第48章「最後の記録会で雄大が肩を痛めリタイア」

 県立プールの更衣室は、冬の朝の冷たさを少しだけ逃れた空間だった。

 けれど、そこに満ちる空気はどこか張り詰めていた。

 雄大は、ロッカーの扉を閉めると、静かに肩を回す。微かな違和感が残っていた。

「いけそうか?」

 声をかけてきたのは郁也だった。競技水着のまま、タオルを肩にかけている。

「うん。あんまり無理はしないよ」

 雄大は笑ってみせたが、その笑みに揺れる影を郁也は見逃さなかった。

「……今までの全部が、ムダになるわけじゃねぇ。今日、完泳できなくてもな」

 その言葉に、雄大の心が少しだけ解けた。

 勝ちたい。でも、それ以上に――終わらせたい。

 会場のアナウンスが響いた。

「第7組、男子200メートル自由形、招集を開始します――」

 ふたりは無言で歩き出す。観客席には、潮守高校の仲間たちが固まって応援していた。

 朱音が真剣な眼差しで、麻里奈が拳を握っている。

 愛未がスマホを構えていたが、すぐに下ろした。有紀の顔が見えた。真っ直ぐにこちらを見ていた。

 雄大は、スタート台の上に立つ。肩をぐるりと回し、深呼吸をひとつ。

 ――泳ごう。最後まで。たとえ途中で折れても、自分で決めたことだ。

 スタートの合図。雄大は水面に飛び込んだ。

 初めの50メートルは軽かった。

 100メートルを過ぎたところで、少しだけ腕が重くなる。

 150メートル――ターンの壁を蹴った瞬間、右肩に鋭い痛みが走った。

「――っ!」

 思わず息が乱れる。腕が、上がらない。

 けれど、足で水を蹴り、無理やり前へ進む。隣のコースでは郁也が、こちらを気にしながらもペースを落とさない。

 最後の25メートル。雄大のストロークは完全に乱れていた。

 ゴールまで、あと少し。けれど――右肩が動かない。

 観客席から声が飛ぶ。

「雄大!あと少し!」

「がんばれ!」

 その中で、有紀の声が――

「雄大!!」

 ――聴こえた気がした。

 雄大は、左腕だけで最後の一掻きをし、指先がゴールタッチの板に触れた――直後、力が抜けて水中に沈みかけた。

 すぐにスタッフが飛び込み、雄大の身体を支えた。

 プールの縁に上げられ、雄大は苦笑したまま天井を見上げる。

「……やっちまったな」

 右肩が痙攣していた。もう、しばらくは泳げない。

 けれど、不思議と心は晴れていた。

 ――ここで終わっていい。もう、十分だ。

 観客席から仲間たちが走ってきた。

 郁也が先に駆け寄り、肩を支えながら言った。

「お前、マジで……バカだな。格好よすぎて泣けてくるわ」

 雄大は、少しだけ笑って、目を閉じた。




 控室のベンチに座った雄大は、氷嚢を肩に当てながら、静かに呼吸を整えていた。

 足元に置かれたタオルがじんわりと濡れている。郁也がふと立ち上がって、ドリンクを差し出した。

「飲め。とりあえず水分な。……肩、どうする?」

「病院、行ってくるよ。たぶん、軽い脱臼か筋断裂。分かってたことだし」

 淡々とした声の裏に、悔しさはもうなかった。

 やれるだけやった。自分が選んで、ここに立った。それで十分だった。

 廊下の向こうから、足音が駆けてくる。

 勢いよく開いたドアの向こうに、有紀が立っていた。

 目を真っ赤にして、髪が少し乱れている。楽器ケースを抱えたまま、息を切らしている。

「雄大……!」

 その声を聞いただけで、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。

「……来てくれたんだ」

「当然でしょ……!演奏会のゲネプロ、抜けてきた。先生には怒られたけど……でも、それどころじゃない」

 有紀は駆け寄り、雄大の前で立ち止まった。

 震える声で続ける。

「……どうして、そこまでして……肩、痛かったんでしょ?泳がないって選択だって、できたのに……」

「……うん。でも、あのとき泳がなかったら、ずっと後悔したと思う」

 雄大は、右手をかばいながら左手で彼女の手を取る。

 有紀は少し驚いた表情をして、それでも、手を握り返してくれた。

「……もう、水泳はやめることになるかもしれない。でもね、灯台のことも、お前のことも、何一つ諦めたくなかったんだ」

「雄大……」

「だからさ……演奏、頑張って。有紀は、ぜったい成功させろよ。俺も、応援してるから」

 その言葉に、有紀の目にまた涙が浮かぶ。

 でも今度は、静かに、こぼれ落ちる前に一度だけ笑った。

「……頑張る。絶対、成功させるから。あなたの分も、全部吹くから……!」

 氷嚢が、少し溶けてきていた。

 水滴が、ポタリと落ちて、雄大の足元に静かに広がっていく。

 でもその水たまりよりも、二人の間にある手のぬくもりの方が、はるかにあたたかかった。

 有紀が一度だけうなずき、そして、涙をぬぐって立ち上がる。

「行ってくるね。ちゃんと、吹くから」

「うん。……見てるから」

 扉が閉まり、また静寂が戻る。

 雄大は天井を見上げて、深く息をついた。

 ――あと、ひとつだけ。やるべきことが残っている。

 灯台。あの灯を、もう一度ともすこと。

 それが、自分の「最後の泳ぎ」になるのかもしれない。

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