアは、優しい眼差しでミカ、アリア、そしてルーダを見た。

「私は昔、イェダンとアリと、親友だったのだよ」

ミカは驚いて両手で口を押えた。ミカの脳裏に、笑っている父、イェダンの顔が蘇った。遠い昔に亡くなってしまった、大好きな父の顔を。ミカとアリアとルーダは目を見合わせた。三人の目が合った時、心にじんわりと温かいものが広がった。

「私たちが出逢ったのは、私が二十三の時だった――」

ヨアは、昔を思い出すように遠くを見つめた。



「帝子様、またお忍びに行かれるのですか?」

鳥月の暖かい風が木の葉を揺らす昼下り。近侍は、一人で貴族の服に着替えている帝子ヨアに向かって、綺麗な八の字眉を作ってみせた。ヨアはちらりと近侍を見た。

「お前も早く着替えろ」

近侍は手を揉みしだく。

「つい先日も、帝王様からお忍びは控えるようにとお叱りを受けたばかりではありませんか。それに、帝子妃様もお一人でお寂しいかと……」

「それなら私一人で行く」

なりません! と、近侍はヨアに言った。ヨアはふくよかな頬を緩めると、早く着替えろと近侍を急かす。近侍は仕方なく服のボタンに手を掛けた。

 城下街の市場は、平日だというのに民で溢れ返っていた。

「全く、帝子様はなぜそんなにもお忍びがお好きなのですか?」

近侍が困った声を出す。ヨアはその問いに鼻で笑うばかりで何も答えようとしない。そればかりか、ものすごいスピードで歩いていくので、近侍は半ば走るしかない。すると突然、ヨアは宝飾屋のテントの前で足を止めた。

「アディには何が似合うと思う?」

ヨアが近侍に言った。近侍は目を輝かせて机に並べられた宝飾を見渡す。

「――そうですねえ。この髪飾りなんかは――? あれ? 帝子様? 帝子様!」

振り返った先には、ヨアの姿はどこにもなかった。

 ヨアは、人でごった返す市場の中を全速力で走っていた。ハアハアと息を上げて後ろを振り返る。

「うまく撒けたかな……うわ!」

突然、ヨアは尻もちをついた。右肩がズキズキと痛む。ヨアは顔を上げた。そこには、二人の若い青年が立っていた。一人は日に焼けた小麦色の肌と真っ黒い髪の毛を持ち、もう一人は肩まであるカールした茶色の髪の毛と、東部ビルダ帝国の人間であることを意味する灰色の鋭い瞳を持っていた。二人は共にくたびれた庶民の服を着て、腰から立派な剣を下げていた。

「申し訳ありません。お怪我はありませんか?」

黒髪の青年が、ヨアの方に屈んで手を差し出した。ヨアは全く怒ってなどいなかったが、二人を怖がらせてやろうと思って二人をキッと睨んだ。

「手助けなど必要ない」

ヨアはすくっと立ち上がった。立ち上がると、ヨアは二人の青年と同じくらいの背丈だったが、体の大きさはヨアの方が大きいので、威圧感を与えた。灰色の瞳の青年は、目を細めてヨアをじっと睨んでいる。ヨアは腕を組んで二人を睨んだ。

「お前たち、無礼だぞ」

「はあ? ちゃんと前を見てなかったお前が悪いだろ」

灰色の瞳の青年が言った。

「おいアリ、やめろ」

そして黒髪の青年がアリと呼ばれた青年の耳元に顔を寄せて囁くのが聞えた。「貴族の坊ちゃんだぞ」と。

「はあ? 貴族?」

アリはヨアのつま先から頭のてっぺんまで眺め回す。

「もういいだろ、すみません。こいつちょっと喧嘩っぱやくて」

黒髪の男はヨアに向き直ると頭を下げた。

「ただで帰すわけにはいかないな」

ヨアは二人を見下ろした。黒髪の青年の顔は強張っていた。しかし、アリの顔は挑戦的にヨアを睨んでいる。

「十キルトずつよこしたら許してやる」

ヨアはにんまりと笑った。ヨアの胸には変な悪戯心が働いて歯止めが効かなくなっていた。

「そんな……」

黒髪の青年は困ったように、自分の懐を漁り出した。

「待て、イェダン」

アリは、イェダンと呼んだ青年の腕を掴んで引き留めた。その目は鋭く細くなり、ヨアをじっと見上げている。

「大人しく金をやるわけにはいかないね。どうしても金を取りたいって言うなら、俺との勝負に勝ってからだ」

「勝負?」

アリは自分の剣の柄を掴んだ。

「剣で勝負だ。俺が負けたら俺とイェダン、合わせて二十キルトやる。でも、もしお前が負けたらお前が二十キルトよこす。どうだ?」

ヨアはしばらくアリの顔をじっと見ていたが、にんまりと笑った。

「乗った」

アリは唇の端を上げて笑うと、イェダンの腰から剣を抜いてヨアに渡した。

「ちょっと待てっ、アリ、正気か?」

「俺はいつでも正気だ」

アリは早くも剣を構えている。イェダンは二人の間に割って入った。周りには、何事かと民たちの群れが出来ていた。

「僕たち、この国の軍人なんです。それに、何ていうか、こいつは、東部から留学に来てる軍人で、腕が立ちます。あなたに怪我をさせるわけにはいきません」

イェダンはヨアに言った。ヨアはそんなイェダンを一笑した。

「貴族のぼんぼんが何もできないって思っているのか? 私も昔から剣術は習っている。さあ、こい」

アリはイェダンを横へ押した。群れをなした民が、決闘を始める二人に野次を飛ばす。ヨアは剣を構えた。

 先に動いたのはアリだった。ものすごい速さで剣の切っ先をヨアに突き出す。ヨアは、それに応えるように剣を裁いていく。市場には、決闘を見ている観客の歓声と、カンカンと剣がぶつかる音が響いた。イェダンはヨアの剣裁きを見て驚いた。基本的な動きができているし、ちゃんとアリの剣裁きに応えている。アリはまだ手加減しているが、それでもアリの剣を受けたら大抵すぐに皆剣を落とす。次第に熱は高まっていき、ヨアの息も上がってきた。時間が経つごとに、アリはヨアをじりじりと追い詰めていく。そして剣裁きも早くなっていく。ヨアは隙を見てアリの首元に剣を突いたが、その一瞬前でアリに剣先を絡め取られる。そこから更に一進一退が続き、汗が頬を伝ってきて、風のような速さのアリの剣裁きに応えることしかできなくなったヨアはついに体勢を崩した隙を突かれて喉元に剣を突きつけられた。ヨアはそのまま尻もちをついた。

 大きな歓声が市場に鳴り響いた。アリはヨアに剣先を向けたまま、上から笑みを浮かべてヨアを見下ろしている。アリはヨアの手からイェダンの剣を奪い取ると、イェダンに投げ返した。ヨアははあはあと、大きく息を上げて汗だくだ。しかし驚いたことに、アリは全く息も上がっていなければ、汗もかいていない。

「ほら」

アリはヨアに手を差し出した。ヨアはその手を掴んで立ち上がろうとした時、アリに物凄い勢いで引っ張られてそのまま反対側の地面に叩き落とされた。観客から悲鳴が上がる。

「アリ! 何やってるんだ!」

アリは倒れたヨアの上に馬乗りになって、そのまま拳を振りかざし、一発、二発とヨアの白い顔を殴った。ぶん、ぶんとヨアの顔は右へ左へと倒れ、鼻血がドクドクと流れる。最後に一発、アリは剣の柄でヨアの鳩尾を殴った。

「うっ!」

ヨアは一瞬息が吸えなくなり、体をくの字に曲げて呻く。

「バカ! こいつ! 何やってんだ!」

イェダンはアリをヨアから引きはがし、一発くらわす。アリは声高らかに笑って、地面の上で苦しんでいるヨアを見下ろした。

「地位を振りかざして高慢ちきになってると、どんな目に遭うか分かっただろ! 最初から軍人に勝てると思うなよ! じゃあな! ぼんぼん!」

アリはイェダンを連れてその場から走り去って行った。


 数日後、腫れ上がった顔に湿布を貼ったヨアは、カリス帝城の裏庭で政治学の本を読んでいた。すると、急に裏庭の木の扉が開いて軍服を着た青年二人が入ってきた。よく見ると、それはこの前市場で会ったイェダンとアリだった。

「あ」

ヨアが見ていると、イェダンがヨアに気が付いて立ち止まった。アリもヨアに気が付くと、顔をしかめた。

「何でお前がここにいるんだ」

ヨアは本を持って立ち上がると、二人の元に歩いていった。

「ごめんなさい」

ヨアは頭を下げた。顔を上げると、イェダンとアリは驚いた顔でヨアを見上げていた。

「この前は、ごめんなさい。私は、本当は怒っていなかったし、君たちからお金を取ろうとも考えていなかった。ただ、少しからかってやろうと思っただけだった。でも、あんな風に君たちを困らせ、怒らせてしまった。どうか許してほしい」

ヨアはもう一度、深く頭を下げた。しばらく沈黙が続いた。明らかに二人は困惑しているようだった。

「俺たちこそ、ごめんなさい」

イェダンが言った。

「あなたに怪我をさせてしまって」

ほら、お前も謝れよ、とイェダンがアリに言う。アリはしばらくヨアを見ていたが、突然吹き出し、お腹を抱えて笑い出した。

「おいアリ!」

「お前、案外面白い奴だな! 気に入った!」

アリは手をヨアに差し出した。

「友達になってやる!」

ヨアは笑みを浮かべて、アリの手を取った。

 それから、三人はよくカリス帝城の裏庭で会っては、話に花を咲かせた。軍での話、好きな人の話、趣味、好きな遊び、家族のことなど。ヨアは自分が帝子であることは二人に隠していたが、それは隠し通せるはずもなく、しばらくして二人に素性を知られることとなった。しかし、ヨアが帝子だと知っても、イェダンとアリは、ヨアにこれまでと変わらず接し、友であり続けた。そこから、五年の月日が流れた。ヨアは二十八歳、イェダンとアリは二十六歳となっていた。

「つまり、西部が何か陰謀を企んでるってことか?」

よく晴れた昼下り、三人は裏庭で円をかいて座っていた。アリがヨアに言った。ヨアは頷いた。ヨアの顎には、金髪の髭が伸びていた。

「そうだ。アレキルエラ帝国は、ずっと前から国土を拡大させようとする動きがあると思う。実際、あの国は複数国の集まりで成り立っているし」

「でも、今回の件はビルダ帝国がアレキルエラ帝国から大量の武器を密輸していたのに、何でビルダ帝国じゃなくアレキルエラ帝国を疑うんだい?」

イェダンが聞いた。うん、とヨアが顎に手を当てる。

「私の考えでは、東部と西部はつながっていて、東部の背後にいるのが西部なんだ。東部はきっと、西部のアダラ皇帝に、うまいこと言われているんだろう。五年前にアダラ皇帝になってから、どうも雲行きが怪しい。何か、アレキルエラ帝国は陰謀を企んでいるような気がする」

「それ、帝王様には言ったのか?」

アリが鋭い眼光で聞いた。

「東部が西部から武器を密輸していたというのは申し上げた。でも、東部と西部がつながっていることや、西部が何か企んでいるというのは、ただの私の憶測にすぎない。だから、それは申し上げていない」

ヨアは、苦しそうに目を閉じた。

 それから、更に五年の月日が流れた。軍で優秀な成績を収めていたアリとイェダンは、将来、ヨアやその子どもの護衛にと囁かれていた。実際、その実力の噂がカリス帝城まで入っており、帝王たちは現実的にそれを実現させようとしていた。しかし、優秀な実力を持ったアリは、東部ビルダ帝国に戻され、ビルダ帝国の帝子の護衛に着任した。アリは東部に帰った後すぐに、密かに想いを寄せ合っていた城下町の市場の売り子のマリアという女性と結婚した。イェダンはその数年前に、地元の幼馴染と結婚していた。ヨアとアディの間には、王宮や国民から世継ぎを望む声が上がっていた。そんな時、東部ビルダ帝国では、ビルダ帝国の帝王が暗殺された。その報せは、大陸中に戦慄を走らせた。ヨアたちは、遂に東部と西部が行動を開始したと勘ぐった。そして、アリに警告の手紙を何通も送り、近況を確かめ合った。なぜならば、アリが護衛をしていた帝子というのは、暗殺された前王の一人息子、いわゆる、ビルダ帝国の正血統を継ぐ最後の一人だったからである。前王が殺された今、殺意が向けられるのはこの帝子であるのは目に見えていた。そんな時、帝子妃アディの妊娠が分かり、その数か月後にアリ、その二か月後にイェダンの妻にそれぞれ妊娠が分かった。しかし、その頃には既にアリと帝子は命を狙われ、逃亡生活を送っていた。ヨアとイェダンがアリの安否を確かめられるのは数か月おきに送られてくる手紙だけだった。そして、これが最後となった、アリからの手紙が二人の元に送られてきた。

「イェダン、そしてヨアへ。

この手紙がお前たちのところに届く頃には、俺はどうなっているか分からない。今、帝子様と二人でそこら中を逃げ回っている。帝子様はとても不安がっておられる。この生活がいつまで続くのかも分からない。社会がどうなっているのかも分からない。でも、俺は最後まで帝子様のために命をかけようと思う。皮肉なのは、俺が恩を受けてきたビルダ帝国軍の連中が全員敵になってしまったことだ。尊敬していた隊長、アンドレア・オベールも、俺の最大の敵となってしまった。アンドレアは敵のためならどんなことでもする人だ。俺はそんなアンドレアを尊敬していたが、今となっては憎むしかない。ビルダ帝国がやろうとしていることは間違っていると確信しているからだ。俺は正しい道のみを生きていくと決めた。

 嬉しい報せがある。星月に、俺の息子が生まれた。マリアたちも、俺の家族ということで命を狙われている中での出産だったと聞いた。俺のせいで、マリアたちを辛い目に遭わせてしまって本当に辛い気持ちでいっぱいだ。早く、マリアの顔を見たい。赤ん坊の顔を見たい。マリアが、俺に赤ん坊の名前を付けて欲しいと手紙を書いてきたので、俺は、自分の名前のアリと、マリアの名前の二つを取って、アリアと名付けた。俺は、まだ、アリアの顔を見ていない。この手で抱いてもいない。でも、必ず、いつか必ず、俺の息子の顔を見たいと願っている。でも、俺の仕事は帝子様を守ることだ。それが叶うならば、俺はこの命を捨てなければならないと思っている。ヨア、立派な君主になって、この大陸の平和を守ってくれ。それができるのはお前しかいない。イェダン、お前は、家族を幸せにするんだぞ。俺みたいに命を狙われて、悲しませるようなことはよせよ。イェダンとヨアの安全と幸福を願っている。アリ」

その手紙が届いた数か月後、帝子は捕らえられ、アリは殺されたという報せが届いた。ヨアとイェダンは、日が暮れるまで泣き続けた。そして、死んだアリのためにも、このジョルリア、そしてこの大陸の平和を必ず守ると誓い合った。

 しかし、その八年後。イェダンは戦地に行ったきり、帰っては来なかった。戦死したのだ。そしてヨアは、親友を二人失って、一人ぼっちになってしまった。しかし、必ず、二人の死を無駄にはしないと決意した。立派なジョルリアの君主になろうと。



 その日は、青月の二十二日の夜だった。

 ビルダ帝国とアレキルエラ帝国がジョルリア国のジュナ村を襲撃してから一週間が経った。

 それは突然やってきた。

 ルーダとロイの寝室には、二人の規則正しい寝息が響いていた。

 その時だった。

 大きな爆発音がして、大地が揺れた。ルーダはハッと目を覚ました。寝室の大きな窓に亀裂が入り、部屋は熱気に包まれた。続く、大きな爆発音と地震のような揺れ。そして、大きな怒声が聞えて来た。ルーダは震える足で窓に駆け寄ると、重いカーテンを開けた。

「――っ!」

ルーダは目を見開き、口を両手で押さえた。全身がガクガクと震えた。首都バウディアが、火の海に包まれていた。真夜中だというのに、広がる火の灯りで街全体が奇妙に浮かび上がり、空が明るかった。逃げ惑う民の姿が見えた。旗を掲げて馬を走らせる軍人の姿が見えた。それがジョルリア軍でないことは分かった。そして、カリス帝城の敷地にも、敵軍でひしめき合っているのが見えた。その時、外の廊下から女の叫び声と、男の怒鳴り声、剣の触れ合う音が聞えた。

「ロイ! ロイ! 起きて! 起きて!」

ルーダは泣きながら、寝ているロイを揺さぶり起こした。ロイは弾かれたように起き上がると、窓の外の火の海を目にし、状況を理解した。

「ルーダ様っ、逃げなければ!」

その時、寝室のドアが勢いよく開いた。ルーダは叫んだ。ロイは強くルーダを抱きしめた。

「帝女様! ご無事ですか!」

ルーダは目を開いた。そこにいたのは、ランプを持ったミカとアリアだった。後ろには怯えた侍女たちが震えている。

「ミカ、アリア、ルーダ様を頼む!」

ロイが言った。ルーダはロイを振り返った。

「どうしてっ? ロイも一緒に――」

「僕は、帝王様と帝妃様の安全を確かめに行ってきます。その後で、お二人と一緒に僕も行きますから、だから、ルーダ様、先に行ってください!」

ルーダは涙を零しながら首をぶんぶんと横に振った。

「嫌! 嫌よ! ロイと一緒でなければ嫌!」

ロイはルーダの震える両肩を持った。

「必ず、必ずすぐに行きますルーダ様。奴らが狙っているのは、帝王様とルーダ様です。ミカとアリアと一緒にいれば安全です。お願いです。先に行ってください。必ずすぐに行きますから」

その時、ひと際大きな爆発音が廊下で聞こえた。そして、ひどい煙が廊下に充満していくのが見えた。ルーダは煙を吸って咳き込んだ。廊下を、女官たちが逃げ惑っていく。

「帝女様! 時間がありません!」

ミカが叫んだ。ルーダは泣きながらロイを見つめた。

「ロイ、愛してるっ」

「愛してますルーダ様」

二人は強く抱き合った。ルーダは意を決したようにロイの腕から離れると、待っているミカとアリアの元へ駆けていった。ミカはルーダにハンカチを差し出した。

「これで、鼻と口を覆ってください。廊下は逃げる人でいっぱいです。離れないように、今だけ、手を繋ぎます。行きますよ!」

ミカとアリアはルーダを真ん中にしてルーダの手を繋いだ。そして、煙と味方と敵が雑踏する混乱の中へ走り出した。

「どこへ逃げるのっ?」

走りながら、ルーダは叫んだ。

「一番高い塔まで行きます! この城の中は、もうどこも敵でいっぱいです! 入口も塞がれています!」

アリアが叫ぶ。カリス帝城の中は、武装した東部軍と西部軍でいっぱいだった。そして、皆、腕に赤い布を巻き付けていた。それは、一番最初にルーダに殺害予告が出された時の紙と同じ赤だった。カリス帝城の中は、敵軍が仕掛けた爆弾の煙で白く霞んでいた。それがルーダの姿を隠していた。

「帝王を差し出せ! 帝女を差し出せ!」

敵軍の口々に叫ぶ声が聞えた。

 ミカたちは長い廊下を走り、階段を上がり続けた。

 爆弾が大きな階段を吹き飛ばすのを見た。

 近衛部隊が敵軍と戦っているのを見た。

 どこかから飛んできた矢がルーダの侍女たちの誰かに当たったのを見た。

 侍女長が背中を斬られたのを見た。

 若い女官が腹を剣で貫通されたのを見た。

 階段から落ちてきた女官が動かなくなったのを見た。

 誰かの手が吹き飛ばされたのを見た。

 大きなシャンデリアが女官の上に落下したのを見た。

「ジョルリア軍の隊長と副隊長を捕らえた!」

男の声が聞えた。

「帝王ヨアと帝妃アディを捕らえた!」

野太い声が聞えた。

「帝女を捜せ! ここへ連れて来い!」

誰かが叫ぶ声が聞えた。

 ミカとアリア、ルーダは、一番高い塔に続く螺旋階段を上がっていた。ルーダは息を切らした。

「帝女様! 早く!」

「もうだめ……足が、動かない!」

アリアがルーダの前にしゃがんだ。

「僕の背中に乗って下さい!」

アリアはルーダをおぶって階段を駆けあがった。上を見上げても見上げても、階段の螺旋は永遠に連なっている。ミカとアリアは物凄い勢いで足を動かし続けた。螺旋階段の下の方で、男の声と、足音がした。

「アリア! 早く!」

「頑張ってる!」

もう足が千切れそうだった。汗はドクドクと首筋を伝った。ルーダをおぶる腕は痛くて取れそうだった。

 やっとのことで塔のてっぺんまでついた。三人は倒れ込んだ。アリアはルーダを下ろすとすぐに重い木の扉を閉めて、閂をした。塔のてっぺんは、狭い部屋で、鉄格子のはめられた窓が一つあるだけだった。

「ここには、他に出口はないのよ! 敵が追いついたら、すぐに捕まってしまう!」

ルーダが叫んだ。

「ミカ! そこにある斧を取れ!」

アリアが部屋の壁に掛かっている大きな斧を指さして叫んだ。

「え!?」

「斧で鉄格子を落とすんだ!」

そう言う間にも、こちらへ来る足音は徐々に大きく、確実なものとなって来る。アリアは自分の剣を抜いて鉄格子の周りを打ち刺し始めた。ミカは震える両手で斧を掴むと、力いっぱい振りかざす。こんなの無茶だと思いながらも、やるしかない。足音が近づいてくる。ミカは斧で、アリアは剣で必死に鉄格子を打ち落とそうとする。徐々に石の壁に亀裂が入って、小さな欠片となって下へ落ちる。足音が近づいてくる。

「もっと力込めろ!」

「やってるよ!」

両手が震えて、うまく力が入らない。

 その瞬間。鉄格子が外れた。何十メートルも下にある海へと、鉄格子は落ちた。足音が大きくなった。男の息遣いが聞こえて、ルーダは扉を振り返った。

「いるわ! このすぐ向こうに!」

ルーダが叫んだ。

「女の声がしたぞ!」

閂のかかった木の扉が強引に揺さぶられた。

「ここから飛び降りるんだ!」

アリアが叫んだ。

「え!?」

ルーダが叫んだ。

「早く!」

アリアとミカがルーダの体を引っ張った。三人は体を、落とされた窓の淵から突き出した。何十メートルも下の海の、潮の香りが鼻孔をついた。三人は、互いに強く手を握り合っていた。

「三! 二! 一!」

塔の木の扉が爆破し破られた。

 敵軍が現れ、矢を放った。

 ミカ、アリア、ルーダは、何十メートルも下の海へと真っ逆さまに飛び降り、姿を消した。



 黒い海に三つの水しぶきが上がった。その波紋は次の瞬間、大きく高い波に呑まれて消えた。

 ミカの体に強い衝撃が走っていた。鼻の奥や喉の奥まで海水が入り込んでいる。息をしようと必死に腕をあがくも、その手は空気に触れることはなかった。ミカは急いで辺りを見回して、アリアとルーダを探した。夜の海は暗く、周りは何も見えなかった。その時、何かがミカの体に激しく当たった。見ると、首を押さえたアリアがもがいていた。ミカはアリアの唯一の欠点は泳ぎができないことだと思い出した。ミカはアリアの腕を絡め取った。そしてそのまま、平泳ぎで右へ左へ進んでいく。ルーダはいないかと必死に腕を伸ばした。しかし、とうとう息が苦しくなって水面に向かって上昇する。顔が空気に触れたかと思った時、大きな波がミカとアリアを被った。ミカは大きく海水を呑みこんだ。苦しくて、思わず咳き込もうとしても口の中に海水が入り込んでくるだけだ。波が抜けた。ミカとアリアは海面に頭を突き出した。

「っはあ! はあっ――、ん――はあっはあっ……」

ミカは空を仰いで空気を求めるように大口を開けた。

「て、帝女様は――?」

アリアが苦しそうに吐き出す。

「分からないよ! 見当たらない!」

ミカは後ろにそびえ建つカリス帝城を見た。ミカたちが飛び降りた一番高い塔からは、敵軍が身を乗り出しているのが見えた。そして、そこから長いロープが降り、何人もの敵軍が海面に向かって降りてきているところだった。ミカは戦慄した。

「来るよ! 敵軍が!」

カリス帝城からは煙が出ていた。帝城の一部は爆発でなくなっている。カリス帝城の眼前に栄えるバウディアは火の海だった。

「アリア! ミカ! ここだ! ここにいる!」

その時だった。ルーダの高い声が聞えた。二人は声のした方を振り向いた。波に揺られながら両手を上げているルーダが数メートル先にいた。

「今行きます! 今行きますから、手を下ろして下さい!」

ミカは叫んだ。ミカとアリアは頷き合うと、ルーダの元へと必死に泳いでいった。

「お怪我はっ、お怪我はありませんか?」

ルーダの元に辿り着くと、ミカは開口一番そう言った。ルーダは金髪の髪を顔に張り付かせて、苦しそうに呼吸をしている。

「足が痛い」

ルーダはそう声を絞り出した。ミカはカリス帝城を振り返った。ルーダが海に飛び込んだところを見られたなら、遅かれ早かれ多くの敵軍が後を追ってくることは分かっていた。敵軍はロープを伝って、今にも海面に足がつきそうだ。追い付かれたらもう後はない。ミカは思った。

「全力で泳ぐぞ、とにかく泳ぐんだ!」

ミカはアリアとルーダにそう言った。ミカは二人の腕を取ると、どこまでも続く海の先に向かって二人を引っ張りながら泳いだ。泳いでも泳いでも、対岸の岸には辿り着かなかった。足が痛かった。服が水を呑んで重かった。脱ぎたかったが脱ぐ時間さえもなかった。アリアとルーダは泳ぎが全くできなかった。油断すれば溺れそうになった。そんな二人を引っ張って泳いでいくのは大変だった。数時間が過ぎた。東の空が白み始めてきた。カリス帝城の方角から多くの敵軍がミカたちの方へ泳いでくるのが見えた。その奥からは、小舟に乗ってやってくる敵軍も見えた。矢が飛んで来始めた。アリアは飛んで来る矢を剣で裁いた。そこからさらに数時間が過ぎた。ミカの泳ぎは物凄く早かった。小舟でも追い付かないぐらい早かった。太陽が完全にその姿を現した。日の出の光線が対岸の岸の山からその光を投げかけた時、三人は岸に辿り着いた。

 三人は必死で足をもたつかせながら岸へと上がった。三人は沖を振り返った。数十メートル向こうには、何十人もの敵軍が船に乗ってこちらにやってくる。アリアは背負っていた弓矢で敵軍を射抜き始めた。ミカはルーダの腕を掴みながら、呆気に取られてその様子を見ていた。ミカの体力はもう限界だった。足の感覚は既になく、冷たい海水に何時間も入っていたせいで全身はぶるぶると震えていた。アリアの放った矢は一番先頭の船の敵軍を全員射抜いた。アリアは自分の矢がなくなるまで矢を放ち続けた。もっぱら、ほとんどの矢は海の中に落としてきてしまったのだった。

「よし、とりあえず逃げよう! できるだけ遠くに!」

アリアは弓を背負うと二人に言った。その灰色の目は、いつにも増して鋭かった。

「待って、わたくし、足が痛いわっ、もう走れない!」

ルーダはドレスの裾を捲し上げた。ミカとアリアは息を呑んだ。真白く、細いルーダの左足が深い傷を負い、そこから血がドクドクと流れ出ていた。

「僕の背中に乗って下さい! じき敵軍が来てしまいます!」

アリアはそう言いながら、ルーダの前にしゃがみ込んだ。ルーダがアリアの背中におぶさると、ミカとアリアは走り出した。海岸を抜けると、手入れされていない木々が立ち込める山に入った。二人は必死になって走り続けた。

「アリア! どっちの方向へ行く? 当てもなく逃げていても、迷子になるだけだ!」

ミカが叫んだ。

「聖カリダ帝国を目指すのだ」

ルーダも叫んだ。

「聖カリダ帝国なら、わたくしたちをかくまってくれるかもしれない」

「それなら、北だ! こっちの方向だ!」

アリアが前に出て先導していく。

「チッ、何でこんな時に限って馬がないんだ! こんなんじゃ、すぐに追いつかれるぞ!」

アリアが地面に向かって唾を吐いた。

 途中から、二人は力が尽きて走ることができなくなった。三人はひたすら、聖カリダ帝国に向かって歩き続けた。太陽が真上に昇っても、服が渇き切っても、三人は歩みを止めなかった。太陽が傾きだし、夕暮れの風が吹き始めた。ポツリ、ポツリと雨が降り出し、息をする間もなくそれは土砂降りに変わった。

「……さむい……、さむいわ……」

ルーダが両手を体に巻き付けて弱弱しい声を出した。ルーダの足はびっこを引き、顔は心なしか青白い。ミカは、ルーダの体が弱いことを気に病んだ。ルーダは、果たしてこの無謀ともいえる逃亡生活をやり遂げることができるだろうかという不安だけが残った。しかし、今はルーダの体調を考慮して休んではいられなかった。敵が見えない分、油断したらすぐに捕まるという緊迫感が三人の空気を張り詰めている。三人は激しい雨に打たれながら歩き続けた。次第に空腹感がミカを襲い始めた。昨日の夜に海へ身を投げてから、三人は何も口にしてはいなかった。それでも歩き続けなければならなかった。食事のことなど、今は考えなかった。誰も何も言わなかった。その日は、雨宿りをすることもなく、三人は雨に打たれながら森の中で一夜を明かした。

 次の日、目が覚めると、ルーダの体がぐったりとミカの体に寄りかかっていた。その横では、アリアが木の幹に体をもたせかけてスウスウと寝息を立てている。ミカはルーダの体を支えようとして彼女の体に触れた時、驚いた。ルーダの体はひどく熱かったのだ。ミカは、まさかと思ってルーダの雨で濡れた額に手をやると、とても熱かった。ルーダは、苦しそうにぜえぜえと呼吸をしている。

「アリアっ、アリアっ、起きて!」

ミカはアリアを揺さぶり起こした。アリアは弾かれたように飛び起きた。

「どうした? 何かあったか?」

「帝女様が、体調を崩されてる……」

ミカが弱弱しく言った。アリアはルーダを見た。ルーダの顔は赤く火照っていた。

「――きっと、昨日の雨に打たれて風邪を引いたんだろう……」

アリアが舌打ちをする。

「僕たちのせいだ。雨宿りできる場所を探して寝るべきだった」

「とりあえず、進もう。敵が来るかもしれない」

アリアが立ち上がった。アリアの軍服も雨でびっしょりと濡れ、雫が滴り落ちていた。

「薬はどうするの? 帝女様は体が弱いんだ。薬がないと、ほんとに死んじゃうよ……」

アリアが苛立ったように髪を掻きむしった。

「分かってるっ。薬草を取ってきて作るしかないだろう。でも、それは帝女様が起きてからだ。それまでは逃げないと」

ミカは頷いた。ミカはぐったりと寝ているルーダを背中におぶって立ち上がった。二人はゆっくりと、北に向かって歩き続けた。

 三人が山の中の洞窟に辿り着いたのは、昼近くになってからだった。その頃にはルーダは目を覚まし、具合が悪そうにしていた。ルーダは先々で嘔吐した。洞窟についた時には、ルーダは倒れるようにして座り込んだ。

「帝女様、もう少しの辛抱です。薬草を煎じて薬を作りますから、待っていて下さい」

アリアが言った。ルーダは焦点の合わない目でゆっくりと頷く。

「ミカ、帝女様を見ていてくれ。それで、待ってる間、木の枝で矢を作っていてくれ。もう僕の矢は一本も無くなってしまったから」

「分かったよ」

アリアはそう言い残すと、洞窟を出て鬱蒼と茂る森の中へ走り去っていった。

 アリアは、薬草と山菜を大量に採って戻ってきた。薬草を煎じている間に、ミカとアリアは貪るように山菜を食べた。一昨日の夜から何も口にしていなかったので、どんなに不味くても美味しく感じた。矢も大量に作った。その日の午後は洞窟の中で過ごした。夜になると、また洞窟を出て北へ向けて進んだ。そんな生活が、一週間続いた。

 いつものように、森の中を歩いていたある昼下がりのことだった。一羽の赤い鳥が、どこかから飛んできて三人の後をつけている。

「何だ? あれ」

アリアが鋭く言い放つ。

「敵軍の鳥なんじゃ? 赤色だし」

ミカは恐怖した。

「待って。あの鳥、足に何か括り付けられている」

ルーダが指を指した。見ると、小さな足に巻紙のようなものが縛りつけられてあった。その時、赤い鳥はひらひらとルーダの元へ舞い降りると、その肩にとまった。ルーダが、慎重にその鳥に付けられた紙を外すと、鳥はまた上へ舞い上がり、どこかへと消えてしまった。

「それ、何ですか?」

ミカが言う。ルーダはゆっくりと、紙を広げた。そこには、驚くほど綺麗な文字が並んでいた。ルーダはしばらくして、ぱあっと顔を輝かせた。

「ロイからだわ!」

ミカとアリアは顔を見合わせた。二人は紙を覗き込んだ。そこには確かに、一番下に「R・A」という、ロイの名前のイニシャルが書かれていた。

「ルーダ様へ。僕は無事です。あの後、帝王様と帝妃様の元へ行く前にお二人は捕らえられました。僕は逃げるしかありませんでした。今は、バウディアを離れています。ルーダ様のことが心配です。今、どこにいらっしゃるのか教えて下さい。僕もそちらへ行きます。あなたのお側にいたいです。お返事を下さい。三回口笛を吹けば、あの鳥が来ます。愛しています。R・A」

病み上がりのルーダは、ここ一週間で一番嬉しそうな顔を見せた。

 北部聖カリダ帝国へ行くには、西部アレキルエラ帝国か、東部ビルダ帝国を通る山を渡っていかなければならなかった。三人は、一か八かで西部を通る山を選ぶことにした。安全のため街には降りないと決めていた三人だったが、しかし山にある山菜だけで空腹をしのぐには限界があったし、早く北部に行くためには馬も必要だった。実際、歩いている最中、何度も敵軍が徘徊しているのを目にした。見つかりこそはしなかったが、ここら一体は敵軍が占拠しているのだと悟った。ジョルリア帝国の山を抜けて、西部アレキルエラ帝国の領土の山に入った後、遂に三人は必要なものを求めてアレキルエラ帝国の街へと降りる決断を下した。

「……じゃあ、切ります」

太陽が東から顔を出した頃、ルーダは地面に座り、目を瞑っていた。後ろには、ルーダの長く美しい金髪を持ったミカと、剣を鞘から出したアリアが立っていた。

「やるのだ」

ルーダの声は震えていた。アリアは、ルーダの髪の上に当てた剣を持つ手に一層力を込めた。

「おい、ミカ! ちゃんと髪の毛を持て!」

アリアが、震えた手でルーダの髪を持つミカを叱った。

「わ、分かってるよ。でも、怖いよ。帝女様の髪を、切るなんて」

「切るのは僕だぞ」

アリアが言った。

「よし、いきますよ」

アリアはそう言うと、糸のようなルーダの髪の毛に剣の刃を当てた。そして次の瞬間、剣を勢いよく引いた。ミカは思わず目をギュッと瞑った。目を開けると、ルーダの髪の毛は襟足ギリギリまで切られていた。ミカの両手の中には、切り離されたルーダの、驚くほど美しい長い金髪が収まっていた。

「終わりました」

アリアが言った。ルーダはゆっくりと立ち上がって、二人を振り返った。ミカは息を呑んだ。長い髪を切られたルーダはまるで別人だった。まるで本当の青年が、お遊戯でドレスを着ているかのように見えるほどだった。

「ありがとう」

ルーダは輝く緑色の目を伏せて言った。そして次に、ルーダはミカと服を交換した。街に出るに当たって、ルーダだとばれないように男装をするのが一番いいという結論になったのだった。軍服を着て武器を持ったルーダは、本当に軍人のようだった。その妖しい美しさに、ミカとアリアは思わず魅入ってしまった。しかしアリアは、ルーダのドレスを着たミカを見て腹を抱えて笑い出した。

「おい! 何だよ、失礼だよ」

ミカはそう言いながらも赤面する。困ったことに、ルーダも口元を手で押さえているではないか。

「丁度いいぞ、髪も伸びてきたし。貴族の女みたいだ」

アリアがおちょくった。

「お前たちに、お願いしたいことがあるのだ」

不意に、ルーダが口を開いた。

「何なりと」

ミカとアリアは頭を下げた。

「わたくしのことを、名前で呼んでくれないか」

ミカとアリアは、驚いてルーダを見た。

「わたくしはお前たちのことを、心から信頼し、尊敬している。そして、お前たちはわたくしのソウルメイトだ。わたくしとお前たちの父上も友人だったと知って、尚更、わたくしはお前たちと絆を深めたいと思うようになった。わたくしには、気心のしれた友人がおらぬ。わたくしの護衛であるだけではなく、これからは、わたくしのソウルメイトとして、わたくしの友人として、接して欲しいのだ。わたくしは、お前たちと、友人同士になりたいのだ。わたくしたちの父上が、そうだったように」

ミカとアリアは顔を見合わせた。なぜか、ルーダの言葉がまるで熱を帯びて心の中に入り込んでくるようだった。

「ルーダ様。そう、お呼びすればよいですか?」

アリアが言った。ルーダはアリアを見て、微かに微笑んだ。そしてルーダは、ミカを見た。

「――ルーダ様」

ミカも、恐れ多い気持ちと戦いながら、ルーダの名前を口にした。ルーダは嬉しそうに頷いた。

「では、ルーダ様、ご友人として申し上げます」

アリアが言った。

「言ってみよ」

「僕たちにも、帝配様とお話しになられる時のように、砕けた言葉で話して下さらないでしょうか?」

ルーダが驚いたように目を開いた。ミカも思わずアリアを見つめた。ミカは恐る恐るルーダを見た。ルーダは思案するように一点を見つめていたが、しばらくして頷いた。

「分かった。――いいえ、分かりました」

アリアは鋭い灰色の目を細くして笑った。ルーダも微笑んだ。三人の絆が、一層深まったとミカには感じた。それと同時に、何があっても、必ずルーダを護らなければならないという使命感に掻き立てられた。

「じゃあ、最終確認をします」

昼近く、市が一番栄えている時間になって街へ降りてきた三人は、木の影に立っていた。アリアがそう言って、ミカとルーダの目を交互に見つめた。その目はいつになく鋭かった。

「まず、マントを買う。そのマントで顔を隠して、その後ルーダ様のネックレスをお金に変える。そして、男物の服を三着と、食料、矢、帝配様に返信を書くための羽ペンとインク、新聞と、馬を二頭買う。必要な物を全て買えたらすぐに山へ戻る。いいですね?」

ミカとルーダは頷いた。

 三人は、アレキルエラ帝国民の雑踏する市の中へ踏み出した。ミカは戦慄した。街のあらゆる所に赤い布を腕に巻いた西部軍がはびこっていた。そして、ルーダの人相絵が描かれている紙が壁やテントの至るところに貼られている。三人は急いで用事を済ませると、帰ろうと元来た道を戻っていた。その時だった。目の前に大柄な男組三人が現れて、行く手を塞いだ。

「見慣れない服だと思ったら、貴族の嬢ちゃんじゃねえか。え? いいもん着てんなあ」

男が、ジロジロと舐めるようにドレスを着たミカを見つめている。男が一歩踏み出してミカのマントを取った。はらりと顔にかかっていたマントが落ちて、ミカの傷だらけの顔が露わになる。その顔を見た男はギョッとしたように目を丸くした。

「何だその顔は? ああ? 傷だらけじゃねえか。ぶさいくだな。男みたいな顔しやがって」

男は一発ミカを殴った。不意打ちに、ミカは思わず体をよろける。咄嗟にルーダがミカの体を支えた。

「無礼だぞ」

ルーダがキッと男を睨んだ。ルーダの顔を見た男たちは、途端に顔色を変えた。ミカは、男たちにルーダと気づかれたと思った。

「お前、男のくせにいい顔してんじゃねえか。おい、お前、女は知ってるか? 教えてやるよ」

男はルーダの腕を強引に引っ張った。その時、男はルーダの左手薬指にはめられたエメラルドの指輪に目を留めた。

「おい、こいつ、男のくせに指輪なんかしてるぞ。いい金になりそうだぜ」

男がルーダの指から指輪を取ろうと手を伸ばした。

「離せっ。これは、わたくしの帝配殿からの――は!」

ミカは戦慄した。アリアもルーダを凝視した。ルーダは口を自由な方の手で押さえ、両眼を見開いた。

「帝配?」

男たちは、互いに顔を見合わせた。そして、ゆっくりと、近くに貼られてあったルーダの人相絵に視線を移した。終わった。ミカは思った。しかし、体が動かなかった。恐怖で指一本も動かすことができなかった。男たちは次の瞬間、はっと息を呑んだ。

「貴様、ジョルリア帝国の帝女か?」

その言葉で、ざわりと周りがどよめいた。ミカの額から、冷たい汗が流れた。男たちはにんまりと笑った。

「ひゃっほう。帝女を見つけたぜ。これで金がごっそり入るぞ! お前ら、何やってる! こいつらを役所へ引っ張り出せ!」

その瞬間だった。アリアが剣を抜き、ルーダを掴んでいる男の腹を刺した。男は一瞬目を見開いたかと思うと、そのまま後ろに倒れたまま痙攣した。

「お頭に何する!」

両脇の二人が叫んだ。次の瞬間、アリアは顔を殴られて無様に横に倒れた。止めようと足を踏み出したミカの腕を誰かが掴み、もう一度顔を殴った。ミカは目の前がチカチカした。鳩尾を殴られ、えずいた。朦朧とする視界の中で、ルーダが右へ左へと殴られ、土の上に倒れて動かなくなったのを見た。誰かが、「殺すんじゃねえ!」と叫んだ。三人は両腕を後ろで縛られ、男たちに引っ張られていく。鼻と口から血が流れて、目は腫れてうまく見えなかった。いつの間にか三人の周りには西部軍が囲み、アリアはぐったりとうなだれて、ルーダは目を閉じたまま開かなかった。



 終わった。その言葉だけがミカの脳裏に反芻していた。全身があり得ないほどに痛み、剣を取る力さえも出ない。走馬灯のように、父イェダンと、その友人のアリとヨアの想像上の姿がずっと脳裏に浮かび上がっている。

 ミカとアリア、ルーダの三人は、男二人と西部軍に、どこかへと引きずられていた。意識を失っているルーダは西部軍二人に手足を持ち運ばれている。その時、馬の蹄の音がした。それと同時に、周りの帝国民たちがぞろぞろと跪き始める。ミカは何事かと思い、やっとの思いで顔を上げた。

「止まるのだ」

凛とした、深い声音の女性の声がした。見ると、罪人が乗っていることを意味する白い馬車が目の前に止まっていた。その馬車の側には、同じく白い服を着て武装した男が一人と、白い服の女たちが数人控えていた。女性の声で、西部軍の軍人は歩を止め、軽く頭を下げた。すると、馬車の窓が開き、中から目元以外を白いマントで覆った人物の顔が現れた。その目は驚くほどに透き通ったブルーだった。

「何事だ」

その人物――女性が言った。

「ジョルリア帝国の帝女を役所に連れていくところです」

西部軍が頭を下げたまま言った。女性は視線を、西部軍から、彼らに手足を持たれている意識を失ったルーダに向けた。

「男ではないか」

女性の声は鋭かった。

「男装をしているのです」

「なぜそれが帝女だと分かるのだ。金髪の人間は山ほどいるだろう。証拠はどこにあるのだ」

女性が詰問する。

「失礼ですが、罪人の人間が口を挟むような問題ではないかと存じます。道を開けてください」

西部軍が言った。

「証拠を見せるまでは通さぬ。証拠がなければそれはただの人さらいだ」

西部軍は、ちらと後ろを振り返った。「やれ」。そう言うのが聞えた。次の瞬間、西部軍はたちまち皆剣を抜いた。白い服を着た男も剣を抜いた。周りにいた帝国民たちは悲鳴を上げて逃げ出した。乱闘が繰り広げられ始めた。白い服を着た男は一人で何人もの西部軍を相手取った。その時だった。アリアが自らを押さえていた軍人を蹴り上げ、背中に背負った弓矢をミカへ投げた。そして自分はルーダを持っている軍人に剣を持って掴みかかり、一瞬のうちに二人を殺した。

「ミカ、行くぞ! 馬に乗るんだ!」

アリアの大声でミカの体に生気が戻った。ミカは自分を掴む軍人の手を振り払うと、アリアがルーダを助け起こすのを手伝って、乱闘の中に存在を紛らわして買い取った二頭の馬の元へと走った。馬の上に気を失っているルーダを乗せ、ミカとアリアもそれぞれ馬に 乗ると、勢いよく手綱を引っ張った。馬はいななき、ギャロップを始める。三人は戦闘の勢いに存在を消して山へと姿を消した。

 恐怖の脱出から一週間が過ぎた。三人の顔は殴られた時にできた痣が青く残っていた。三人は馬を得たことで、北部との距離をどんどん縮めていった。青月も残り少なくなってきた頃、ミカとアリアは、ルーダに武術を教え始めた。

「よし、今日はこの辺で寝ましょう」

満月が夜空に神々しく輝く、ある涼しい夜のこと。アリアは剣を降ろして言った。ルーダは顔から汗を滴らせ、剣と共にその場に座り込んだ。

「――はあっ、はあ……」

ルーダは土の上に手をつき、肩で大きく息をした。三人は一日中山の中で馬を走らせてから、夜になって馬から降り、寝る前に恒例となったルーダへの武術の特訓を二時間ほど行っていた。ルーダは元々体が細く、体幹も全くなかった。筋肉もない。最初は重い剣を両手で持ち上げるだけで精一杯だったが、しばらく剣術の練習をしていて基本的な動作はできるようになっていた。

「大丈夫ですか?」

ミカが座り込んでいるルーダの側に言って声を掛ける。

「大丈夫。ありがとうミカ」

「ルーダ様はもうお休みになられてください。明日も早いですから」

ミカの言葉に、ルーダはふるふると首を横に振った。

「いいえ、今日はロイに手紙を書いてから寝るわ」

「手紙、ですか?」

「ロイにわたくしたちの居場所を教えてもいい? もしかしたら助けが来るかもしれないわ」

ミカはアリアと顔を見合わせた。アリアは剣を鞘に納めた。

「僕たちの居場所を文字で書くのは危険です。もしそれが誤って敵の手に入ったら、奴らの思うつぼです」

アリアの声は厳しかった。

「でも――」

「それに、もうジョルリア帝国は事実上陥落しています。ジョルリア軍の隊長と副隊長も捕まった今、助けに来る軍隊はありません」

アリアは躊躇わなかった。ルーダの明るい緑色の瞳が切なく揺れた。

「じゃあ、ロイはどうなるの?」

「――僕たちには、分かりません」

アリアはルーダから目を逸らした。ルーダの頬に涙がつたった。

「ロイは、わたくしの生きる希望です。ロイは、初めてわたくしに居場所を与えてくれたのよ――。もし、もしロイが死ぬなんてことがあったら、わたくしは一生後悔する――。わたくしは――わたくしはロイと一緒にいたい――。お願い、手紙に書くことを許して――」

静かな夜の森に、ルーダの泣き声が響いた。ミカは思わず、ルーダの背中に手を当てていた。

「――アリア、許してやってよ」

ミカの口から言葉が漏れていた。ミカは、ルーダの背を撫でながら、遠い昔に戦死した父親の笑顔を思い出していた。

 それは、ルーダが、三人がこれから行く場所を書いた手紙を赤い鳥に託した日の夕暮れ時のことだった。

 何本もの矢が後ろから飛んで来た。ギャロップする、何頭もの馬の蹄の音が森の中に響いた。風のように、二頭の馬が駆け抜けていった。そのすぐ後を、十頭近くの馬が追いかける。三人は敵軍の襲撃に遭っていた。見つかったのだ。今までも森で敵軍を見つけることはあった。しかし、過去の逃亡の経験から山に詳しいアリアが抜け道を使ってうまくかわしていたのだが、今回はまるで行先を知っていたかのように敵が待ち伏せていたのだった。先を行くのはアリアとルーダが乗った馬。ミカはその後ろを走っていた。ミカは体を捩らせて敵軍に向かって矢を射抜く。アリアは飛んでくる矢を剣で裁いた。ミカの指はもう矢で擦れて血が出ていた。ミカの放った矢が次々と敵軍を落馬させていく。

「ミカ! 大丈夫かっ?」

アリアが叫んだ。

「大丈夫! 早く行くんだ! 僕は後から行くから! うっ――!」

瞬間だった。ミカは落馬した。ミカの馬に敵軍の矢が命中したのだ。地面に落ちた衝撃でミカは一瞬息が吸えなくなった。

「ミカ!」

どこか遠くからルーダの悲鳴が聞こえた。その瞬間、視界が捉えたのは敵軍がこちらに向かって振り降ろす大きな剣の切っ先だった。

 森の鳥が一斉に飛びたった。森の中にミカの絶叫がこだました。ミカは腹部を剣で貫通された。耐えがたい痛みと、朦朧とする意識の中で見えたのは、恐怖に顔を染めるルーダと、アリアの波打つブラウンの髪の毛。そしてその二人を追いかける何頭もの馬だった。その瞬間。ミカの意識は途絶えた。


「大丈夫ですか?」

西部軍の遺体が散在する森の中で、血で滴る剣を一振りして鞘に納めると、アリアはその場にへなへなと座り込んだルーダの肩を抱いた。ルーダは恐怖に引きつった顔を震える両手で覆った。彼女の体は小刻みに震えていた。丁度今、アリアに斬られた西部軍の痙攣が収まって目の光がなくなったのを見た。ミカがいなくなってから敵軍に包囲された。アリアはルーダの盾になりながら、一人で数人を相手取って全員殺した。その場一体は夏の終わりの熱さのせいで、血の臭いで蒸し返っていた。アリアは両膝を地面に着くと、ルーダの震える両手を取った。

「行きましょうルーダ様。――もう少しの辛抱です」

ルーダは、明るい緑色の宝石に涙を溜めてアリアを見上げた。

「わ、わたくしのせいだわ――。わたくしが手紙に居場所を書いたから――」

「もう過ぎたことです。さあ、立って」

「ミカは? ミカはどうなったの? ミカを助けに行かなくちゃ」

アリアはルーダから瞳を逸らし、苦しそうに目を瞑った。

「僕たちには時間がない。あいつを助けに行くことはできません。今はミカを信じましょう」

「そんな――っ。こんな、森の中に独りで――怪我をしているのに――馬だって、いないのに――死んでしまうわ!」

「ミカは優秀な奴です。生き残って僕たちの元に帰ってきます。絶対に」

アリアはそう言うと、さあ、と言ってルーダを起こした。二人は馬に乗って、死体が散在する地を、北部に向けて去って行った。


 一人の青年が、四つん這いになりながら山の中を這っていた。筋肉のついた上半身を露わにして、お腹にはシャツを巻き付けている。その白いシャツからは血が滴り落ちていた。青年――ミカは、血が乾いて刃にこびりついた敵軍の剣を握り締めていた。喉がカラカラに乾いていた。意識も朦朧としている。敵軍に腹を刺されて意識が戻ると、辺りは夜だった。森の中には光一つなかった。ホーホーと、フクロウの鳴く声が聞えてくる。とりあえず、自分で体に刺さった剣を抜いて、来ていたシャツを傷口に巻いてみたものの、痛みは時間が経つごとに増すばかりで、その度に意識が飛びそうになった。ミカは数時間も、森の中を這っていた。

「――は――」

朦朧とする意識の中で、ふと顔を上げたミカの目に、光が漏れているのが見えた。ミカは生唾を呑みこんだ。敵軍の基地かもしれないという嫌な考えが浮かんだ。しかし、このままだと死ぬと分かっていた。一筋の希望に託して、ミカはその光の漏れ出る先へと進んだ。

 それは、真白い家だった。外壁も、屋根も全てが白かった。ミカはその家の庭に、一人の白い服を着た男が立っているのを見た。ミカは男の方へと這っていった。今にも意識は途切れ途切れだった。手足の感覚がない。息も苦しい。視界も歪んだ。男が剣を抜く気配がするのが分かった。殺される。そう思った。その時、真っ先に頭に浮かんだのはアリアとルーダの顔だった。二人の安全と幸福だった。その後は死んだ父のことが過ぎった。次の瞬間にも父の元へ行ける喜びに胸がいっぱいになった。愛する人に会えると思うと死ぬことは怖くなかった。息が止まった。ミカの体に、体が土に着く感覚だけが残った。


 激しく扉が叩かれた。白い囚人服に身を包んだ女性と子供が、扉を振り返った。

「エヴァ様。入ってもよろしいですか」

エヴァは透き通ったブルーの瞳を細めた。

「何事ですか」

深い声音が問うた。

「怪我人がおります。既に瀕死の状態です」

ブルーの瞳を持った子供は机に向かい合った母親を見上げた。エヴァは机に広げていた書物を閉じるとゆっくりと立ち上がった。

「今日の授業はここまでよ。お前はここにいなさい、リダ」

「はい、お母様」

男児――リダはそう言うと、母親に向かって頭を下げた。

 エヴァは勢いよく扉を開けて外へ出た。外には護衛のゼンがいて、彼の足元に若い青年が血だらけで倒れていた。

「中へ入れてあげなさい」

エヴァが静かに言った。ゼンは頷くと、青年――ミカを抱え起こして、家の中へ運び込んだ。

「わたくしのベッドへ寝かせてあげなさい」

エヴァが言った。

「しかし、彼は血だらけです。汚れてしまいます」

「構わないわ。寝かせてあげなさい。リダ、消毒液とガーゼを取ってきて頂戴」

「はい、お母様」

ゼンはゆっくりとミカを横たわらせた。ミカの掌から、血で染まった敵軍の剣が滑り落ちた。ゼンはゆっくりとその剣を拾った。エヴァは、じっとミカの顔を見つめた。傷だらけの顔に、筋骨隆々の白い上半身。

「西部軍でしょうか」

ゼンが聞いた。

「分からないわ。でも、彼の服は西部軍の服ではない……」

「なぜこのような庶民の格好をした者がこんな山奥にいるのでしょうか。それに、こんな怪我まで」

「何者かに追われていることは間違いなさそうだわ。――待って……まさか――」

エヴァはゆっくりと口を手で押さえた。その透き通ったブルーの瞳が揺れ、苦しそうに歪んだ。

「エヴァ様?」

エヴァはゼンを見た。その瞳は濡れていた。

「帝女様の――ルーダ様の護衛の者ではありませんか――?」


 ミカが目覚めたのは、それから三日後のことだった。目が覚めると、簡素なベッドに寝かされていた。刺された腹はすごく痛んだが、包帯で綺麗に巻かれていた。ミカは今の自分の状況を理解するのに時間を要した。しかし、囚人服の女性はミカに食事を与え、風呂に入れてやり、傷の手当を毎日した。ミカは、この女性は自分を殺そうとしているのではないと感じた。ミカが女性に助けられてから一週間後のことだった。体を動かせるようになるまで回復したミカは、アリアとルーダの元へ行こうと決意した。

「そなたに、一つ聞きたいことがあるのだ」

その旨を伝えた日の夜、エヴァは眠っているリダを抱いて口を開いた。ミカはじっとエヴァを見つめた。エヴァの目は次第に歪み、濡れていた。

「――アミュタス様は、お元気か?」

ミカは目を見開いた。

「――なぜ――アミュタス様のお名前を――?」

エヴァはふうと息を吐くと、目を閉じて、涙を流した。アミュタス・ジョルリアは、帝王ヨアの弟だった。

「わたくしは、エヴァ・ルドメリックという者だ」

ミカははっとして目を見開いた。ルドメリック――ジョルリア帝国の貴族の家、聖十一族の一つだった。そしてミカの脳裏に呼び起されたのは、今から六年前、ミカが十五の年に、アミュタスの正妻が西部アレキルエラ帝国の山奥に流刑になったという記憶だった。ミカはなぜこの家が白いのかも、彼らが囚人服を着ているのかも、この時全て合点がいった。罪人は、白を身に纏わなければならないというジョルリア帝国の決まりがあるからだ。エヴァは苦しそうに顔を歪め、目を伏せると、すうすうと気持ちよさそうに眠っているリダの顔を優しく撫でた。

「帝女様は、お元気か――?」

消え入りそうな声で、エヴァは言った。ミカは戸惑った。なぜ、彼女はミカがジョルリア帝国の人間だと知っているのだろうか。

「そなた、帝女様の護衛の者であろう」

ミカはヒュッと息を呑んだ。

「なぜ――それを――」

ミカの声は震えた。

「中々いないのですよ。こんな山奥まで西部軍に追い回される者は。西部軍は優秀だから、すぐに捕まえてしまうのですから。ここまで逃げたということは、ただの庶民ではないことは分かります。他は、女の勘です。そなたの体を見れば、誰でも軍人だということが分かりますよ」

ミカは歯を食いしばった。

「――そうです。――その通りです。僕は、すぐにでも行かなければなりません。帝女様とはぐれてしまったのです。ではエヴァ様は、ジョルリア帝国が陥落して帝女様が逃亡されていることは知っているのですね。僕がここにいると、あなたの身も危険です。僕はすぐにでも行きます」

ミカはそう言って立ち上がろうとした。

「ちょっと待ちなさい」

エヴァが制した。ミカは苦しそうにエヴァを見た。

「そなたたちに――帝女様に、知っておいて欲しいことがあるのです」

ミカはゆっくりと座り直した。エヴァは息を整えるように目を閉じると、その透き通ったブルーの瞳でミカを見つめた。

「今回の、ジョルリア帝国陥落の裏にいるのは西部アレキルエラ帝国と東部ビルダ帝国です。しかし、それを内部から手引きした人物がいるのです。それは、アミュタス様の第二夫人、エルマという女です」

ミカは目を見開いた。ミカの脳裏に、サロンで大口をたたいて笑うエルマの顔が過ぎった。

「エルマは、十歳の時に洗濯女官として王宮に上がり、二十二歳の時にアミュタス様の寵愛を受けました。そして、ルーダ様が十歳の時にアミュタス様の第二夫人となったのです。しかし、エルマは帝国民の税金を無駄に使い、宝飾品や華美な服などを作らせ、次第に王族の中で態度を大きくするようになっていきました。その時から、帝王様の妻である帝妃アディ様の様態が悪くなる日々が続きました。侍医に診てもらっても原因は分かりませんでした。しかし、食事の女官がアディ様の食事に薬を入れているところが見つかりました。そして追及の結果、女官はエルマの指示だと口を割りました。エルマは重い刑に処されるはずでしたが、アミュタス様の寵愛のお陰で罪を免れました。しかし、わたくしはその時からエルマに注意を払うようになり、わたくしの護衛に頼んでエルマを見張るように言いました。そしてその結果、エルマは帝妃の地位になることを望んでいることが分かりました。また、彼女はアレキルエラ帝国の者と文通を交わして密通し、アレキルエラ帝国の味方につけばジョルリア帝国を侵略した後に帝妃の地位を与えるという文書をわたくしたちは発見したのです。そして西部からの依頼が、ジョルリア帝国王位第一継承者である帝女様の殺害でした。エルマはアレキルエラ帝国の者と王宮の外で何度も話し合いを重ねました。しかし、事件が起きてしまうのです。当時、帝女様の侍女だった、ステファという女官がいました。彼女は、エルマたちの帝女殺害の話し合いの現場を、里帰りしている時に聞いてしまったのです。帝女暗殺の計画を聞かれたことを知ったエルマは、口封じのためにステファを暗殺しました」

エヴァはギュッと目をつむった。

「しかし、悲劇は続いたのです。殺されたステファは、ジョルリア帝国の優秀な軍人であった、ジャン・ベルナールの愛娘だったのです」

ミカは息を呑んだ。ジャン・ベルナール――ルーダを殺そうとして監獄に入れられたルーダの元護衛だった。

「エルマは、ステファの父親が腕の立つジョルリア軍の軍人ということを知ると、ステファの死を利用しようとしました。彼女はその時、ステファの死の話で衝撃が走っていた王宮中に、彼女の死の原因は自殺だったという嘘の話を広めました。そして、不可解なことに、その時、当時のルーダの護衛であった男が急死したのです。わたくしたちは後で調べて、それもエルマの企みだったということに気づきました。大事な一人娘を失い、悲嘆にくれていたジャンに近寄ったエルマは、彼に嘘の話を刷り込みました。帝女ルーダは女帝への権力欲しさに父親である帝王ヨアを廃位させようとしている。そして父親の廃位の理由を作るために、侍女であるステファをヨアの元へ、夜の慰めの相手として送り続けたと。そしてステファはそれを苦にして自殺したと。勿論、この話は嘘でした。そもそも、帝王はアディ様だけを愛しておられる。夜の慰めの相手を取ることなどするお方ではありませんでした。しかし、軍人というだけで王族の方々のことをあまりよく知らなかったジャンはこの話を信じ込み、娘の自殺の原因を作った帝女様への復讐の思いに囚われるようになりました。そしてエルマの推薦により、ジャンは次の帝女様の護衛に任命されました。エルマはそんなジャンに、西部アレキルエラ帝国につけば帝女様への復讐を叶えてやると約束しました。そのためには西部の言うことをよく聞くのだ、と。エルマは武術の腕が立つジャンを深層で操り、利用したのです。それ以来、ジャンは帝女殺害という復讐を遂げるために護衛として、帝女様の側でその機会を伺ってきました。他の王族の者たちは、このことに気づいてはいませんでした。わたくしはエルマの企みに気づき、水面下で調べ、証拠集めを行いました。しかし、そのことをエルマに気づかれ、その証拠の文書をアミュタス様に見せつけました。アミュタス様は、彼は、エルマを深く愛していた。そのため、その証拠の文書を見てもそれが真実だとは思わず、私がエルマに嫉妬して、エルマを王宮から追い出そうとしていると信じ込んだのです。そしてアミュタス様は帝王様にその証拠文書を見せました。前帝王はその文書を信じず、わたくしが本当にエルマを追い出そうとしていると信じ込みました。エルマの企みを示す証拠はわたくしの集めた文書しかなく、わたくしの文書の正当性を示すものは何一つとしてありませんでした。わたくしは罪人として監獄に入れられ重罰に処され、お腹の子と共に、ここ、西部へ流刑処分となったのです」

長い長い告白の末、エヴァは口を閉じた。ミカはただ、その綺麗に澄んだブルーの瞳を見つめ返すことしかできなかった。

「最後に、あなたに聞きたいことがあります」

ミカは、ゆっくりとエヴァの来ている白い囚人服を見つめた。

「西部の市へ行ったとき、僕たちを助けてくれたのは、あなた?」

それを聞くとエヴァは、明るいブルーの瞳を細めて、ゆっくりと頷いた。


 ミカはソウルメイトの心が共鳴する方へと馬を走らせていた。エヴァは出立するミカに、立派なゼジル馬と矢、一週間分の食料を与えた。ミカはエヴァに約束した。必ずエヴァの濡れ衣を晴らし、ジョルリア帝国を敵軍から救済した暁にカリス帝城へ迎えられるようにすると。そして、エルマを正しく裁かれるようにすると。

 ミカは、アリアとルーダが今どこへいるのか全く分からなかった。しかし、足の赴く先が二人のいるところだと確信していた。なぜならば、三人は強い絆と愛で結ばれたソウルメイト同士だからだ。

 ミカはそれから、丸五日間、心の赴くままに馬を走らせた。エヴァからもらった食糧も底をついて来た頃、ある夕暮れ時のことだった。鬱蒼と茂った山の中に、一つの小さな掘っ立て小屋を見つけた。見つけた。そう思った。そこにアリアとルーダがいると。その小屋の隙間からは明るい蠟燭の光が漏れ出ている。ミカは早まる気持ちを押さえながら、馬から降りてその小屋の扉を叩いた。

「誰だ」

しばらくして、鋭い青年の声が飛んだ。聞き馴染みのある、アリアの声だった。

「ミカだよ。ミカ・トルドだ」

ミカは大きな声で言った。次の瞬間、勢いよく扉が開き、傷だらけの顔をしたアリアが武器を持って姿を見せた。アリアはミカを見ると、途端に歓声を上げ、ミカを強く抱きしめた。

「ミカが帰ってきた! ルーダ様! ミカが帰ってきた!」

「ミカっ?」

ルーダも奥から顔を見せた。ルーダはミカを見ると駆け寄り、三人は抱き合って幸せを分かち合った。

「――つまり、中で糸を引いていたのはアミュタス様の第二夫人の、エルマ様だったってことか?」

夕食を済ませた後、ミカは事の次第を二人に話した。あれからエヴァに助けてもらったこと。エヴァから、エルマの話を聞いたこと。その話を聞いたルーダは顔を曇らせた。

「わたくし、エルマ叔母様は苦手だった――。でも、まさか――」

「でも、これで全てが解決したな」

アリアが真剣な顔でミカとルーダの顔を見た。

「ルーダ様の殺害予告も、全てジャンの、いいや、エルマの仕業だったんだ。ジャンはエルマに騙されて、嘘の復讐のためにずっとルーダ様の側にいた。そして、ジュレアの第三週目の週末の夜に、僕たちは帝城の裏庭でエルマと知らない男が話しているのを見たんだ。そう早まるな、帝女のジュレアが終わってからだって。きっとそれは、今回の戦争の引き金を引こうとしていた会話だったんだ。今回の戦争の裏にはエルマがいたんだ」

「ジャン・ベルナールは悪くない。悪いのはエルマ叔母様だったんだわ。可哀想なステファ。あの子、本当に優しい子だった――」

ルーダの瞳が濡れた。三人の間に沈黙が訪れた。

「――ルーダ様は、怖くはないのですか」

沈黙を破ったのは、ミカだった。ミカは静かな声で、ルーダに問いかけた。ルーダは涙で濡れた目でミカを見つめ返した。

「王位第一継承者であるが故に、こんなにも沢山の人から命を狙われてしまう。殺人未遂までされた。怖くは、ないのですか」

ルーダはゆっくりと目を伏せた。彼女の緑色のガラス玉に、蝋燭の温かい光がチラチラと揺れた。

「怖いです」

ルーダの声は、言葉とは裏腹に逞しかった。

「ですが、わたくしはジョルリア帝国の帝女です。王位を狙われることも当たり前。嫉妬を買うことも当たり前。命を狙われることも当たり前だと、小さい頃からお母様に教えられてきました。だからわたくしは、いつ死んでもいいと思いながら毎日を生きています。死ぬことは怖い。誰かから、ましてや顔も見たこともない者から恨まれることもとても怖い。でも、わたくしはジョルリア帝国の帝女として、その運命と使命を受け入れています」

ルーダは言った。ミカはアリアを見た。アリアの鋭い灰色の瞳を見た瞬間に確信した。

「約束させて下さい。僕たちは、何があってもあなたを護ります」

ミカはそう言って、ルーダに手を差し出した。ルーダは驚いたようにその差し出された手を見ると、微かに微笑んで、そのミカの手を取った。アリアも、その上から手を置いた。三人の手が重なった時、心の中にじんわりと温かいものが湧いた。

 いつしか太陽は沈み、辺りは暗くなっていた。夕飯の支度をしようと獲って来た魚を焼いている時、突然小屋の扉が激しく叩かれた。三人はハッと扉を振り返った。アリアはすぐに立ち上がると、剣を鞘から出して扉の前で止まった。ミカも弓をつがえて扉の向こう側に狙いを定めた。

「誰だ」

アリアが言った。

「ロイです。ロイ・ド・ハルロッテ・カレミドル・アークです」

アリアとミカは驚いて小屋の奥にいるルーダを振り返った。ルーダはその名前を聞くと弾かれたように立ち上がった。アリアは勢いよく扉を開けた。そこには、顔中傷だらけで武装した、ルーダの帝配――ロイ・アークが立っていた。

「ロイ!」

その瞬間だった。ルーダは扉の向こう側に立っているロイを一目見るなり駆けだして、ロイの元へ行くと抱きついた。

「ルーダ様……」

二人はしばらくじっとお互いを見つめ合っていた。ミカは次第に気まずくなってきて、目を泳がせる。アリアも唇をギュッと引き締めているがにやにやしている。

「お手紙は届かなかったと思ったけど、届いたのね?」

ルーダが言った。

「ちゃんと届きましたよ」

「でも、手紙を出してから敵軍が僕たちのことを待ち伏せていました。その手紙、他の人の手には渡りませんでしたか?」

アリアが言った。

「そうだったんですか? でも、僕以外が見た形跡はありませんでした」

ロイは言った。ミカはロイをまじまじと見つめた。最後に会った時の彼とは印象が大分違った。髭は伸び、髪の毛もボサボサで、柄がライオンの頭の形になっている大きな剣を持ち、立派な弓に赤い矢と、太い縄を持っていた。驚いた事に、敵軍の軍服を身に着けていた。

「その服は?」

アリアが驚いたように言った。

「これは、敵軍の服を着れば捕まらないかと思って、パブで酔った西部軍がいたのでちょっと拝借したんです。あと、この武器もその辺に転がっていて、使えるものは取ろうと思ってとりあえず色々持ってきました」

そうですか、とアリアは呟いた。

「これから夕飯にしようと思っていたところなのですが、帝配様も食べますか?」

ミカが聞いた。すると、ロイは頭を掻いた。

「それなのですが、しばらくルーダ様とお二人にして頂けませんか? 久しぶりにお会いできたんです。二人でゆっくりお話ししたくて」

「どうする?」

ミカがアリアに囁いた。アリアはふっと唇を緩めた。

「もし何かあったらすぐに呼んでください。近くにいるので」

アリアはそう言うと、行くぞ、とミカに言って、小屋を出て行った。ミカもロイに一礼して、その場を後にした。

 秋の始めの、涼しい夜風が森の中を吹き抜けていた。ミカとアリアは二人で小屋を離れて、近くをだらだらと歩いていた。

「ルーダ様、良かったね」

ミカがぽつりと言った。森の中に、虫の鳴き声が幾重にも重なって響いていた。

「うん」

アリアも言う。二人は水が流れる所で止まり、その場に腰を下ろした。

「――副隊長、元気かな」

ミカが言った。ミカの脳裏に、長い白髪をはためかせて剣を操るリオの姿が蘇った。ミカは鼻の奥がキュッと痛くなった。

「さあな」

アリアが返す。

「もう、ほんとに僕たちしかいないのかな。捕まっていないジョルリア軍は」

ミカの弱弱しい声は、秋の風にさらわれて消えた。

「さあな」

アリアは繰り返した。ミカの脳裏に、同じ寮室のドルティンやまだ子供のアシャ、ヘレンや大男ガン、ジアやちょっと意地悪なルイザの顔など、同じ軍人としてこの前まで一緒に生活していた仲間たちの顔が過ぎっては消えていく。ミカの両目から、知らず知らずのうちに透明な雫が零れて下へ落ちた。

「――もう、戦争は嫌だよ……」

ミカは歯を食いしばった。

「僕だって嫌だ。戦争の、大人たちの欲望のせいで僕の家族は皆殺しだ。父さんの顔なんて知らないんだぞ。でも戦わなきゃいけないんだ。戦わなきゃ終わらないんだから」

アリアが言った。満天の星が輝く夜空に流れ星が流れた。その時だった。全身に激しい痛みが襲った。いや、貫いた。そんな言葉では言い表せない、まるで自分自身が砕けてなくなってしまうような激しい痛みだった。心臓が激しく収縮して、その鼓動が耳にまで届いた。ミカとアリアはその苦しさに耐えられずに仰向けに倒れて苦しみもがいた。矢で全身を突き刺されたかのような痛みは引かず、その苦しみから逃れるように身体を捩らせては仰向けになったりうつ伏せになったりして土の上を這いずり回った。苦しみの余り嫌な呻き声が口から飛び出し、両目は白目を向いて気管はギュウッと細くなって息ができなかった。

 突然、その全ての苦しみがフッと止んだ。ミカとアリアは仰向けになって呆然とした。数秒後、二人は跳ね起きた。二人共顔は青白く、全身に汗が噴き出していた。的中して欲しくない考えが二人の頭を支配した。しかしそれはどうしようとも抗えない事実だった。ミカとアリアが二人同時に同じようになるのは、たった一つの事実しかないということが分かっていた。ソウルメイトはそれを共有する――。二人に何も被害がないのなら、ソウルメイトの最後の一人、帝女ルーダに何かが起きた――。

「ルーダ様!」

二人は同時に叫び、ルーダがいるはずであろう小屋へ向かって疾走した。風のように走った。魂が身体を追い越すほどに速く走った。小屋の扉は無造作に開け放たれていた。二人は転がるようにして小屋の中へ入った。

「ルーダさ――」

口を開けたまま目を見開いた。

ミカはへなへなと膝から崩れ落ちた。

アリアの手から剣がするりと抜け落ちて鈍い音を立てて床に落ちた。

 二人が見たもの――それは、天井の梁から吊るされた太い縄に両手首を縛られ、赤い布で目隠しをされ、口には布が押し込まれ、腹と両肺には赤い矢が、心の臓には柄がライオンの形をした太い剣が刺しこまれた帝女ルーダの惨殺された姿だった。



 森の中に、アリアの雄叫びが響いた。

「ロイ・アークめえええええええっ!」

アリアは床に落ちた剣を掴み取り、物凄い勢いで小屋を出ると、ロイ・アークが逃走したであろう山の奥へとチーターのように追い駆けた。しかし残酷な殺人者の行方は知れることはなかった。アリアは遂に土の上に崩れ落ちると首を垂れ、両手をついて忍び泣いた。その夜は、血の雨が降り出しそうなほどに黒い厚い雲が風月の空を覆っていた。


 西部下町のパブで、男たちの下品な笑い声が響いていた。貴族の服を着た若者たちは酒の入ったガラスのコップを片手に持っている。その集団の中心にいるのは、伸びきった髭を綺麗に刈り揃えたロイ・アークだった。ロイはズボンのポケットに片手を入れ、木の椅子に横柄に座り込み、長い両脚を左右に大きく広げている。ロイは酒をグイッと飲むと、ぷはあと息を吐いて嫌な笑みを浮かべた。

「全く、帝女の陶酔っぷりには感激するよ。俺と二人きりになった途端に、愛してるわ、なんて言って、キスを求めてきたんだよ」

うげえ、と、周りの青年たちが舌を出し、吐く真似をする。

「あの馬鹿な護衛共も、俺が武器を沢山持って、西部の軍服を着ていたのに俺のほら話をまんまと信じて。全く、殺しやすかったな」

爆笑が起こった。

「しかし、どうやって帝女の居場所を突き止めたんだ?」

一人が声を上げた。

「帝女自身が居場所を書いた手紙をよこしたんだ。僕はその情報を仲間に知らせ、僕もそこへ向かった」

ロイは嘲ったように笑った。

「アダラ皇帝はさぞお喜びになるだろう。ジョルリアの王位第一継承者を始末できたとなれば、残りは捕まっている王族を死刑に処すだけ。ジョルリアはもう西部のものと言っていいだろうな」

眼鏡を掛けた若者が煙草をくゆらせながら言った。その時だった。パブの扉が勢いよく開いて、一人の下僕が姿を見せた。ロイはだるそうに首を傾げた。

「アーク様。アダラ皇帝からの伝言です。明日の朝十時に謁見に来るようにとのことです」

ロイはいやらしく口角を上げた。彼の周りにいた青年たちはこぞってロイの肩を持ってヒュウヒュウとはやしたてた。


 アレキルエラ帝国ロズド帝城の第一の間には、アレキルエラ帝国アダラ皇帝とビルダ帝国軍隊長アンドレア・オベール、そしてロイ・アークの三人が大きな机を囲んでいた。アダラ皇帝は癖毛の白髪を背中まで伸ばして、黄ばんだ歯を見せて引き笑いをした。

「ようやった。ようやったぞアークの若者よ」

「勿体ないお言葉でございます」

ロイは深々と頭を下げた。

「お前たちアーク家は私が王位に就いた時以来から我が帝国に尽力してくれている。この恩は忘れまい……」

アダラ皇帝は声を掠れさせた。

「アーク家には一万キルト差し出そう。お前には五十万キルトを別途付与しよう」

「ありがとうございます」

「大したものだ。帝王ヨアを長年に渡って騙し、帝配候補として帝女に近づき、更には帝配にまで選ばれて帝女の心を操るとは……」

大したものよ、と、アダラ皇帝は繰り返した。

「お前の父親にも礼を言わなければならんな。長年に渡りカリス帝城に政治家として出入りし、ジョルリアの情報を私に渡してくれたのだから」

「アダラ皇帝、私たちビルダの功績もお忘れではありますまいな?」

妙に高い声が響いた。今まで黙っていたビルダ帝国軍隊長、アンドレア・オベールだった。アンドレアは綺麗に狩り揃えられたおかっぱ頭を傾げて、義眼ではない方の目でじろりとアダラ皇帝を見た。アダラ皇帝はそんなアンドレアを見ると、引き笑いをした。

「忘れるわけがない。お前たちの功績は十分知っておる」

「では私たち東部軍にも報酬を」

「それはジョルリアが我が帝国となってからだ」

突然、アダラ皇帝の声音が変わった。

「我が帝国? アダラ皇帝、ジョルリアの領土はアレキルエラとビルダで分配するとのお約束では?」

アダラ皇帝は、その問いには答えなかった。ただ、じっとアンドレアを見つめているだけだ。目を逸らしたのは遂にアンドレアの方だった。

「帝女は死んだ。すぐにでも王族とジョルリア軍の頭を死刑にするのだ。甘い蜜は完全にジョルリアの息を止めてからだ」

アダラ皇帝は何かに憑かれたかのようにゆっくりと言った。


 まもなく、日が暮れようとしていた。小屋の床の上にはルーダの亡骸が横たわり、その左右に、ミカとアリアが死んだような顔をして座り込んでいた。その次の日も、更にその次の日も、二人は食べることも眠ることもせず、魂が抜けたかのようにただ同じ格好でそこに座っていた。

 一週間が経った。

「――僕たち、どうすればいいのかな」

ミカが、抱えた膝の上に顔を乗せて、その言葉を漏らした。ミカの目の下には隈ができ、アリアはげっそりと痩せていた。

「――北部に行くんだ」

「え?」

ミカはゆっくりとアリアを見た。アリアは今にも倒れてしまいそうな程にやつれていたが、その目だけはいつもと変わらずに鋭かった。アリアは視線を、ルーダの亡骸からミカへと移した。

「聖カリダ帝国に行って法王に謁見するんだ」

ミカは瞳を歪めた。

「――もう、遅いよ。ルーダ様は死んだんだ。王族ももうすぐ殺される。ジョルリア帝国の軍人も皆捕まった。北部に行ったところで僕たちにはどうすることもできない。相手は西部と東部だ。人員も桁違いなんだよ」

「捕まっていない軍人はまだ二人いる」

ミカは顔を上げた。

「僕とミカだ。僕たちはジョルリア帝国の軍人だ。まだ捕まっていない。僕たちが最後なんだ。僕たちがジョルリア帝国を救うことを諦めたら、ジョルリア帝国は本当に滅亡する。ルーダ様の死を無駄にしてしまう。それは駄目だ」

「でも――」

「行くんだ。ルーダ様を背負って。僕たちが最後なんだ」

アリアの瞳は激しかった。

「いいのか? 自分の故郷がなくなっても。父親の死を無駄にしてもいいのか? 僕たちの父親は正義のために死んだ。僕たちも正義のために戦わなきゃいけないんだ」

アリアはそう言って、すくっと立ち上がった。

「人は皆死ぬ時は死ぬ。それなら正義に生きて死にたい。もしミカが死んでも、僕は最後まで戦う」

ミカはアリアを見上げた。夕焼けの光が窓から真っ直ぐに伸び、アリアに後光を差していた。ミカはその時、そう言って立つアリアの顔に、アリアの父――アリの姿が見えたように思った。ミカはアリの顔を見たことはないが、なぜかそこにアリの姿が重なるように思えて仕方がなかった。


 ミカとアリアがルーダの亡骸と共に北部――聖カリダ帝国に入ったのは、秋も深まった風月の終わり頃だった。その間にミカは二十一歳の誕生日を迎えた。もう追手は来ることはなかった。

 聖カリダ帝国の聖都にある法王ラーの住まい――法王公邸に到着したのは、太陽が燦燦と降り注ぐ正午のことだった。二人は帝女ルーダの亡骸を守衛に見せ、法王ラーとの謁見を願い出るとすぐに公邸の中へ通された。

 法王ラーは大きな大理石の椅子に座って、肩肘をつき憂鬱そうにしていた。ミカとアリアは布で覆われたルーダの亡骸を大理石の床へ置くと、身に着けていた武器を全て降ろし、法王の前で跪いた。

「謁見の許可を下さり、誠にありがとうございます。私はジョルリア帝国の軍人、アリア・ユレイルと申します」

「私はミカ・トルドです」

二人は名乗り出た。

「私に何の用かね?」

法王ラーはゆっくりと言った。

「アレキルエラ帝国とビルダ帝国と戦うために、協力してくださいませんか。ジョルリア帝国の軍人は皆捕らえられました。王族も捕らえられました。帝女ルーダは死にました。このままではジョルリア帝国は滅びてしまいます。どうかお願いします」

アリアの声は熱を帯びていた。

「――私は戦争はせん」

長い沈黙の後、法王ラーはぽつりと言った。

「そんな、お願いです――! 西部アレキルエラ帝国は国土を拡大しようとしています。このままではこの国もいずれ危機にさらされます!」

ミカが叫んだ。法王ラーはじっと、目の前に跪いている若者二人を見つめた。

「所詮この世は弱肉強食。弱い者は強い者の支配下に置かれるのだ。この大陸はそうやって文明を築いてきた。今更何かを変えようといっても無理な話。それに、この国は弱い。五年前の北部と南部の戦争で北部が負けたことも見れば分かるだろう」

「僕たちは諦められません! 弱肉強食なんて信じない! 正義が勝つべきだ!」

アリアが叫んだ。法王ラーはうるさい蠅を追い払うように手を振った。

「食事と寝床は与えてやる。西部と東部から逃れられるようにかくまってもやる。それで良かろう。私たちに勝ち目はないのだ」

法王はそう言うと、ゆっくりと立ち上がり、ジャラジャラと服についた宝飾品の音を響かせてその場を去って行った。

 ミカとアリアは、ただ呆然としてその場に跪いているしかなかった。



 聖カリダ帝国の法王公邸の客間に、大きな大理石の棺が置かれていた。その棺の中には、真っ白いドレスを着た帝女ルーダの亡骸が横たわり、棺の両側でミカとアリアがルーダの手を取っていた。二人の頬には涙が伝い、部屋には二人の泣き声が響いた。ルーダの身体は法王公邸に仕える侍女たちによって綺麗に整えられ、死に化粧を施されていた。ルーダの葬儀は法王公邸で二日後に執り行われることになった。

 ミカとアリアはその部屋で夜を迎えた。何も食べる気にはなれなかった。入浴する気にもなれなかった。二人はルーダの手を握りながら、眠りについた。


 夢を見た。


「ルーダ様! 待ってください!」

雲一つない空に、緑の草原の上を、三人は愉快に笑って走っていた。長い金髪をそよ風に波打たせたルーダが、後ろにいるミカとアリアを振り返って笑った。

「ミカ! アリア! 早く」

草原を駆ける三人の上を、黄金色をした蝶々が群れをなして飛んでいく。ミカとアリアはルーダに追いついて、三人はそのまま手をつなぎ、輪になってクルクルと回った。そよ風が気持ちよかった。幸福だった。三人はそのまま草原の上に仰向けに倒れ込んだ。三人は声を上げて笑った。幸せそうな三人の笑い声が辺り一面に響いた。風が空に柔らかい雲を呼んで来た。綿あめのようなふわふわとした雲がゆっくりと流れていった。

「あ」

ルーダが空に指を指して声を上げた。空に赤い鳥が飛んでいた。燃えるような赤の不死鳥は寝転がっている三人の真上に来ると、青い空をくるくると旋回した。そして真っ直ぐにこちらへ飛んで来ると、ルーダの胸の上に着地した。不死鳥は、その首をルーダの胸の上へもたげると、ゆっくりと瞬きをしてルーダの胸の上に涙を一滴垂らした。ルーダの身体が黄金色に輝き始めた。その輝きは次第に強さを増し、燃えるような不死鳥の赤の色さえも見えなくしてしまうほどに強かった。

 ミカはあまりの眩しさに目を強くつむった。


 ミカは勢いよく目を覚ました。

 ルーダと繋がれたままの手が燃えるように熱かった。ミカはハッとして跳ね起きた。アリアも同じだった。二人は棺の中を見て目を見開いた。棺の中で永遠の眠りについていたはずのルーダの瞳が開いていた。そのエメラルドの宝石に光が宿り、天井を見つめていた。

「――ルーダ、さま……?」

ミカの口から掠れた声が出た。ルーダがゆっくりと顔を動かし、ミカを見た。そして、反対側へ顔を動かし、アリアを見た。

「――ここは、どこ……?」

ルーダがそう言った瞬間、アリアはルーダの手を引いてルーダの身体を起こし、その細い身体を強く抱きしめた。ミカも腕を伸ばして二人を抱きしめた。ミカとアリアは泣いた。涙が枯れるまで泣き続けた。その泣き声は、開いた部屋の窓から、朝陽が昇る空へと響いた。

 ルーダは復活した。


 復活したルーダを見た法王公邸の者は皆腰を抜かした。三人が法王に会うために廊下を歩いていると、通り過ぎた者は皆足を止め悲鳴を上げた。ルーダ復活の報せは瞬く間に法王公邸の中に広まり、三人が法王の部屋へ着くまでには公邸の中の誰もがルーダが復活した事実を知っていた。それは法王の耳にも届いた。

 しかし、法王はその事実を信じなかった。ゆったりとした深い椅子に腰掛けた法王は肘をつき憂鬱そうに窓の外を見ていた。どうせ復活の噂は気が触れたあのジョルリアの軍人のでたらめだろうと思った。法王は事実、ジョルリアとアレキルエラ、ビルダ帝国の戦いに関与するつもりはなかった。戦いというものから手を引いていたのだ。そのため、気が触れた可哀そうな若造たちにどんな言葉を掛けてあげようかと悩んでいた。そして、これからの二人をかくまう術をあれこれと考えていた。そんなことをあれこれ考えていた時に、部屋の扉が叩かれた。

「入りなさい」

法王ラーがそう言うと、扉が開いた。扉の向こうに立っていたのは、昨日と同じ服を着たミカとアリアと、死に装束を着たルーダだった。

「ヒッ! ひえあっ――!?」

法王ラーは腰を抜かして椅子から滑り落ちた。法王は震える指でルーダを指すと、ルーダから目を離すことができずに身体を震えさせた。

「お初にお目にかかります。わたくしは、ルーダ・ジョルリアです」

ルーダが話すと、ラーは叫んで後ずさりをした。ルーダはそんな法王に気を留めず、膝を曲げて挨拶をした。

「な、何故にっ! そ、そなたは、死んだはずでは……?」

「ソウルメイトの力の神秘のためです。わたくしは復活しました」

ルーダは法王ラーに一歩歩み寄った。

「ラー法王。わたくしの心臓が再び動いたのは、ジョルリア帝国を救う使命のためです。ですが、わたくしたち三人だけではその使命を果たすことはできません。ラー法王の力が必要なのです」

「――帝女様……、アレキルエラ帝国は強大です。それにビルダ帝国も従えております。聖カリダ帝国が軟弱だということは帝女様も分かっておられるでしょう。この国は宗教家たちばかりで、軍事力はない。そんな国があなたたちに味方をしたとして、勝てると本気で思っておられますか? 不可能でしょう。そんなことは不可能。それが可能になるとしたら奇跡でも起こらない限り無理だ」

「奇跡は起こります。今の、わたくしの復活も奇跡です。ラー法王は神を信じていらっしゃるのでしょう? 毎日神のために祈っておられるのでしょう? 神は正しい者に味方をするはずです。アレキルエラ帝国とビルダ帝国のしていることは間違っています。わたくしたちがしようとしていることが正しいから、ソウルメイトの神秘の元でわたくしは生き返りました。奇跡が起きました。わたくしたちのしようとしていることが正しいから、法王ラーがわたくしたちに味方をすれば、奇跡は起こるはずです。法王ラーは、正しさを見捨てるのですか? 今ここでわたくしたちの援助の依頼を断れば、あなたは宗教者として間違った選択をすることになります。宗教者として生きているならば、不可能があるなどと信じてはいけないのではありませんか」

法王ラーは苦しそうに顔を歪めた。ルーダはまた一歩法王に近づいた。

「あなたはわたくしの父上に借りがあります。五年前の戦いの時、あなたの国が負けても、父上は聖カリダ帝国を支配下においたりしなかったはずです。払えきれないような賠償金は求めなかったはずです。奴隷を作らなかったはずです。あなたの命を奪わなかったはずです。わたくしの父上はあなたを尊敬していました。尊敬していたからこそ、あなたに対して酷い仕打ちはしなかった。戦争が両国を隔てることがあっても、関係を絶つようなことはしなかった。あなたがたが困っている時は出向き、援助をしたではありませんか。ラー法王、今こそ、父上に、ジョルリア帝国に、借りを返す時ではありませんか」

ルーダの瞳は燃えていた。

「この大陸の平和を守る勇気を出して下さい。あなたが信じる神を信じる勇気を。この大陸に伝わるソウルメイトの神秘の力を信じる勇気を。わたくしたち正しい者が勝つと信じる勇気を」

長い静寂が流れた。時計の秒針の音が、大きく部屋に響き渡った。三人の心臓の鼓動が重なった。法王ラーは固く閉じていた目を開くと、正面に立っているミカ、アリア、そして最後にルーダを見た。そして言った。

「――分かった。約束しよう。我が国の全戦力を集め、そなたたちと共に戦おう」

と。



「着きました。アダラ皇帝」

ロイは、カリス帝城の帝王執務室の扉を叩いた。

「入るのだ」

アダラ皇帝のゆったりとした声が扉の向こう側から聞こえた。扉を開けて中へ入ると、多くの宝石が埋め込まれた大きな椅子に、癖毛の白髪を垂らしたアダラ皇帝が座り、帝王ヨアのものだった執務机を挟んだ向かいの質素な木の椅子に、東部ビルダ帝国軍隊長のアンドレア・オベールが座っていた。

「オベール。そこを退くのだ」

ロイが入ってくると、アダラ皇帝はアンドレアを追い払うように手を振った。

「座り給え。アークの若者よ」

アンドレアが椅子から退くと、アダラ皇帝はロイに、椅子に座るよう促した。ロイは赤いマントを脱ぐと椅子に座り、アンドレアは椅子から一メートルほど離れたところで休めの姿勢を取った。

「さて、今日の成果を聞こうかな?」

アダラ皇帝は黄ばんだ歯を見せてにんまりと笑った。

「アダラ皇帝からの任務は遂行しました。ジョルリア帝国の全ての村と市の村長と市長を殺害しました。死体は地下牢に運び込まれています」

「後で確認する」

アダラ皇帝は引きつったような引き笑いを立てた。アダラ皇帝は突然指を鳴らし、部屋の隅にいる西部から連れてきた侍女たちを手で呼んだ。

「酒を用意しろ」

アダラ皇帝の一言で三つのゴブレットが用意され、並々と酒が注がれた。アダラ皇帝は一口に飲み干した。アダラ皇帝がぷはあと息を吐くと、臭い酒の臭いがした。

「明日は、ジョルリアの全ての男と女を奴隷としてアレキルエラ帝国に売り裁く予定だ」

アダラ皇帝がゆっくりと言った。

「容姿の良い若い女は、娼婦として身売りさせる。アーク、お前にも、上等な女を用意しよう」

「勿体ないお言葉でございます」

ロイは一礼した。

「恐れながらアダラ皇帝」

その時、妙に高いアンドレアの声がした。

「ビルダ帝国にも奴隷と娼婦をお与えくださいますよね?」

アダラ皇帝は、ニヤニヤと笑いながらアンドレアを見た。

「オベールよ。この戦いの主導権を握っているのは誰だろうね? 」

「何ですと?」

アンドレアが目を細めた。

「話が違うようですねアダラ皇帝。この一連の戦いの最前線にいるのは東部軍ですよ。アークが手柄を立てたのなら、私たち東部にも報酬を願いたいですな」

「アークは帝女を殺した」

アダラ皇帝の笑みは引かなかった。

「だがお前は何をした? リオ・スコットが軍長の時の戦いも、お前たちは銃を持っていたにも関わらず敗北したではないか。今回のジョルリア征服も、私たちと一緒でなかったらできなかったこと」

「私はアリ・ユレイルを殺しました。東部の最後の正血統である帝子を幽閉しました」

「生ぬるいな」

アダラ皇帝は一笑に付した。

「お忘れなくアダラ皇帝。もしあなたが私たちビルダ帝国に対して不当な扱いをするのであれば、私はこの武力でもってあなたから寝返ることも可能なのですよ。今ここで、あなたを殺すこともできるのですよ。それも、非常に残忍な方法で。私は、あのアリ・ユレイルを殺したのですからね」

アダラ皇帝はアンドレアから視線を外すことなく口角を上げ続けていた。


「開けろ」

アダラ皇帝との謁見が終わった後、ロイはカリス帝城の地下牢に赴いた。西部軍のそれに変わった地下牢の近衛隊はロイの言葉ですぐに地下牢に続く鉄製の扉の閂を外した。

 地下牢の中に入った途端、モワンとした熱気と醜悪な死体の臭いが鼻をついた。地下牢に窓はなく、松明の灯りだけがそこを照らしていた。鉄の道が真ん中にあり、その両脇に牢獄が何部屋もある。その中には、白い囚人服を着たジョルリア帝国の貴族――聖十一族の者たちが投獄されていた。しかしその中には勿論、西部と精通していたアーク家の者はいるはずもなかった。ロイは貴族の前を大股で歩いていく。ロイにとって聖十一族の者たちは興味の対象でもなかったし、今日の目的はそこではなかった。

「おい。アーク」

突然ロイを呼ぶ声がして、ロイはぴたりと足を止め、声のした方に顔を向けた。アウグスカリス家の者が投獄されている牢に、一人の金髪の青年が激しい眼差しでロイを見ていた。ロイはその青年――アル・ド・ミハルド・ジョゼシャルド・アウグスカリスを見ると、ふっと笑みをこぼした。

「久しぶりだね」

ロイは言った。二人はルーダのジュレア以来の対面だった。ロイとアルは共に、帝配の最終候補に残った人物だった。

「お前は最低な奴だ」

アルは、一言一言を噛み締めるようにそう言った。ロイは方眉を上げた。

「お前は帝女様の心を弄び、利用したんだ。帝女様はお前のことを愛していたのに。お前は殺害のためだけにあの方に近づいて、そして、殺したんだ」

ロイはフフと声を上げて笑った。

「まあ落ち着きなよ」

ロイは鉄格子まで近づいていくと、しゃがみ込んでアルと目線を合わせた。ロイの顔から、笑みが消えた。

「僕が帝女を愛したことはない」

恐ろしく低い声がロイの口から漏れた。

「楽しかったなあ。帝女に近づいて、帝女の心を操るのは。王族の奴らを騙すのは。腹を抱えて一人笑った日は何日あったか」

ロイは唇を吊り上げた。

「お前、帝女を愛してたのかい?」

アルは両眼を見開いた。

「愛してた! 子どもの時からずっと! でも! お前は違う!」

ロイの笑い声が牢獄中に響き渡った。

「そんなお前に言ってやるよ。僕は帝女と抱き合った。ああ、本当に最高だったなあ。思う存分楽しんでやったよ」

「こいつっ! 殺してやるっ! 死ねっ、死ねえっ!」

アルはロイに掴みかかった。鉄格子の間から両腕を出して、ロイの服を掴んだ。アルの口から唾が飛び、両目は濡れて涙が溢れていた。

「大丈夫だよ。お前が望むなら今すぐにでも帝女の元へ行かせてやるから」

ロイはそう言うと、銃を取り出してその銃口をアルの顔に向けた。一瞬、アルは怯んで両腕の力が抜けた。その隙に、ロイは勢いよくアルを押し倒して立ち上がった。ロイは上から仰向けに倒れたアルを見下ろすと、フッと笑ってその場を立ち去った。

 突き当りの扉の閂を外して開くと、下へ続く階段が現れる。ロイは階段を降りて地下二階へ降りた。その階にはジョルリア帝国の軍人が投獄されていた。皆囚人服を着て、狭い牢にひしめき合っている。武術に長けていることを考慮して、軍人たちの両手両足は縄で縛られていた。勿論武器も取り上げられていた。ロイはさらに階段を下って下へ降りていく。近衛隊が閂を外してロイを通した。牢獄までは、何重にも鉄製の厳重な扉がある。全ての扉を抜けて牢獄のあるところに出ると、熱気がロイの身体に纏わりついた。ここには、王族と、ジョルリア軍の隊長アキドル、そして副隊長リオが投獄されていた。ロイの目的はここだった。ロイは帝王ヨアが投獄されている牢までつかつかと歩いていくと、近衛隊に鍵を開けさせ、躊躇いなく牢の中へ入っていった。帝王ヨアは囚人服を着て、ぐったりと壁にもたれかかっていた。ついさきほどまで拷問を受けていたためか、白い囚人服には血がついている。顔は青白く、頬には乾いた涙の跡が幾筋にもついていた。ヨアの両目は焦点が合っていなかった。ロイはそんなヨアの前にしゃがみ込むと、その顎を強引に掴んだ。ヨアは何の反応も示さなかった。

「アダラ皇帝からだ。明日、ジョルリア帝国の人間をアレキルエラ帝国に奴隷として売り裁く。若い女は娼婦として身売りされる」

ヨアは魂が抜けたかのように、じっと空を見つめていた。ヨアがこのような調子になったのは、ルーダの死の報せを聞いてからだった。それまで、毎日の拷問にも耐え、反発の姿勢を示していたが、ルーダの殺害の報せを聞いてからは、生気が抜けたようにこのような調子だった。それは帝妃アディも同じだった。アディの方が酷く、ルーダが死んだと知ってからは毎日、一日の大半を眠りについていた。拷問の度に強制的に起こされては泣き叫んで発狂した。

 ロイは何の反応もないのを見ると、荒々しくヨアの顎から手を離した。そして、側にあった鞭を取ると、ヨアに向けて振りかざした。

「――やめろ……」

弱弱しい声が聞えた。ロイは動きを止め、声のした方へ視線を動かした。ヨアが投獄されている隣の牢から、長い白髪を乱したリオが肩で息をしてこちらを見ていた。

「リオ・スコット」

ロイはぽつりと呟いた。リオは毎日の拷問で身体は痣や傷だらけで、口にはかさぶたができていた。リオの隣には隊長のアキドルがいて、彼も全身怪我だらけだったがまだ正気を保っており、腕を組んでじっと一点を見つめていた。

「――帝王様に……手を、出すなっ……」

リオの美しい顔は苦しそうに歪んだ。

「お前も、副隊長とだけあって中々骨が太いよね」

ロイはクルクルと弄ぶように鞭を回すと、踵を返してヨアの牢獄を出ると、そのまま隣のリオとアキドルが収監されている牢獄へ入った。リオはふらつく足取りで立ち上がると、ゆっくりとロイの元へ歩いて行った。そして、倒れ込むようにロイの両肩に手を置いてロイを激しい眼差しで睨みつけた。

「――帝女様は――この、息の詰まる――王宮の、中で――必死に、生きて――」

ロイは腹から笑いの虫が這ってくるのを感じた。

「――伴侶さえも――自分で――決められず――愛する人とも、一緒に――なれず――」

ロイは顔を上に上げ、声を立てて笑った。

「お前が――帝女様の、支えと、なるべきだったのに――。お前と――いる――帝女様は――心の底から――幸せそうで――帝女様はきっと――きっとお前のことを――心から――愛していた――それなのに――それなのに、お前は――」

ロイは両手で腹を抱えて身体をくの字に曲げ、ケラケラと笑った。

「お前はそんな帝女様の気持ちを弄んだ、最低で最悪な奴だっ!」

「言ってくれるねえ!」

ロイは笑いながら鞭を振りかざし、リオの身体にバシ、バシと叩きつける。リオは呻き声を上げて倒れ込んだ。牢獄の中に、ロイの狂気的な笑い声が響いた。

「ほんとに馬鹿だよね。この国の人間は。人の善性や表面をさ、何の猜疑心もなく受け取るんだから。でも、帝女があんなに馬鹿な女だとは思わなかったよね。僕は甘い蜜だけ吸わせてもらったよ。ほんとに最高だよね」

ロイは笑いながら、リオに向けて鞭を振るい続ける。リオの苦し気な呻き声が、いつまでも牢獄に響いていた。


 それから一週間が経った。

 その日の正午。アダラ皇帝はカリス帝城の正面バルコニーで詔を出した。

「豊月の十五日、ジョルリア帝国の王族とジョルリア帝国軍の隊長、副隊長の公開処刑を行うこととする」


 パリーンという、グラスが割れる音がして、ミカはハッと振り返った。法王ラーが、彼の元に届いたアダラ皇帝からの詔を、夕食時に、ミカ、アリア、そしてルーダの三人に読み上げた時だった。ルーダはその両眼を大きく見開いていた。ルーダの手は、グラスを持っていた形だけが残り、ワインの入ったグラスは大理石の床に落ちて割れていた。

「――ルーダ様、大丈夫ですか――?」

ミカがそっと聞いた。ルーダは肩で激しく息をするだけで、何も答えかなった。

 深夜まで弓矢の練習をした後、ルーダは法王公邸のあてがわれた部屋のバルコニーに座っていた。雲は月の側に漂い、眩しいほどの月光が地上を照らしていた。ルーダはそっと、自分の左手を見て、その薬指にはめられたエメラルドの指輪を外した。そのエメラルドは月の光を受けてキラキラと光っていた。ルーダは指輪をゆっくりと夜空へかざした。そのエメラルドはルーダの瞳と同じ色をしていた。


『ルーダ様』


「――ロイ――」

ルーダの瞳が涙でいっぱいになっていく。愛する人から騙されていた絶望は、どんな言葉でも形容することはできなかった。


 わたくしはロイを愛していた。

 ロイのことを知れば知るほど、子供の頃から想い慕っていたリオ殿のことまで忘れていった。

 あの窮屈で生きづらい王宮で、ロイはわたくしのオアシスだった。

 リオ殿以外の殿方をお慕いできる日がくるとは思わなかった。

 ロイに惹かれていった時の気持ち。

 胸の高鳴り。

 ロイがくれた笑顔。

 わたくしにくれた言葉。

 優しいキス。

 初めてのキス。

 ロイの腕の中であげたわたくしの特別。

 そして

 再会と

 豹変したロイの声。

 一本の矢がわたくしの身体を射抜いた時の、裏切られたという絶望。

今までの思い出が、ガラガラと音を立てて崩れていったような感覚。

胸を抉られる感覚。

 躊躇いなく矢を引く音。

 二本目の矢。

 苦しかった。

 痛かった。

 それ以上に心が苦しかった。

 痛かった。

 そんな言葉では形容できないほどの絶望を味わった。

 最後に剣でとどめを刺された時のあの感覚。

 わたくしの全てが終わりへと向かっていく感覚。

 ロイは何も言わなかった。

 笑うこともしなかった。

 わたくしはロイの目の前で、ただ無情にも、息絶えることしかできなかった。

助けを求める声も失われ、抵抗する身体も縛られていた。

ただ、海よりも深い絶望と悲しみだけがそこにあった。

「――ルーダ様……?」

ルーダの部屋の扉が僅かに開き、ミカとアリアが顔を覗かせた。ルーダはバルコニーの大理石の床の両手をつき、うなだれていた。ミカはルーダに駆け寄って、その近くにしゃがみ込んだ。

「――ルーダ様」

突然、堰を切ったように、ルーダは床の上に突っ伏して、泣き叫んだ。

「わたくしはっ――ロイをっ――あいして、いたの――! あいして、いたの!」

ルーダの胸に去来するのは、裏切り――悲しみ――怒り――それでも消えない、ロイへの愛情――。

 ルーダにはこの気持ちのやり場が分からなかった。

 そんな気持ちを吐き出すように、泣き叫ぶことしかできなかった。

 聖カリダ帝国の秋の夜空に、ルーダの泣き声が、いつまでも響いていた。


 ある秋晴れの日のことだった。その日も聖カリダ帝国の軍事訓練場では、ミカが率いる弓矢組とアリアが率いる剣組が訓練をしていた。軍事訓練には、聖カリダ帝国の軍人だけではなく、国民に募集をかけて集まった老若男女も参加していた。ミカとアリアの指導のお陰で、お世辞にも優秀とは言えなかった彼らの腕は、うなぎ登りに上がっていた。しかし、それでも西部と東部の軍人の力には敵わないことは明らかだった。だからこそ、二人の指導には熱が入った。そしてルーダも、弓矢組としてこの戦いに参加する予定だった。

 ミカは、弓矢の練習をしている人々の間の隙間を縫って早足で歩いていた。ミカの顔は引きつっていた。

「ミカ、どうしたんだ?」

ミカは、突然アリアとぶつかった。アリアは顔から汗を滴らせてミカを見つめていた。

「いないんだ、ルーダ様が」

「何だって?」

アリアの目がさらに鋭くなった。ミカの心に、ロイにルーダを殺された日の、最悪の記憶が蘇った。

「お昼前にはいたんだけど、今、気づいたらいなくてっ。ちょっと、僕、探してくる!」

ミカはそう言うと、走り出した。

 訓練場を出て、軍事基地の食堂の中や、裏道、さらには、法王公邸の敷地内や、ルーダの部屋まで探し回った。しかしどこに行ってもルーダはいなかった。三十分後、法王公邸の裏にある山まで行った時、ルーダがそこに座っているのを見つけた。

「――ルーダ様、探しました……」

肩で息をして、ミカはルーダの側に駆け寄った。ルーダは膝を抱えて座って、軍人たちが訓練している様子を遠くからじっと見つめていた。ミカはルーダの顔を見た。ルーダは泣いていた。その緑色の宝石に涙をいっぱいに溜めて、声を出さずに泣いていた。

「――ルーダ様」

ミカは優しく呼びかけた。

「――人の心について、想いを馳せていました」

ルーダの口から、弱弱しい声が出た。ミカはルーダのすぐ隣に、同じようにして座った。

「――わたくしは、人生の全てを王宮の中で過ごしてきました。だから、知らなかったのです。人の心は色の数ほど種類があって、それは変化し、ひだのように揺れ、千差万別だということを。今、わたくしはその真理に、この戦いが起きて初めて気がついたのです」

どこまでも青く澄んだ空に、大きな鳥が悠々と駆けていった。

「エルマのように、自らの欲望のためならどこまでも身を堕とせる者。人の善心を利用することに抵抗がない者。わたくしの護衛だったジャン・ベルナールが娘を想う気持ちのように、愛のために真実が見えなくなる者。アレキルエラ帝国やビルダ帝国の軍人や官僚、そしてロイのように、真実の正しさに気が付くことができずに人を傷つける者」

ピーヒョロロという鳥のさえずりが響いた。

「そんな、過てる心を持った人間が数多くいるこの世は儚く、虚しいものだと」

ミカはルーダの横顔を見つめた。ルーダの長い金色の睫毛は涙で濡れていた。

「――でも」

ミカが、ゆっくりと口を開いた。

「そんな儚く虚しい世界にも、真実に生きようとしている人たちはいます。だから、生きることを、戦い続けることを、諦めないで下さい」

ルーダが、ゆっくりとミカを見た。

「それは少数派かもしれません。弱いかもしれません。でも、その人たちは強いです。僕とアリアはその一人です。僕たちは、ルーダ様を裏切ることも、この世界を裏切ることもしません」

「どうしてですか?」

ミカは空を仰いだ。

「知っているからです。愛する者を失う悲しみや、痛みを。その気持ちを知っているからこそ、他の人にはそんな気持ちになってほしくない。今隣にいてくれる大切な人を失いたくないし、大事にしたいと心から思えるんです」

ミカはもう一度ルーダを見た。

「痛みを知っている人は、強くなれるんですよ。ルーダ様。少しの悲しみや苦しみには負けないほどに強く」

ミカは優しく微笑んだ。


 それは豊月の十四日だった。

 出兵の数日前に、聖カリダ帝国は西部アレキルエラ帝国の山奥に流刑にされているエヴァとその息子のリダを保護した。

 戦いの準備は全て整った。

 聖カリダ帝国の法王公邸の前に、全ての出兵者たちが、ミカとアリア、そしてルーダを先頭にして集まった。

 日の出の光線が眩しくこちらにその光を投げかけている朝だった。

「行って参ります!」

ミカとアリアが、出兵を見守っている法王ラーに向かって敬礼をした。

「そなたたちの勝利を祈っておる」

ラーが言った。ミカとアリアは馬の手綱を勢いよく引いた。

「ジョルリアのために! 大陸の平和のために!」

馬のいななきが、朝の空に響き渡った。



 豊月の十五日

 カリス帝城の正面扉の前の、石畳の大きな広場には、アレキルエラ帝国とビルダ帝国の軍人がずらりと並んでいた。一番前には、十七人の軍人が並び、切頭刀を持っている。正面扉の前に置かれた台座にはアダラ皇帝が座り、その両脇にロイとアンドレアが立っていた。正午を告げる鐘が鳴った。敵軍の近衛部隊に連れて来られたのは、十五人の王族とリオとアキドルだった。皆、白い囚人服を着ている。近衛部隊はそれぞれにつき、一人一人を切頭刀を持っている軍人の前に差し出して、膝をついて座らせた。

「ジョルリア帝国の王族と、ジョルリア帝国軍隊長、副隊長の公開処刑を執り行う!」

近衛部隊の大きな声が響いた。王族とリオ、アキドルは、上半身を下に突き出された。軍人の持った切頭刀の刃が、彼らの首の付け根に触れた。大きな太鼓の音が三回した。三回目の太鼓の音が消えた時、刀を持った軍人は一斉にそれを振り上げ、彼らの首に向かって振り降ろした。

「やめろ!」

それは突然だった。ざわり、とどよめいた。カリス帝城の正門に、馬に乗ったジョルリア帝国の軍服を着たミカとアリア、そしてその後ろには、何百、何千人もの、聖カリダ帝国の軍人と、共に戦うことを決めた帝国民たちが武器を持って立っていた。ミカとアリアの後ろから、馬に乗ったルーダが姿を見せた。公開処刑の場から悲鳴が上がった。敵軍たちは固まり、腰を抜かし、気絶する者もいた。「ルーダ!」帝王ヨアが叫んだ。アダラ皇帝は身を乗り出し、生きているルーダをまじまじと見つめた後、隣で絶句しているロイを睨み上げた。

「どういうことなのだ!?」

ロイは恐怖で引きつった顔をぴくつかせ、一歩後ずさりした。

「――わ、分かりません。僕は――そんな――」

「わたくしはジョルリア帝国の帝女、ルーダ・ジョルリアである!」

ルーダは背中に背負ったジョルリア帝国の国旗を手に持ち、空へ掲げた。ジョルリア・聖カリダ軍はウォーッと叫んだ。

「わたくしは、ロイ・ド・ハルロッテ・カレミドル・アークによって殺された! しかし、ソウルメイトの神秘によって復活した!」

またしても雄叫びが上がった。

「――ソウルメイトの、神秘――」

ロイの目が、ぴくぴくと動いた。

「そんなの知らない! 僕は知らなかった! そんなことがあるなんて! アダラ皇帝、本当です!」

ロイは両膝をつき、アダラ皇帝の手を両手で持ち上げて懇願するようにそう言った。アダラ皇帝はそんなロイの手を振り払った。

「わたくしは、今、ジョルリア帝国の平和のためにここへ来た! 勝つために!」

雄叫びがまた上がった。

「ジョルリア帝国のために! 大陸の平和のために! 戦え!」

ルーダが国旗を背中に背負い、弓矢を取り出した。

「行けー!」

ミカは弓矢を、アリアは剣を取り出してそう叫んだ。そして二人は馬の手綱を引いた。馬の前脚が空を蹴り、いななきが空へ響いた。それが合図だったかのように後ろにいた軍人たちは武器を持って、敵軍へ向かって走り出した。

 戦いが始まった。敵軍も武器を取り、ジョルリア・聖カリダ軍を迎えた。剣と剣がぶつかり合う音がした。弓矢を引く音がした。カリス帝城の正面扉の前の広場は、一息にして乱闘の舞台となった。

「帝女様!」

リダの手を引いたエヴァがルーダの元へ走り寄った。ルーダはエヴァを見て頷いた。

「馬に乗ってください。牢獄へ行きましょう!」

エヴァはリダを抱えてルーダの後ろへ乗った。ルーダは手綱を引き、馬を走らせた。矢が何本も目の前をかすめた。ルーダは弓矢をしまい、腰から剣を引き抜いて、こちらに向かって飛んでくる矢を切った。右へ左へ剣を振り払う。振り払っても振り払っても、矢は四方八方から飛んでくる。ルーダがフッと顔を上げると、帝王ヨアとリオ、アキドルも、囚人服のままで武器を取り、敵軍と戦っているのが見えた。ミカが弓矢組を従えて敵軍に火矢を放っているのが見えた。アリアが一人で何人もの敵軍を相手どっているのが見えた。敵軍がバタバタと倒れていくのが見えた。味方が斬られるのが見えた。石畳の上に敵軍とも味方とも見分けのつかない死体が転がっているのが見えた。ルーダは牢獄に向かって馬を走らせた。囚われている、罪のない囚人たちを解放するために。

 ルーダとエヴァ、リダは、地下牢へと続く扉の前に辿り着いた。その前には、敵軍の近衛部隊が武器を持って入口を塞いでいた。ルーダを見ると、彼らは剣を抜いた。

「そこを退くのだ!」

ルーダがすごんだ。近衛部隊は退かなかった。

「帝女様」

エヴァがルーダの耳元で囁いた。ルーダは顔を歪めた。エヴァが言わんとしていることは分かっていた。近衛隊がそこを退かないなら、倒さなければいけない。殺さなければいけないのだ。ルーダはミカとアリアのことを想った。二人が逃亡生活中、ルーダに武術を教えてくれた二人の熱い気持ちを想った。強くならなければいけない。正義のために、しなければいけないのだ。ルーダは目を閉じ、深く深呼吸をした。カッと目を見開くと、腰から剣を引き抜き、構えた。

「覚悟しろ!」

ルーダは叫んだ。ルーダの瞳は涙で濡れていた。ルーダは叫びながら、近衛隊に突進していった。

 殺された近衛隊の死体が、牢獄の扉の前に散らばっていた。ルーダは血の滴る剣を振り払った。左腕がずきんずきんと激しく痛んだ。近衛隊に斬られた腕からは血がどくどくと流れていた。

「帝女様、大丈夫ですか?」

「心配ありません。行きましょう」

ルーダは死んだ近衛隊の懐から地下牢へと続く扉の鍵を取ると、扉の鍵を開けて地下牢の中へ入っていった。

 地下牢の中は、ムンとした熱気で溢れていた。左右に牢があり、その中に囚人服を着た何十人もの人が収監されていた。皆、ぐったりと地面に倒れており、生気がない。

「お父様! お母様も!」

エヴァは突然、鉄格子に近寄ると叫んだ。エヴァに呼ばれた老人と老婦人は、ゆっくりと顔を上げた。そして、エヴァを一目見ると大きく目を見開き、まるで何かに憑かれたように口を大きく開けてエヴァに見入っていた。

「――エヴァか……?」

老人の口から掠れ声が出た。

「なぜ、なぜお前がここに……」

老人の目はエヴァから、彼女の腕に抱かれているリダへと移った。

「――もしかして、その子は――」

「アミュタス様の御子ですよ。リダです。あなたの孫です!」

老婦人はそれを聞くと、しわしわの両手で顔を覆い、おいおいと泣いた。

「ルドメリック家の殿方ですね?」

ルーダはエヴァの隣に膝をついて座ると、静かにそう言った。聖十一族の一つ、ルドメリック家の老人はルーダを見るなり両目から涙を溢れさした。

「おおう! おおう! 帝女様ではありませんか! 生きていらっしゃったのですね! 生きていらっしゃったのですね!」

「わたくしはアークの息子によって殺されました。しかし、ソウルメイトの神秘で復活したのです。わたくしはあなた方を助けに来たのです」

ルーダは言った。

「帝女様?」

若い男の声がした。ルーダは顔を上げた。牢の中で、金髪の若者――アル・アウグスカリスが立ち上がってルーダを見ていた。アルは両目を見開き、その目からは大量の涙を流していた。彼の全身は震えていた。

「アル……殿」

ルーダは呟いた。自分のジュレアで、アルと交わした会話が、思い出が、一息のうちに蘇った。

「帝女様、急ぎましょう」

エヴァの声で、ルーダはハッと我に返った。ルーダは立ち上がり、声を張り上げた。

「わたくしたちは戦いに来ました! 無実の罪で収監されているあなた方を助けに来ました! カリス帝城の正門を出たところに、馬を用意してあります。馬に乗ってお逃げ下さい! 勿論、わたくし達と共に戦う者は、戦って下さい!」

ルーダはそう言うと、一つ一つの鉄格子に鍵を差し込み、一人一人を脱出させた。

「帝女様、どうかご無事で。僕も一緒に戦います。あなたのために、命を捧げます」

アルが牢獄から出てきた時、アルは素早くそう言った。

「ありがとう……。アル殿……」

ルーダは囁いた。

 聖十一族の貴族たちを皆解放させると、ルーダたちは次に一つ下の階へ行き、同じようにジョルリア帝国の軍人たちを解放した。そして最後に、ルーダたちはここへ来た一番の目的を達成しに、最下層の牢獄へ赴いた。

 日の光は全くもって差していなかった。

 耳が痛くなるほどの静寂が支配していた。蒸し暑く汗ばみ、その熱気のせいで息をするのさえ苦しい。微かに燃えている松明の灯りでは心もとなかった。鉄格子が二重になっている、その牢獄には、囚人服を着て眠るジャン・ベルナールがいた。ジャンの顔は憔悴し切っており、無精髭が伸び、髪の毛からは汗が滴り落ちている。傷だらけの顔、首、腕は青白い。白い囚人服もうすら汚れていた。勿論武器はなかった。ルーダと、リダの手を引いたエヴァはゆっくりとその鉄格子に近づき、膝をついて座った。ルーダはジャンの顔をまじまじと見つめた。陰謀のせいで娘を殺され、そしてその娘の死を利用されて自身も利用された哀れな男。ルーダは胸が痛んだ。そして一秒でも早く、彼に真実を伝えなければと思った。

「ジャン」

ルーダは初めて、上の名前でベルナールを呼んだ。ジャンはゆっくりと瞼を開けた。そして、ルーダと目が合った瞬間、ジャンの両目に憎悪の色が走った。

「――殺してやる……」

おどろおどろしい声が、ジャンの口から漏れた。

「殺してやる、殺してやる」

ジャンは四つん這いになって、ゆっくりとルーダに近づいていく。ルーダは思わず、手を後ろについて身体をのけ反らせた。あの日、自分の護衛だったジャンに殺されそうになった時の恐怖が蘇った。

「ベルナール。わたくしはエヴァだ。アミュタス様の正妻です」

その時、エヴァが口を開いた。ジャンは動きを止め、ゆっくりとルーダの隣にいるエヴァに視線を向けた。

「――エヴァ妃……? なぜお前がここにいる……。罪人のお前がなぜ……」

「お前は騙されています。わたくしたちはそれを伝えるためにここに来たのです。お前を助けるためにここへ来ました」

「騙されている?」

牢獄に、ジャンの乾いた笑いが弱々しく響いた。

「西部と東部がこの国を乗っ取ったことはもう知っているでしょう。この国の主導権が西部と東部に移ったのに、なぜ帝女様を殺害しようとして捕らえられたお前がまだ牢獄から出られないのか、不思議には思いませんか」

ジャンの小さな目が微かに揺れた。

「知らん! 俺はそんなことは知らん」

「わたくしたちには時間がありません。単刀直入に言います。お前の娘、ステファは、帝王様の夜の慰めの相手にはなっていません」

ジャンの動きが止まった。次の瞬間、ジャンの顔が真っ赤に染まった。

「嘘をつくんじゃない! この罪人め! そんな証拠がどこにある!」

「では、ステファが帝王様の夜の慰めの相手になっていたという証拠はどこにあるのです?」

ジャンは目を細めて、エヴァとルーダを交互に睨んだ。

「事の始めから話しましょう。今から二十一年前、奴婢の孤児だったエルマは洗濯女官として王宮に上がりました。それから十二年後、彼女が二十二歳の時に、エルマはアミュタス様と知り合い、権力欲しさに彼に近づきました。アミュタス様の寵愛を受け、第二夫人となりました。そう、奴婢の孤児だったエルマはこの時から既に、権力というものを渇望していたのです。そしてアミュタス様に近づいたのも、その権力欲しさでした」

「それがステファにどう関係あるってんだ!」

ジャンが唾を飛ばした。

「それから五年後。エルマは、帝妃の地位になることを望むようになりました。そしてその時、ジョルリア帝国への侵略を図っていたアレキルエラ帝国の者と密通し、アレキルエラ帝国の味方につけばジョルリア帝国を侵略した後に帝妃の地位を与えると言われ、西部側につきました。そして、そのアレキルエラ帝国から最初に言われたことが、ジョルリア帝国王位第一継承者である、当時十五歳だった帝女様の殺害」

ジャンは肩で激しく息をして、エヴァとルーダを交互に睨んでいた。

「しかしそれも、西部がエルマの権力欲に付け入ったことでした。西部の目的はジョルリア帝国を支配することで、そのために帝女様を殺すことでした。初めから、エルマを帝妃の地位に与えるつもりなど全くなかったはずです。エルマも、西部に利用されたのです」

ルーダはごくりと生唾を呑んだ。

「そして、エルマはこの与えられた任務の遂行のために、アレキルエラ帝国の、アダラ皇帝の使いの者と、王宮の外で何度も話し合いを重ねました。しかし、帝女様の侍女であり、ジョルリア軍に所属していたお前の愛娘のステファが、里帰りをしていた時に、その秘密の会合の話を聞いてしまったのです。そしてステファは、帝女様暗殺の計画を知りました。エルマは、ステファがその内容を聞いたことを知ると、口封じのために――そう、全く手段を選ばないところが彼女の恐ろしいところですが――ステファを暗殺しました」

エヴァとルーダを交互に睨んでいたジャンの目が、ピタリと止まった。

「ステファは自殺したのではなく、殺されたのです。――エルマによって」

エヴァは静かにそう言った。

「そしてエルマは、ステファの父親――つまりお前が、腕の立つジョルリア軍の軍人だということを知ると、ステファの死を利用しようと試みたのです。大事な一人娘を失い、悲嘆にくれていたお前にエルマは近寄ったはずです。エルマはお前に言ったはずです。帝女様は女帝の地位を望んでいると。だから、父親である帝王を廃位させるための原因を作ったと。それが、ステファをヨアの夜の慰めの相手とさせることだったと。そして、ステファはそれを苦にして自殺したと。ですが、それは全て、エルマの作り話だったのですよ」

エヴァはジャンから目を逸らさなかった。

「そして、エルマはその作り話をお前に信じ込ませて、帝女様への復讐への思いに囚われるようにしたのです。エルマは当時の帝女様の護衛だった者を殺し、空いた護衛の地位にお前が任命されるように仕組みました。護衛なら、帝女様の最も近くで命を狙うことができるからです。そしてエルマはお前に、アレキルエラ帝国の味方につけば帝女への復讐を叶えてやると約束しました。そのためには西部の言うことをよく聞くのだ、と。それ以来、お前はその作り話を信じて、何の罪もない帝女様を殺害する機会を伺ってきたのですよね」

「――それは……その話は、本当なのか……?」

ジャンの身体が震えていた。

「ステファが殺される前、彼女はわたくしにこれをくれました」

今まで黙っていたルーダが、ゆっくりと口を開いた。ルーダは懐から小さな絹の巾着を取り出すと、中からルビーの埋め込まれたピアスを取り出した。ジャンが息を呑む音が聞こえた。

「父が自分にくれたものだと。いつも寂しそうにしているわたくしを心配して、ピアスの片方をわたくしにくれたのです。『帝女様はお一人ではありません。ここに私たちの友情を誓いましょう』と、あの子はわたくしにそう言ってくれた」

ボロボロと、ルーダの両目から涙がこぼれた。見ると、ジャンが泣いていた。皺が刻まれた顔に、透明な涙が幾筋も伝った。

「わたくしたちは、友だちだったのですよ。わたくしがあの子を、お父様の夜の慰めの相手として送ったことなど、一回もない」

ジャンは地面に額をつけ、まるで狼のように泣き叫んだ。ステファ、ステファと最愛の娘の名前を呼びながら。そしてジャンは突然顔を上げると、ルーダの前にひれ伏した。

「帝女様、帝女様、本当に申し訳ありませんでした。私は何の罪もない帝女様のお命を、何年も奪おうとしてきてしまった。私は馬鹿な男です。本当に、本当に申し訳ありませんでした。許してくださるとは思いません。私を処刑にしてください。ステファの元に行かせてください」

ジャンはそう言って、おいおいと泣いた。

ルーダは鉄格子の隙間から白い手を入れて、ジャンの傷だらけの手を包んだ。

「お前を処刑になど絶対にしない。申し訳ないという気持ちがお前にあるのなら、今、わたくしたちと共に戦ってほしい。武器はある」

ジャンは顔を上げた。その瞳には、闘志が燃えていた。

「戦います。武器を貸してください」

ジャンはそう言った。


 カリス帝城の前の広場では、血みどろの戦いが繰り広げられていた。ミカとアリアはカリス帝城の正門の前で、逃げようとしていたロイを追いかけていた。

「待て! この! 卑怯者めが!」

アリアが叫ぶ。ロイは転びそうになりながら振り返って、矢を放った。ミカとアリアは、飛んできた矢を身を屈めて避けた。正門の前には、聖十一族の者が逃げられるようにと用意してある馬が沢山いた。ロイにその馬に乗られて逃亡させることは避けたかった。今、ここでとどめを刺しておきたかった。ミカは走りながら矢をつがえた。目を細め、揺れ動く身体の中で中心を掴む。唇を舌で舐めた。矢を放った。矢はロイの右肩に命中した。ロイはその場に倒れ込んだ。アリアがロイに追いつき、その身体を抑え込む。アリアは剣を抜いてロイの首筋に当てた。

「簡単に殺してたまるかっ!」

ロイは大きな叫び声を上げた。そして、力づくでアリアを押しのけると、立ち上がり、自身も剣を抜いた。アリアも素早く立ち上がり、剣を構えた。ミカも剣を抜いて二人に追いついた。ミカとアリアのロイを捉える瞳は怒りと憎悪で激しく燃えていた。信じ切っていたロイに、大切なソウルメイトを殺されたあの絶望と裏切りの感情が、今再び二人の心に再燃して仕方がなかった。

 三人は剣を交えた。剣と剣がぶつかり合う音が響いた。ジュレアを勝ち抜いただけあり、ロイの武術の腕は並外れたものだった。しかし帝女の護衛に任命されたミカとアリアには敵うはずもなく、ロイは次第にじりじりと、再びカリス帝城の乱闘が繰り広げられている広場まで後退していく。

「お前はなぜ、ルーダ様を殺めたんだ!」

アリアが叫んだ。ロイはせせら笑った。

「僕は物心ついた時から既に、この国はクズで西部こそが正義だと教えられてきた」

「だとしたらお前は可哀そうな奴だ」

アリアの瞳は嫌悪で燃えていた。

「小さな頃からの教育でそう教えこまれてきても、大人になって自分の頭で考えれば、どちらが正義か分かるはずだろう! それに気づくことができなかったのが、お前の人生最大の過ちだ」

「そんなことをお前に言われる筋合いはない!」

ロイは叫んだ。

「じゃあ言ってやる! 僕の家族は、父親がビルダ帝国の最後の正血統の帝子の護衛だったという理由で殺された! 東部と西部が支配地を拡大することに反対していた帝子は、二つの国にとって邪魔だったんだ。東部と西部には、支配欲しかない。国土を広げることしか脳がない。そのために罪なき者の命がどれくらい犠牲になったか! それが正義であるはずがない!」

ロイは高らかに笑った。

「この世は所詮弱肉強食だ。強い者が常に弱い者の上に立つ。それこそが正義だ!」

「それは間違っている! 間違っているということを、これから僕と、ミカと、ルーダ様とで証明していく! ルーダ様はこの国の女帝になって、その政治でそれを証明するんだ! お前は牢獄の中で、その目が白くなるまでに、それをとくと見ておくんだな!」

アリアの剣がロイの足元を掬った。ロイは石畳の上に倒れた。ミカはその上に馬乗りになり、ロイの身体を押さえこんだ。

「お前を簡単に死なせるわけにはいかない。お前には罪を償ってもらう。だから僕たちはお前を生かす」

ミカは言った。

「ジョルリア軍!」

アリアが叫んだ。手の空いたジョルリア・聖カリダ軍が数人かけつけて、ロイの四肢を掴み、連行していった。

 ミカは立ち上がった。ミカの目に、カリス帝城の中へ逃げて行くアダラ皇帝とアンドレア・オベールが見えた。

「アリア! アダラ皇帝とオベールが帝城の中に!」

「逃がすか!」

アリアはそう叫ぶと、剣を片手にチーターのような速さで二人の後を追いかけていった。

 その時、雄叫びが聞えた。カリス帝城の正面扉の向こう側から、囚人服を着たジョルリア軍の軍人たちが武器を持って一斉に飛び出してきたのである。その中には大男ガンやジア、アシャ、ドルティン、ルイザなど、懐かしい顔が沢山いた。ミカは零れそうになる涙を必死で堪えた。そして軍人たちの奥から、ルーダとリダを連れたエヴァ、そしてジャン・ベルナールが姿を見せた。

「エルマはどこにいるうーっ!」

ジャンは天に向かって吠えた。ミカは辺りを見渡した。そしてカリス帝城の上階にある正面バルコニーに、エルマとその護衛が広場の乱闘を見物しているのを見つけた。

「エルマはあそこだ!」

ミカは叫ぶと、弓矢をつがえた。目を細くして、唇を舐めた。狙いを定め、矢を放った。エルマに命中する、そう思った時、エルマの護衛が飛んで来る矢に気づいて、エルマをかばって避けた。ジャンは既に走り出していた。ミカは矢が顔の前をかすめて、ハッと我に返った。ミカの周りでは、敵とも味方とも見分けがつかないほどの乱闘が繰り広げられている。そして、広間の端で、アシャが二人の敵軍に囲まれているのを見つけた。ミカはすぐに走り出した。

「アシャ!」

ミカは矢を二人の背に向かって放った。その矢は二人に命中した。アシャは剣の柄を両手で持ち、額から汗を滴り落としてミカを見上げた。

「ミカさん! お元気でしたか?」

ミカはアシャの元に座り込んで、その肩を激しく掻き抱いた。

「アシャ、アシャ。アシャも生きてたんだね。君はまだ子供だ。こんな戦いの中にいちゃいけない。逃げるんだ。聖十一族の方々と一緒に逃げろ」

「嫌だ! 僕も戦える! 戦いたいんだ!」

「駄目だ。アシャにはご両親がいるだろう。家に帰りなさい。敵軍は皆大人だ。アシャが敵うような相手じゃない」

その時、二人の元に矢が飛んで来た。ミカは反射的にアシャをかばった。ミカの背中に矢が刺さった。ミカは一瞬息が吸えなくなった。

「ミカさん! 大丈夫ですかっ!」

「大丈夫だ、大丈夫だから、早く行くんだ! さあ!」

ミカはアシャの背中を力強く押した。アシャは剣を腰に差すと、名残り惜しそうにミカを見ながら、走り去っていく。ミカは四つん這いになって背中に刺さった矢を引き抜いた。その時、ミカのすぐ後ろでザッという靴の擦れる音がした。ミカの胸に、ザワリと嫌なものがうごめいた。ミカは後ろを振り返った。ヒュッと喉が閉まった。敵軍が、正門に向けて走るアシャに矢をつがえていた。やめろ――そう、身体が動く前に矢は放たれ、走る小さな背中に命中した。

 全てがスローモーションのようだった。

 自分の口から出た絶叫は、誰か遠くの人が叫んでいるかのように遠くで聞こえた。

 アシャの小さな身体はゆっくりと前のめりに倒れ、そして、動かなくなった。

 ミカは絶叫した。

雄叫びを上げた。

身体を地面に擦りつけ、悶え苦しんだ。

 ヒュッという剣が空気を切り裂く音がして、次に、ドサリと人が倒れる音がした。ミカは震える身体で振り返った。ミカのすぐ側に、アシャを殺した敵軍が斬られて死んでいた。ミカは上を見た。そこにはリオが、血の滴る剣を振り払って立っていた。

「これが戦争だ」

リオが言った。

「お前はアダラ皇帝を倒しに行け!」

ミカは苦しみに顔を歪めて、ゆっくりと立ち上がった。そして、駆け出した。アリアが追いかけた、アダラ皇帝とアンドレア・オベールが逃げていったカリス帝城の中へ。


 アリアはカリス帝城の中の、ダンスホールの中にいて、アンドレア・オベールと対峙していた。顎まで伸びた茶髪のおかっぱを綺麗に切り揃え、左目に義眼を、右手に義手をつけている。肌は驚くほど白く、細身で、不敵に笑った顔には皺が切り刻まれている。右目は、アリアと同じ灰色の目を持っていた。アンドレアは肩を小刻みに震わせて笑った。

「殺してやる! 父の仇を打ってやる!」

アリアが叫んだ。アリアは剣を構えていた。アリアの頭には血が昇り、身体がゾクゾクとした。寒くもないのに鳥肌が立った。アンドレアは不意に顔から笑みを消すと、腰に下げた剣をスラリと抜いて構えた。

「お手並み拝見、だな」

妙に高い声でそう言った。

 次の瞬間だった。アリアの体が勝手に動いていた。アリアはアンドレアの元へと駆けだした。剣と剣がぶつかる。アンドレアは片手だけで剣の柄を持ち、まるで遊びのようにアリアの剣裁きに応えていく。アンドレアは東部ビルダ帝国の隊長だ。僕の父親を殺した人間だ。その言葉が、アリアの頭の中に幾度となく浮かび上がってくる。その度に、僕はルーダ様の護衛だと、自分で自分に言い聞かせる。怖かった。恐ろしかった。でもそれ以上に、殺したかった。父の仇を打ちたかった。それだけだった。それさえ遂げられれば、後はもう何も要らなかった。

「お前の父親がどのようにして死んでいったか、知りたくはないか?」

突然、アンドレアが言った。

「お前の父親は、ビルダ帝国軍の平軍員の中で一番優秀な奴だった。次の副隊長候補、ゆくゆくは俺様の後任として考えられていた人物だった。あいつの留学の許可を出したのも俺様だ。俺様はあいつを可愛がっていた。あいつはよくできた軍人だったからな。特別に、俺様直々に訓練もしてやった。あいつは俺をよくよく尊敬していたものよ」

恐ろしいことに、アリアはアンドレアと剣を交えながらアンドレアの話に聞き入っていた。

「しかし、あいつはビルダ帝国の最後の正血統の帝子の味方についた。俺様は勿論、あいつを説得した。しかしあいつは聞かなかった。その瞬間から、俺様とあいつは敵同士になったわけだ。あいつの目的は帝子を護ることで、俺様の目的はその帝子を捕らえること。そしてそれを邪魔するあいつを殺すことだった」

「どうしてそんなことができるんだ! 父はお前の可愛い弟子だったんじゃないのか! それなのに、何で!」

アリアは、自分の目が次第に濡れていくことに気づいた。

「あいつは俺様の正義に適わない野郎に成り果てたからだ。俺様の正義は東部ビルダ帝国を強力な帝国にすることだった。そのために西部アレキルエラ帝国と腕を組んだのだ」

「西部はお前を利用しただけだ! 西部は自分の国土を拡大することしか考えていない! アダラ皇帝は一回でもお前の得になるようなことをしてくれたことがあるかっ? 西部と腕を組んでも、ジョルリア帝国を支配した暁にはビルダ帝国も支配下に置こうと考えているんだ! 僕にはそれがよく分かる!」

アンドレアはアリアの言葉を無視して、話を続けた。

「俺様はあいつを追いかけた。帝子を捕らえた後、俺様はあいつを惨殺した。我がビルダ帝国の最大のことはいかに敵を残忍な方法で殺すことができるかだ。俺様はまず、あいつの身体を斬って地面に倒した。腹に剣を刺して動けなくさせた後、俺はまずあいつの右腕を切断した」

「やめろ!」

アリアは叫んだ。

「あの時のあいつの叫び声ときたら、とても美味しかったな。俺様は死にゆく人間の断末魔を聞くのが好きだ。特に、死にたくないと願う人間のそれを聞くのはとても楽しい。そうか、あいつには、一目だけでも見たいと願う生まれたばかりの赤ん坊がいたのだったな。確か、名前は――アリア・ユレイル」

アンドレアはフフフと堪えるように笑った。

「そして、次に、俺様はあいつの左腕を切断した。人間は、四肢を切られても死なないのだよ。あいつの切り離された腕たちは無様に地面に転がっていた。俺様はその腕を崖の下へ投げ捨てた」

「やめろおっ!」

アリアは泣き叫んだ。アンドレアは笑った。

「そして、ここからがクライマックスだ。俺様はあいつの右脚と、左脚を切断したのだ。あいつはただの芋虫になった。無様だろう。もう武器を操ることはできない身体になってしまったのだよ。それでもあいつは泣かなかった。その時ばかりは、さすが俺様が見込んだ男だと感心したものだ。俺様はあいつに最後のチャンスを与えた。俺様たちの側につけば、俺様はお前に新しい腕と脚を与えてやる。また戦えるような身体にしてやると言った。そうすればもうお前は命を狙われることはないし、生まれたばかりの赤ん坊にも会えると言った」

アリアは泣いた。

「しかし――馬鹿な男だった――あいつは頷かなかった。俺の心は帝子様と共にある。そう言った。死んでもいいのか? 俺様はそう言った。赤ん坊に会わなくても、赤ん坊の成長を見ることができなくてもいいのか? そう言った。あいつは頷いた。今お前たちの側について生き抜くより、帝子様のために死んだ方が、アリアは喜ぶだろうとね」

アリアは歯を食いしばった。

「俺様はその言葉を聞いて、こいつを殺すと決めたのだ。俺様はあいつの喉を剣で掻き斬った。あいつは苦しみで悶え苦しんだ。十分は苦しんでいただろうと思う。十分苦しみ喘がせた後、俺様はあいつの首を切断した。あいつは死んだ。俺様はあいつのバラバラになった遺体を崖の下へ落として始末したのだ。これが、お前の父親――伝説の軍人の最期なのだよ」

「父の仇を打ってやる! 僕はお前よりも強い! 僕はそんな残忍な殺し方を決してするもんか! その時点で僕はお前より強い軍人だ!」

アリアは隙をついて、アンドレアの胸から腹を斜めに斬った。血が溢れた。そして立て続けに、腕を斬り、脚を斬った。そして、アンドレアの剣を絡め取り、手から落とすと、アンドレアの両肩を持ち、地面に叩きつけた。アリアはアンドレアの上に馬乗りになって、剣の柄を両手で持ち振り上げた。アンドレアの灰色の瞳は微かに笑っていた。

「父親の復讐だ! 死ね!」

アリアは剣を振り降ろした。

「やめろ!」

アリアは振り返った。ミカがダンスホールの扉の入り口に、血まみれで立っていた。アリアに向けて矢を構えていた。

「邪魔するなあっ!」

アリアが叫んだ。その両目から涙が飛び散った。

「剣を降ろせ! 降ろすんだ!」

「殺してやる! こいつは僕の父親を殺したんだぞ!」

「復讐のための殺人はするな!」

ミカが叫んだ。ミカはアリアとアンドレアの元へ歩いていき、矢の狙いをアリアからアンドレアに移した。

「ここで復讐をしても誰も報われない。もし今アリアがこいつを、復讐のために殺したら、今度はアリアが誰かから復讐のために殺されるようになる! 復讐の連鎖は終わらないんだ! アリア! 復讐の連鎖を止めるんだ! アンドレアには、罪を償う義務がある! 今ここで、罪を償わせずに殺しても、アリアのお父さんは嬉しくない! こいつには、生きて、生き延びて、牢獄の中で、その罪にふさわしい生活をして、今までの罪を償う義務があるんだ!」

アリアは絶叫した。長い、長い絶叫だった。涙が床に飛び散った。そしてアリアは遂に、その剣をゆっくりと、震える手で、鞘に納めた。アリアはアンドレアを殺めることをやめたのだ。

「――命だけは助けてやる……だけど、お前は、お前は死ぬまで罪を償え!」

「よし、連行しよう」

ミカが言った、その時だった。ダンスホールの中に、大きなしわがれた笑い声が響いた。ミカとアリアはハッとして振り返った。

 二人の後ろに立っていたのは、ニヤニヤとうすら笑いを浮かべた、西部アレキルエラ帝国の皇帝――アダラ皇帝だった。



アダラ皇帝は黄ばんだ歯を見せた。アダラ皇帝はジャラジャラと宝石のついたマントの音を立てながら、ゆっくりとミカとアリアの元に近づいてきた。ミカは、横にいるアリアとチラリと目を合わせた。二人の顔は緊張と恐怖で引きつっていた。アリアの父が死に、そしてこの長い戦いの元凶となった張本人が、今二人の目の前にいるという事実が二人を戦慄させた。

アダラ皇帝は二人のすぐ側まで来ると足を止め、ニヤニヤと笑いながら二人の顔を交互に見ていた。アダラ皇帝は笑ったまま、何も話さなかった。その奇妙な顔と長い沈黙がとても不気味だった。ミカの弓矢を持つ手に汗が滲んだ。ミカは、カラカラと乾いた唇を舐めた。

「殺されたいのか?」

ついに、その沈黙を破ったのはアリアだった。ミカはチラリとアリアの顔を見た。アリアの顔はひどく落ち着き払っていた。そしてその灰色の瞳は恐ろしいほど醒めていた。その冷静さで、ミカは、アリアが例えようもないぐらいの怒りの感情を内に秘めているということが分かった。アダラ皇帝は、ミカとアリアを交互に見ていた目をアリアに止めて、ニタアと笑った。ミカは背筋がゾクゾクした。何か、この人と関わりを持ってはいけない雰囲気を感じた。ミカはアリアに顔を向けて、ほとんど聞き取れないほどの声量で囁いた。

「隊長と副隊長を呼んで来る。僕たちだけじゃ対抗できない」

アダラ皇帝がミカを見た。アダラ皇帝の顔から笑みが消え、じいっと穴を掘るかのように、その闇のような瞳でミカを見つめた。ミカはその吸い込まれそうな瞳に指一本も動かすことができなくなった。

「僕たちはルーダ様の護衛だ」

アリアが言った。アリアはじっとアダラ皇帝を見つめたまま動かなかった。

「僕たちは、ジョルリア帝国の平軍人の中で一番腕が立つ」

アリアの声はひどく落ち着いている。その落ち着きさが妙に恐ろしかった。今ではその恐ろしさはアダラ皇帝と同じレベルにまで達しているようにミカには思えた。そして、アリアにはアダラ皇帝と太刀打ちする決意が固まっているということを知った。同時に、残りはミカ自身がその決意を固めるだけだということを感じた。

「僕は、アリ・ユレイルの息子だ」

その時だった。ミカの右側がじんわりと温かくなった。ミカはゆっくりと隣を見た。息が止まった。そこには、死んだはずの父親――イェダンが半透明な姿でそこに立っていた。

「――父……さん――?」

ミカの声は声にならなかった。十数年振りに見る父親の姿に、ミカの目からつーと涙がこぼれた。

『ミカ』

イェダンが言った。その声色も表情も、ミカが記憶している父親のそれだった。

『お前ならできる。戦うんだ』

ミカの左側がじんわりと温かくなった。ミカは反対側を振り返った。目を見開いた。アリアの隣に、まるでアリアと瓜二つの男性が、唇の端を上げて笑って立っていた。それがアリアの父――アリ・ユレイルだということは明白だった。

『君たちならできる』

アリが言った。ミカは初めて、アリアの父親の声を聞いた。

『俺たちはずっと君たちの側にいる。今までも、そして、これからもずっと』

ミカの両目から涙が溢れた。ミカはギュッと目を瞑った。

「戦うんだ」

心の中で言った。

 ミカはパッと目を見開いた。もうイェダンとアリの姿は見えなかった。しかし、温かさだけは残っていた。

「僕たちは、この戦いを終わらせに来た。戦うぞ!」

ミカは弓矢を投げ捨てて腰に差さっている剣を抜いて構えた。アリアも同じように構えた。アダラ皇帝は再びニタアと笑った。そして、両手を上げて手をパンパンと二回叩いた。ダンスホールの扉が突然開き、奥から何十人もの敵軍が武器を持って突入してきた。ミカの脳裏に、セレナ大聖堂の戦いの場面がフラッシュバックした。

「殺せ」

アダラ皇帝が言った。

 その言葉で、敵軍がわあっとミカとアリアに突進してきた。ミカとアリアは二人だけで、何十人もの敵軍と応戦しなければならかった。セレナ大聖堂の戦いで見たことのある顔もいた。ダンスホールの扉には鍵がかけられ、逃げることはできなかった。ミカは敵軍と剣を交えながらチラリとアリアを見た。アリアはこの短い時間でもう既に五人は殺していた。足に熱さが走った。敵軍に足を斬られた。ハアハアと息が上がってくる。斬って、斬って、斬りまくった。ミカの顔に血潮が跳ね返って着いた。腕が斬られた。背中も斬られた。それでも剣だけは落とさなかった。戦うことをやめなかった。一人、また一人と敵軍が床に倒れてはいくものの、敵軍の数は永遠に減らなかった。息が乱れ、次第に意識が朦朧としてくる。剣を持つ手も重くなり、疲労がミカの全身を襲った。そんな二人の様子を、アダラ皇帝はダンスホールの扉の前で仁王立ちになって、薄気味悪い笑みを浮かべて見ていた。アンドレア・オベールは床に大の字になって転がっていた。意識があるのかさえも分からなかった。誰も彼のことを気にする人はいなかった。アンドレアの部下であるビルダ帝国の軍人もアンドレアのことを助けようとはしなかった。ミカは朦朧とする意識の中で必死に剣を動かし続けた。霞む視界の中で、ミカはアリアが身体を斬られて床に仰向けに倒れたのを見た。ミカの右肩に激痛が走った。剣で刺された。そう脳が認識した時には、ミカは既に床の上に倒れていた。シャンデリアの吊るされた、天使が描かれている天井がグルグルと回っていた。自分の周りに、大勢の敵軍が包囲するのを感じた。

「殺れ」

アダラ皇帝の声が、どこか遠くで聞こえた。ミカは、勝手に瞼が閉じて、意識が遠のいていくのを感じた。殺されるんだ。僕は敵軍によって四肢を剥ぎ取られるんだ。そう思った。この苦しみから解放される嬉しさを感じた。しかし、それと同時に独り残されることになるルーダのことを想った。もしこの戦いで敗れたら、ルーダは一体どうなるのだろう。処刑されるだろう。しかし、処刑されるまでに酷い拷問に耐えることになるだろう。もしかしたら、強姦されるかもしれない。そして、散々苦しめられて、殺されるのだ。と。そう思うと、胸が苦しくなった。いっそのことルーダもこの部屋に来て、一緒に死ねればいいとさえ思った。もうミカには、起き上がる力も、剣を持ち上げる力も、声を発する力さえなかった。敵軍が自分の前に進み出るのが分かった。剣を高く振り上げるのを感じた。

――僕は、死ぬんだ。


カーンッ


剣が床に落ちる音がした。

 その激しい音で、ミカはハッと瞼を開けた。

 ミカは息を呑んだ。

 ミカの目の前に、剣を持ったアンドレア・オベールが立っていた。

 彼は剣を一振りした。

 次の瞬間、ミカを殺そうとしていた敵軍が血を流して床に倒れた。

 アンドレアは駆け出した。まるで舞をしているように剣を動かしては敵軍が一人、また一人と倒れていく。ミカは呆気に取られてアンドレアを見つめた。アンドレアの周りを大勢の敵軍が包囲した。しかし、その包囲した敵軍は次々に、バタバタと床に倒れていった。そしてものの一分も経たないうちに、敵軍は皆死んだ。ダンスホールには、むせ返るような血潮の臭いと、床に倒れたミカとアリア、そして一人立つアンドレアと、そんなアンドレアを見るアダラ皇帝だけが残った。

「おのれ……よくも裏切ったな」

アダラ皇帝の顔からは笑みが消えていた。アンドレアは血の滴る剣を一振りすると、肩越しにアダラ皇帝を振り返った。その瞳は激しく燃えていた。ミカは恐ろしいことに――その時初めて――アンドレアに対して憧憬の念を抱いた。

「言いましたよねアダラ皇帝。この武力で持ってあなたから寝返ることも可能なのだと」

アダラ皇帝の顔に血が昇った。

「今までの恩を忘れたかっ」

「恩ですと?」

アンドレアは乾いた笑い声を上げた。

「アダラ皇帝は我がビルダ帝国に、今まで何か一つでも恩をお与えになったことはありますか? 私たちはあなたたちのために働いてきました。何十、いや、何百もの命を殺して、あなたたちの願いに応え続けてきました。ですが、それに対してあなたから、何一つとして見返りをもらったことはありません」

アンドレアはつかつかとアダラ皇帝に歩み寄っていった。

「帝子を捕らえろと言ったのも、アリを殺せと言ったのも、全てあなただったのですぞ。私はアリを、愛弟子だと思っていた。あいつの将来を気にかけていた。あいつは優秀だった。俺様は正義のためにあいつを殺したのだと思っていた!」

アンドレアはアダラ皇帝に掴みかかると、その顔に唾を飛ばした。

「お前は武力では俺様に抗うことはできないだろう。お前は皇帝であり、軍人ではない。軍人は毎日、朝から晩まで、体調のいい時も悪い時も、怠ることなく武術の練習をしているのだ。俺様は隊長だ。そんな俺様に、お前が勝てると思うか!」

アンドレアは剣を振り上げるとアダラ皇帝の身体を斬った。アダラ皇帝はウッと唸って床の上に片膝をついた。アンドレアはアダラ皇帝の首筋に剣先を当てた。

「今俺様がこの剣を一振りすれば、お前は死ぬ。だが、お前を簡単に死なせるわけにはいかない。お前を連行する。俺様は今この瞬間から、ジョルリア・聖カリダ帝国軍の側に寝返る」

ミカはアリアを振り返った。アリアは大きく目を見開いて、アンドレアを呆気に取られたように見つめていた。アンドレアは懐から太い縄を取り出すと、一瞬のうちにしてアダラ皇帝の四肢を縛り上げた。そして、懐から銃を取り出し、ダンスホールの扉の鍵穴に銃口を向けると数発撃ちこみ、扉を蹴り飛ばした。そしてアンドレアは、アダラ皇帝の身体にも銃を数発撃って身動きを取れなくさせると、アダラ皇帝を引きずって扉の向こう側へ消えて行った。

 静寂が訪れた。

 ミカとアリアは、呆気に取られて、その場に佇んでいることしかできなかった。

 しばらくすると、カリス帝城の外から何発もの銃声が聞こえて、ミカはハッと我に返った。ミカは死体を避けて、這うようにしてバルコニーへと続く大きなガラス扉の元へ行くと、扉を開けてバルコニーへと出た。その下には、カリス帝城の正門前の広場が広がっていた。正面扉の前の石畳に、アンドレア・オベールが片手に銃を持ち、もう一方の手でアダラ皇帝を掴んで立っていた。アンドレアの持つ銃口からは煙が出ていた。先ほどの銃弾の音はアンドレアが撃ったものだと分かった。広場で血みどろの戦いを繰り広げていた軍人たちは、手を止め、驚いたようにアンドレアを見つめていた。

「アダラ皇帝を捕らえた!」

アンドレアが叫んだ。

「戦いは終わった! 私とビルダ帝国軍人は今この瞬間からジョルリア・聖カリダ帝国軍である! アレキルエラ帝国軍は降伏するのだ!」

その瞬間、上官の言葉を聞いた東部ビルダ帝国軍の軍人たちはジョルリア軍、聖カリダ帝国軍から武器を離し、アレキルエラ帝国軍に武器を向けた。ジョルリア軍、聖カリダ帝国軍もそれに続いた。形勢逆転。全ての大陸国が敵となり、アダラ皇帝を捕らえられたアレキルエラ帝国軍は、武器を捨て、両手を挙げて降伏の姿勢を示した。次々と、三国の軍人たちはそんなアレキルエラ帝国軍人を捕らえはじめた。

 ミカは、よろよろとその場に崩れ落ちた。いつの間にか、隣にはアリアも同じようにしてそこにいた。ミカはバルコニーの床に両手をついて頭をうなだれた。涙がポタ、ポタと両眼から落ちて床を濡らした。

「――終わったんだ……。僕たちが勝ったんだ――」

そう、声が絞り出た。ミカとアリアはその場に仰向けに倒れ込んだ。バタンという大きな音がして、ルーダがダンスホールに姿を見せた。ルーダは目の前に転がっている死体を見て一瞬動きを止めたが、バルコニーに倒れているミカとアリアを見て二人の元に駆け寄った。ルーダはミカとアリアの手を取った。ミカとアリアの目には、美しい青空が映っていた。ルーダも空を仰いだ。雲が割けて、その間から天使の梯子が幾つも、まるで光のオーロラのように地上に差し込んでいた。



 カリス帝城での戦いから一週間が経った。

 カリス帝城の中にある最高裁判所では、戦争裁判が行われていた。裁判官席にはジョルリア帝国、聖カリダ帝国の裁判官十五人と、ジョルリア帝国の王族十五人と法王ラーの計三十一人が座っていた。被告人席には、アダラ皇帝、エルマ、アンドレア・オベール、ジャン・ベルナール、そしてロイが座っていた。傍聴人には、国内外を問わない貴族や政治家など、多くの人々が押し寄せていた。既に開廷から長い時間が過ぎ、今まさに被告人への判決が言い渡されるところだった。

「被告人、ジャン・ベルナールは前へ」

裁判長が言った。ジャン・ベルナールは前へ進み出た。

「お前は、帝女様への殺人未遂の罪に問われた。しかし、お前は娘の死に直面し、精神的苦痛を味わい、その時に嘘の情報を信じ込まさせられた。その時にそれが嘘だと気づくことができなかったことは浅はかだった。しかし、同情と共感の余地がある。そして、カリス帝城での戦いの時はジョルリア・聖カリダ帝国軍の味方につき勝利に貢献してくれた。そして、帝女様はお前のことを許している。よって、お前は無罪とする。しかし、帝女様の護衛に戻ることはできない。これからは心を入れ替え、再びジョルリア帝国の軍人として我が国に貢献してくれることを期待している」

ジャンはその言葉を聞くと、その場に崩れ落ち、おいおいと泣いた。

「――ありがとうございます……。ありがとうございます帝女様! ありがとうございます!」

「被告人、アンドレア・オベールは前へ」

次に呼ばれたのは、アンドレア・オベールだった。アンドレアは堂々と前へ進み出た。

「お前は長年に渡り西部アレキルエラ帝国と密通し、数々の悪行を行ってきた。ビルダ帝国の帝子の幽閉、武器の密輸、セレナ大聖堂での戦いを引き起こした。しかし、お前は最後にジョルリア・聖カリダ帝国軍の味方につき、アダラ皇帝を捕らえ、自らの手でジョルリア・聖カリダ帝国軍を勝利に導いた。この全ての事柄を踏まえ、お前はビルダ帝国軍隊長の地位を剥奪される。そして、十年の禁固刑に処す」

アンドレアは自らの判決を聞くと、背筋を伸ばし、裁判官に向けて敬礼した。帝王ヨアは、自らの親友の命を奪った張本人であるアンドレアを、震える眼差しで見つめていた。

「被告人、ロイ・ド・ハルロッテ・カレミドル・アークは前へ」

その名前を聞いて、ルーダは胸の締め付けられる気持ちがした。ルーダはロイの顔を直視することができなかった。身体が震え、視界が歪んだ。先ほどの話し合いで、ロイがどのような処分を受けることになるのかを分かっていたからこそ、とても辛く、耐えられなかった。

 ロイは、憔悴し切った顔でよろよろと前へ進み出た。その顔面は蒼白だった。

「お前は、帝女様の殺人の罪に問われている。その罪の重さは言うまでもない。同情も、斟酌の余地もない。幼い頃からジョルリア帝国は悪だと洗脳されてきたとしても、自分で考えることができる年齢であるのだからその背景は塵芥の一つに過ぎない。アーク家はジョルリア帝国の聖十一族から排除され、アーク一族は解散させる。お前は貴族の地位を剥奪され、流刑処分となる」

「そんなっ……!」

ロイは顔を上げて哀願の涙を流した。

「罪はこれでも軽くなったのだ。最初、お前は最重刑の死刑に処されるはずだった。しかし、帝女様がお前の減刑を求め、採用された」

ロイは弾かれたようにルーダを見た。ルーダは苦しそうにじっとロイを見つめた。ルーダの緑色の宝石から、つーと涙が零れた。

「わたくしはあなたを許します」

ルーダの唇が、睫毛が、声が揺れた。

「わたくしはあなたを心から愛していました。今も、ずっと」

ロイはその場にへなへなと崩れ落ちて、床の上に両手を突きルーダを見上げた。ロイの両目からは大粒の涙が溢れていた。ついに、ルーダの方から視線を外した。ロイは近衛部隊に被告人席へと引きずられていった。

「被告人、エルマは前へ」

法廷の雰囲気が変わった。

「お前は、帝妃様に薬を盛った罪、帝女様の侍女だったステファ・ベルナールの殺人の罪、そして彼女の嘘の死因を吹聴した罪、帝女様の最初の護衛の殺人の罪、ステファ・ベルナールの父親であるジャン・ベルナールに嘘の話を吹き込み、帝女様への殺意を鼓舞し、殺人未遂に繋げた罪、そして、お前の罪を見抜いていたエヴァ妃を牽制するために、エヴァ妃の部屋に自身の名前が書かれた呪い人形を隠してエヴァ妃が自身を殺害しようとしているという嘘の事件に持っていき、無実のエヴァ妃を廃位させ、流刑にした罪に問われている。お前の罪は、ロイ・ド・ハルロッテ・カレミドル・アークと同様、同情も、斟酌の余地もない。お前は妃の身分を剥奪され、無期懲役刑となる」

おのれーっ! とエルマは叫んだ。エルマはその場で四肢を振り回し暴れ出した。そんなエルマの両腕を近衛部隊が取り押さえた。

「あたしは! あたしは奴婢の身分から妃の身分にまで昇り詰めたんだ! アミュタス様! どうかご慈悲をお与えください! 減刑を求める!」

金髪の髪を持ったアミュタスは、静かに目を閉じた。

「私が間違っていた。お前に与える慈悲などない」

アミュタスは深い声音で、それだけ言った。エルマは発狂した。エルマは近衛部隊に両腕を掴まれ、法廷から追い出されていった。

「被告人、アダラ皇帝は前へ」

アダラ皇帝は両腕を近衛部隊に抑えられて前へ進み出た。アダラ皇帝の顔は憔悴し切っていたが、その顔に浮かぶ奇妙な笑みはそのままだった。

「お前は、皇帝の地位に就いた時から国土を拡大させようと企んできた。ビルダ帝国を誘惑し、エルマを誘惑し、今回の戦争にまでつなげた。その中でどれほどの罪無き人間の命が失われたか。お前の道は決まっておる。お前は皇帝の罪を剥奪され、死刑となる。そして、西部アレキルエラ帝国には賠償金を請求し、政治家を解雇し、今後十年間は、次期アレキルエラ帝国の皇帝決めと政治には、ジョルリア帝国、聖カリダ帝国が介入する」

アダラ皇帝はその判決を聞いても、顔色一つ崩さなかった。黄ばんだ歯を見せ、何も映さない真っ黒な瞳をたたえ、ニヤニヤと笑っていた。

 戦争裁判が終わった日、東部ビルダ帝国の、幽閉されていた最後の正血統の帝子が解放された。彼はありし日のアリに護られていた人物だった。彼は帝王の地位に就いた。ルーダの結婚相手には、ジュレアの最終候補に残ったアル・ド・ミハルド・ジョゼシャルド・アウグスカリスがあてがわれた。ルーダは法律上でロイと離婚し、アルと再婚することとなった。


 夕焼けが空を茜色に染める頃、カリス帝城の裏庭のベンチで、ルーダとアルが座っていた。二人は何も話さなかった。

「帝女様」

その沈黙を破ったのは、アルだった。ルーダの緑色の宝石は、泣き腫らして真っ赤だった。ルーダはロイのことを想って、毎日のように泣いているのだった。

「帝女様のお辛い気持ちは、痛いほど分かります」

アルは静かに言った。

「心から愛していた人に裏切られ、それでも愛を消すことができず、それなのに新しい夫を迎えることになった。きっと帝女様は、僕を愛することはできないでしょう。人はそんなに簡単に、人を好きになったり、愛することはできないし、つい昨日まで好きだった人のことを急に好きではなくなることができないことは、僕もよく分かっていますから」

柔らかい風が、二人の足元を吹き抜けた。

「それでも、僕が言えることは、僕は帝女様をお側でお支えしたいと思っているということです。帝女様から愛されることを望んでいるわけではありません。それは無理だと分かっています。でも、今、帝女様はとてもお辛いと思います。死んでしまいたいと思うくらいに辛いかもしれません。僕は、そんな帝女様をお支えしたいと思っています。帝女様にとって一番信頼できる人が、ご両親を除くと護衛たちかもしれませんが、僕は、その次くらいに、信頼できる人になれればいいなあなんて、思っています」

アルは言った。ルーダはアルを見上げた。アルの顔は、あり得ないくらいに緊張で強張っていた。こんなことを普段口にはしない人なのだろうというのがよく分かった。

「わたくしは、今とても辛いのです」

ルーダが静かに口を開いた。

「正直に言うと、わたくしはアル殿を愛せる自信はありません。今わたくしが愛しているのは、ロイだからです。ロイの過去も、境遇も、全て受け入れて、そんなロイをわたくしは今も愛しています」

アルは何も言わずに頷いた。

「ただ、アル殿が、誠実な方なのだということはよく伝わりました。帝女という身分にある以上、これくらいの苦しみには耐えなければいけないことはよく分かっています。だから、わたくしは耐えています。この苦しみを耐えた先に、安らぎの光があることを信じています」

ルーダは泣き腫らした真っ赤な目でアルを見上げた。アルも、緊張で強張った目でルーダを見た。二人はゆっくりと頷いて、黙ったまま、茜色に染まった空を見上げていた。


 ミカとアリアとルーダは、カリス帝城の一番高い塔で黄金色に輝く夕日を眺めていた。爽やかな秋の風が吹いていた。眼下に広がる碧い海が、さざ波を立てていた。

「終わったんだ」

ミカが言った。

「これから、どうしようか」

ミカは二人の顔を見た。二人の両目は太陽の黄金色が反射して、キラキラと輝いていた。

「僕は、しばらく休みをもらって、ビルダ帝国に行って家族を弔って来る」

アリアが言った。

「父さんと母さんが暮らしていた家があった場所に、父さんと母さんと、ばあちゃんのお墓を建てようと思う。そして、言うんだ。戦争は終わったって」

アリアは唇の端を上げて笑った。

「ルーダ様は?」

ミカが聞いた。ルーダはミカとアリアを見て柔らかく微笑んだ。

「わたくしは変わりないわ。しいて言えば、髪の毛を伸ばすことくらいね」

三人は笑った。平和な時間だった。

「でも、今回のことでよく分かったわ。女帝になるには、もっと勉強をしなければいけないし、武術も身に着けなければいけないと。わたくし、立派な女帝になります。この国や、この大陸の平和を守れるような、立派な女帝に。あなたたちも、そんなわたくしの側に、ずっといてくれるわよね」

ミカとアリアは頷いた。

「いますよ」

「ルーダ様のずっと側に」

ピーヒョロロと、鳥のさえずりが空に響いた。

「ミカは、どうするんだ?」

アリアが聞いた。

「僕は、実家に帰って、父さんと、母さんとじいちゃんに挨拶をしてくるよ。それで、また戻ってきて、もっと武術を頑張る。自分に自信が持てるようになるまで、武術も頑張るし、それ以外のことも頑張る。僕、夢があるんだ」

アリアとルーダはミカを見つめた。

「僕、将来、もう少し歳を重ねたら、ジョルリア軍に入団した若い子たちの武術の指導をしてみたい。才能ある子たちを、いっぱい育てて、この国を護れる人材を沢山作りたいんだ」

「僕は、この大陸一の優秀な軍人になることが夢だ」

アリアが言った。

「父さんの名に恥じないような、父親がアリ・ユレイルということを立派に思えるような、そんな軍人にきっとなる」

「わたくしも、立派な君主になります。史上最高の女帝になって、この国をもっと豊かにします」

ルーダが言った。

「誓おう」

ミカが、二人の顔を見て言った。ミカは小指を差し出した。

「僕たちは、必ず夢を叶えて、幸せな人生を送るって。ソウルメイトの名にかけて、誓おう」

アリアとルーダは微笑んで、それぞれ小指を差し出した。三人の小指がきつく絡まった時、小指から、全身に、熱いものが流れた。夢を誓い合った三人の元を、夕焼けの黄金色がどこまでも眩しく照らしていた。


 カリス帝城の大広間から外の広場、そして市にかけて、政治家や女官、貴族、軍人、国民が押し寄せていた。大広間の台座には帝王ヨアと帝妃アディ、そして帝女ルーダが立っていた。音楽隊のマーチの音が鳴り響く。勝戦祝いの参列者たちは両手を挙げた。

「帝王ヨア万歳! 帝妃アディ万歳! 帝女ルーダ万歳! ジョルリア帝国万歳!」

万歳三唱が響き渡った。ミカも、アリアも、両手を挙げて笑いながら叫んだ。リオ、アキドルや、軍人たちも嬉しそうにしている。貴族も、女官も政治家も、何といっても国民も、長い戦争を終えた安堵と喜びに満ちて幸せそうだった。

 万歳三唱が終わって、拍手喝采が鳴り響いた。ジョルリア帝国の空はどこまでも青く澄み渡り、光で溢れていた。

帝王ヨアの亡き後もジョルリア帝国の平和は守られ、女帝として君臨したルーダは立派に国を治め、ミカとアリアは護衛として、ジョルリア帝国の平和をずっと護り抜いた。


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ジョルリア国物語 桜川光 @saku1104ra

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