アビス・ゲートの門番と深紅の瞳

カマキリ魔獣の巨体が、音もなく崩れ落ちる。その断面は、まるで鋭利な刃物で切断されたかのように滑らかだった。漆黒の鎧を纏った女性――門番と名乗った彼女は、手にした細身の剣を軽く振るうと、付着した魔獣の体液を払い落とした。


「サヨ! 大丈夫!?」

私は倒れているサヨに駆け寄った。彼女は呻き声を上げながらも、なんとか体を起こそうとしていた。

「い……ってて……。肋骨が何本かいかれたかもしんないねぇ……。でも、まあ、死んじゃいないよ」

千年種の再生能力は伊達ではない。致命傷でなければ、この程度の怪我は時間と共に治癒するだろう。

「ヒメカ様! ご無事ですか!? サヨ様も!」

セバスチャンが操るノアの方舟が、魔獣の残党を蹴散らしながら私たちの元へ到着した。


門番の女性は、その一連の騒動を冷ややかに見つめていたが、やがて再び囚われの女性へと向き直った。

「改めて問う。お前の名は? そして、なぜお前のような脆弱な種族が、このような深層領域にいる?」

彼女の言葉には、千年種である私たちに対する侮蔑のような響きがあった。


囚われの女性は、怯えたように門番を見上げていたが、やがてか細い声で答えた。

「……私の名前は……ルナ……。私は……気づいたら、ここに……。何も……覚えていないの……」

ルナと名乗った女性は、記憶を失っているようだった。その瞳は虚ろで、自分がなぜこのような場所にいるのか、全く理解できていない様子だった。


「記憶喪失、か。都合のいいことだ」

門番は鼻で笑うと、ルナを拘束していた残りのエネルギーラインを、剣の一振りで断ち切った。解放されたルナは、力なくその場に崩れ落ちそうになる。私が咄嗟に支えた。

「しっかりして!」

ルナの体は、ひどく衰弱しているようだった。


「お前たち、この小娘をどうするつもりだ?」

門番が、今度は私に問いかけた。

「……助けるわ。彼女も、私たちと同じ千年種かもしれない。放ってはおけない」

ルナから感じられる微弱なエネルギーは、やはり私たちと同質のものだった。

「千年種、ね。なるほど、あの『瞳』が好む餌食ではあるな。お前たちも、いずれそうなるだろうが」

門番の言葉は、不吉な予言のように響いた。


「あなたは何者なの? アビス・ゲートの門番と言ったわね。アビス・ゲートとは何? そして、なぜ私たちを助けたの?」

私は立て続けに質問を投げかけた。この謎めいた女性について、少しでも情報を得る必要があった。

「質問が多いな。私はザハラ。この『アビス・ゲート』……お前たちが迷い込んだあの『瞳』へと通じる、数多ある次元の裂け目の一つを守る者だ」

ザハラと名乗った門番は、淡々と説明を始めた。

「そして、お前たちを助けたのは、気まぐれだ。それに、あんな雑魚魔獣に手間取っているお前たちを見ていたら、少々見過ごせなくてな。私の領域で無様な死に方をされるのは、寝覚めが悪い」


どうやら、この結晶体が林立する宙域は、彼女のテリトリーらしい。そして、私たちは知らず知らずのうちに、そこに迷い込んでしまったということか。

「あなたは……あの『瞳』に囚われたと言っていたわね。それなのに、なぜ門番をしているの?」

「話せば長くなる。だが、簡単に言えば、私はあの『瞳』に魂の一部を喰われ、その代償としてこのゲートの監視を強要されているに過ぎない。永遠に、な」

ザハラの赤い瞳が、一瞬、深い憎悪の色を宿したように見えた。


「ルナ……彼女は、どうしてあんなところに?」

「あの小娘は、数周期前、このゲート付近に漂着した。おそらく、お前たちと同じように、どこかの次元から迷い込んだのだろう。記憶を失っていたのは、あの『瞳』の精神汚染の影響かもしれん。そして、この領域を縄張りとする魔獣どもが、彼女を生きたまま餌として保存していたのだろう。千年種の生命力は、魔獣にとっても格好の栄養源だからな」

ザハラの言葉に、私は戦慄を覚えた。もし私たちがもう少し遅れていたら、ルナは生きたまま魔獣に喰われていたかもしれない。


「……私たちは、黄金の桃の謎を追ってここまで来たの。あなたはその手がかりを知っている?」

単刀直入に尋ねてみた。ザハラは少し意外そうな顔をしたが、やがてフンと鼻を鳴らした。

「黄金の桃……あの『創世の残り火』の亜種か。馬鹿なことを。あれは、お前たちのような下等な種族が手にしていいものではない。それに、あれに近づけば、間違いなくあの『瞳』の本体と遭遇することになるぞ」

やはり、アカシャの言った通り、黄金の桃とあの瞳は深く関わっているらしい。


「それでも、私たちは行かなければならないの」

私の決意は揺るがなかった。

「フン。好きにするがいい。だが、この先は私の領域ではない。これ以上、お前たちの面倒を見る義理もない。さっさと失せろ」

ザハラはそう言うと、背中の翼を広げ、一瞬で姿を消した。まるで、最初からそこに誰もいなかったかのように。


「……なんだか、嵐のような人だったわね」

私が呟くと、サヨが苦笑しながら言った。

「ああ。でも、命拾いしたのは確かだ。しかし、あの女、とんでもなく強ぇぞ。あたしたちじゃ、束になっても敵わねぇかもしんない」

サヨの言葉には実感がこもっていた。


「ヒメカ様、ルナ様のバイタルは安定していますが、極度の衰弱状態です。船内で休息を取らせるのが最優先かと」

セバスチャンが冷静に状況を報告する。

「そうね。ルナを船へ。サヨも、無理はしないで」


私たちは、気を失っているルナを慎重にノアの方舟へ運び込んだ。彼女の顔は青白く、呼吸も浅い。一体、どれほどの恐怖と苦痛を味わってきたのだろうか。

船内でルナをベッドに寝かせ、セバスチャンが応急処置を施す。

「彼女、本当に記憶がないのかしら……」

「さあな。でも、あのザハラって女も言ってたように、あの『瞳』とやらの影響かもしれねぇな。だとしたら、相当厄介だぜ」


ルナという新たな仲間(?)、そしてザハラという謎の協力者(?)。私たちの魔界での旅は、ますます予測不可能な展開を見せ始めていた。そして、私たちの目指す「嘆きの星雲」は、まだ遥か彼方だ。


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