天河原に散った恋
城での息詰まるような日々から数十年。私は、城を出た。いや、逃げ出したと言った方が正しいのかもしれない。血で血を洗う兄弟たちの争いにも、人間たちの飽くなき欲望にも、もううんざりだった。私はただ、静かに生きたかった。誰にも脅かされることなく、誰の血も見ることなく。
各地を転々とし、千年種であることを隠しながら生きていく中で、私は一人の男に出会った。レイと名乗るその男は、武士だった。強い男だった。その瞳には、迷いのない強い光が宿っていた。
「お嬢さん、こんなところで一人とは珍しいな。何か困りごとか?」
初めて彼に声をかけられたのは、とある宿場町でのことだった。私は追手から逃れるために、身分を偽り、粗末な身なりをしていた。そんな私に、彼は何の警戒心も見せず、屈託なく話しかけてきたのだ。
「……いえ、別に。ただ、少し道に迷ってしまって」
咄嗟に出た嘘だった。けれど、彼はそれを疑う様子もなく、「それなら、俺が案内しよう」と笑った。
レイは、百戦錬磨の武士だった。その剣の腕は確かで、多くの戦で武功を上げていた。けれど、彼は決してそれを驕ることなく、常に謙虚で、そして誰に対しても優しかった。私たちは自然と惹かれ合い、共に過ごす時間が増えていった。
「ヒメカ。お前は、どこか不思議な雰囲気を持っているな」
ある夜、月明かりの下で、レイがぽつりと言った。
「そうかしら? あなただって、十分に不思議な人よ。だって、鬼の血が混じっているんでしょう?」
彼は以前、冗談めかして自分の出自についてそう語ったことがあった。生まれつき身体が強く、鉄砲玉を避けたり、弾丸より速く移動できたりするのだと。
「ははっ、それを信じるのか? あれはただの法螺話だ」
「あら、私は信じているわ。だって、あなたは本当に強いもの」
私は彼に、自分が千年種であることを打ち明けるべきか悩んだ。もし知られたら、彼は私を化け物だと恐れるだろうか。それとも、私の血を求めるだろうか。恐怖と不安が心を支配する。
「レイ……もし、私があなたよりもずっと長く生きる存在だとしたら……あなたはどう思う?」
思い切って、そう尋ねてみた。彼は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに悪戯っぽく笑った。
「なんだ、急に。まるで物語のお姫様みたいなことを言うんだな」
「……真面目に聞いているのよ」
「そうだな……別に、どうもしない。お前はお前だ。俺が知っているヒメカであることに変わりはない」
その言葉は、私の心の奥深くにじんわりと温かく染み渡った。
私は、ついに彼に全てを話した。自分が千年種であること、一族の悲しい歴史、そして、なぜ今こうして一人で旅をしているのかを。彼は黙って私の話を聞き、そして、何も言わずに私を強く抱きしめた。
「……そうか。辛かったな」
彼の腕の中で、私は初めて声を上げて泣いた。今まで誰にも見せたことのない、心の底からの涙だった。
「それでも、俺はお前を愛している。お前が何者であっても、俺の気持ちは変わらない」
レイは、私が千年種だと知っても私を愛してくれた。彼の愛は、私の孤独な心に光を灯してくれた。私は、彼と共に生きる未来を夢見るようになった。
けれど、幸せな時間は長くは続かなかった。天下を分ける天河原の戦い。ミカ歴1559年3月11日。その戦いに、レイは国の為に出陣していった。
「必ず、生きて戻る。そして、お前と共に……」
そう言い残して。
「待っているわ、レイ。ずっと、待っているから」
それが、彼との最後の会話だった。
結果は、聞くまでもなかった。戦は苛烈を極め、多くの命が散った。そして、レイも……。
「レイ様は……敵将と相打ちになり……見事、本懐を遂げられました……」
部下の一人が、涙ながらにそう報告した。
ああ、まただ。また、私は置いていかれる。
心のどこかで分かっていた。人間と千年種では、生きる時間の流れが違いすぎる。いつかは必ず、こんな日が来るのだと。
「いいや、どの道近い内にそうなる運命だったんだ。だって、あたしはずっとお前たちより長生きだから」
強がりの言葉が、虚しく口からこぼれた。レイが守ろうとした国も、彼が信じた武士の誇りも、私にとってはもうどうでもよかった。ただ、彼のいない世界で、これからまた永い時を一人で生きていかなければならないという事実だけが、重くのしかかっていた。
天河原の戦いの後、200年ほどが過ぎた。世界は、武士の時代から兵隊の時代へと移り変わり、世界大戦が勃発するような激動の時代へと突入していた。武器は刀や槍から、鉄砲や大砲、そして戦車や飛行機へと進化していた。
私はそんな中、時代の大きな変わり目を感じていた。レイが死してまで守った国家が、外国の力によって踏みにじられていくのを、ただ無力に見ていることしかできなかった。
「私は本当にレイを愛してなどいたのだろうか」
あれから200年。私はもう800年の時を生きていた。レイとの思い出は、美しい絵画のように心の中に飾られてはいるけれど、その色彩は少しずつ薄れてきているような気もした。それは、仕方のないことなのかもしれない。あまりにも永い時間を生きる私にとって、愛した人の記憶さえも、いつかは霞んでしまうのだろうか。
そんなことはない。そう信じたかった。けれど、胸を締め付けるような悲しみは、確実に薄れていた。その代わりに、諦めにも似た静かな感情が心を支配していた。
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