第2話  懺悔の代償


 夢を見ていた。

 キャンパスに描きかけた下書きのような、輪郭だけのビル街。その中を沢山の人が歩いている。


『俺』は座っていた。

 自分が本当に座っているか分からない。実際座っているという感覚もない。ただそこに『俺』がいて、膝を九十度曲げているという事実だけが漫然と存在している。

『俺』はベンチに座っていた。


『俺』は木を見ていた。

 無色の街路樹が風に揺れている。おそらくサワサワと心地良い音を立てているんだろうが、それは耳には届かない。

 一枚の葉が親から離れ、風と遊びながら目の前を泳ぐ。

 その瞬間、まるで元からそこになかったかのように街路樹が消滅し、葉がピン留めされたように空中で停止する。

 そこに時間経過はなかった。『ある』という事実と『ない』という事実が無秩序に進行しているだけ。

『俺』は木の向こうを見ていた。


 向かいの歩道を一台の自転車が駆け抜けていく。8歳の少年が、友達との遊びの約束に心躍らせながらリズムよく立ち漕ぎをしている。


『俺』はいつのまにか立ち上がって駆け出していた。手を前に突き出しながら、首を振って必死にやめろ、やめろと叫んでいる。

 それでも何も変わらない。どれだけ走っても、叫んでも、夢という一枚の絵の中では周りの景色も、運命も、何もかも。


『俺」は隆起した歩道のタイルに躓き、前方に大きく吹っ飛ばされた。

 

 転んだ『俺』の頬を、地面の感触が冷たく撫でた。

 擦りむけて熱を帯びている手足の痛みに顔を顰めながら、『俺』はゆっくり立ち上がって転んだ原因を探す。

 あまりの痛さで涙が出てきてぼやけた視界に、真っ赤に染まった地面が見える。

 ――血だ。でも俺の血じゃない。

 視線を上げる。

 手足がありえない方向へ折り曲がった誰かの体がそこに横たわっていた。

 僅かに震える瞼、動かぬ胸。


 ――琉偉るい

 


   ――――――――――――――――――――



 剥き出しの鉄骨と、そこに不安そうにしがみついている滑車。

 頭上で揺れる裸電球は黄ばんでいて、長い年月を感じさせる。

 スレート屋根の塗装は所々剥げ落ち、茶色いシミが広がっている。

 目が覚めた、と気づいたのはその後だった。

 

 頭を傾けると、部屋の隅に乱雑に捨て置かれた土嚢袋や、所狭しと積まれた鉄パイプの数々。

 小さく開かれた窓からは微かに潮の匂いが漂ってきていた。

 どこか海沿いの倉庫だろうと啓介は結論づける。天井の窓から見える空はもうすっかり暗くなっていて、いくつか星が瞬いている。

 

 続いて自分の体に意識を向ける。

 あのとき、長身の男に蹴られたはずの脇腹が、まったく痛まない。

 まるで蹴られた事実そのものが消えてしまっているような。

 手足が縛られているから裾をまくって確認することはできないけど、この感じだと痣すらないのかもしれない。

 あの男は折れた肋骨が肝臓を貫いていると言った。透視能力を持っているわけではないし、超小型CTスキャナーを搭載しているわけでもないが、あの痛み、体にマグマを流し込まれたような痛みは確かに命の喪失を訴えていた。

 にも関わらず今ピンピンしているということは、とりあえず火急の命の危険は過ぎ去ったということだろうか。

 無論、手足を縛られ猿轡を噛まされている今この状況も命の危険ど真ん中にあることに変わりはないのだが。


「起きたか」


 なんとかこの状況を打破しようとモゾモゾあがいていた啓介に気付き、男が声をかけてきた。

 薄暗い倉庫の奥。三人の男がパイプ椅子に腰掛け一つのテーブルを囲んでいる。


「気分はどうだ」


 そう体調を気遣ったのは、起きたか、と最初に声をかけてきた目つきの鋭い、痩せた中年男。

 ダボダボのジーパンにくたびれたジャケット。白かったであろうスニーカーは茶色く埃を被ってしまっている。


「まあ、いいわけないか」


 そう自嘲気味に呟くと、啓介に近寄って猿轡を外す。


「喉渇いたろ。これ、未開封だから」


 ペットボトルを啓介の隣に置いて、中年男は少し離れたところで啓介に背中を向けてあぐらをかいた。

 手縛られてるから自分で飲めないんだよなあと思いつつ、大して喉が渇いていないことに気づく。


「おいおい、勝手に外していいのかよオッサン」


 一連の行動を見ていた金髪の若い男がスマホ片手に口を尖らせる。

 金髪は派手なピアスを弄りながら、あんま変なことすんなよ、と言外に圧をかけた。

 注意された本人は一瞬金髪男に視線を走らせ、あからさまにため息をついた。


「別にいいだろ。ダメだと言われてない」

 

「いや、大声出されたりしたら大変だぞ。まあ誰も聞きゃーしねえだろうけど」

 

「……」


 中年男は黙ったまま怒りの眼差しを金髪に向ける。

 元々鋭かった目つきがさらに鋭く尖って金髪の肺腑を突き刺す。

 そんな眼光に気圧されたのか、金髪は逃げるように顔をそむけると、小さく舌打ちした。


「お前は良心が痛まないのか」

 

「……ああ?良心だ?んなもんあるわけねえだろ」


 睥睨の仕返しか、苛立ち混じりに返す金髪に中年男は憐れむような眼差しを送り、それから静かに目を伏せた。

 そんな会話を眺めながら、啓介は手首の縄を解こうと必死にもがいていた。

 だが、動けば動くほど縄は食い込み、肌に痛みだけが増していく。

 ──プロの仕事だ。

 探偵ドラマなんかで見たことがある。

 熟練者の手にかかれば、一本の縄すら絶対的な拘束具に変わる。

 これは知恵でも腕力でもどうにもならない。


 諦めた啓介は、仰向けのまま動きを止め、彼らの会話に意識を傾けることにした。こういう時に慌て騒ぎ立てるのは悪手だと相場が決まっている。


「俺たち、雇われたんだ。子供一人の面倒見たら手付金で10万、成功報酬で50万の計60万。なんとなくヤバい仕事だと分かっていたけど、どうしても金が欲しかった俺は飛び付いちまった」

 

 最初に口を開いたのは中年男だった。

 どこか投げやりな口調に、後悔の色が滲んでいる。

 

「僕もそう。お金が欲しかった」


 そう同調したのは、今まで無言を貫いていたもう一人の若い男。歳だけ見たら金髪よりも少し上だろうか。缶コーヒー片手にしきりに眠そうな目を擦っている。


「母ちゃんが倒れちゃって。保険があっても医療費はバカにならないほど高くて。いつのまにか両親が貯めた貯金は底をついてた」

 

「父親は」

 

「父は僕が10歳の時脳梗塞で倒れてそのまま……」

 

「……すまない。聞いて悪かった」


 聞くべきじゃなかったと男は伏せていた目をさらに下へ落とす。

 金髪も手にしていたスマホをポケットにしまい、会話に耳を傾けていた。


「大丈夫。父の件はもう消化しきってるから。だから……うん、大丈夫」


 そこで言葉を区切り、静かに空気を吸い込む。

 

「母ちゃんは父が亡くなった後必死に働いて僕を女手ひとつで育ててくれた。僕が医学部行きたいって言った時も、行きなさい、って笑顔で即答してくれた。その晩僕が寝に行った後に通帳を睨みながら電卓を叩いている母ちゃんの姿を盗み見て、絶対医者になってたくさんお金稼いで、今度は僕が助けようと心に誓ったのに……」

 

「医学部落ちちゃったのか」

 

「医学部は受かったよ。母ちゃんも泣いて喜んでくれた。でも三年のとき母ちゃんが職場で倒れて……がんだった。

 医者は“手術は難しいから抗がん剤か放射線で”って言ってきたけど、母ちゃんは治療も延命もいらないって。

 “お金は全部あなたに使って”って拒否したんだ。

 僕は必死に説得して、なんとか治療を始めさせたけど――」


 男の声が震える。

 静かに、でも途切れ途切れに言葉が続いていく。


「家庭教師とか深夜のコンビニバイト、早朝の新聞配達とかいくつも掛け持ちしてもお金は減り続ける一方だった。母ちゃんに内緒で大学辞めて、本格的に働き始めてもそのマイナスは全然取り戻せなかった。そんな時、道端でこの求人を見つけたんだ。藁にもすがる思いだった」


 缶コーヒー男はそこまで矢継ぎ早に話すと、手にしていた空の缶を力任せに投げた。

 カラン……カラン……

 乾いた音が倉庫内に虚しく響き渡る。


「バカだよな。一度は人の命を救おうと心に誓ったのに、こうして犯罪の片棒を担いでお金稼ぐなんて。母ちゃんが知ったら怒るだろうな。ホントバカだよな……」


 そう自分を呪って悔しそうに唇を噛み締める。

 爪が肉に食い込むほど力強く握った拳を膝に叩きつけながら。

 しばらく沈黙が流れたのち、中年男が重たい声で口を開く。


「俺はそんな大した理由じゃない」


 そう言って金髪と缶コーヒー男に向き直った。


「娘と最後に楽しい思い出を作りたかった。ただそれだけの理由だった」

 

「……どういう事?」


 話が見えてこないと金髪がそう問いかける。

 中年男は瞳を閉じて深く息を吸い、ゆっくり吐くと小さく頷き、意を決したように目を開いた。


「俺元々は小さな会社の社長だったんだ。ところがその会社が潰れちまって、多額の借金が残った。女房にも離婚を突きつけられ、普段から家族のことなんか気にもしていなかった俺に親権が渡されることもなく、俺の元からみんないなくなっちまった。でもその代わり、月一で娘と会っていいってことになったんだ。

 月一で娘と公園で遊ぶ、それが全てを失った俺の唯一の楽しみだった。でもある日、前妻から電話がかかってきてこう言われたんだ。再婚することになった、だから娘にはもう会わないで欲しい、って。

 目の前が真っ暗になったよ。

 どうしてだ、愛美あいみがそう言ったのか――ああ、娘は愛美っていうんだ。

 そう言ったら前妻に、あの子がそう言ったわけじゃないけど、でももうあなたの娘じゃないの、って突き放されちまった。それでも何度も何度も頭を下げて後一回でいいからってお願いしたら、ついに向こうが根負けして最後に会うことを許してくれたんだ。愛美昔からことあるごとに千葉にある大きな遊園地に遊びに行きたいって繰り返してたから、最後だし連れて行こうと思い立ったけど、いかんせん貯蓄はないし、売れるものは全部売っ払って何もない。途方に暮れていた時にこの求人を見つけたんだ。ほんと浅はかだったよ。娘のために他の子供の誘拐を手伝うなんて、子供がいる親が絶対やっちゃいけないことだ。自分の子供を失う悲しみも、怒りも、絶望も全部分かってるはずなのに……」


 震える声で身の上話を語り終えた中年男の目元には涙が滲んでいた。

 ポケットからくしゃくしゃのハンカチを取り出して涙を拭い、小さく鼻を啜った後お前はどうなんだという視線を金髪に向けた。

 金髪は逃れるように目を背け、バツが悪そうに視線を落とす。


「俺は……そんな深い理由があるわけじゃねえ。駅前の公園にめっちゃかわいいがいてさ、一回いくらって聞いたらこんだけって言うんだ」


 金髪はそう言って体の前で両手を広げて見せる。


「正直高えって思ったよ。でもまじ可愛かったからその場でOKしてホテル行ったのよ。そしたら俺がシャワー浴びてる時に手持ちのもの全て取って逃げちまったんだ。警察にも行けずに怒りで頭吹っ飛びそうになってる時この募集を見つけて、速攻で申し込んじまった。今日失った分取り戻さないとって焦ってたんだよ。60万ありゃ失った分差し引いてもお釣りが来るって浮かれてもいた。でも今は後悔してる。悪かった」


 金髪は深々と頭を下げる。それから頭を上げると、何か決心したように頷き、


「俺やめるわ。この仕事も、変な奴らとつるむのも、変な事に手ぇ出すのも」


 勢いよく立ち上がるとピアスを取ってゴミを捨てるように部屋の隅に放り投げる。


「オッサン、あんな口聞いて悪かった。二人の話聞いて人生やり直そうって思った。しっかりと働いて、家族持って、自分の行動に責任持てる大人になる」


 そう高らかに宣言する金髪男を見て中年男が嬉しそうに何度も頷く。今日初めての笑顔だった。


「それがいい。君はまだ若い。いくらでもやり直せるんだ。人生の先輩としてのアドバイスだが、家族のことはしっかり気にかけろよ」

 

「ありがとうオッサン。君はどう?何か俺に言いたいことある?」

 

「え?僕?ええと、親孝行は今からしていったほうがいいと思う。いつ出来なくなるか分からないし……」

 

「分かった。二人の言葉しっかり心に刻むわ」


 金髪男がドンと胸を叩いて笑ったその時、倉庫内の照明が全て消えた。

 なんだなんだと明らかに動揺した男たちの声の中で、一際高く倉庫内に響き渡る、聴き慣れたその声。

 


「啓介〜助けに来たぞ!」

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