湯ヶ島にて。
増田朋美
湯ヶ島にて。
そろそろ暑くなってきて、もう夏の服装が必要になるかなと思われる時期であった。そうなると、また過ごしにくい夏になってしまうのかなという不安もあるけれど、とにかくいろんな情報が流れる今だから、一度はそれを遮断する時間というものを持つことも必要なのかもしれない。情報過多になってしまうのは、仕方ない社会なので、それを自分で遮断するというか、それに触れない時間を持つことが大事なんだと思う。
そんな中、介護というものは、いつでもどこでも行われるものである。家事全般がそうであるが、誰かが必ずしなければならない。最近は、女の人がすべてという認識も薄れてきてはいるが、それだけではまだ足りていない気がする。
「あーあ、また、食べてないや。」
杉ちゃんはでかい声でお皿を眺めながら言った。
「こうしてさあ、なんにも食べてないお皿を眺めると言うのも、なんか、辛いというか、ほんと嫌なもんがある。何にも手をつけていない。たくあん一切れしか食べてないんだぜ。」
「まあねえ、海外では、残すくらい食べてくれたんだと認識してくれる国家もあるようですが、そういうわけにもいかないですよね。」
ジョチさんも、杉ちゃんにあわせるように言った。
「でも、人間は動物ですから、食べ物から栄養を取らないと、死亡しますよ。」
「そうなんだよ!それが一番困るんだ。そうなってもらいたくないから、僕らは食べてと言ってるんだけど、ご覧の通り食べようとしてくれない。」
「薬ばっかり飲んで、食べないんですよね。薬があるからそれで良いんだとでも思っているのでしょうか?それじゃあ本当は行けないんですけどね。なんとかして、食べようという気持ちにならないとだめですよね。」
「どうやったら、食べようと言う気持ちになってくれるかな?入院すると、食べたい気持ちになる人もいるようだが、それは無理だし。」
ジョチさんと杉ちゃんが、そう言い合っているのを、今西由紀子は、立ち聞きしてしまった。それを聞いた由紀子は、すぐに四畳半に飛び込んだ。
「まあ、環境を変えれば、食べようという気持ちになってくれるのかもしれませんが、、、。」
ジョチさんが、そう言っているのを無視して、由紀子は、布団に寝ている水穂さんに声をかける。水穂さんは、ウトウト眠っていた。多分、食べ物を食べても吐き出してしまったあとなのだろう。なんだか、生臭い匂いが部屋には充満していた。由紀子はそんなことは平気だった。
「水穂さん、起きて、起きてってば。」
由紀子は、水穂さんの体を揺さぶった。
「由紀子さん。」
水穂さんはぼんやりとそういうのであるが、由紀子は、こういうときは単刀直入に言ってしまったほうが良いと思って、すぐに言ってしまった。
「私と一緒にどっか行こう!」
「何を言うんですか。そんな体力も気力も僕には。」
水穂さんはそういうのであるが、
「大丈夫。電車で行けば、車も使わなくて良い。駅に近いところにホテルや旅館はいっぱいある。そこで休んでいるだけでいいの。あなたの世話は私がするから。」
由紀子は、すぐに言った。
「でも、由紀子さんに、そんなことさせるなんて。」
水穂さんはそう言うが、
「大丈夫。大丈夫。あなたはどうせ世話がなければ動けないんだし。それなら、私がそれ、買って出るわ。専門の介護士雇ったら、お金がかかってしょうがないでしょうし、それなら私が、その役目をする。それに、二人で何処かに出たほうが、病院で嫌なもの扱いされるよりずっと良いわよ。」
と由紀子は言うのだった。
「そうですが、どこへ行くんですか。行くところなどどこにもありませんよ。」
水穂さんがまたそう言うと、
「じゃあ伊豆はどう?熱海とか、伊東みたいな有名な観光地ではなくたっていいのよ。そういうところだと、人が多いし、近代的な建物ばかりで、かえって静かに過ごせやしないわ。そうではなくて、うんと静かな場所で、あまり人はいなくて、旅館の人たちもあまり干渉しないで、二人っきりになれる場所を探しましょう。」
由紀子は、即答したのであった。
「そんなところあるわけが。」
水穂さんは二三度咳き込んだのであるが、
「大丈夫。あたしがちゃんと見つける。」
と由紀子はそう言って、タブレットを取り出して、静かな観光名所を調べ始めた。
「へえ、伊豆へ行くって?名案じゃないか。それなら、ぜひ行ってもらおうじゃないか。由紀子さんが言った、人がいなくて静かな場所だったら、中伊豆位が良いよ。修善寺とか、そこら辺はどう?」
由紀子が一生懸命探していると、耳ざとい杉ちゃんが、それを聞きつけて部屋へやってきてしまった。
「そうですね。そういうことなら、ご飯を食べようと言う気持ちにもなってくれるかもしれませんね。由紀子さん、肉さかな一切抜きの料理を提供してくれる旅館を探すんですね。まあ、伊豆という海の幸とか、イノシシ鍋が多いので、難しいかもしれないですけどね。」
ジョチさんも、杉ちゃんに続いて四畳半にやってくる。由紀子はジョチさんの言葉が嫌がらせのようにも感じた。確かに、伊豆といえばどうしても観光旅館が多いので、豪華な食事が出てしまう可能性があるが。
「あった!」
と由紀子は、画面を指さした。
「ここなら、山奥の静かな宿だし、人に邪魔されることもないわ。それに、アレルギーの人にも考慮した定食メニューもある!」
ジョチさんがタブレットを貸してくれというので、由紀子はそれを渡した。
「はあ、天城トンネルを出て少し下ったところですね。ああ、ここですか。確か川べりの露天風呂が好評ですよね。有名な文豪もここで原稿を書いたという伝統ある旅館ですね。良いじゃないですか。ぜひ、行ってきてください。」
そこは、典型的な和風旅館という感じの建物で、確かに一見さんお断りという雰囲気のある、厳格な湯治宿であった。アクセスは、修善寺駅から、バスで30分ほどだという。バスは、一時間に一本しかないが、由紀子はそんなことは平気だった。特に、立ち寄る観光地もないので、その時刻を目指して行けば良い。
「本当に行けるんでしょうか。」
水穂さんだけが心配そうな様子だったが、
「いや、大丈夫だ。思いっきり温泉つかって、ゆっくりしてこいや。」
杉ちゃんにそう言われて、由紀子はすぐにそこを予約してしまった。幸い、一週間もしないうちに、予約が取れてしまったのは、すごい幸運であった。今はインターネットで予約ができるから、そういうところも便利なものであった。
それから数日後。由紀子は、自分の運転する車で製鉄所に迎えに行った。水穂さんは、覚悟を決めてくれたらしく、小さなトランクに着替えを入れて、待っていてくれた。由紀子は自分の車の助手席に水穂さんを乗せて、製鉄所をあとにした。由紀子はにこやかに笑いながら、車を運転して富士駅へ向かった。水穂さんもついてきてくれた。駅員に手伝ってもらったりしながら、由紀子と水穂さんは電車に乗った。三島駅までは、30分程度。平日なので、乗客は少なかった。それも由紀子には好都合であった。
三島駅に到着すると、伊豆箱根鉄道駿豆線に乗り換える。これも、運賃をICカードで支払えないという問題はあるが、本数が多いので難なく乗ることができた。駿豆線は車両は多いのだが、乗っている乗客は少ないことで有名だ。三島駅から30分。修善寺駅に到着する。修善寺駅につくと、そこからはバスに乗る。バスは、湯ヶ島温泉行というバスに乗って、これもやはり30分程度だった。幸い、どこの道路も混雑しておらず、順調に行くことができた。西平橋というところで由紀子と水穂さんは降りた。
バス停を降りると、周りは森ばかりだ。確かに、工場も高層ビルもなにもないので、空気は良い。
「ああ良いところに来た。やっぱりこういうところは、空気は良いし、美味しいものはあるし、思いっきり力が抜けるねえ、水穂さん。」
由紀子は、写真でも一枚撮ろうかなと思ったが、水穂さんはつかれた顔つきだったので、もう旅館に行ったほうが良いと思った。幸い旅館はすぐ近くだった。歩いて数分もかからない。森の中に立つ、静かな一軒宿だ。看板に湯治場と書いてあるわけではないけど、確かに、一見さんお断りという風情がある旅館である。
由紀子が入口のドアをノックすると、いらっしゃいませと中年の女性が出迎えた。着物を着ているから女将さんだ。大女将だけでやっているのだろうか。
「あの、今西です。よろしくお願いします。」
由紀子がそう言うと、女将さんは、
「治郎ちゃん、お客さんを案内してあげて。」
と一人の青年を呼んだ。多分、手代さんとかそういう人だろう。20代後半くらいの若い人で、なんだか訳ありかなと思われる雰囲気のある人であった。
「ここで働いてくれている野田治郎ちゃんです。彼が一日お世話をしますから、何でもお申し付けてね。」
女将さんに言われて、治郎ちゃんと呼ばれた青年は、
「よろしくお願いします。」
と頭を下げた。今どきの青年には珍しい真面目そうな顔だった。由紀子と水穂さんがよろしくお願いしますと言って頭を下げたところ、
「あれ、どこかで見たことあるような。」
と治郎ちゃんは言った。女将さんが、そんなことは良いから早く部屋へというと、彼はすみませんでしたと言って、すぐに水穂さんたちを部屋へ案内してくれた。部屋は8畳間で、二人で泊まるにはちょうどよかった。ちゃんと憚りもついている。治郎ちゃんがお茶を入れましょうかといったが、水穂さんが咳き込んだだめ、由紀子は一枚布団を敷いてもらえないかとお願いした。治郎ちゃんは、わかりましたと言って、嫌な顔をしないで布団を敷いてくれた。水穂さんは咳き込みながら着替えることもしないで、布団に倒れるように横になった。しばらく、運動で疲れた選手みたいに肩で息をしていたが、しばらくすると、楽になってくれたのだろうか、ウトウト眠りだしてしまった。
由紀子はこの間に、荷物を整理してしまおうと思ったが、治郎ちゃんが、夕食の内容などを聞いてきたのでそれはできなかった。由紀子にしてみれば、早く二人っきりになりたいのであるが治郎ちゃんがお風呂のこととか、夕食のこととか説明するので、苛立ってしまって、
「もう、説明はあとでいいから、水穂さんを休ませてあげてよ!」
と言ってしまう。
「ああやっぱりそうだ。水穂さんというからすぐに思い出しました。右城水穂さんですね。僕、東京に住んでいたとき、演奏会を聞かせてもらったことがあるんです。あのときは、」
治郎ちゃんは、嬉しそうに思い出していった。由紀子は、
「そんなことはもういいわ。どうせ、みんなが言うことは同じことに決まってる。そういうところから離れさせてあげて、水穂さんを休ませて上げたいからここに来たの。だから、水穂さんのことは何も言わないであげて。」
と彼の言葉を遮って、そう言ってしまった。
「でも、そんなすごい人がうちの旅館に止まりに来るなんてびっくりしました。こんな古臭い旅館に泊まりに来るなんて、どうしたんですか?それではなにかわけがあるのでしょう?それとも、報道陣から逃げたくて、ここに来たとか?」
治郎ちゃんは、由紀子にそう聞いてくるのである。そういうふうに、一般的な芸能人と同じような扱い方をされてしまうことに、由紀子は嫌な気持ちがする。
「もうほっといてよ!そう質問されてたんじゃちっとも休めないわ!」
由紀子は思わず感情的になって、治郎ちゃんに言った。治郎ちゃんも、由紀子がそういったことで、水穂さんの状態を理解してくれたらしい。少し考えて、こういったのであった。
「わかりました。それほどひどい事情があったんですね。それならうちでゆっくり休んでください。幸いなことに、うちは、個人経営の旅館ですから、滅多なことでは報道陣は来ないので、安心してくださいね。」
「ありがとう!」
由紀子はまだ強く言った。
「そういう余計な一言は言わないでいいの。今は、水穂さんを、ゆっくり休ませてあげたい。それを叶えるのだって難しいんだから、今日は静かに休ませてあげてね。」
「わかりました。お風呂の時間が来たらまた呼びに参ります。それまでゆっくりしていってください。じゃあ僕は失礼しますので。」
治郎ちゃんは、由紀子にそう言って、静かに座礼して、部屋を出ていった。部屋を出ると、大女将ではなくて、若女将が、部屋の外で待っていた。
「右城水穂さんがうちへ泊まりに来たって?」
若女将は、にこやかに笑っていた。
「治郎ちゃんが喋っているのが聞こえたから。うちへ来たからには、サインでもしてもらわなくちゃ。」
さすが若女将。今どきの女性らしく、有名人が宿泊したときはサインを貰おうと考えているらしい。
「はい。間違いありません。」
治郎ちゃんは、そう若女将に言った。
「そうなのね。それなのになんでうちの牡丹鍋を出さないでくれって予約のときに言ったのかしら?治郎ちゃんそれ、聞いてきてくれた?」
「いや、それがですね。なんだか体調を崩されているようで、女性の方が休ませてくれと言って聞かないのです。」
治郎ちゃんは正直に答えてしまった。
「そうなの?じゃあ、牡丹鍋を断る理由も聞かなかったの?」
「聞けませんでした。女性の方が一緒なんですが、結構きついんですよ。だからそんな理由なんて聞けませんよ。」
治郎ちゃんがそう言うと、若女将は、全くこの人は頭が足りないんだからと言う顔をした。
「女将さんそんな顔しないでください。なにかわけがあるんですよ。そうでなければ、あんな有名人がうちの旅館に来るわけないじゃないですか。ああいう人であれば、こんな山奥の旅館に来たがらないのが当たり前だって、よく言われてたでしょ。」
「それはわかってるわ。だけど来たからには、精一杯のおもてなしをして、うちを使った感想を言ってもらわないとね。そうすればうちの旅館だって、もっとたくさんのお客が来るようになるわ。」
若女将はそういうのであった。確かにこの旅館は、豪華な設備もないし、娯楽室もない。あるのは、病気の治療とか、怪我の治療に効果ある温泉だけである。大女将さんはそれを狙ってくる人だけの旅館にすれば良いと言っているが、若女将さんは若い人らしく、そういうわけにもいかないと考えているらしかった。二人の対立はこういうところにも出てしまうのだと治郎ちゃんは思った。
「もう一回、部屋に入って牡丹鍋を断る理由を聞いてきてよ。」
「いやあ、無理ですよ。もう疲れてしまっているみたいで、静かに眠ってしまっていますから。起こしたら可哀想でしょ。サインするのだって無理だと思いますよ。女将さん。」
若女将にそう言われて治郎ちゃんはそういったのであった。隣の部屋のお客さんが、女将さん風呂はどこでしょうかと尋ねたので、若女将さんは嫌そうな顔をしながら、その場を去った。治郎ちゃんもどういうつもりなのかわからないという顔をしながら別の部屋に行った。
数時間立って、治郎ちゃんは、大女将さんから一応食事の時間になったと伝えてと言われて、また水穂さんたちの部屋に行った。水穂さんはまだ布団で眠っていた。テーブルに座って本を読んでいた由紀子が彼に応じた。
「何かしら?」
由紀子に言われて、
「あの、夕食ができました。」
と治郎ちゃんは答える。
「ここへ持ってきてくれないかしら?」
由紀子がそう言うと、治郎ちゃんはまたびっくりした。一応予約をしたときには部屋出しという指定はしていなかったと言おうとすると、大女将さんが出てきて、
「どうもすみません。今持ってきます。」
と、優しく言った。由紀子は水穂さんを起こして、
「ほら、ご飯よ。寝たままでいいから頑張って食べよう。」
と水穂さんを布団の上に座らせた。その間に、治郎ちゃんは、大女将といっしょに食事をテーブルに準備した。食事内容は、海の幸でも牡丹鍋でもない。そば定食だ。なんでかなと思うけど、予約するときそれを指定してきたのであるから、そのとおりにしなければならない。
布団の上に座ると水穂さんは二三度咳き込んだ。由紀子が、布団の上でもいいかと聞くと、大女将さんは大丈夫ですよと優しくいった。大女将さんが、介助は必要か尋ねると、
「結構です。あたしがそういうことはできます。」
と由紀子はきっぱりと言った。
「さあ水穂さん食べよう。」
由紀子は布団の上に座っている水穂さんに、そばの器を渡した。水穂さんは、食欲がまるで出ないようで、そばを食べるにもかなり躊躇していたのであるが、
「大丈夫ですよ。山で取れた山菜を使ったそばです。肉や魚は一切入っていません。安心してくださいね。」
と大女将さんが優しく言ってくれたので、水穂さんはやっとそばを口にしてくれたのであった。由紀子はそれを見てとてもうれしそうな顔をした。
それと同時に若女将が走ってくる。手には色紙とサインペンを持っている。きっとサインを狙っているのは一目瞭然だった。だけど、治郎ちゃんは、それをやっては行けない気がした。
「若女将さん、それはだめですよ。ゆっくり食事くらいさせてやってください。」
「何を言ってるの、頭が足りないわね。せっかくここに泊まってるんだもの。サインくらいしてくれるわよ。」
若女将は、そう言って、部屋に入ろうとするが、
「片子!」
と大女将さんが、ちょっときつく言ったので、それはしなかった。大女将さんは、水穂さんたちがご飯を食べているのを眺めながら、時々口に合いませんでしょうかとか、そういう話をしたりしていた。水穂さんは、ほんの二口か三口しかご飯を食べなかったが、そばを口にしてくれたのを由紀子は喜んでみていた。時々咳き込んだりしているのを、由紀子が体を擦ってあげたりしているのが見えた。治郎ちゃんは、それを眺めながら、もう水穂さんには、そういう女性がいるんだなと考え直した。若女将は、悔しそうに厨房へ戻っていくが、治郎ちゃんも大女将さんも、これでいいんだと言う顔をしていた。
湯ヶ島の自然は実に豊だった。
湯ヶ島にて。 増田朋美 @masubuchi4996
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